依頼
次の月曜日、雅俊と若砂は診察時間を合わせ、病院で落ち合った。
来るのは若砂だけと聞いて俺も同行した。薄青い花がまだ咲く中庭のベンチに座っていると、まもなく若砂がやってきた。
まだ診察前のはずだ。
「どうした。これからじゃないのか?」
「雅俊が先さ」
ジーンズに白いTシャツ、その上に薄手の水色のパーカーを羽織った若砂は、足早に近寄ってくると俺の前に立った。
まだ成長期前のような華奢な体つき、あどけない小作りな顔、つぶらな夜色の瞳。どう見ても中学生の小僧だ。
――この前のパーティーで見た美形のギャルソンはやっぱ夢?
「なに?」
「なんでもない」
目線を逸らしつつ即答すると、若砂は「まあいいや」と隣に座った。
「この前は悪かったな。その後、具合はどうだ?」
「なんでおまえが謝るんだ?」
目を向けると、若砂がバツの悪そうな顔をした。
「姉さんから少しだけ聞いたんだ。前に、拓巳は姉さんの出資者と激しくケンカして痛い目に合わされたから、姉さんの顔を見るとそれを思い出して辛くなるんだって」
…………もの凄く簡潔な説明だな、綾瀬。でも大筋で間違ってないところがさらにスゴい。
「母さんと姉さんは顔が似てるから……」
言い当てられ、俺は努めて平静に言った。
「心配かけて悪かったな。ちょっと疲れてただけだ。もう問題はない」
若砂はチラッとこちらに目線を寄こすと、ホントにそうかな? というような顔をした。俺はなんとも不思議な気分になった。
どうも、さっきから内心を読まれてる気がする。
すると若砂がこう聞いてきた。
「拓巳は、本当にモデルを辞めるのか?」
黙っていると、若砂はさらに続けた。
「残念だなぁ。ロックバンドのほうが一段落したら、また復帰するってわけにはいかないのか?」
「残念か?」
「そりゃあ、だって……こうしていると全然だけど、あんたはあの〈タクミ〉なんだろ? もったいないよなぁ」
まて、小僧。
「ここにいる俺は、モデルの〈タクミ〉とは違うのか?」
「うん。雰囲気がずいぶん違うじゃん。昨日、雅俊からせしめたプロモーションビデオ見たけど、ボーカルのタクミもまた違う雰囲気だし……器用なんだな」
器用? それって器用なのか?
「意識して分けてるんじゃなさそうだけど、ここで会う拓巳が一番、わかりやすくていいや」
わかりやすい?
そんなことを言われたのは初めてだ。
「で、拓巳自身はどうなんだ。モデル辞めたいのか?」
実際、どうなんだろう。俺は漠然と、二つの仕事を両立させるのは難しいだろうと考えていたのだが。
そう伝えると、若砂は勢いこんで言った。
「嫌いじゃないんなら続けてみたら? 姉さんが苦手なら〈ガイエ〉だけ辞めればいいよ」
さすがにその言葉には面食らった。
「おまえは……綾瀬から俺を引き止めるよう、頼まれてるんじゃないのか?」
「雅俊への伝言なら預かってきたけど、他は別に。だいたい、まだ顔見知り程度のオレが説得に励んだところで、拓巳が意思を変えるとは思えないだろ? 姉さんは昔から無駄なことはしないの」
そこで若砂はハタと気がついたように言い足した。
「ああ、でも姉さん〈ガイエ〉を離れるから、あそこは辞めなくてもいいんだ」
「離れる?〈ガイエ〉を辞めるのか?」
「うん。姉さん、いよいよ独立してプレタポルテにブランドを持つんだ。今日の雅俊への話は、秋に開催する合同記念イベントへの〈T-ショック〉の参加打診と、拓巳のモデル出演依頼なんだ」
な、なんだと――?
「避けるならそっちを避ければ大丈夫だよ。モデルは続けなよ」
あっさりと勧められ、俺はなんだか混乱してきた。
「おまえは……綾瀬を恐れてるにしては、そこを割り切るんだな。協力してやらなくていいのか?」
「オレの助力がなくたって、拓巳を出したければ姉さんなら絶対どうにかするよ」
そ、それはちょっとコワい。
「だから、オレの立場でできるとしたら、そのことを教えてあげて、拓巳の判断材料にしてもらうってことぐらいかなぁ」
スゴく効果的だな、綾瀬。さすがだ!
「し、承知した」
俺は内心の動揺を隠し、辛うじて威厳を保って返事をした。そんな俺の様子をどう見たのか、若砂は少しためらう素振りを見せたものの、意を決したように尋ねてきた。
「ひとつ、聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「姉さんは、拓巳に何をしたんだ?」
「――え?」
「拓巳が姉さんを避けたいのは、本当は何かされたことがあるからじゃ、ないのか……?」
少し逸らされた目線が不安げに揺れている。
「なんでそんなことを聞く。心当たりでもあるのか?」
「………」
「答えてもいいが、そんなことを聞かれる理由を知りたい」
重ねて問いかけると、若砂は思い切ったようにこちらを見た。
「ごめん、ちょっと長くなるんだけど……」
そしてひとつ息を吐き出すと、深く座り直してから話し始めた。
「オレと母さんのために、姉さんは十代の頃から体を張って稼いできた。モデルだったのは知ってるだろ?」
「ああ、聞いた」
「母さんは、姉さんのお父さんの、いわゆるお妾さんでね。囲われ者だったんだ。綺麗な人だったから……没落した名家の出なんだって。体も丈夫じゃないし。でも美人なんて、飽きたらおしまいで、母さんは姉さんを産んだあと、本妻さんに姉さんを取られて追い出されたんだ」
「えっ……?」
「本妻さんは、子どもの産めない人だったらしいよ。資産家のお父さんは、お金を積んで戸籍に本妻さんの子として記載させた」
「………」
「そこまでお膳立てしたのにね。姉さんの顔がアレでしょ?」
追い出した妾にそっくりだったわけだ。
「お父さんが姉さんを溺愛するもんだから、本妻さんはおかしくなっちゃって、お父さんに隠れて姉さんを虐待するようになったんだ。中学一年の時にすべての事情を知った姉さんは、すぐに家を出る決心をしたそうだよ」
そこからが只者じゃなかったんだよな、と若砂は笑った。俺は興味深く聞き入った。
「まず、自立して生活するためにはどうしたらいいのかを中学生なりに考えた。十三歳の、女で、何の取り柄もない。成績は良かったけど別に天才ってわけじゃない。唯一人より秀でているとしたら、それは容姿。だからまずはそれを磨くことにしたんだって」
若砂はベンチの縁に手をついて、穏やかな色の空を見上げた。
「それこそ徹底的に研究してね。だから効率よく成果が出せた。渋谷に出かけて、いくつかのスカウトも受けた。その中で自分の事情を理解し、助けてくれるところを探した。それが富永モデル事務所。社長さんが偶然、友達の親戚だったのもよかったんだろうね。いいところに入れた」
俺もそう思う。特に社長の人柄。
「デビューは慎重に、お父さんにバレないように進め、ある程度成果が出たところで、事務所に住まいを用意してもらって家を出た」
「親父さんは? 綾瀬を溺愛してたんだろ? 連れ戻しに来なかったのか」
「そこ。スゴいのは。姉さんはその対策に切り札を用意した。それは訴訟を起こすこと」
俺はさすがにブッ飛んだ。
「そしょう⁉」
「そう。本妻さんの虐待。法律を調べて、社長さんや弁護士と相談して、書類を作って準備をした。その時点で姉さんの勝ち、って感じだね。お父さんは体裁を重んじる人だったから、話はあっという間に済んだんだって」
凄い。さすがは綾瀬。
俺は自分が十三歳だった頃を思い浮かべ……ちょっと恥ずかしくなった。芳弘や雅俊の世話になりっぱなしだ。
「じ、じゃあ、おまえとは片親違いなのか。いつ会えたんだ?」
内心を誤魔化しつつ質問すると、若砂は訝しげな顔をしながらも話を続けた。
「それから半年後ってことになるのかな。自分が生まれた病院を手がかりにして、オレたちを探し当ててくれたんだ。けど、それがまたタイミングが悪くて。一緒に暮らしていたおじいさんが亡くなって、ちょうどひと月って頃だったから」
「じいさんが亡くなってると、何かまずかったのか?」
「それがねぇ……」
何を思い出したのか、若砂はハーっとため息を吐いた。
「あのさ、女郎屋ってわかる?」
「……ってあの、江戸時代に出てくる吉原みたいな?」
「うん、そう。遊廓っていうの? 豪遊する男たちに侍る女の人を揃えて、お店に手配したりするのが女郎屋の旦那だよな」
「多分……」
俺は自分の感情を少し遮断した。その構図は過去を思い出させるキーワードだ。すると。
「おじいさんと母さんの関係がね。まさしくそれ」
キーワードに近すぎて目眩がしてくる。
「実の親子、だよな……?」
「うん。なんだけど、生計のために」
父親が、娘を斡旋……!
感情の波が内側で音をたて始める。
「さっき言ったろ? 母さんは没落した名家の出だって。没落したってことは、主に器量がないわけで……」
なるほど、ろくでなしヤローというわけだ。
俺の顔に何を見たのか、若砂は慌てたように片手を左右に振った。
「それがヘンなの。話に聞く女郎屋のイメージと全然違っててさ。普通、女郎屋っていったら、お客を取らせる旦那に、取らされる娘って感じだろ?」
「……ああ」
「オレの記憶にある二人はさ。おじいさんが『成瀬や、今夜のご仁は黒川さまと上條さまだが、どちらがいいかね?』って聞くと、母さんが『そうね、上條さまのほうがご無沙汰ですわ、お父さま』って答えるの」
俺は内心で再びブッ飛んだ。
「………マジで?」
若砂は少しバツが悪そうに、しかし内容を考えたらあり得ないような明るさで答えた。
「古い屋敷の庭先にあるベンチに、二人で優雅に腰かけてさぁ。六歳の子どもが目の前で遊んでるってゆーのに、会話がそれ」
「………」
なんだか別の意味で目眩がしてきた。
すると若砂がサラッと付け加えた。
「だから、オレの父さんは誰だかわからないんだ」
「―――」
驚いて隣に目をやると、若砂は気にした風でもなく続けた。
「どうもね。二人にとっては妾でいようが家に出戻ろうがやることは一緒で、相手が誰だって子どもさえ授かれば戸部家は安泰、みたいな」
「…………?」
「そんなわけで、おじいさんがいた時は、ある意味、穏やかに暮らしてたんだ。オレにはやさしくていいおじいさんだったよ」
だが、その女郎屋の旦那だが、タレントのマネージャーだかわからんじいさんは亡くなってしまったわけだ。
「そう、だから母さんのお客が好き放題しはじめて、家にも押しかけてきて大変だった」
そこまで聞いた俺はハタと気がついた。
「まさかそこへ……」
「ご明察」
若砂が指で正解ポーズをとった。
「そーんなサバイバルなところに、母さんそっくりの、モデルやってるような美少女が来ちゃったんだよ? わかるでしょ」
俺は綾瀬を知ってから、初めて彼女を気の毒に思った。
まさか俺が綾瀬にそんな気持ちを持てる日が来るとは……。
「オレが気にしてんのは、ここからがモンダイだからだよ。再開の喜びも束の間で、こんな状況だったもんだから、姉さんはなり振り構っちゃいられなかった。すぐにオレを富永社長の元に預け、母さんを自分の住むアパートに移した」
そして戸部家の古屋敷で客たちと渡り合った。
「姉さんは、母さんと自分を高級娼婦に見立ててお客に提供した。そして一ヶ月かけて、お客の情報を徹底して調べ上げて……」
声が徐々に萎んでいく。
「調べて上げて?」
俺が促すと、若砂はようやく続けた。
「……母さんの言葉を借りれば『天罰を与えたのよ』だ」
「………」
「母さんのお客たちは、名家出身のおじいさんを経由しただけあって一流どころが多かった。みんな公の顔を持っている人ばかりだったから、姉さんは自分が未成年であることを最大限に利用して、礼儀知らずな人たちを陥れていったんだ」
まるで、復讐劇の主人公のように容赦がなかった。ある大企業の役員は失脚し、ある教授はスキャンダルで大学を追われた。
「絶望のあまり、自殺した経営者もいたらしいよ」
話すごとに、若砂は苦しそうにうなだれ、萎れていった。俺は、こいつが長々と遠回りしながら何を言いたいのかがわかってきた。
「……おまえは過去に、その犠牲者と接触したことがあるんだな?」
若砂の肩がビクッと揺れた。
「俺と綾瀬を見ていて、俺にも何かあったと思ったんだろう」
若砂はこちらに顔を向けると、悲しげに眉を歪めた。
「だってそうなんだろう? 姉さんは目的のためには容赦しない。なのにごめん。オレには姉さんを止められない。非難もできないんだ……それはオレたちのためにしたことだから」
そしてまたうなだれると、足もとに咲く薄青い花に手を伸ばした。
「だからもし、姉さんと仕事するのが辛いなら遠慮しないでくれ。オレもできる限り協力する」
あんまり役には立たないかも知れないけどな、と締めくくると若砂は立ち上がった。
「ごめんな。それだけ先に伝えておきたかったんだ」
「待てよ、早とちりなヤツだな。俺はまだ何も言ってない」
くるりと返した体を引き止めるように腕をつかむと、若砂は怪訝そうに振り返った。
「綾瀬がおまえに言ったんだろう? 俺が出資者とケンカしたって」
「そうだけど……」
「それは嘘じゃない。むしろその時、俺は彼女に助けられたんだ」
「えっ? でも、だってそれじゃなんで……?」
「俺が綾瀬を避けてるのは、俺自身の弱さのせいだ。綾瀬はそれを黙認してくれている。礼を欠いてるのはこっちのほうなんだ」
それを聞くと、若砂は少し戸惑った顔をした。俺はそこには触れず、つかんでいた腕を離すと軽く肩を叩いた。
「だから、俺に関しておまえが気に病むようなことは何もない」
「ほ、ほんとに?」
「ああ」
はっきり頷いてやると、今度こそ安心したのか、若砂はあのふわっとした笑顔を見せた。
「よかったぁ……。オレ、姉さんから今回のプロジェクトで、〈T-ショック〉と〈タクミ〉の交渉窓口になれって言われてて、気が重いわ、進まないわで……」
「交渉を、おまえが?」
「うん。オレ、ちょっと色々あって今は高校通いながら姉さんのところで働いているんだ」
なぜ──などと聞くのは野暮だ。
「それはまた……アヤセ・トベの部下とは大変だな」
「拓巳のほうがよっぽど大変だろ? 高校は雅俊と一緒に通信取ってるんだってあいつから聞いたよ。忙しいだろうに偉いよ」
「別にたいした手間じゃない」
「そうか。じゃ、遠慮せずに依頼していいんだな?」
うっ、そ、それは……
「そこは、まぁ、その、雅俊になっ」
ちょっと情けない俺。まだ修行が足りない。
「よし、頑張るぞ。じゃ、これからお世話になると思うから、よろしくなっ」
元気を取り戻した若砂は、俺の手を握ってブンブン振り回すと、じゃっ、と手を上げて通路脇へ駆けていった。そこに、イミングよく診察を終えたらしい雅俊が姿を現した。しかし若砂が何事かを勢いこんで伝え、引きずるようにして雅俊をまた、もとの院内へと連れ去っていってしまった。
翌日の夕方、GAプロダクツのビルに、若砂がアヤセ・トベの正式な依頼を携えて交渉に来た。
事務所の応接スペースで、社長と佐藤マネージャーを相手に交渉を進める若砂は、リクルートスーツに身を固め、ビジネスの場でも見劣りしないギャルソンになっていた。
社長の質問にハキハキと応える姿は好感が持て、周りのスタッフも若砂に好印象を抱いたようだった。結果として、アヤセの依頼をGプロも雅俊も受ける方向で一致し、〈T-ショック〉は十月のブランドの立ち上げに伴う協賛会社主催のイベントに参加することになった。
問題はモデルの〈タクミ〉をどうするかで、Gプロ側は引き続きの活動を進めたが、俺としては綾瀬相手に迂闊な返事はしたくない。結局、今回はメイン参加でなく、〈T-ショック〉からのゲスト参加として、二着だけ出演することになった。
それから若砂はちょくちょく姿を見せるようになった。
通信教育で高校の資格を取る俺や雅俊と違い、全日制に通う若砂は下校後に綾瀬を手伝うので、来るのは主に夕方だった。必然的にGプロスタッフや関係者、そして俺たち三人と食事をしたりする機会が増えていった。
感心なことに、俺たち三人の他に誰かがいる時の若砂は、徹底してギャルソンを崩さなかった。一度本人に、何を基準にしているのか聞いてみたが、若砂は「さあ? 特に意識はしてないけど」と苦笑いするだけだった。
祐司はどうやらギャルソンの若砂が心に留まっていたらしかった。
が、すぐにヤツの本性に気がつくと、「そうか……」とつぶやいたきり、その後、ギャルソンの若砂を見かけても態度に現れることはなかった。俺は夢破れた祐司の心中を思って涙した。
ひとつ嬉しいことがあった。俺たち三人、特に俺を避ける傾向にあった芳弘の婚約者、美奈子が若砂を気に入ったことだ。
芳弘を紹介された若砂は、俺と芳弘、そして美奈子を取り巻く事情をいち早く察すると、「ナンとかしてやる」と豪語して美奈子の攻略に励んだ。
美麗なギャルソンでありながら、人懐こい小僧の本性をもつ若砂の、絶妙なバランス感覚を駆使した接し方にはさしもの美奈子も抗えなかったと見え、一週間も経つ頃には打ち解けて話すようになっていた。結果、それまではあまり来なかったGプロ関係の食事会や打ち上げにも若砂がいると参加するようになり、芳弘をたいそう喜ばせた。若砂を間に挟むことで俺とも会話が増え、状況は徐々に改善の兆しを見せ始めた。
そうして迎えた六月の第二日曜日。芳弘は美奈子との結婚式に臨んだ。