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クレステッド・アーガス  作者: 木柚 智弥
それぞれの葛藤
3/24

残像


 廊下から足音が聞こえてくる。二つだ。

 俺は()せていたベッドから起き上がった。ここに入れられてから、何日経ったのかさっぱりわからない。今は昼なのか夜なのか……。

 カチャ。

 鍵を開ける音がした。次に聞こえるのはドアを開ける音だろう。あの特徴のある、ギッ、ギィッという重い板の(きし)む音だ。樫の木だかなんだが知らないが、部屋のドアに使うにしては作りがレトロすぎて笑える。この室内も、まるで明治時代の富豪の邸宅にあるアンティークセットのようで、時代錯誤もいいところだ。

〈やあ、支度は済んだかい? 今日も美しいね〉

 予想通りの姿が、ベッドの上で振り返った俺の視界に入ってきた。ねっとりとした奴のテノールが耳に(さわ)る。

〈おやおや。せっかくの装いに皺が寄ってしまうよ。立ちたまえ〉

 無言で立ち上がると、奴は上機嫌で言った。

〈そうそう。素直なのはいいことだ〉

 逆らうたびに爪に焼いた針を入れられたり、裸の背中をムチ打たれたりすれば、いくら俺でも頭を使うようにはなる。

 奴は俺の前に立ち、ペットの毛並みをチェックするような目を向けてきた。

〈うん、やっぱりおまえの白い肌には銀色のスーツが一番だね〉

 そうして後ろを振り返り、ドアの外に向かって呼びかけた。

〈ほら、君も見てごらん。私が腕によりをかけたんだ。美しいだろう?〉

 ドアの隙間から、細身で背の高い、黒いドレスの女が入ってきた。

〈どうだい? 綾瀬。君の、一流モデルとして洗練された感覚で、彼の服装をチェックしてくれたまえよ〉

〈いいわよ、男爵(バロン)

 女は返事をすると、俺の前に立った。

高橋(たかはし)オーナーご自慢のプラチナフェニックスを指導できるなんて、光栄ね〉

 そして紫のマニキュアが(ほどこ)された指先で俺の顎を軽く持ち上げ、目線を合わせた。強い光を放つ、黒目勝ちの瞳が視界一杯に広がる。


 ――綾瀬!


「拓巳っ!」

 鋭い声に呼ばれて飛び起きる。

「――あっ!」

「大丈夫か?」

 目の前に雅俊の顔がある。その横には芳弘の心配そうな顔も並んでいた。

「あ……ああ」

 俺は寝かされていたらしいソファーの縁に手をつき、今にも目に入ってきそうな汗を腕でぬぐった。

「ほら、水だよ」

 芳弘が、脇のローテーブルから氷の入った水のグラスを手に取って差し出した。受け取って一気に飲み干すと、夢見の気持ち悪さがスッと溶けていった。

 俺はため息を吐き、あたりを見回した。

「ここは……芳弘のところか」

 そこは芳弘の住むマンションのリビングだった。俺もつい三ヶ月前まで住んでいた場所だ。GAプロダクツが今のマンションを用意してくれるまでの約二年間、一緒に暮らしていたのだ。

美奈子(みなこ)さんは?」

「実家。いろいろ用意があるらしくて」

 遠藤(えんどう)美奈子(みなこ)は芳弘の婚約者だ。二人は一ヶ月後に挙式を控えている。

 芳弘は今年の三月にめでたく独立して自分の店を持ち、同じ勤め先で二つ後輩だった美奈子が、公私ともにそれを支えている。惜しみなく働く真面目ないい人だが、芳弘が言うには、少し自分の容姿にコンプレックスを持っているとかで、あまり俺たちと一緒にいることを好まない。芳弘の世話になっている身としては少々困惑する相手だ。残念でもある。

(気にすることはないよ。君は僕の家族なんだからね。美奈子にも慣れてもらわなきゃ困る。なぁに、美人は三日見れば飽きるっていうから)

 芳弘はそんな調子で気楽に構えているが、俺の見たところちょっと甘い気がするのだ。本当なら今日も、美奈子は芳弘の婚約者として出席できたはずなのに、「忙しいから」と辞退したのだという。

「それより本当に大丈夫なのかい? 顔色が悪いよ」

「もう大丈夫だ。それよりなんで俺はここにいるんだ?」

「覚えてないのか?」

 雅俊が聞いてきた。

「何を?」

「若砂の家に着いて、お袋さんの挨拶を受けたあとでおまえ、倒れたんだぞ」

「ああ……」

 思い出した。三人で芳弘の車に乗り込み、先に若砂を元町の自宅に送り届けたら、車の音で気がついたのか、玄関先に若砂の母親が出てきたのだ。

 彼女の顔を見た途端、記憶が呼び覚まされ、足元がぐらつきだした。必死の思いで車まで辿(たど)りついたのは覚えているが、そこから先の記憶がない。

「なんか、失礼なことしちまったな」

「大丈夫だよ、お母さんは気づいておられないよ。ちゃんと挨拶が終わるまでは踏みこたえていたからね。君が危うくなりだしたのはそのあと」

「若砂だけになってから倒れそうになったんだ。お袋さん呼んで家に上げようとしたんで慌てて止めた」

 雅俊は自分も芳弘からグラスをもらうと、水を一口飲んだ。

「綾瀬の顔を、思い浮かべちまったんだろう?」

「……ああ」

 一瞬、綾瀬本人と錯覚したくなるほど、母親の容貌は重なって見えたのだ。だが次の瞬間、錯覚は消え、そこに立っていたのは顔こそよく似ているものの、上品な物腰の中年女性だった。しかし、錯覚が脳裏に焼きついたせいで、立て直すことができなかった。

「若砂も心配してたから、今度会ったらなんか言ってやれよ」

 残りの水を飲み干した雅俊はキッチンカウンターに向かった。

「今度って?」

明後日(あさって)の月曜日。取りあえず病院で会う。そのとき、綾瀬と会う日取りを決めることになった。心配するな。向こうの意図がはっきりするまでは、おれだけで会う」

 彼はグラスをカウンターに置くと、椅子の背もたれにかけてあった臙脂(えんじ)色のスーツに手を伸ばした。

「じゃ、(よし)さん。こいつ今夜ダメそうだから先に帰るわ。あとはよろしく」

「えっ? 待てよ」

 拠点が横浜だった俺たちの要望で、マンションは横浜駅に程近い反町(そりまち)に用意してもらった。Gプロへのアクセスもいいし、芳弘のいるこの高島(たかしま)(だい)からも近い。

「俺も行く」

「だめだよ拓巳。君は泊まっていきなさい。明日はオフなんだろう? そんな青い顔をして……僕が出勤するときに送っていくから」

 俺がソファーから立ち上がろうとするのを、芳弘が押し留めた。

「だけど美奈子さん……」

「実家に泊まるから今日は帰って来ないし明日は直接店のほう……っていうか、美奈子がいたって、君はここにいていいんだって、何度言わせるんだい?」

 それ以上、芳弘は取り合わず、ソファーから立ち上がってリビングを出る雅俊を追った。やがて遠くで玄関のドアが閉まる重い音に続けて鍵をかける音がし、まもなく足音が戻ってきた。

「拓巳、あんまり気を使わないでくれないか」

 ソファーの脇に立った芳弘が少し怒ったように言った。

 祐司に似た彫りの深い目元が陰りを帯びている。彼はそのまま隣に座ると、俺の肩に片手をそっと添えた。少し冷えた体に芳弘の手のひらがあたたかい。

「僕は君の後見人なんだよ。僕たちは親子に等しいんだよ? 僕が住むところは君の実家と同じ。具合の悪い息子が実家に泊まるのに、なんで遠慮なんかするの」

 どうやら前々から思っていたらしく、いつも穏やかな芳弘には珍しく説教口調だ。もっとも、芳弘は普段の忍耐力が強いため、ひとたびブチ切れるとダレよりも恐ろしいことを俺は知っている。

「ずいぶん、デカい息子だな……」

 ため息混じりにこぼすと芳弘は笑いそうになり、グッと顔を引き締めてから続けた。

「とにかく、泊まっていくこと。今夜は僕がつくから」

「そこまでじゃ……」

「雅俊がわざわざ君を置いていった、その意味がわからないわけじゃないだろうね?」

「………」

「わかったらほら、シャワー浴びてきて。着替え一式はいつものところだから。もう遅いから寝なきゃ」

 芳弘は言いながらついと肩を押してきた。俺は一息吐くと、それ以上の抵抗はやめた。

 ――綾瀬。

 それは過去の俺と雅俊を結ぶラインの延長上にある。

 直接関わったのはほんの一時。だが忘れようのない一時だった。

 もしかしたら、向こうもそうだったのだろうか。

 芳弘の態度が、綾瀬との関わりがその後もあったことを窺わせている。俺だけが何も知らなかったのかもしれない――。


 フッと明りが小さくなり、俺はベッドの上で身じろいだ。芳弘が寝る用意を済ませて来たらしい。

 生真面目な芳弘は、自宅に帰ってからも必ず美容雑誌や店の書類に目を通す。サイドボードを覗くと、時計はすでに午前一時を回っていた。

「眠れないんだね?」

 芳弘が隣に滑るように入ってきた。華奢なようでいて、実は身長が百八十三センチある彼のベッドはかなり大きめのダブルなので、大の男が二人で横になっても十分な広さがある。しかし……。

「なんか、気が引ける……」

「何が?」

「何がって……仮にも婚約者のいるヤツのベッドに」

 芳弘は小さく吹き出した。

「なんだよ」

「子どもがそんなことに気を回さないの。それに君のほうが使ってた期間が長いよ」

 芳弘は軽くいなすように言うと、俺の頭の隣に並んでいた枕に頭を乗せた。

 自分で認めたくはないのだが、数多くの男や女どもを惑わせてきた迷惑なツラを持つ俺に、このシチュエーションでそんなセリフをよこせるのは、全国津々浦々を探しても芳弘だけだろう。多分。

「それに、美奈子はこのベッド使わないから」

「えっ?」

「ここに来ると、彼女に空けてあげた部屋に布団敷いて寝てるよ」

「……なんで?」

「さぁ? 大きすぎると落ち着かないとか言ってた気がするけど、女性にはコダワリが幾つもあるから、いちいち気にしないようにしてるよ」

 芳弘は仰向いたまま、気に留める風でなく言った。

 そこにほんの僅か苛立ちが見えたよう感じるのは、気のせいだろうか。

 二人に関しても、時々不安になる。

 俺の目から見て、美奈子は後輩でいた当初から、芳弘を慕う一途な様子が見て取れた。が、芳弘にはそれを受け止める気持ちはないように見えていた。

 それが半年前、俺たちがちょうどGプロとの契約でバタついていた去年の十一月の終わり頃、彼らの職場で泊りがけの社員旅行があった翌日、夜遅くに帰って来くるなり結婚話を切り出してきたのだ。

 珍しく酔っていたところを美奈子が介抱していたことと、付き添われて宿泊予定の部屋に向かったらしいことは、やはり芳弘の行動が腑に落ちず、あちこちに探りを入れたらしい雅俊から聞いた。が、どんなきっかけや理由があろうとも、決めたのは芳弘だ。独立の話と並行していたこともあり、芳弘がそれでいいのならと二人を祝福したのだが、その後、美奈子は明らかに俺を意識しだした。

 特に住まいに関しては、二人の意見が見事に分かれ、間に挟まれて正直、困惑した。

 俺としては新婚家庭を邪魔する気はなかったし、美奈子もそれを望んでいたが、芳弘は「自分は子持ちなのだから、ここに来て三人で暮らすのが道理だ」と言って譲らなかったのだ。

 それは、俺が芳弘のもとに来ることになった経緯(いきさつ)を思えば無理もなく、その心はありがたかったが、ことが結婚となれば優先順序はおのずと決まる。

 ところが芳弘にはその理屈が通用しなかった。

 控え目な言葉ながらも、二人で新居を構えたいと希望した美奈子に対し、「結婚のために未成年の子どもを追い出す親がどこにいるんだ」と言い諭して相手にせず、客間にしていた和室を彼女に空けたあとは聞く耳を持たない。

 責任感の強い芳弘が、突然に決めた結婚のために、自ら買って出た保護者の役目を滞らせることがあってはならないと考える気持ちはわかる。けれども美奈子の希望も若い初婚の女性としては無理からぬもので、知った以上、無視できるわけもない。

 結局、最後はGプロが出した条件――必要ならメンバーの住まいを提供するとの話を捉え、『バンド活動に集中するために』の名目で、渋る芳弘を振り切る形で強引にこのマンションを出た。

 実際にデビュー前後は昼夜を問わずの忙しさだったし、美奈子を迎え、時が経てば慣れるだろう、とも踏んだのだが、俺が居を移したことに関して芳弘は未だに納得していない。そのあたりの食い違いが、二人に影響を及ぼしてはいないかとつい、気を回してしまうのだ。

 俺はそれ以上、考えるのをやめ、別の質問をした。

「芳弘、ひとつ聞いていいか?」

 彼はゆっくりとこちらに頭を動かした。

「……アヤセ・トベのこと?」

 もちろん、芳弘は俺が聞いてくると予想していたのだろう。

「いつから知っていたんだ?〈ガイエ〉のデザイナーが、あの綾瀬だってこと……」

「うん。最初からだよ」

「――なんで」

「君には黙ってたかって? それが綾瀬との約束だったからだよ」

「約束……?」

「君を採用すると決まった時にね」

 綾瀬は芳弘に、自分から名乗り出るまでは、それを俺には明かさないことを条件に入れたらしい。

「〈ガイエ〉のモデル契約は大きかったから。すぐに呑んだよ」

 芳弘は俺に目を合わせて微笑んだ。

「綾瀬は君の成長を望んでいたから。モデルの仕事選びにもたくさんのアドバイスをもらったんだよ。お陰でいい仕事が効率よく取れたんだ」

「そうだったのか……」

「君がモデルを辞めると言い出さなければ、君のほうから自然に気がつくまでは、名のり出るつもりはなかったんじゃないかな」

「ああ、そういうことか……」

 俺が〈ガイエ〉を降りる。それで綾瀬は顔を見せることにしたのだ。

 そう思った途端、綾瀬の、そしてあのとき綾瀬と一緒にいた男の顔がまた脳裏をちらつき始めた。

「………っ」

 横向きのまま背を丸め、身を硬くしたところで、覚えのある震え立ちが体を駆け巡りだす。

 わかってる。これはフラッシュバックというやつだ。俺にはどうしようもない。

 いよいよ震え立ちがヤバいと思ったそのとき、芳弘が何も言わず、丸まった背中を包み込むようにして体を寄せてきた。

「……あ」

「力を抜いて、深呼吸だよ」

 耳元で柔らかい声がささやく。背中から、さっきの手のひらの何倍ものぬくもりが体に浸していくのが感じられた。

 震えが徐々に収まっていく。

「そう、ゆっくり息を吸って、吐いて……」

 優しい手のひらが肩から腕をゆっくりとさする。俺はようやく体から力を抜くことができた。

 ――あの地獄のような場所から芳弘に救い出されたあと、何度こうしてあたためてもらっただろう。

 硬直する前に震え立ちを止められれば何事もなくて済む。だがそれは、今のところ自力では不可能だ。むろん、雅俊も芳弘も今夜の俺の様子を見て、こうなることを予想したから俺をここに留めたのだ。俺の状態がもっとひどければ、はじめから雅俊はここへは連れてこないだろう。その時は雅俊の荒療治――〈技〉の出番になる。

 脳裏に浮かぶ情景はいつしか、その荒療治を芳弘に初めて知られた時へと移っていった――。



 あれはまだ、地獄のような環境から救われて半年も経たない頃。

 芳弘のアパートで穏やかに暮らしながら、モデルを始めた俺は、とある夜の打ち上げパーティの席で、富永社長や芳弘の目をかいくぐった出席者の一人にレストルームでセクハラされそうになった。

 運が悪いことに、そいつはあの『男爵(バロン)』に容貌が似ていたため、俺はパニックに陥った。そういうものから遠ざかっていた正常な暮らしが、昔なら耐えられた辱しめに対して拒否反応を起こしたのだ。

 痙攣(けいれん)を起こして過呼吸になり、病院に連れていかれてさらにパニックがひどくなった。奴の店のペットにされていた時、最初に抵抗して散々な目に遭わされ、何度も病院送りにされたからだ。

 苦しい息の下で、俺は雅俊を呼んでくれるよう頼んだ。

 その頃、それらの過去をともにしてきた雅俊は、バンド立ち上げのために祐司と曲作りに励んでいて、その日も一緒ではなかった。

 戸惑う周囲をよそに、芳弘が雅俊に連絡した。やがて携帯越しに雅俊が指示を出しているのが聞こえた。

『病院はだめだ。一刻も早く家に連れて帰るんだ。おれもすぐ行くから』

 芳弘に連れられてアパートに着くと、雅俊がすでに待っていた。彼は俺を見るなり「しまった」という顔をした。

「ずいぶん進んでたんだな。おれのところに移動する時間は――ないか。仕方ない、部屋に運んでやってくれ」

 俺を寝室に上げさせた雅俊は、部屋の電気を最小にすると、「あとは遠慮してくれ」と言って芳弘を閉め出そうとした。

 ところが彼の荒療治について、前々から不信に思っていたらしい芳弘が頑として動こうとしない。

「君のところから帰ってくると、拓巳はいつも(ふさ)ぎ込む」

 雅俊と押し問答になった芳弘は、まるで意地になったように引かなかった。

「雅俊の〈技〉って一体、何なんだ」

「大丈夫だと言ってるだろう!」

 雅俊は、俺の心情を察し、庇おうとしてくれたのだ。が、芳弘にしてみれば、そのたびに塞ぎ込む俺を見続けて、我慢も限界だったのだろう。二人は譲れない者同士、徐々にエスカレートしていった。

「早く出てけよっ。これは拓巳のためなんだぞ!」

「だから、その理由を言ってくれ!」

「知る必要はない!」

「僕の知らないところで、この子が何かされて傷つくのはもういやだっ!」

 ――芳弘は、俺の身柄を男爵(バロン)に奪われたことに対して、ずっと自分を責め続けていたのだった。

 俺はそれ以上、知られないでいることを諦めた。

「……雅俊。芳弘の、気の済むように、してやってくれ……」

 ベッドの上にうずくまったまま声を絞り出すと、雅俊が顔を覗いてきた。

「いいのか?」

「おまえ、には、悪いな……」

「おれは、ギャラリーには慣れてるさ……」

 雅俊は華やかな顔に壮絶な笑みを浮かべると、芳弘のほうに体を向けた。

「タイムリミットだ。その頑固さをこの先ずっと後悔しろ。だが、もしこれでこいつを軽蔑しやがったら、おれは絶対あんたを許さないからな」

 突き放すような声音が室内に響いたあとで、朦朧(もうろう)としてきた俺に雅俊の荒療治が始まった。

 ――それは、雅俊が持つ多彩な〈夜の技〉のひとつ。

 つい数年前まで、俺たちが追いやられていた世界での手段。薬物を使われ、パニックを起こして病院にもかかれなかった俺のために、雅俊が(ほどこ)してきた〈治療法〉。

 痙攣と硬直でショックを起こしかける寸前だった俺を、雅俊が自らの体温で癒していく。彼から与えられる熱くて痺れるような感覚が、俺の中心を呼び覚ます。そこから生まれた熱い疼きが強張った全身に広がり、体を痛めつけていた硬直にとって代わる。それは瞬く間に俺を支配し、翻弄し、やがて駆け抜けていった――。

 気がついたとき、すでに雅俊の姿はなく、俺はパジャマを着た姿でベッドに横になっていた。こんな時に感じるはずの、汗をかいたあとのベタベタとした不快感もない。

 首を巡らせると、俺の背中に手を当て、うとうとしながら横たわる芳弘の姿があった。動いた振動で彼はすぐに目を覚まし、俺が起きたことに気がつくと上半身を起こした。そして、俺がおそるおそる体を持ち上げ、口を開こうとすると、それを遮るように両腕を差しのべて一言こうつぶやいた。

「おいで……」

 それが、まるで小さな子どもが傷ついて帰ってきたときの、親のような表情で言うものだから、俺は逆に動けなくなってしまった。芳弘のその優しさがあまりに予想外で嬉しく、切なくて、込み上げてくるものが邪魔をして体がいうことをきかないのだ。

 すると彼の手が伸ばされ、(うつむ)いたまま涙をこぼす俺を包み込んだ。

「大丈夫だよ。もう大丈夫だからね……」

 繰り返しささやきながら、背中をさすり続ける芳弘の声や手も、嗚咽(おえつ)をこらえるように震えていて、それがまたいっそう涙を誘った。

 やっと涙が()れ、言葉を出せるようになった頃には、だいぶ夜もふけていた。

「なんで……そんなに優しくできるんだ。俺を、けがらわしいと思わないのか……?」

 芳弘の腕の中で言葉を漏らすと、頭上から答えが返ってきた。

「僕は、優しくなんかない」

 声に(いきどお)りが(にじ)んでいる。

「今も、君をここまで追いやったすべてのものに対する怒りや、雅俊への嫉妬でドロドロだ」

「嫉妬?」

「そう、やきもち。僕ではあんなにひどい状態だった君を、こうもすばやく治してはあげられない。ただの役立たずだ」

「……でも、あんなこと……。俺は、あれで立ち直る自分の体が忌まわしい……」

 その言葉をどう捉えたのか、芳弘の指先が俺の髪をとかしながら頭をなではじめた。

「硬直を解く薬はね。副作用が強くて体にも良くない。下手に何度も使えば命に関わる」

 芳弘の手がゆっくりと頭を滑っていく。

「だけどこういうことは、これからもあると思う。そしてモデルの世界に君を連れてきたのは僕だ」

 あの地獄から俺を救い出した芳弘は、この先の身を守るためには何か力のある組織に属したほうが安全と考え、モデル業界を選んだ。芸能の世界にとって、セクハラは避けられない日常だ。大きい危険を避けるため、このリスクを背負ったのだ。

「君を被害の危険に(さら)している僕に、どうして非難することができるの? むしろ今日のようなことがあっても、薬を使われなくて済むんだ。僕は本当なら雅俊に感謝しなくてはならない立場なんだよ」

 驚いて顔を上げると、苦しげに眉根を寄せる芳弘がいた。

「なのに、僕にできないことをして君を救える雅俊に悔しい気持ちでいっぱいだ。だから、優しくなんてない。人間ができてない。……情けないよ」

 彼は俺の頭をそっと手のひらで押し、胸に包み直すと、肩を震わせたのだった……。

 ――芳弘。

 地方都市でごく普通に育った男。どこにでもありそうなその環境で、どうしてこんな奇跡のような魂が育まれたのだろう。

 あとで雅俊から聞いたところでは、すべてを終えた雅俊が、硬直から解かれて眠る俺を置いて立ち上がったとき、寝室のドアの近くに芳弘は立っていたという。彼は雅俊の姿を見ると、震える手で持っていたバスタオルを差し出したそうだ。汗を流した雅俊が寝室に戻ってくると、芳弘はベッドの上で、(たらい)に用意したお湯でタオルを絞っては汗に濡れた俺の体をふいていて、その誠実な態度に驚いたという。

 俺の容姿。俺にとっては何の価値もないこの皮膚一枚のために、目の色を変え、欲望を剥き出しにして奪おうとする、あの上流ぶったケダモノたち。あいつらがどんなエサをちらつかせたところで、俺の心は微塵(みじん)も動かなかった。なのに、芳弘はその魂でいつも俺の奥底を打つ。こうして何かあるたびにそれを再確認する。

 数多くの大人が、俺を豪華な宝石や、価値の高いペットとして欲しがる中、芳弘だけが、一人の保護すべき子どもとして接し、何があろうとその態度を崩さない。最初に出会った時からずっとそうだった。

 けれど、さすがに今回だけは無理だろう、それは仕方ない、と自分ですら思えるのに、なんという魂なのか。

 俺はいったい何に感謝し、何を返したら、芳弘に報いることができるんだろうか……!


「どうしたの……まだ辛い……?」

「―――」

 芳弘の声に、俺は深い物思いから覚めた。目を開けたまま動かずにいた俺を気に留めたようだ。半分閉じていた瞼が、徐々に開こうとしている。

 あの時以来、芳弘は、よほどひどくならない限り雅俊を呼ばずに俺を介抱してきた。最初は試行錯誤していたが、今ではほとんど雅俊の出番がない。目的はそこなので、結婚してもそれをやめる気はないだろう。

 俺は少しだけ体をずらし、芳弘の肩に頭をもたせかけると、「大丈夫だ」とだけ言って目を閉じた。

 芳弘には幸せになって欲しい。心から願っている。

 それなのになぜ、言いようのない不安が日を追うごとに募るんだろう……。




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