告解
「なんてことだ……」
反町のマンションに戻った途端、雅俊は呻きながらリビングのソファーに突っ伏した。背中に疲労感が漂っている。俺は無言で雅俊の体の脇に腰かけた。
「……そんなに凄かったのか。ブラックキャッパーとやらいうのは」
どのくらいそうしていたのか、俺がボソリとつぶやくと、雅俊が上体を起こしてソファーに座り直した。
「だって、キングフィッシャーの長ってことなんだぞ……まあ、あの世界で凄くたって、おまえには何の価値も認められないかも知れないけど」
彼はフーッとため息をもらした。
「おまえは、クラブに通ってた老婦人が亡くなったとして、その家族に『感謝の気持ちです』って、何百万も寄付させることができるか?」
「えっ?」
「病的にあちこちのクラブに通いつめてた女経営者を『立ち直らせてくれたから』って、そのご主人にスタッフ全員分のスーツ贈らせたりできるか?」
「……それは」
無理だ。医者や看護師ならまだしも、そんなことがホストできるとは思えない。
「だったら、やっぱり凄いんだろう。老婦人の話がブラックパラダイスの、女経営者の話がブラックキャッパーの伝説。どちらも実話らしい」
「本当に……?」
「若砂に聞いてみろよ」
「………」
俺は、自分の言動を顧みてかなり恥ずかしくなった。あんなことを、事情を知らない他人に吐き出すつもりなんてなかったのに、どうして止めることができなかったんだろう。自分で自分のやってることが理解できない。
「反省の気持ちが生まれてるなら、大丈夫だな」
首を巡らせると、雅俊が笑みを浮かべていた。
「おまえが、気持ちを言葉に表すことが苦手なヤツだとは承知している。だが今、俺たちと若砂は仕事上のパートナーでもある。おまえとあいつの間にわだかまりができるのは、ありがたくない」
「……わかってる」
「だから、これはリーダーとしての要請だ。明日は幸い月曜日、若砂の通院予定日だ。時間を調べてやるから、俺たちの担当者が代わらないよう、しっかりキープしてこい」
さらに雅俊は俺が逃げ出さないようトドメを刺してきた。
「いいか、おまえのためでもあるんだぞ。ここで若砂に担当を降りられたら、次は綾瀬が出てきちまうかもしれないゾ!」
「!」
俺は早く若砂の予約時間を調べてくれるよう、雅俊をせっついた。
翌日の月曜日の午後、俺は病院の中を、若砂の姿を求めて探し歩いた。
目的の姿は中庭にある例の屋根つきのベンチで見つかった。近づいていくと、様子がいつもと違うことに気がついた。座った位置で体を折り曲げ、腕を抱えるようにして背中を丸めている。
まるで痛みをこらえているようだ。
「どうしたんだ、血相変えて」
こちらを振り仰いだ若砂の声に、俺は自分が無意識のうちにダッシュしていたことを知った。
「……それは俺のセリフだ」
まとわりつく髪を払い、額の汗を手の甲でぬぐいながら若砂の斜め前に立つ。
「おまえこそどうしたんだ。具合が悪いのか?」
「……まぁ、座んなよ」
学校帰りなのか、制服らしい半袖ワイシャツに、グレーのスラックス姿の若砂は、姿勢を直してから体を少しずらして隣を空けた。俺は取りあえずそこに腰かけると、若砂の様子を窺った。
やはり、いつもより顔色が悪い。
「診察は終わったんだよな。何か強い薬でも打たれたのか?」
雅俊のことを思い浮かべて問いかけると、若砂はまじまじと俺の顔を見てから、少しだけ表情を和らげた。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう……昨日はごめんな。先に帰ったりして」
自分が言わねばと思っていたセリフを先に言われ、慌てて言葉を返した。
「なんで若砂が謝るんだ。謝るのは……俺のほうだ。知らないくせに言いすぎた。……悪かった」
「それはオレも同じだ。拓巳の見てきたものをオレは知らなかったんだから。姉さんから少し聞いて……辛い経験を持つ人には不愉快だったよな。すまなかった」
「おまえにそんなに謝られちゃ、俺は土下座でもしなきゃならないぞ」
「それじゃ、オレが困る。じゃ、おあいこってことにするか」
笑って告げてきた若砂に、それでは合わないような気がしたものの、それ以上重ねるのはやめた。そしてふと、不思議な気分になった。
俺は自他ともに認めるほど愛想がない。ましてこのツラなので、まともな友人などできたためしもない。雅俊や祐司とうまくいってるのは、雅俊の場合、ヤツの性格がへこたれないからで、祐司は向こうが大物だからだ。要するに、相手のお目こぼしのお陰で成り立っているのだ。だからいつもなら、あんな風に正面切って対立した相手と、それも昨日の今日でこんなにすぐ会話ができたり、まして謝罪の言葉なぞ出てこない。
これはきっと、こいつの性格に因るところが大きいからなんだろう――そんなことを考えていたら、若砂がポツリとこぼした。
「本当はさ。昨日の夜の時点では、とてもこんな風に拓巳に対して謝ったりとか、考えられない心境でいたんだ」
もう悔しくって腹が立って、悲しくてね、と、若砂は口の端で笑った。
「どうしてだろう。今までだってホストのことを悪く言う人はたくさんいたし、絡まれたことだって一度や二度じゃない。昨日の拓巳ぐらいの言葉なんて、あの店にいたときの自分なら、蚊に刺されたほどにも気に留めないでいられたよ。その程度の忍耐力がなきゃ務まらないしね」
「………」
「そんなわけで、家に帰ったら母さんや姉さんにバレバレでさ。問い詰められちゃった」
綾瀬の追求……背筋が凍りそうだ。
「それでまぁ、渋々二人に話したら、こっぴどく叱られた。特に姉さん」
『それは、拓巳が味わってきたことをあなたが同じく体験して、それでもなお考えを曲げずにいたときに初めて言える言葉でしょう』
綾瀬はそう言って若砂を戒めたという。
「あなたみたいな恵まれた環境しか知らない人に、ホストの責任や心構えを語られても聞く耳持てないわ、なーんてバッサリと」
うう、綾瀬の説教……考えただけでも気が遠くなりそうだ。
「そ、それは気の毒だったな」
「いいんだ、慣れてるから。でさ、その時はまだ、オレも収まりがつかないでいたから言ったんだ。『じゃあ、拓巳と同じ条件で働いてみせればいいんだろう! オレはホストなら自身がある』って」
「………」
俺は、今、どんな顔を若砂に向けているのだろう。少なくとも笑ってはいないはずだ。
若砂はそんな俺を見て瞳を陰らせた。
「そしたら姉さんに凄い目で睨まれて、『あなたが拓巳と同じ目に遭うと知ったなら、私もお母様も、命がけで救い出さなければならないわね』って」
若砂は膝に置かれた両手に目線を落とした。
「姉さんの口調は本気だった。だから、一体どんな店だったのか教えてくれって言ったら、あなたに話すつもりはないって。母さんも、そのあたりの裏事情を知ってるようで、姉さんと同意見だった。それを聞いてたら、ああ、拓巳はよっぽどひどい目に遭ったんだな、ってわかって」
膝の上の両手がきゅっと拳を作る。
「オレが無邪気に好きだ、立派だ、なんて口にしたから、拓巳は辛くなってああ言ったんだ。そうだろ?」
眉を寄せて見上げてきた若砂に俺は頷いた。でも不思議なことに、この話題に触れられると必ず感じてきた、胸を圧迫するような息苦しさを今は感じなかった。だから、自分でも意外なほどすんなりとその名前が出た。
「バードヘブン」
「えっ?」
一度出ると次はもう止まらなかった。
「〈バードヘブン〉と言うんだ。俺と雅俊がいた店」
「バードヘブン……?」
「俺の父親が経営していたホストクラブだ」
「お父さんの……?」
「ノルマがこなせなければ容赦なくペナルティーを科す、主に少年を好む男性客相手の会員制高級ホストクラブ」
「少年を好む男性客……」
「そうだ。十四から二十歳くらいまでの学生が中心で、客のほとんどが上流階級の同性愛嗜好者で占められている」
「それって……」
「表向きはホストカフェで、店での買春行為は厳禁だったが、ノルマがあるんじゃ、どうしようもないよな」
若砂の顔が曇っていく。
「従業員約三十人、一日の売上高は最低でも五百万円越えがあたりまえ。それを支えるのはホストたちの野心と客の欲望のみ。見るべきものもない、くだらない店だ。雅俊はその中のNO.3、そして俺は……」
その言葉を口にするのはさすがに勇気がいった。
「店に大金を落とす上客や重要なVIPのための、ボーナスプレゼントに用意された賞品だった」
「賞品……?」
「十二歳から十四歳になる前までの二年間、芳弘に救われるまで、週末ごとに客を取らされていたな」
もっとも、芳弘に会って教えられるまで、それがどんなに異常で、親の道に外れた行為であるかなんてことは、俺にはわからなかった。
「やらないと父親が俺の平日の夜まで奪う、だから従う。ただそれだけだった」
「なんでそんな……お母さんはそれを」
「俺も、母親の顔は知らない」
「………っ」
「どうやら父親が強引にものにしたようで、俺を産んだ直後、産院から逃げたらしい」
なるべく事実だけを客観的に。それだけのことが俺には難しい。ともすれば感情が吹き荒れて、心が持っていかれそうになる。
余波を受けて揺らいだ上体を、若砂の手が横から支えてくれた。
「ああ、悪いな」
横を向くと、今にも泣きそうな若砂の顔と目が合った。
「そんな……」
「大丈夫だ。もう二年も前の話だ。それに環境のことを言うなら雅俊のほうが遥かに厳しかった。だが、あいつは自分の置かれた場所でしっかり振る舞っていた」
問題は別の場所にあったんだよな……。
一人ごちた俺の耳に、若砂の声が届いた。
「……姉さんの言ったとおりだ。オレが知らなさすぎた。本当にごめん」
「だから、そこは言いっこなしだろ? 今はもう無縁でいるんだから」
「無縁て、お父さんとか?」
「まぁ、アレを父親とは言わないだろうがな。生物学上は親だな」
芳弘や雅俊のお陰で〈バードヘブン〉は脱税容疑で摘発寸前になり、あいつはその対処で手一杯になった。
「その時、芳弘が俺の自由を父親からもぎ取ってくれたんだよ」
今でも忘れない。それが本当だとわかった時の喜び。
「あの穏やかそうな真嶋さんが、その、違法店を経営して儲けていたお父さんから拓巳をもぎ取った?」
若砂の質問はもっともだ。俺だって芳弘の豹変ぶりには驚いたもんだ。
「芳弘はああ見えて、国立の法学部へ行こうとしていた英才なんだよ。だから、カットモデルになった俺から話を聞くうちに、それが重大な犯罪であることに気づいたんだ。そしてやめさせるために父と直談判した」
「ええっ! それはちょっと無理なんじゃ……」
「だよなぁ。もちろん話し合いは決裂した。でも、芳弘の本当の目的は店内の情報集めだったんだ」
違法運営の実態調査のために。
「へぇぇ」
「しかも、父が芳弘の逆鱗を刺激しちゃったもんだから……」
「逆鱗?」
「そう。父は芳弘が俺を手なずけたことに腹を立てて、店の顧客で、前から俺を欲しがってた男爵って渾名の変態倒錯ヤローの店に、俺を大金で貸し出しちまうの」
「男爵! あの男の店って……!」
若砂が血相を変えた。どうやらホストの間では有名なようだ。
「正真正銘、少年愛好家専門の売春宿だな」
「そんなところに、自分の息子を!」
男爵と父親、あの二人は業界ではライバルだった。実態とは真逆の、〈ブルー・パラダイス〉とかいうふざけた名前の店。十九世紀のアンティーク調で統一された内装の館……!
「そこで俺は芳弘から助け出されるまでの二週間、男爵の玩具にされるわけ。それこそ酒と薬と陵辱……悪徳の限りを尽くされた。少しでも逆らうと、容赦なく拷問。まぁ、一週間もありゃ、従順な玩具が出来上がるわな」
そこまで言ったとき、若砂の手のひらが俺の肩にそっと触れた。
「もういい。もう……辛すぎるよ」
切なそうに歪んだ顔が内心の痛みを伝えてくる。
「大丈夫だ。これはもう過去の話なんだ。芳弘が助け出してくれたから」
俺は肩をさする手を取り、膝の上に戻してやった。
「芳弘は、陽子さんや祐司の手を借りながら奴の店に乗り込んで、現場を押さえて警察を誘導する役を果たした」
あの店はその後、未成年売春禁止法を適用されて廃業に追いこまれ、男爵は公の場から姿を消した。
「そのあとで、父に発行寸前の捜査令状を示して、『店を存続させたいなら、親権を放棄しろ』と迫った」
若砂が目を見張った。
親が子どもを虐待したり、犯罪を犯して子どもを保護する力がないと認められると、親権を家庭裁判所に取られる。
「男爵の店の件を逆手に取って、父の罪を見逃す代わりに、俺に対する権利を棄てさせたんだ」
「すごい……!」
若砂が感嘆の声を上げた。それはそうだ。そのあたりの法律に詳しい人間なぞざらにはいないから、普通は親から親権を取るなんて、発想もできない。
「日本の親の持つ親権ってのは、他の国より拘束力が強くて取り上げるのは大変らしいんだが、芳弘はやってくれた。お陰で今の俺は、後見人として親代わりをしてくれる芳弘のもとで、何の不安もない。ただ」
時々、男爵から受けた虐待のせいで後遺症に悩まされる。
「俺の背中には、その時に刻まれた傷痕がまだ残っている。あの光景を思い出すとフラッシュバックに襲われたりもする。芳弘はそれが自分のせいだと嘆く。後遺症が出るたびに、心を痛める芳弘を見るのは辛い」
俺の背中に手を当てながら、心で泣いている芳弘。こんなにもたくさんのものをくれたのに、未だに自分を責めている。
「周りが俺を綾瀬に会わせなかったのもそのせいだ。綾瀬は男爵が俺で遊んでいるところに居合わせたことがある」
「姉さんが……!」
「あの男は綾瀬の独立に手を貸した出資者の一人らしい。だから、あの頃の彼女は男爵の力に逆らえる立場じゃなかったと雅俊から聞いている。俺が、奴とその仲間に嬲られるのを、氷のような眼差しで見てた」
その場面を思い浮かべないように気をつけながら、俺は早口に言った。
「その時、ほんの一瞬の隙をついて綾瀬が俺に言ったんだ。『近いうちに必ず助けが来るから、気をしっかり持って耐えろ』って。俺、もう廃人寸前だったから、綾瀬の言葉がなかったら芳弘は間に合わなかったと思うんだ」
だから、綾瀬は恩人なんだと告げると、蒼白になっていた若砂が少しだけ緊張を解いた。
「芳弘は俺を気遣って言わないが、綾瀬と芳弘はそのとき協力しあった仲で、〈ガイエ〉の仕事もそのへんが絡んでいるんだと思う」
「……そうか。だから、姉さんは……」
何か思い当たるふしがあったのか、若砂は納得したような素振りを見せた。
一連の話をし終えて、俺は今でにない感覚が生まれているのに気がついた。
「……不思議だ」
「何が?」
「こうやって、おまえに喋ることのできた自分が」
若砂が顔を見上げてくるのを感じながら、俺は中庭に目線を投げた。前に咲いていた薄青い花は終わり、替わりによく路地のプランターで見かけるような、オレンジや黄色の小花が、たくさん咲いていた。
「病院でカウンセラーから『言葉にして吐き出すことで楽になる』と言われたんだが、どうしてもできなかった。話そうとするたびに、フラッシュバックが起こって無理だった」
俺は花から隣の若砂に目線を戻した。
「初めてカウンセラーの言ってた意味がわかった気がする。なんかこう、胸が軽くなったっていうか」
いつも思い出す時に感じてきた、胸が絞られるような苦しさが今はない。
「きっとおまえのお陰だな。ありがとう。さすがは伝説のホスト」
わざと茶化すように言ったからだろう。青ざめた顔の若砂もつられたように少しだけ笑った。
「俺も夕べ、雅俊に諭された。若砂がいた店は本当に別格で凄かったんだと。感謝されたり、感動されたり……そんな店もあったんだな」
若砂は笑みを収めると、花のほうに目を逸らしながら頷いた。
「俺も、ひとつ聞いていいか?」
「なに?」
「そんなに評判がよかったのに、どうしておまえのいた店は終わったんだ?」
質問した途端、若砂の目がガラス玉のように色を失った。
――これはまずかったか。
俺は慌てて言い足した。
「っていうか、ホストを好きだとまで言い切った若砂が、今はやってないのが不思議だったから。聞いちゃ悪かったなら忘れてくれ」
若砂はハッとして目の色を取り戻すと、どこか遠くを見るような眼差しになり、ひとつため息を吐いた。
「……人に話すことで楽になる、か。そうなのかもしれないな」
夜色の瞳が陰を濃くしている。
「拓巳。聞いてくれるか? オレの話を……」
若砂は俺のほうに体を向け、語り始めた――。