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クレステッド・アーガス  作者: 木柚 智弥
それぞれの葛藤
5/24

暗雲

 その日は朝から横浜は曇り空で、今ひとつすっきりしない天気だった。

 式を挙げるホテルの入り口にはすでに人だかりができていた。

 どこから聞きつけたのか、明らかに〈T-ショック〉のファンらしい姿も見え隠れしていて、俺たち三人と、パールグレーのタキシードで装った花婿姿の芳弘は、あらかじめ打ち合わせた裏口から会場内に入った。

 このホテルはガードが固く、教会は中庭を使う仕組みになっている。だが聞こえてきた嬌声(きょうせい)は建物の落ち着いた佇まいにそぐわず、どことなく浮ついた空気に不安を覚えた。

 ロビーに入ると、若砂がすでに到着していた。

 付き合いこそまだ浅いものの、若砂は芳弘の感謝のもと、美奈子からもぜひにと望まれ、芳弘の友人として出席することになったのだ。

 芳弘を控え室に送り出し、俺たちは若砂と合流した。

「やあ、みんな。さすがに決まってるねぇ」

 若砂は夜色に光る目を細め、ブラックフォーマルの祐司や光沢のある濃紺のスーツを着た俺、そしてライトグレーのボレロ風ジャケットの雅俊をそれぞれに誉めたたえた。

 そういう若砂は、今日は黒に近い濃緑(ディープグリーン)のスーツ姿で、中の黒いベストと白いレース使いのシャツがアクセントになっていて、さすがに本職の指導が行き届いていることを窺わせた。どこからどう見てもリッパなギャルソン系美少年だ。

 しばらく服装の雑談をしたあと、みんなで教会の中へ入ろうとすると、ホテル側の通路から祐司の母親、陽子(ようこ)さんが黒いパンツスーツ姿で飛んできた。

「ああ、いたいた、祐司!」

 ()(のうえ)陽子(ようこ)さんは芳弘の母親の妹、すなわち芳弘の叔母に当たる。彼女はどうしたわけか、何やら焦っていた。

「どうしたんだ、母さん」

 祐司が応えると、彼女は俺たちへの挨拶もそこそこに、小声で打ち明けてきた。

「芳弘たちが変なのよ。誰か行ってあげたほうがいいかもしれない」

「何かあったのか」

「よくわからないんだけど、さっきから控え室で言い争ってる声がしてるのよ」

 俺は嫌な予感にとらわれた。

「私が踏み込むより、あんたたちのほうがいいわ。様子を見てきなさい」

「そうだな、とにかく行こう」

 異変を悟られないよう、周囲の目を気遣いながら、俺たちは陽子さんに先導されて移動した。

 控え室へ近づくと、なるほど、芳弘の声がドア越しに聞こえてきた。陽子さんが心配するのももっともで、普段の芳弘を知る俺たちからしたら、かなり苛立ってるのがわかる平坦な口調だった。

 芳弘は怒ると、迫力ある目線とは逆に(しゃべ)り方が静かになる。それがまた恐ろしいのだが、美奈子相手にそれは見たことがない。俺たちは顔を見合わせ、今のうちに踏み込むべきかどうかを検討した。

「あまり、事を荒立てないほうがいいだろう。取りあえず、俺が顔を見にきたフリをして様子を探ってくる」

 そう言って祐司がドアノブに手をかけたとき、中からこちらに向かって駆けてくる足音がした。

「――!」

 引き戸だったため、つんのめりそうになった祐司に、豪華なウエディングドレス姿の美奈子がぶつかってきた。

「祐司!」

 芳弘が驚いた声を上げているのが祐司の背中越しに見える。

「どうしたんだ、(よし)(にい)さん」

 ひとまず美奈子を抱き止め、外出を阻止した形の祐司が芳弘に呼びかけた。俺と雅俊と若砂は陽子さんに会釈して、まだ開いているドアを閉めた。

「穏やかじゃないぞ、その顔は」

 祐司が言うだけあって、普段、柔らかい笑顔が地顔の芳弘にしては、かなり危険な表情――すなわち無表情になっていた。

 俺だったら、それが地顔だから「なーんだ、いつものことじゃん」なんだが。

 ふと横を見ると、同じことを考えたのか、雅俊と祐司が俺に視線をよこしていた。失礼なヤツらだ。

「まずは座りましょう、美奈子さん。花嫁が疲れちゃいけませんから」

 かかしのように突っ立っているだけの祐司から、若砂がサッと美奈子の手を取り、部屋の中央に置いてある椅子に誘導した。その動きは実に自然で無駄がなく、美奈子は導かれるままに腰かけた。

 美しいレースとオーガンジーをふんだんに駆使したウエディングドレスは、華奢で清楚な美奈子の雰囲気を十分魅力的に伝えていたが、表情がこれでは効果も三割減だ。

「それで? どうしたんだ(よし)さん。こんな日に穏やかじゃないじゃん。美奈子さんが怯えちゃってるよ?」

 雅俊が努めて明るい口調で投げかけた。元美少年ホストの魅力全開で雰囲気を和らげている。

「さ、美奈子さんもどうなさったんです? 可憐なお顔をそんな風に曇らせて」

 こちらもヨーロッパのエレガンスを利かせたギャルソンの意地を見せ、雅俊相手に一歩も引かない気合いだ。

 ――ここどこ?

 俺は一瞬、あらぬ錯覚に脳ミソを持っていかれそうになった。

「わたしではお役に立ちませんか?」

 片膝を床につき、両手で花嫁の手を取って、(うつむ)き加減の顔を下から覗いて尋ねる若砂。そのカンペキな仕草に美奈子が頑なな表情を和らげて口を開こうとした、まさにそのとき。

「なんでもない。くだらないことだ。さあ、時間も押しているから行こう。みんなに迷惑がかかる」

 普段からは想像もつかないような硬い口調で芳弘が言い放ち、二人の努力を粉砕した。

「…………」

 あまりのことにその場にいた全員が凍りついた。むろん、美奈子の表情も一瞬で固まった。

 やがて、芳弘との接触時間が少ない分、ダメージが浅かったのだろう、真っ先に回復した若砂が口を開いた。

「それは、本気でおっしゃったわけじゃ、ありませんよね?」

 美奈子の肩に手を移し、静かに立ち上がった若砂は芳弘と向き合った。

「まさか花婿がそのような態度でいて、お二人が無事お式を終えられるなんて、そんな甘い見通し持ってはおられませんよね?」

 夜色の目をやや細めた若砂の背後から怒りのオーラが立ちのぼって見える。口調も普段とはガラッと変わり、にもかかわらず表情には穏やかな微笑みが浮かんでいて、そのギャップに見ているこっちもゾッとした。

 若砂はその顔で芳弘を黙らせると、今度は立ち膝で美奈子に問いかけた。

「教えて頂けますか?」

 すると美奈子がようやく口を開いた。

「さっき、母たちの控え室に行ったんです。親戚が来ているので挨拶をと思って。そうしたら、隣のお部屋の入口に若い女の子たちがたくさんいて」

 芳弘の父方の親戚らしきその女子集団は、美奈子の陰口を叩いていたという。

「……あの子たちの前に出ていかなきゃならないかと思ったら、足がすくんでしまって……」

 若砂は美奈子の頬に手を添えると優しく尋ねた。

「何を、耳にしてしまったのですか?」

 美奈子は訴えるような眼差しで若砂を見た。

「今日の花嫁は悲しいねって。花婿の身内に、よりによって……のメンバーがいるんじゃ、いくら頑張っても比べられちゃうわ、って……」

「―――」

〈よりによって〉のあとが、小声でよく聞き取れなかったが、あえて聞き返す必要もなかった。

 その女子集団は、思わず立ちつくした美奈子に気がつくと、

「うわっ、かわいそうな花嫁が(にら)んでるぅ」

「さすがぁ、比べられる勇気あるヒトだわ、コワーいっ」

 などと言って駆け去ったという。

 あまりのことに動転した美奈子は、母親たちにも会わずに控え室に戻ると、一歩も動けなくなってしまった。そこに芳弘が来たというわけだ。

 芳弘から見ると、用意を済ませ、さあ行こうか、と部屋に入ったら、泣きそうな顔で動けないと訴える美奈子がいた。わけを聞いても「芳弘さんの親戚が……」と言うんじゃ気分も悪くなろう。

 事情がつかめてきた俺たちは顔を見合わせた。すると、芳弘が無表情のまま口を開いた。

「美奈子はね、僕にこう言ったんだよ。『お願いだから〈T-ショック〉のメンバーに教会を遠慮するように言って』とね」

「………!」

 俺たちは芳弘の怒りがどこから来たのかを、ようやく理解した。すると美奈子が顔を上げて芳弘に訴えた。

「それは、私だって本当はあの子たちに来ないでほしいわ。けど、そんなことを言ったらもっとひどい陰口を言われるに決まってる。結婚したら親戚の集まりだってあるでしょう? でも、祐司さんたちなら……」

 事情を汲んでくれるかもしれない、というわけだ。気持ちはわかる。わかるが……。

「君は、自分がどんなに理不尽なことを要求しているのか、わからないのか」

 やはり、芳弘には受け入れ難いのだ。

「僕の結婚式に、どうして僕の身内が出られないなんてことになるんだ」

 祐司たち、ではない。それは俺。

「君にはもっと強くなってほしいよ。所詮、くだらないことじゃないか。その子たちはまだ子どもで、君をうらやんで言ってるだけだよ。それなのに……」

 芳弘にとっては、そんな冷やかし言葉ごときで、俺の出席を控えさせることなどあり得ないのだ。

 俺はその心を嬉しく思った。だが、同時に美奈子の心情を考えるとそうも言ってはいられないとも感じた。このままでは、そのくだらない陰口のせいで二人の結婚式が台無しになってしまう。

 俺は辞退を心に決め、芳弘に告げようと顔を上げた。すると。

「――なっちゃいませんね……」

 何やら低い声で唸った若砂がユラリと立ち上がり、芳弘に向かってこう言った。

「すぐに、出ていってください」

「えっ?」

「時間がないんでしょう? あなたへの説教は後日にします。無事に式を挙げたければ、今は出ていってください」

 その言われように芳弘が絶句していると、背筋を伸ばした若砂が迫力のある声で呼びかけた。

「雅俊!」

「はいっ」

 条件反射のように雅俊が応える。

「花嫁はちょっと気分が悪いので、化粧直しをします。会場係に三十分遅れると伝えてください。それからニ十分経ったら、花嫁のご両親をここへお連れするように。わかった?」

「えーっと、はいっ」

 矢継(やつぎ)(ばや)の指示に雅俊はタジタジだ。よもやあの雅俊をアゴで使えるヤツがこの世にいたとは……。

「あと、芳弘さんに伝授。マニュアルDだ」

「――!」

「返事は?」

「はいっ」

「さあ。わかったら出ていってください。はやくっ」

 若砂の勢い押され、俺たちは花婿もろとも控え室から追い出された。



「一時はどうなることかと思ったよ」

 雅俊が言った。

「まったくだ」

 俺も頷いた。すると……。

「あれ拓巳、いらないの? これ美味しいのに」

 んじゃもらうよ、と伸ばされたフォークを、俺は持っていたコーヒースプーンで阻止した。

「誰がいらないと言った、小僧」

 そして、隣に座る若砂に狙われたサービスのミニショコラを素早く腹に納めた。

 この喫茶店は、横浜駅からは少し外れたところにある穴場で、静かに過ごすにはもってこいの場所だ。帰るにはまだ早い夕方、親戚に囲まれた祐司と別れ、俺と雅俊は若砂を誘い、富永モデル事務所でよく使っていたこの喫茶店でくつろぐことにしたのだった。

 芳弘の式は滞りなく終わった。

 どんな魔法をかけたのか、美奈子は無事、教会に姿を現した。

 驚いたことに、父親に手を引かれた美奈子は微笑みさえ浮かべ、さっきの騒動を微塵(みじん)も感じさせなかった。

 芳弘の手に父親から美奈子の手が渡されたときも、その顔から笑みが絶えることはなかった。そのお陰だろう。雅俊から何を伝授されたのか、少し緊張ぎみに見えていた芳弘の表情も次第に柔らかくなり、式を終え、二人で出口に向かう頃にはすっかり打ち解けているように見えた。

 やがて披露(ひろう)(えん)が終わり、人が退けるのを待ってからロビーに出ると、美奈子が若砂に気づいて駆け寄ってきた。

「今日はありがとう、若砂さん。無事にお式を終えられたのは何もかもあなたのお陰です」

 俺たちのそばで小僧モードが出はじめていた若砂は、一瞬でギャルソンに戻った。

「美奈子さんのお役に立てたのなら光栄です。どうか芳弘さんとお幸せに」

 俺はその隙に、少し後ろに立つ芳弘のもとへ行った。

「拓巳、今日は世話をかけたね」

 芳弘はいつもの穏やかな、けれども少々やつれた表情をしていた。

「おめでとう、芳弘。……その、大丈夫か?」

 俺がいろいろな意味を込めて聞くと、彼は目線を泳がせて答えた。

「今回は……僕もなんだか勉強になったよ。美奈子とのこと、もっときちんと考えていかなきゃ……」

 俺はさっき若砂が言った「あなたへの説教は後日に」の下りを思い出し、ちょっとだけ芳弘がかわいそうになった。

 そんな風にして、芳弘の結婚式は終わったのだった。

「教えてくれよ。どうしてあんなことができるんだ?」

「何が?」

「だから、美奈子さんだよ」

 俺は改めて隣でコーヒーに口をつける若砂を見た。

 今の若砂は、服装がフォーマルなだけのただの小僧に戻っている。こいつには会うたびに驚かされてきたが、今日のアレはその次元を越えている。いくらなんでも趣味や特技でできることではない。

 すると、若砂の向かい側に座る雅俊が、飲んでいたコーヒーを皿に戻し、少し身を乗り出して切り込むように言った。

「若砂。あんたいつからホストなんてやってたんだ」

 ホスト? こいつが⁉

 俺の驚きをよそに雅俊は畳みかけた。

「芳さんに指示したマニュアルDって、石川町(いしかわちょう)のクラブにあった新人用マニュアルだよな。女性への対応、五箇条。優しく、根気よく、笑顔で、ってやつ」

「あちゃぁ……ついうっかり」

 若砂は座席の背もたれに寄りかかると、コーヒーをまた一口飲んだ。

「まぁ、別に二人には隠すつもりもなかったからいいか。そうだよ」

「いつ頃から?」

「オレが十五歳の年の冬だから、中三だな」

 中三の若砂。今でさえ小僧なのに、さらに四年も前。

「雅俊なら知ってると思うけど、あの店はクラブっていうよりカフェに近くて初心者さん中心じゃん? 見習いの修行にはもってこいだからさ」

 おまえもその口で、まずはあそこで働いただろ? と若砂は笑った。俺は雅俊と顔を見合わせた。

 十五歳でホストやる運命のヤツって、こんなに明るいノリでよかったっけ?

「その情報は、やっぱり綾瀬からだな?」

 雅俊が確認すると、若砂は頷いた。

「姉さんだけじゃないけどな。雅俊のことはさ、時々仲間内で噂に出てたよ。だから姉さんから聞いたとき、『あ、やっぱり』って思った。ただ……」

 若砂はこちらを向くと、まじまじと顔を覗き込んできた。

「拓巳がホストだったってのがわからないんだよなぁ」

「なんでだ?」

 反射的に尋ねると、若砂はすぐに返してきた。

「あんたの態度にはホストの要素がない。人をもてなす気がまるでない。姉さんが拓巳のことを『雅俊と同じ店にいたのよ』って言ったんだけど、ちょっと納得できないんだよね」

 すると雅俊が小さく吹き出した。

「若砂ってスゴい。あんた、さぞかし優秀なホストだっただろ。人を見る目がハンパないわ」

 雅俊の言うとおりだ。事情はあったが彼は自ら選んでホストの道に入り、俺はそうではない。それを若砂は()ぎ取ったのだ。

 雅俊が切り返した。

「おれがホストをやったのは、一日も早く金を貯めてバンドを結成したかったって理由もあったからだけど、若砂はなんで? 綾瀬がいたんだから生計じゃないよな?」

 すると若砂は一瞬、顔を曇らせた。が、すぐにまた笑顔に戻った。

「最初は姉さんの助けになればと思って。その頃、ちょうど姉さんが最初に立ち上げたブランドが海外展開できるかどうかの瀬戸際(せとぎわ)だったんだ」

 姉さんは毎日仕事の合間を縫ってお客を接待してた、と若砂は説明した。

「その頃、戸部の古い屋敷は姉さんが少し手を入れて接待に使ってたんだ。それをオレと母さんも手伝ったりしたんだけど、母さんが、実に上手に客をもてなすんだよなぁ」

 何を思い出しているのか、若砂の顔がほころんだ。

「姉さんも、難しい人は母さんを頼ってる節があって。それ見てて、オレも何か役に立ちたいなぁ、って」

 だから、母さんにそれを伝えて、いい店を紹介してもらったんだ。と若砂は付け加えた。

「母さんは、さすがというか、水商売系のツテや情報をたくさん持っててね。……修行は大変じゃなかったよ」

「おかしいな。おれだって短い間だったけどあそこにいたんだ。若砂とわかるようなやつのウワサは聞かなかったがな」

「ああ、あの店にいたのは少しだけだったからね。雅俊が入った頃にはとっくに別の店にいたよ」

「それ、どこ?」

 ここで若砂が初めて言い淀んだ。その様子に俺たちが引っかかりを覚えていると、やがて若砂はカップをテーブルに戻しながらつぶやいた。

「……繁華街外れの小さな店だよ。雅俊は知らないんじゃないかな」

 言いにくそうな様子を見て、俺は話題を元に戻した。

「で? 美奈子さんには何をどう持っていったんだ? そこのところはぜひ今後の芳弘のために知りたい」

 若砂はホッとしたように受け答えた。

「ああ、アレ? たいしたことじゃないよ。ちょっと大人の女性の心理を観察して、本人が欲しがる言葉をありったけ言うのさ。相手から色々聞いてきたらこっちのもの」

 そこで若砂の顔が一瞬、ギャルソンの笑みに変わった。

「あとは目を逸らさずに、あなたの願いは叶うよ、と言い聞かせるのさ……」

 目線の妖しい引力に、思わずカップを取り落としそうになる。

 雅俊が感嘆の声を上げた。

「今、スゴいものを見たような……! 伝説のブラックパラダイスみたいだな」

「なんだそれ」

 聞き慣れない名前につい質問すると、雅俊はチラリと目線を寄こした。

「そうか。おまえはホストとしてあの店にいたんじゃないからな。そんな話、知らないか」

 驚いてこちらを見上げる若砂には構わず彼は続けた。

「この辺りの夜の業界じゃ有名な話でね。石川町の伝説のホスト集団とそのトップの話」

 その店は数年前まで、横浜のNO.1ホストクラブだったという。

「店の名は〈クレステッド・アーガス〉。鳳凰(ほうおう)のことだな。ホストたちはそれぞれ鳥を冠した渾名(あだな)を持っている」

 雅俊がそこで、意味ありげに俺を見た。

「どこかで聞いたことないか?」

 大ありだ。

「俺たちのいたところはそれを真似たのさ。評判にあやかってね。まぁ、とにかく、その〈クレステッド・アーガス〉では、ホストがいくつかのグループに別れていて、うち二つが特にスゴ腕で有名だった。その内のひとつがフライキャッチャー」

「フライキャッチャー?」

「ヒタキって種類の山里にいる雀くらいの鳥なんだけど、どれも色が鮮やかで、それは綺麗な声で鳴く鳥。にもかかわらず、狙った獲物は絶対ゲット。だからフライキャッチャー(虫取り名人)。ちなみにもう片方はカワセミで、これはキングフィッシャー(釣り名人)」

 なんだか想像ついた。

「彼らは渾名(あだな)に恥じない手腕で〈クレステッド・アーガス〉の名を石川町に鳴り響かせた。なにしろ、連日お客さんが開店前に並ぶという異例さ」

「クラブなのに?」

「そう。オーナーの方針で、女性客のみの紹介制で、安全、安心、品格をモットーに、お客さんが楽しくくつろぐことを重視して、従業員を徹底的に教育するシステムさ。それが当たって、質の高いホストがぞくぞく誕生した。その先頭だったのが、ブラックパラダイス・フライキャッチャー(三光(さんこう)(ちょう))」

 雅俊はコーヒーを一口飲むと、ほぅっとため息をついた。

「おれも、おまえのところを辞めたあと、〈クレステッド・アーガス〉で働いてみたかったんだよなぁ」

「なんでそうしなかったんだ?」

「就職希望者が多くて満杯だったんだよ。従業員も十五人前後で、そんなに大きい店じゃなかったから。で、そのうちに閉店しちまったのさ」

「そんなに人気だったのにか?」

「まぁ、経営者としては、絶頂のうちに惜しまれて閉めるのが理想かもしれないけどな」

 おれもそのあと段々自主ライブが忙しくなってきてさ、と雅俊は結んだ。

「伝説うんぬんは知らないけど」

 何を思い浮かべたのか、若砂が口元に薄く笑みを浮かべて言った。

「オレはホストって仕事、自分に合ってたと思う」

「……?」

 横を向いた俺の前で、何かを噛みしめるように若砂は続けた。

「お客様をもてなして、話を聞いてあげることで心を癒してあげられたり、自分と話すことで喜んでもらったり、感謝されたりしてお金をいただける。ホストは立派な仕事だと思う」

 立派な仕事――?

 俺の中で反発心が音をたてた。

「たくさん報酬をいただく分、自分に自覚と責任を課して、またお客様に返す……オレはそういうの、好きだった」

 脳裏を占めるのはあの暗く、(よど)んだ日々。

 際限のない客の欲望、争うホスト同士の確執。ホストは上を目指すために客の欲望に応え、客はそれを利用して楽しむ……俺の見てきた深い闇の世界。

 たまらず、言葉が口からこぼれた。

「……所詮、酒の席で繰り広げられる一夜の夢だ」

 若砂が弾かれたように俺を見た。その顔を、冷めた気分でながめながら続けた。

「ホストクラブの経営者にとって、客は欲望のために大金をしょったカモで、ホストはそれを呼び寄せるエサにすぎない」

 夜色の瞳が見開かれた。

「どんなに綺麗事を並べても、客が若い男を侍らせるのに、金の力を使ってるのは事実だ。そしてホストとは、そんな客を奈落(ならく)の底に(つな)ぎ止めるための杭だ」

 若砂がみるみるうちに顔色を変えた。

「……そんな店ばかりじゃないだろう」

 声が僅かに震えている。

 なぜ、俺はこんなことを、ムキになってこいつに(しゃべ)ってるんだ?

 そう思いはするものの、まるで壊れて止まらなくなった機械のように、俺は言葉を吐き出し続けた。

「どんな店だろうと、夜の水商売なんざ、飾り立てたエサで客からどれだけ多くを引き出すか、その構図に変わりはない」

「……っ!」

「よせ拓巳! 言い過ぎだ」

 雅俊が止めに入った。が、俺は構わずに続けた。

「ホストというのはな。店側が客に仕掛ける罠のひとつなんだぜ」

 言い切った瞬間、若砂の背後から怒りのオーラが吹き上がるのが見えた。

 俺を見る顔が別の何かに切り替わる。

「あなたが……」

 言葉を押し出すようにして若砂は言った。

「何を見てきたのか、わたしは知らない。だがわたしの知るオーナーは、常にお客様のために何ができるかを考え、精一杯尽くそうとなさっておられた」

 そこにいるのはもはや人懐(ひとなつ)こい小僧ではなく、一人の誇り高いプロだった。

「わたしたちスタッフも、そんなオーナーの志しに従って、少しでもお客様にくつろいでいただけるようにと、日々心がけて励んだ」

 夜色の目が俺の顔を見据えた。そこに怒りと悲しみが(にじ)んでいる。俺は我知らず手のひらを握り締めた。

「あなたが何をどう感じようと自由だが、オーナーの努力を知らないあなたに、わたしたちのことを、金銭を得るためのエサとは言って欲しくない。わたしは今でもあの店でホストをさせていただけたことを誇りに思っているし、オーナーには感謝している」

 若砂は静かに立ち上がった。

「若砂! ちょっとまて」

 腰を浮かせた雅俊が、腕をつかもうとして伸ばした手を、若砂は軽く振り払った。

「あなたの知らないところに、そういう世界もあったのだと、知っておいてもらえたらありがたい」

 そのときふと、若砂の表情が普段のそれに重なった。

「そうでなければ……富樫(とがし)オーナーのなさっていた努力があまりに浮かばれない」

 その一言に、雅俊の目が驚きに見開かれた。

「富樫だって?」

 若砂は俺から目線を外し、絶句した様子の雅俊に向き直ると微笑んだ。

「今日は誘ってくれてありがとう。お先に失礼するよ」

 そして飲み物代の小銭をテーブルに置き、俺の足をよけながらボックス席を出た。すると雅俊も席を離れて若砂の正面に立った。

「若砂。富樫オーナーとは、〈クレステッド・アーガス〉の経営者のことだよな」

 今度は俺も驚いた。雅俊はさらに畳みかけた。

「さっきの鮮やかな腕前といい、間違いない。あんたはあそこの出だろう。なんの鳥だったんだ? まさか、ブラックパラダイス……」

 俺は耳を疑った。――今、雅俊はなんて言ったんだ?

「違う」

 若砂は即答し、雅俊をかわしてすれ違いざまにこう言った。

「それは尾崎(おざき)高志(たかし)先輩。わたしはブラックキャッパー((やま)(しょう)(びん))――キングフィッシャーのほうだ」

「………っ!」

 動けずにいる俺たちの耳に、若砂が喫茶店のドアを開け、出ていく足音が聞こえた。


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