後悔
あの店が終わったのは、一言でいえば、富樫真紀子オーナーが亡くなったからだった。
「富樫オーナーって女だったのか!」
「うん。四十代の独身経営者だった」
〈クレステッド・アーガス〉は、オーナーがお父さんの居酒屋のビルを相続した時に、改装してホストクラブにした。今から十年近く前の話だ。こじんまりした三階建てのビルの一階で、手塩にかけて育てた五人の里子を中心にして始めた。
「五人の里子?」
「富樫オーナーは子どもが好きで、以前は補導員をされていたそうだ」
特に、不良と呼ばれた行き場のない少年の福祉に熱心だった。お父さんの協力を得て、家庭に問題があり、犯罪に手を染めそうな少年を引き取っていったら五人になったのだ。
「なんだか芳弘みたいだな……」
「そう、そんな感じ。で、昼間は勉強させて、夜働くから、ホストクラブにしたんだ」
居酒屋ではお酒の回る男性の嬌態が目立ち、息子たちによくない。かといって、収入が高くないと、相続した物件がやがて息子たちの負担になる。そこで、なるべく短時間で高収入になるように工夫した。
「だから営業時間は午後六時から十一時半まで」
「短い!」
「そう。裏方と雑用の中学生は九時までで、給仕と接客の高校生が十一時まで。高卒以上は接客の他に厨房や企画を受け持って、大学生には奨学金制度があった」
「奨学金?」
「もともとクラブの経営目的が相続したビルの維持と生計だったから、余った分は子どもの福祉に役立てよう、と」
顧客は女性のみ、バイトの従業員は学生オンリー、徹底したマナー教育で品格を育て、みんなの将来に役立てようとした。
「まあ昔でいう、貧しい子どものための新聞配達事業みたいな」
横浜を代表する繁華街に、伝説で語られるホストクラブがそれっ?
「だから、中味が私立校に付属する男子寮みたいな感じだった。平の従業員が一般生徒、鳥の渾名をもらうと役員、ブラックパラダイスは生徒会長。そんな雰囲気だったからお客様にも楽しんでもらえたのかもかしれない」
最初の五人はそれぞれ国立大学を出て立派な社会人になった。でも、それがいつしか仇になった。
「あまりに待遇がいいから、優秀な人材がこぞって面接に来るようになって、近隣のクラブから妬まれたんだ」
オーナーはそういう経営者同士の駆け引きには疎かった。
「結果、他の店から罠を仕掛けられて、従業員の一人が傷害容疑で逮捕された。オーナーはその責任を問われて経営権を取り消されたんだ」
オーナーは息子の一人を経営者に指名して再建のために奔走した。けれど……。
「当時ブラックパラダイスだった尾崎先輩が暴行を受ける事件があって、先輩は頭に傷害を負って植物状態になった。そのショックでオーナーは脳溢血で倒れて、病院に搬送されたまま、とうとう帰って来なかったよ」
語尾の震えに気がついて若砂を見ると、目に涙が溜まっていた。
「オレは、尾崎先輩と同じくオーナーを助けて、キングフィッシャーたちをまとめる立場にあった。なのに、何もできなかった……」
若砂は苦痛をこらえるように背中を丸めてベンチの上に膝を抱えた。俺はうなだれて萎れたような頭に手を伸ばした。
「大変だったんだな……」
ポンポンと手のひらを動かすと、若砂は僅かに首を横に振った。
「おまえはできることを精一杯やったんだろ? 一人の人間にやれることなんて」
「違うんだ!」
若砂は顔を上げ、鋭い声で叫んだ。
「オレは、肝心な時にそこにいなかったんだ! いられたはずなのに……っ」
「……どういうことだ?」
「オレたち従業員が住んでいたアパートは、ビルから歩いて十分ほどのところにあった。身辺に気をつけるよう、オーナーに注意されていたから、夜は必ず二人で帰るようにしていた」
あの日も、店じまいを済ませたオレたちは一緒に帰るはずだった。
「その日に限って姉さんが、話があるから家に帰るようにと車で迎えに来た。気が急いているようで、先に尾崎先輩を送ってほしいと頼んだら少し困った顔をした」
尾崎先輩は気配りの達人――あのブラックパラダイス。
「姉さんは気を取り直して先輩に乗るように勧めたけど、先輩は頷かなかった」
(何か嬉しいことがあるようですね? どうぞ構わずに行ってください。明日、彼から聞かせていただきますね――)
「それが、無事でいた先輩と交わした最後の言葉になった」
若砂の両手が拳に握られ、俺は気圧されるように聞き入った。
「そうまでしてオレを連れてきたんだから、一体、何が起こったのかと思うじゃないか。それなのに……!」
拳がベンチに叩きつけられる。
「……なんて、言われたんだ?」
「あの人たちはな、オレにこう言ったんだ。『この前の検査で、あなたの体に卵子があることがわかったの。おめでとう』だと!」
若砂の全身から怒りが吹き上がった。
「卵子……! みんなが大変なのに、それがなんだっていうんだ? オレには二人の意図がさっぱりわからなかった。だから拍子抜けして言ったんだ。『話がそれだけなら帰るよ。みんな待ってるし、責任もあるから』って。前の日までの二人だったら、『頑張ってやってらっしゃい』で済んだはずだ」
「……そうじゃなかったんだな?」
「そうだ。『あなたが女の子だと確定した以上、あんなところには帰せない。明日にでもオーナーに言って、アパートは引き払わせていただきましょう』だとっ!」
若砂は叫ぶなりすがるように俺の腕をつかんだ。
「『この大変な時になにが卵子だ、ふざけんな! オレは帰る』そう言った。だってそうだろう? 昨日の今日で、オレの何が変わるっていうんだ? こんなんで女も何もない!」
俺は震える背中に手のひらを滑らせ、芳弘がよくそうしてくれたように背中をさすってみた。
「ところが二人には話が通じない。『とにかく泊まりなさい』の一点張りだ。言い争いになって家を飛び出そうとしたとき、オレの携帯が鳴って……」
その時の情景を目に映しているのだろう、若砂の表情が強張った。
「オレが病院に駆けつけたときには、すべてが終わっていた」
一人になったところを襲われた尾崎先輩は、発見されるまでに時間がかかったたらしい。
「発見者から富樫オーナーに連絡がいって、病院で尾崎先輩の姿を目にした途端、オーナーは倒れたそうで、それっきり……」
手術の終わった尾崎先輩は経過観察されていた。
「そこにはオーナーの里子の長男、直輝さんがついていた。オレは、直輝さんからオーナーが亡くなったと聞かされたんだ……」
若砂は目を瞬いた。俺は若砂の心が少しでも楽になるように願いながら、強張った背中をなで続けた。
「……その後、直輝さんたちを手伝って、富樫オーナーの葬儀を済ませた」
吐き出したことで一息吐けたのか、やがて若砂は背中から力を抜いた。
「オレは、残された従業員の身の振り方を世話する直輝さんを手伝ったあと、住込みでレストランバーの従業員をしなから学校に通ってた」
「……家には?」
「戻れなかった。オレの中に、母さんや姉さんへの恨みが生まれてどうしようもなかった。なにも姉さんはわざと先輩を一人にさせたわけじゃない。けれどあのとき、あんなくだらない話のために尾崎先輩を危険に晒したのかと思うと、どうしてもダメだった。姉さんにそれを伝えたとき」
(では、私はあなたの視界から消えてあげる。でもお母様には時々顔を見せてあげてね……)
「そう言って、姉さんはそれまで〈ガイエ-ジャパン〉の担当だったのを外れてパリに戻ったんだ」
そこで若砂は大きく息を吐き出すと、俺の手から離れ、寄りかかりぎみだった体を持ち上げて姿勢を直した。
「事故からあと少しで一年になる頃、携帯に長文のメールが来た。尾崎先輩からだった」
「植物状態になった、あの?」
「そう。オレは先輩に会わせる顔がなくて、足が遠退いていた。直輝さんたちも、オレには先輩のことを伝えてこなかったから、着信を見たときは驚いたよ。そこには先輩が半年後に植物状態から目覚めたことや、それからの状況が綴られていた」
若砂は少し苦い笑みを浮かべた。
「その中に、姉さんのことが書いてあった。姉さんは、尾崎先輩が先進医療を受けられるようにと、パリから手を尽くしてバックアップしていたらしい。先輩には右半身に傷害が残ったけど、なんとかやれていると」
「綾瀬が……」
「そのあとで先輩は、オレが家から離れた事情を直輝さんから聞いて、家に帰るよう勧めてきた」
「それで?」
「まぁ、まさか、それですぐに『そっか。じゃ、帰ってみよっかなー』とは思えないから、まずは先輩に会いに行ったよ」
先輩のことは直輝さんが面倒を見ていたんだ、と言いながら、若砂はベンチの上で再び膝を抱えた。
「先輩も身寄りがなかったから……でもリハビリのお陰で、想像していたよりずっと元気そうだった。オレが行ったら喜んでくれて、直輝さんと三人でお茶をして、そこで二人に諭された」
「それで帰ったのか」
「結果的には。一番は、尾崎先輩が、自分のせいでオレが家族と断絶してるって気にしてたから」
若砂は立てた膝の上に顎を乗せた。
「しょうがないから一度だけと思って帰ったら、母さんが少し体調を崩してて、様子を見るつもりで留まったんだ。そしたら直輝さんに強引に荷物を持ってこられちゃった」
「そりゃまた、ずいぶん……」
「だろ? オレもそれはないじゃんかと思って抗議したよ。そしたら『生きているから、そんなことを言っていられるんだろう?』って」
「………」
「『こんな状態で、おまえはもし明日、お母さんが死んでしまったら、後悔しないでいられるのか』って言われちゃってね」
若砂は苦い笑みを浮かべて雲の流れる空を見上げた。
「二人の言葉はオレには重かった。で、仕方なくオレはまた家で暮らし始めた。一緒に暮らせば、もともと仲が悪いわけじゃないから情も芽生える。だからしばらくして、母さんがあの日のことを謝ったときはそれを受け入れた」
そう言ったものの、若砂の表情は苦いままだった。
「おまえは、それでよかったのか?」
若砂はそれには答えず、少し目を曇らせて俺を見上げた。
「拓巳には、オレは何に見える?」
逆に問いかけられ、言葉に詰まる。
「………性別のことか?」
「そう」
聞きながら、若砂は答えを待つでなく続けた。
「……姉さんは、あんなに女性らしい姿をしてるのに、卵子がないのだそうだよ」
「それは、じゃあ……」
「姉さんも、遺伝子異常の人だったんだ。だから、母さんは心を痛めてた」
自分の子どもが二人揃って未来に次世代を残せない……それは、やはり親にとってはショックなことなのだろう。
「でもオレは、今まで自分は男だと思って生きてきた。少なくとも女ではないと。だから、そのことをどう感じるのかは察してあげられない」
「そうだろうな」
相づちを打つと、若砂が首を傾げた。
「拓巳はオレたちのような体質についてどこまで知っているんだ。雅俊の体のことは知っているのか?」
正面切って問いかけられ、俺は返答に窮した。
むろん、雅俊には散々世話になっているのだから知らないはずもない。不思議ではあるが、慣れてしまった雅俊の体。とはいえまさかそれをストレートに言えるはずもなく、俺は努めて簡潔に答えた。
「ほぼ、知っている」
若砂は一瞬、目を見開いたがすぐに話を続けた。
「小さい頃、オレの体は雅俊と外見上は殆ど一緒だった。違ってたのは中身の機能で、雅俊にはどちらの生殖細胞もなく、オレには卵子があった」
でも、と若砂は苦笑した。
「それはあとから検査でわかったことだから、オレは今まで見かけが近い男のくくりに入ってた。それに違和感を覚えたこともない。母さんの切なさや姉さんの心を労わりたいとは思うけど、共感してはあげられない。ましてや子どもを産めない悲しみなんて理解の外だ」
それは、男ならそうだろう。
「だから、姉さんが一年ぶりに帰ってきたときにその気持ちを二人に伝えて、卵子がどうとかはもう言わないようにと釘を刺した。二人とも承知してくれた」
それから家に戻って、姉さんのこっちでの仕事を手伝うようになったのさ、と若砂は締めくくった。が、俺は疑問を投げかけた。
「俺と出会った時、おまえは確か女を選択したとか言ってなかったか?」
「…………」
若砂は一瞬で萎れたようになった。
「あれは半分ヤケ」
「ヤケ?」
「そう。母さんが四月にくも膜下出血で倒れてね。一時は危なかったんだ」
くも膜下出血とは、脳を囲むくも膜というところが出血して、運が悪ければ死に至る、女性に多い病気だという。
「幸い後遺症もなくて済んだけど、思い知ったよな。自分ってヤツの情けなさを」
「思い知る?」
「そう。このまま死んでしまったらどうしよう。なんで望みを聞いてあげなかったんだろう……って後悔しきり。で、助かったときには診察受ける約束してた。もう……バカ」
そ、それは、よくありがちな成り行きだ。
「で、今度はそれを後悔してるわけ。情けないよなぁ。拓巳と初めて会ったとき、オレ、二階から飛び降りてきたろ。覚えてる?」
「……忘れようったって忘れられん」
俺の声が若干、低くなったか、若砂が怯んだように体を縮めた。
「そ、そう? 実はあのとき前立腺除去手術の話が出てさ。たまらなくなって、先生が中座したスキをついて逃げ出したんだ」
……前立腺除去手術?
「なにやら恐ろしい響きだな」
「ははは、オレとしてはさぁ。体の中にメス入れられて、そこに何のモンダイもなく具わってる男性機能をわざわざ切り取っちゃうってのは、いかがなものかと思うんだよね」
「………」
具体的に言葉にされるとインパクトが強い。
「それは、しないといけないことなのか?」
「先生は、抵抗感が強いなら無理はよくないって言ってくれるんだけど、女を選ぶならそうするものらしいよ。いずれは邪魔になるからとかなんとか……」
「まて。じゃ、今はまだ、ちゃんと体の一部として機能してるってことか?」
それは男ってことじゃないのか?
「そうだね……どっちも具わっているからね。でも、ホルモンや医療的な関係で、この場合は卵子が優先されるらしいんだ」
「んなバカな!」
男の部分と本人の心の性別は無視?
「今日も色々詳しい説明があってさ……」
俺は先ほどの具合の悪そうな様子を思い出し、さらに不快な気分になった。
「なんちゅうひでぇ話だ! おまえ、やっぱやめろよ、選ぶのなんて。そんなんで片方に決めたら絶対後悔するぞ」
俺が息巻くと、若砂は「ありがとうな」と儚げな笑みを浮かべたあと、ポツリとつぶやいた。
「そうできたらなぁ……」
ベンチの上から中庭の花畑をながめる横顔が、それはやるせなさそうで、胸の奥の深いところが妙に揺さぶられた。
雨季に入ってからしばらくは平穏な日々が続き、俺たちは順調にヒットを飛ばした。
雅俊は水を得た魚のように曲を作り、音楽番組の収録や雑誌のインタビューなど、〈T-ショック〉のメディアへの露出は増えていった。
俺と雅俊が住むマンションや、祐司の自宅がファンに囲まれ始め、俺たちはしばしばGプロが用意したホテルでの生活を余儀なくされた。
いくらバンドを組むメンバーとはいえ、三人で二日も三日も出歩けなくては苦しい。そんなとき若砂に連絡すると、学校が終わったあとによく差し入れを持って来てくれた。
「ホラ、今日のお土産だよ~」
「お、嬉しいねー。おれの好物、中華街のブタ饅」
舌鼓を打つ雅俊を、「独り占めはよせ」と祐司が戒める。すると若砂が笑って取りなす。
「大丈夫だよ。まだたくさんあるんだから」
若砂に仕事がない日の夜は、そのまま四人で飲んだり食べたりゲームをしたりで時間が早く過ぎていき、みんなで適当にザコ寝して次の日を迎えた。普段、寡黙な祐司ですら、若砂がいるといつもより話し、笑った。人を和やかにする若砂の力のほどを、俺たちは思い知った。
若砂はその後、通院を一時中断したようだった。
「姉さんの仕事を本格的に手伝いたいから、今はその勉強に集中したい」
綾瀬と母親にはそう伝えたようで、若砂に負い目があった様子の綾瀬は喜び、残念そうな母親を説き伏せてくれたという。本人の意志に反した手術がひとまず阻止されたことに俺もホッとした。