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忍びよる陰

 やがて鬱陶(うっとう)しい雨の日々が終わり、季節は本格的な夏を迎えた。そして若砂と出会ってから三ヶ月、暑い夏の盛りがピークに近づく八月のはじめに、俺の人生が二度目の変転を迎える、その序章が幕を開け始めた。

 それはまず、警告のような出来事から始まった。

「え? 公式サイトに迷惑メール?」

 その日、GAプロダクツの事務所の奥、応接スペースに集まった俺たちに佐藤マネージャーが言った。

「ちょっとファンにしては過激な表現のものがあってね。まあ、どの人気歌手だって似たようなことはよくあるし、セクハラまがいのメールなんてきりがない。いちいち君たちに内容を聞かせて、ファンに対して不快なイメージを持つようなことは避けたいから詳しくは伝えないけど、一応、身辺には気をつけてくれよ」

 佐藤は軽い口調で告げると、社長室へと引き揚げて行った。

 だが、それはまず祐司に降りかかった。

 それから三日後の夜、仕事を終えた俺たちは、追っかけファンの攻勢が一段落したことを受け、久しぶりに夕食をとってから帰ることにした。

 ムワッとするような盛夏の夜、Gプロのビルを裏口から出、繁華街の人混みを歩いていると、俺の前を歩く雅俊が前方から来た男をよけた拍子に体勢を崩した。隣にいた祐司がそれを支えようと片手を伸ばしたとき、何人かがぶつかって通り過ぎていった。祐司は雅俊の腕を支えたまま、それをやり過ごすかのように身を屈めた。

「祐司?」

「ああ、大丈夫か雅俊」

「おぅ、サンキュ」

 雅俊が体勢を立て直すと祐司も体を戻した。そして、再び俺の前を歩き出そうとし――。

「……拓巳」

 祐司の足が一歩踏み出したまま止まった。

「なんだ?」

 人混みが、止まった俺たちを迷惑そうによけて流れていく。

「そこの路地に入ってくれ」

 祐司に言われて右側の斜め後ろを振り向くと、古いビルとビルの間に狭い路地が口を開けていた。

「早く」

 祐司の大きな手が隣にいた雅俊の肩をつかみ、そのまま俺たちは連なってその路地へ入った。表通りを照らすネオンの光が遠き、ぐっと闇の色が深まる。

「どうしたんだ?」

 祐司は狭い路地の壁に片手をついて立ち、もう片手は腰に当てたまましばらく無言でいた。が、やがてゆっくりと振り向いてこう聞いてきた。

「拓巳。おまえ、俺の車を動かせるな?」

 祐司の車は男心を(くすぐ)るバリバリのスポーツカーなので、俺は誰もいないような夜の住宅街の道を、時々こっそり運転させてもらっていた。

「あ? まぁ。なんで?」

「取ってきてくれ」

「え?」

「俺は……」

 祐司が言い淀んだその時。

「祐司、なんだそれ!」

 雅俊から圧し殺した叫びが上がり、祐司の体が壁にもたれかかるように沈んだ。俺と雅俊は慌てて左右から祐司を支えた。雅俊が凝視している祐司の左脇を見ると、黒いタンクトップとジーンズの境目に当てられた手の甲に、染みのように(にじ)み出るものが見えた。

「――っ!」

 よく見ると、さっきの人混みで切りつけられたのか、祐司のタンクトップは切れ、左腰が血を流していた。

「騒ぐな」

 祐司が鋭く言った。

「いいか、俺は大丈夫だ。大した深さじゃないことは切られた感触でわかっている。だから周囲にバレないようにしたい。警察沙汰になると、俺たちは色々面倒だろう?」

 その言葉で、祐司が何を気にしているのかがわかった。

 俺と雅俊は過去の経緯(いきさつ)をGプロには伝えていない。

 俺たちには何の過失もないが、未成年売春禁止法で摘発された男爵(バロン)の店は、一時期ニュースになった。その事件で、俺と、俺を助けるために店に潜入した雅俊は、性的暴行の被害者として警察の事情聴取を受けている。まして、摘発寸前のバードヘブンに自らの意志でバイトしていた雅俊は、特に分が悪い。

 デビューして半年あまり。人気上昇中とはいえ、それらのことをスキャンダルにされて平気でいられるほど俺たちの立場はまだ強くない。今、この時期に警察の訪問を受け、マスコミに何かを嗅ぎつけられるのは嬉しいことではない。ないんだが。

「そんなこといいから、早く病院へ!」

 雅俊の言葉に、しかし祐司は首を横に振った。

「病院へ行けば必ず通報される。切り口や傷の角度で事件性があることがバレる。この程度の傷で騒がれたくはない」

「祐司……!」

「そんな顔をするな、雅俊。承知した上で、おまえたちと組むと決めたのは俺だ。それよりも早く車を頼む。これが通り魔の犯行なら、まだその辺にいるかもしれないし、そうでないなら……」

「そうでないなら?」

「……マネージャーの話が別の意味を持ってくるかも知れないな」

 祐司は彫り深い目元を細め、口の端で笑った。


 俺の無免許運転で本牧町の自宅に帰った祐司は、陽子さんの手配で馴染みのかかりつけ医にこっそり診てもらうことができた。

 祐司の母、()(のうえ)陽子(ようこ)さんは四十代の半ば、祐司や芳弘とよく似た風貌の、颯爽(さっそう)とした女性だ。

 三年前に芳弘と出会ったとき、彼はこの家を出たばかりだったので、俺も何くれとなくお世話になっている。郵便局職員として遠方への赴任が続く父、幸司(こうじ)さんに代わり、一人息子の祐司をビシバシと鍛えて育てた元柔道家で、たいそう(きも)の据わった人だ。

 芳弘が俺と関わりを持ち始め、徐々に事件性を帯びていく中で、芳弘を支え、祐司に協力させ、男爵(バロン)の店から助け出されて入院した俺の世話を焼き、退院後はここに連れてきてくれた。

『本気で後見人になるつもりなら、この子が安心して暮らせるようにあんたを鍛えなきゃならないわ』

 芳弘の生活力をチェックし、

『芳弘の息子なら私には孫も同じだから、時々は顔を出しなさい』

 そう言って、俺と芳弘を送り出してくれた。一連の過去の事件に関わった人なので、今日のような事情の時は頼れる存在だ。

 家に落ち着いた俺たちは、今後どうするかを決める必要があったので、陽子さんの勧めでその夜は泊まらせてもらうことにした。そのとき、誰にどこまで知らせるかで当然、芳弘の名が上がった。

「新婚家庭持ちに心配をかけたくない」

 口を揃える俺や祐司に雅俊は鋭く指摘した。

「あとで知れたら、困るのはおまえら二人だぞ」

 返答に窮した俺たちに陽子さんが判断を下した。

「芳弘に隠すのは現実的に無理ね。拓巳の様子で必ず異変がバレるわ」

 俺からバレると言われては立つ瀬もなく、ちょっと小さくなっていると彼女は笑った。

「あなたは、あの芳弘が家族として二年も暮らした子でしょう? わからなかったら芳弘の立場がないじゃないの」

 浮上した俺は次の質問をした。

「若砂にはどうするんだ」

 雅俊と祐司は顔を見合わせ、しばし沈黙した。

「……伝えておこう。アヤセ・トベのイベントはこれからが準備のピークに入ってくるんだ。あの鋭い観察力を誤魔化すのは難しい」

 最後は祐司がそう結論づけた。俺も若砂に隠さずに済むのはありがたかった。かくして、まずは芳弘に連絡がいった。

「祐司!」

 仕事着のままの芳弘が、血相を変えて井ノ上家に飛び込んできたのは午後十時半を回った頃だった。

「それで怪我はどうなんだ。大丈夫なのかい?」

 芳弘の剣幕を陽子さんが苦笑して(なだ)めた。

「たいしたことないわ。たかだか十二針縫っただけよ」

 あっさりとした物言いと数値の恐ろしさのギャップに、その説明ではちょっと逆効果かもと思ってしまった。

 案の定、芳弘はますます血相を変えた。

「十にっ……それは本当かっ、祐司!」

「大丈夫だ、芳兄さん。傷は浅い」

 芳弘が駆け寄ると、リビングのソファーに横になっていた祐司が、Tシャツとジーンズの間に覗く左腰の包帯を軽くなぞりながら笑みを浮かべた。普段、硬質な面立ちの祐司がそうやって笑うと心が引き込まれるような引力がある。結果、芳弘は黙り込んだ。

「それよりも頼みたいことがある」

 祐司は佐藤マネージャーから先日聞かされたメールの話を芳弘に説明した。

「芳兄さんなら、事務所のスタッフに言えば見せてもらえるだろう? 内容をチェックしてきてくれないか」

「わかった。明日にでも事務所に顔を出して、さりげなく覗いてみるよ」

 そして向かい側に座る俺の隣に腰を下ろすと、俺とその奥の雅俊を見た。

「それで? 祐司はいつやられたんだ。相手はどんな?」

「あんな人混みじゃ、一瞬の出来事なんて……」

 俺が口ごもると祐司が顔を上げた。

「……多分、男で、三十代まではいってないと思う。でも十代じゃない」

「思い出したのか?」

「そうじゃない。切られたときの力の入り具合で、推測しただけだ」

 祐司は生々しいことをサラッと説明した。すると芳弘が言った。

「午後九時近くに、目黒区を歩く二十代後半から三十代の男。ファンの犯行じゃなさそうだよね」

 そして考え込むように眉根を寄せた。

「佐藤マネージャーが言ってたんだろう? ファンメールにしては過激な表現だと。もし、君たちのうちの誰かを狙ったのだとしたら、事務所の付近で待ち伏せするのはあり得るね」

 はす向かいに座る陽子さんがそれに反論した。

「結論づけるのはまだ早いわ。通り魔的な犯行かもしれないし」

「そのわりには、あとの展開が何もないね。祐司は騒がなかったんだから、犯人は自分の成果を味わえてないよ」

 芳弘が切り返した。確かに、通り魔といえば、ひとたび犯行に及ぶと、あとは段々エスカレートして被害者を量産していくのが多くのパターンだ。

 しばらく沈黙したあと、芳弘が口を開いた。

「はっきりしないときは、最悪の場合を予想して備えるべきだ」

 そして俺たちを見回した。

「会社側に伏せる以上、君たちは明日も事務所に行くんだろう? 祐司は階段から落ちて腰に怪我を負ったことにしよう。君が回復するまでは、極力僕が君たちを送る。ダメな時はタクシーだ。一人での行動は避け、駅へ行ったり電車に乗ったりはしない。わかった?」

 普段、穏やかで荒事にはとんと無縁そうな人なのに、どうして身内への危険を察知するとこうも別人になるんだろう。

 彼から矢継ぎ早に繰り出される指示に、俺と雅俊はタジタジになりながら頷いたのだった。



 翌日は平穏に過ぎた。

 祐司の怪我の説明を佐藤マネージャーは疑いもせず、スタジオ収録と新曲のレコーディングは順調に進んだ。

「先月発売した三枚目のシングルもオリコン一位取ったからね。ファーストアルバムはヒットすること間違いなしだよ!」

 いよいよ来週に迫ったアルバム発売への手応えを感じ、佐藤は有頂天(うちょうてん)だ。

 その次の日の夕方、仕事を終え、事務所の応接スペースでくつろいでいる俺たちのところにスーツ姿の若砂が顔を出した。事情はすでにメールで連絡済みだ。

「大丈夫か、祐司さん」

 気がかりそうな声に祐司は笑みを浮かべて答えた。

「大丈夫だ。大したことはない」

 若砂は夏休みに入ってから、本格的に綾瀬のブランド立ち上げを手伝い始めていた。主にはマネージメント部門の仕事で、取引先との打ち合わせに忙しい日々を送っていた。俺たちは頻繁に会いながらも、まとまった時間は取れないでいた。

「忙しそうだな。まだ仕事か?」

 ソファーを勧めながら尋ねると、隣に座った若砂は少し弾んだ表情になった。

「今日はここでの打ち合わせが最後さ。あとは何もないよ」

「じゃ、メシ食いに行こうぜー」

 向かい側の雅俊がすかさず誘うと若砂は嬉しそうに頷いた。すると雅俊の隣から祐司が言った。

「俺はまだ遠慮しておく。芳兄さんが俺たちを送ってくれることになっているから、美奈子さんも一緒に誘ってみたらどうだろうか」

 祐司がそんなことを提案したのには、少しわけがあった。

 祐司が怪我を負ったあの晩、話が終わり、俺と陽子さんは連れだって芳弘を送り出した。そのとき、何気なく陽子さんが声をかけた。

「じゃ、芳弘。美奈子さんによろしくね」

 すると芳弘の顔がスッと曇った。

「――ええ。おやすみなさい」

 足早に立ち去る後ろ姿に、声をかける間もなかった。

「……ケンカでもしたのかしら。まあ、新婚時代は色々なことが起こるからね」

 陽子さんは受け流したが、俺は芳弘の様子が気にかかった。

 芳弘の新婚後、俺の足は彼のマンションから遠退いていた。

「拓巳。少しは顔を出しなさい」

 真顔で言われるものの、そのたびに美奈子から遠慮を望む眼差しが注がれるので、どうしようもなかった。そんな負い目もあったから尚更かもしれない。

 そして昨日。メールの件で祐司が芳弘に連絡すると、「ちょっと今取り込み中で」と、珍しく電話をかけ直されたという。しかも、自宅にいたはずの芳弘が自分の店からかけ直してきたというのだ。メールもまだチェックできていないらしく、普段の芳弘からは想像もできない手際の悪さだった。祐司が事情を聞いても、「たいしたことじゃないから」とかわすだけだったという。

「どう考えても、美奈子さんとうまくいってないとしか思えない。だから一度様子を探ったほうがいい」

 祐司の提案に雅俊も同意した。

「若砂が観察すれば、そのあたり、原因までわかりそうだよな」

 すると若砂のつぶやきが俺たちの耳に届いた。

「そうか。やっぱりな……」

「やっぱり?」

 祐司が問い正すと、若砂はチラッと周囲に人がいないのを確認し、テーブルの中央に顔を寄せた。

「実はあの結婚式のとき、美奈子さんがこんなことを言っていたんだ。『昔、まだ芳弘さんが無名の技術者だった頃はよかった。ごく普通の先輩で、何の気兼(きが)ねもいらなかった』とね」

 俺たちが顔を見合わせると、若砂は少し体を起こした。

「それを聞いたとき、『もしかしたら、この二人は時間の問題かもしれない』と」

「なんで、気兼ね云々(うんぬん)でダメかもしれないんだ?」

 俺が質問すると、若砂は諭すように説明した。

「美奈子さんの目線が、すでに過去を向いているからだよ」

 いいかい? と若砂は続けた。

「美奈子さんの選んだ芳弘さんは、ごく普通の美容師さんだったんだ。自分がそれを支えることでいつかささやかな店を持ち、子どもができたら二人で協力して育てていきたい……それが彼女にとっての幸せ像だったんだと思う」

 美奈子は二つ後輩だ。当然、芳弘の修行時代を知っている。

「そうやって独立できていたなら、芳弘さんを支える自分に誇りが持てただろう。そしたら、たかだか親戚の子どもの陰口に怯えることもなかったはずだよ」

 だが現実は違った。芳弘はあっという間に実力をつけ、若手のトップに躍り出た。婚約した途端、立場の違いが浮き彫りになった。

「一歩踏み込んでみたら、想像以上に派手だったわけだな?」

 祐司が一言で表現し、若砂が頷いた。

「そういうこと。今の芳弘さんは、芸能プロダクションに出入りし、多くの芸能人やモデルを手がける新進気鋭のヘアスタイリストなんだ。美奈子さんが好きだった身近な先輩の芳弘さんは、もうどこにもいないんだよ」

 だから芳弘さんは今、辛いはずだ、と若砂は嘆息した。

「仕事で活躍する姿を喜んでもらえないばかりか、大切にしてきた家族まで敬遠されるんじゃ、うまくいくわけがないんだ。芳弘さんが最近、元気がないって姉さんも心配してた」

「………」

 ――大切な家族。その言葉が俺を切なくさせる。

 俺をあの男から解き放ち、〈親〉や〈家庭〉というものを知らずに育った俺に、家族が本来持つ無償の愛情を教えようと、必死に手を尽くしてくれた芳弘。今もなお、その姿は変わらない。

 俺がもっと平凡なガキだったなら、彼女も気にすることなく過ごせたのだろうか……。

「そんなに、その、二人はうまくいってないのか」

 祐司が目を曇らせると、若砂は祐司を見上げた。

「考えてみてよ。芳弘さんにとって、親しい家族と気軽に話せない生活なんてあり得る?」

「……ないな」

 祐司も嘆息した。芳弘は、自分が親しくすると決めた相手にはとことん尽くす。そこに妥協、という発想はない。

「でしょう? いくら奥さんのためでも、自分が(つちか)ってきた人間関係を、こんなに我慢しないとうまくいかないんじゃ無理だよ」

 若砂は苦い表情を浮かべて(うつむ)いた。

「結婚式のときは、それは時間が解決してくれるだろうと思ったから、少々強引に持っていったんだ。こんなことならいっそ手を出さなきゃよかった……」

「そりゃ違うさ、若砂」

 雅俊が口を挟んだ。

「あのまま破綻(はたん)したんじゃ芳さんのダメージが計り知れないだろ? 原因は美奈子さんにあるのに、あのときは芳さんがどう見ても悪役だったぜ」

 雅俊の言葉に俺たちも頷いた。

「まったくだな。だが二人が今現在、夫婦であることも事実だ。取りあえず今日は芳兄さんを元気づけることに専念して、様子を探ってくれ」

 祐司が話を結んだとき、タイミングよく芳弘が到着したのだった。



「さぁ、今日は楽しくやるよ~」

「おーっ」

 俺たちは予定どおり芳弘を誘って食事をした。

 祐司を自宅まで送ったあと、芳弘の車を店の駐車場に戻し、駅近くの中華料理店の一角に席を陣取って、若砂の音頭で華々しく乾杯した。

 始めこそ俺の隣で疲れ気味な顔をしていた芳弘だったが、正面の若砂とはす向かいの雅俊が二人がかりで座を盛り上げると、次第に表情がほぐれてきた。やがて注文したコース料理が次々とテーブルに運ばれ、俺が少しずつ料理を取り分けたりビールを注いだりしだすと、彼は驚いた顔をしながらもくつろいで箸を伸ばした。

「成長した我が子から、世話を焼かれて喜ぶ親そのものだった」

 とは、後日の雅俊の言葉だ。

 むろん、座る配置、取り分けて食べる中華料理、それをあえて慣れない俺にやらせること――すべてが若砂の作戦だった。(またた)く間に生気を取り戻していく芳弘の様子に、〈クレステッド・アーガス〉で、狙った客の心を取りにいくブラックキャッパーの姿を垣間見た気がして思わず身震いしてしまった。

 そうして一時間ほど経った頃、若砂の誘導のままに芳弘は昨日の様子を少しずつ漏らした。

『従弟がちょっと怪我したくらいでなぜいちいちあなたが家に呼ばれるの? 電話でもいいじゃないの』

 一昨日の晩、井ノ上家から戻った芳弘に美奈子はそう言ったという。

 芳弘は内心の苛立ちを押し込め、祐司は弟同様であること、叔母は自分を気遣って先に知らせてくれたことなどを説明したが、美奈子は納得し難い様子だったそうだ。そのまま翌日を迎え、いつものように出勤して予約の客をこなし、午後にGプロに向かおうとしたところ、もう少し店にいてほしいと頼まれたという。

「確かに店は忙しかったけど、他のスタッフで回せない数じゃなかった」

 芳弘はこのところ外部での仕事が増え、店を空けることが多くなってきていた。

 独立して半年あまり、スタッフたちの技術が安定してきたので、前から打診されていたファッション雑誌やショーに絡む仕事を増やしたのだ。美奈子はそれも気に入らなかったらしい。

「でも、あれは明らかにGプロへ行くことを阻止したかったんだと思う」

 そこで芳弘が取り合わずに出ていこうとしたら、なんと美奈子が帰ってしまったのだという。

「あり得ないよ」

 芳弘はまだ怒りが治まらないようで、憤慨(ふんがい)して言った。

「幸い、美奈子はアシスタント専門だったから、お客さんへの影響はなかったけど、普通、技術者(スタイリスト)を差しおいて勝手に帰るなんてあり得ないんだよ。うちにいる技術者二人は、僕の腹心の子たちだから見逃してくれたけど……」

 芳弘は嘆かわしげにこぼした。

「で、そのまま僕まで店を空けたらまずいから、取りあえず仕事を一段落させてからGプロに出かけて」

 マンションに帰って美奈子と口論になり、そこに祐司からの電話がいったわけだ。思った以上に殺伐とした家庭状況に胸が痛くなった。

 鬱屈(うっくつ)した思いを吐き出して楽になったのか、その後の芳弘はよく食べ、飲んだ。しばらく食欲がなかったのだろう、少し痩せた横顔を見つめながら俺も積極的に勧めた。結果、いつもより過ごした芳弘は動きも怪しくなり、店を出る十一時頃には出来上がってしまっていた。

 そして今、若砂と別れた俺たちは、タクシーを待っている。

「あ~、飲んじゃったなぁ」

 芳弘の長身が肩にのしかかって重い。

「大丈夫か?」

 尋ねた声が聞こえたのかどうか、芳弘はニコニコしながらベンチの背もたれと俺の肩に体を預けていた。

「おれ、芳さんがこんなに酔っぱらったところ、初めて見た」

 雅俊がしみじみと言った。

「結婚は人生の墓場って、本当だったんだナー……」

 俺は肩にもたれる芳弘の背中を支えながら、その言葉を聞いていた。

 やがてタクシーが来て、乗り込んだ車に揺られだすと、俺の肩に顎を乗せた芳弘がねだるように言った。

「ね、今夜は拓巳たちのところにいさせてよ」

 俺は芳弘の反対隣に座る雅俊と目を見合わせた。

 雅俊が芳弘を諭した。

「俺たちはそうしても構わないけど、芳さんがあとで困るんじゃないのか?」

「いいじゃんか~雅俊。今夜くらい……」

「そうだけど」

「僕、ずーっと我慢してきたんだよ。君たちと仕事以外で会うの……だからさ……」

「でも、今日あんたが帰らないと……」

 拓巳が美奈子さんからあとで不興を買うんだぜ――雅俊の言葉が聞こえてくるようだった。でも俺は。

「泊まっていけばいい」

「………」

「好きなだけ、いればいいよ」

 雅俊が俺の顔を覗き込んだ。

「いいのか?」

 美奈子さんからの風当たりが強くなるぞ、とその顔が言っている。

「構わない」

 俺も酔っているのだろうか。なんだか自制がきかない。

「俺が芳弘を拒むなんてあり得ない」

 俺は肩に乗った芳弘の頭に腕を伸ばし、その髪をなでた。こんな寂しい芳弘の姿を見るくらいなら、(うと)まれたっていい。

「お客さん、高島(たかしま)(だい)につきましたよ。このマンションですよね」

 タクシーの運転手が声をかけてきた。

「あ、すいません……」

 行き先の変更を伝えようと身を乗り出すと、芳弘が体を起こした。

「あーはいはい、どうも」

「芳弘?」

 戸惑う俺をよそに、「この子たちの分もね。反町(そりまち)の駅前通り」と会計を済ませ、開いたドアの側に座っている俺を押し出して芳弘は車を降りた。

「芳弘、どうして……」

「ありがとう拓巳」

 芳弘は明るくて透明な、いつもの笑顔に戻っていた。

「最近ちょっと敬遠されてたから、スネてみただけ」

「敬遠だなんて……」

「ゴメン、遠慮だよね。わかってはいたんだけど……」

 少し(うつむ)く芳弘の肩を、俺はそっとつかんだ。

「今夜は……来いよ」

 すると芳弘は顔を上げ、笑みをさらに深くした。

「君に、そんな顔でそんなセリフ言わせられるの、この世では多分、僕だけだね。ちょっと優越感」

「からかうなよ」

 ムッとすると、ゴメンゴメンと言いながら、芳弘は俺の肩に頭を落とした。

「大丈夫。エネルギー充填してもらったから、もうちょっと頑張ってみる」

 そして顔を上げ、芳弘はマンションへと歩き出した。その後ろに続くと、すぐに彼は足を止めた。

「大丈夫だよ。タクシーが待ってるから、早くおいき」

「……わかった。じゃあ、気をつけて」

 タクシーまで戻り、もう一度振り返ると、坂道を登った芳弘の姿が建物の影に吸い込まれるところだった。

「芳さん行ったのか」

「ああ――」

 ドアが閉まり、タクシーが動き出す。その音を聞きながら、この先の芳弘を思ってまた胸が痛くなった。

 凶事の第二段はまさしくそんな中で起きたのだった――。



「芳弘が誰かに頭を殴られて、救急車で病院に搬送(はんそう)されたわ!」

 反町のマンションに帰宅したあと、それぞれ寝る体制に入ってから少し経った頃、その一報は陽子さんから届けられた。着替えもそこそこに二人で病院に駆けつけると、先に到着した陽子さんが医師から説明を受けているところだった。

 頭部打撲、全治二週間――。やられた状況を考えたら、「奇跡のようですな」とは担当医のセリフだ。

「今、被害届けの書類をお願いしたところよ」

 打撲で済んだとはいえ、一歩間違えば命はなかったのだから当然だろう。芳弘の病室に向かいながら、雅俊が陽子さんに聞いた。

「美奈子さんは?」

「まだよ。実家に帰っていたらしくて」

「祐司はどうしてる?」

(なだ)めて置いてきたわ。命に別状はないって聞いたから」

 そう話しているうちに病室の前に到着した。

 ドアを開けるのももどかしく踏み込んだ部屋の奥、頭部を白い布で巻かれた姿で芳弘は横たわっていた。

「ああ――心配かけちゃったね……」

 ベッドの上で身じろぐ姿を見た途端、全身が(すく)んだ。

「よ……っ…」

 絶句したまま立ち尽くしていると、背中を雅俊が押しやり、陽子さんが枕元へと導いた。

「大丈夫だから。ちゃんと顔見せてやんなさい」

 顔を寄せ、そっと手を伸ばすと、芳弘は笑って片手を差し出した。

「ざまはないね……油断したよ」

「油断も何も……!」

 その手をつかみながら、俺はもう片方の手で包帯の巻かれた頭を慎重に触った。向かって左側の側頭部を硬い棒か何かで殴られたらしく、左頬まで少し腫れている。思わず背中が震え立った。

「大丈夫だよ、拓巳。……見た目はちょっとアレだし、これから熱も出るらしいけど、三日くらいで楽になるって」

 (なだ)めるように頬笑む芳弘は、だが明らかに辛そうだった。

「一体誰が、こんな……!」

 今こそ思い知る。

 大切に思う相手が傷つけられたとき、人はこんなにも苦しい思いを味わうのか。

 まるで腹の底を鷲掴(わしづか)みにされ、さらに(ねじ)られたような苦しさ。俺が傷を負ったときの芳弘が、どんな思いで看病してくれたのかがようやくわかった気がする。

「拓巳……?」

 言葉もなく肩を震わせていると、芳弘の目が気遣わしげに細められた。俺は芳弘に顔を向け、その頭をそっと抱いた。芳弘の片腕が、あやすように俺の背中をなでる。すると背後から陽子さんの(うめ)き声が聞こえてきた。

「あれじゃ、週刊誌に書き立てられても文句言えないわね……」

 それに雅俊が応えている。

「ああ〈後見人は恋人?〉ってヤツですか? しょーがないっすね。見てくれがアレなんで。中身は親に思わぬ怪我されて不安に怯えるガキ、なんですけど」

 悪かったな、ガキで。

 俺が若干の睨みを込めて振り返ったとき、ちょうど病室の扉を開け、入ってきた美奈子と目が合った。

「――あっ」

 美奈子は目を見張った。俺の手は、まだ芳弘の頭を抱いていた。すると次の瞬間、彼女の黒い瞳に怒りがほとばしった。

 無言のまま(きびす)を返そうとした美奈子の腕を陽子さんが捕まえた。

「来たばかりで、どこに行こうっていうの」

「皆さんお揃いで、お邪魔のようでしたので」

 美奈子はつかまれた腕を外そうとしながら答えた。

「奥さんがなにバカなことを言ってんの。待ってたのよ? さ、早く行って様子を見てあげて」

 陽子さんの言葉に、美奈子は渋々といった様子で近寄ってきた。俺は場所を空け、雅俊の隣に移動した。そばを通り過ぎるとき、美奈子が俺に投げた視線に嫌な陰りが含まれているような気がした。

「美奈子」

 芳弘の呼びかけに、美奈子は硬い声を返した。

「芳弘さん。どちらへ行って、そんな目に遭ったの?」

 すかさず陽子さんが口を挟んだ。

「美奈子さん。芳弘は自宅マンションの前で襲われたのよ」

「夜の十二時近くにですか? 遅かったんですね。じゃ、誰と何をしていらしたの? 見たところアルコールが入っているようだわ」

 美奈子の平坦な口調が病室内にこだました。俺は自分の中に生まれようとしている感情に我知らず身震いした。すると陽子さんが問い正した。

「美奈子さん。芳弘が外食してきたことを責めてるの?」

「別に責めてなんか……」

「そう。それはなによりだわ。夫が頭に怪我を負わされて、しかもアルコールが入っていたら、普通は大量出血を心配しなきゃいけないものねぇ。気にしてくれたのよね」

 皮肉とも取れる陽子さんの発言に、美奈子はサッと顔色を変えた。

「さあ、妻が来たからにはもう安心よ。私たちは失礼して、明日また顔を出しましょう。いいわね?」

 陽子さんは雅俊と俺の背中にそれぞれ手を添わせ、ドアのほうへと軽く押した。俺は足を踏み出す前にもう一度芳弘を振り返り、気遣わしげな眼差しをこちらに向けている顔を見返した。

 一瞬、時が止まり、そしてまた動き出そうとした。すると。

「いいえ。私が消えますから、皆さんはどうぞゆっくりしていってください。そのほうが芳弘さんも嬉しいようですから」

 顔を伏せ、目の前を通り抜けようとした美奈子を、再び陽子さんがつかんで止めた。

「何を言ってるの。芳弘はこれから熱が出て辛くなるのよ? 今夜くらい付き添ってあげなさいよ」

「だったら――」

 美奈子は陽子さんにつかまれた腕を振りほどきながら、俺を横目に見上げた。

「拓巳さんがそばにいてあげればいいわ」

 吐き捨てるような声音を聞いた瞬間、俺の中で何かが音をたてて崩れた。

 陽子さんがムッとして聞き返した。

「本気で言ってるの?」

「………」

「本気で妻より十六歳の子どもがそばにいたほうがいいって思ってるの?」

「………」

 美奈子は頑なな表情で(うつむ)いている。すると陽子さんはつかんでいた腕を離した。

「これから夫が苦しむって時に、そんなバカなことしか考えられないのならいいわ。お帰りなさいよ。ただし」

 鋭い眼光が美奈子の顔を刺し貫いた。

「それは妻のやることじゃないわ。だから明日にでも離婚届にハンコ押して、荷物まとめて実家に帰りなさい。立会人の欄には私と祐司でサインしておいてあげるわ。芳弘には二度と会わせないわよ……!」

 言い切られた瞬間、美奈子の体がビクッと震え、青ざめた顔が陽子さんを見返した。

「どうなの。その覚悟があるの?」

「……いいえ、それはいやです」

 美奈子は肩を落としてうなだれた。

「わかりました。付き添います……」

「そう。それはありがたいことだわね」

 陽子さんは気配を鎮め、美奈子の背中を押して芳弘のそばに戻すと、俺と雅俊の腕を取って歩き出した。

「じゃあね、よく見てあげてちょうだいよ。明日、また顔を出すわ」

 声をかけた陽子さんがドアを閉める音を聞きながら、俺は美奈子との間に修復しがたい亀裂が入ったことを悟った。


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