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クレステッド・アーガス  作者: 木柚 智弥
残されたもののために
21/24

勝負の行方

 午前十時――。

 執刀医を伴った渡辺医師が、手術の前準備を終えた若砂を迎えに来た。

 部屋に佇む成瀬、綾瀬、芳弘、そして俺の前に、渡辺医師から紹介された執刀医が挨拶した。

「本日、戸部若砂さんを担当する小林です。よろしくお願いします」

 四十代半ばほどの静かな、だが眼光の鋭そうな中肉中背の医師に俺は好感を持った。こういうときの勘は大事だ。

 すべてを託す気持ちを込め、俺は頭を下げた。

「どうか若砂を、よろしくお願いします……!」

 上体を戻すと、小林医師がこちらをじっと見つめていた。俺も目を逸らさずに見返した。この、おそらくは一流のプロと思われる医師なら俺の顔ごときに揺らがない、そんな確信があった。

「高橋さん。渡辺先生からあなたのことを少々、伺いました」

 案の定、目線を和らげた小林医師は微塵の動揺も窺わせずに言った。

「お若いにもかかわらず、数多くの試練を乗り越えてこられ、ゆえに若砂さんを理解し、この奇跡を起こしたと」

「―――」

「あなた方の奇跡を守るために、私も全力を尽くします」

 小林医師は俺に軽く頭を下げると、若砂に「よろしく」と声をかけ、

「では先生。お待ちしています」

 と渡部医師に会釈してから先に部屋を出ていった。その後ろ姿を見ながら渡部医師がつぶやいた。

「小林君があそこまで喋るのを初めて聞いたよ。よほど君に伝えたかったんだな」

「そうなんですか?」

「そう。寡黙で、表情読めなくて有名なんだ。彼がああ言ったからには、若砂君はこれ以上、望めないレベルの執刀を受けられるよ」

 その言葉に、俺や後ろにいる芳弘たちの顔が明るくなった。

「ありがたいことですわ」

 成瀬がハンカチで目を押さえている。俺は体を屈め、若砂の点滴のないほうの手を両手で包んだ。すでに少し前、麻酔医が来て点滴に薬を施していたので、若砂は半分眠りかけていた。

「では、行こうか」

 待機していた看護師に渡辺医師が声をかけ、ベッドが運び出される。俺は手を握り直して一緒に歩き出した。

 手術室の前で、渡辺医師がベッドを止めてくれた。俺は若砂の顔を両手で挟み、顔を近づけてささやいた。

「待ってる」

 若砂はぼんやりとしながらも返事を返した。

「必ず、帰る」

 その頭を抱き、そっと離したあと、後ろへ一歩下がった。

 ベッドが動き出し、手術室の自動ドアが左右に開いていく。目の前に、ライトに照らされた手術台とそこに並ぶ数々の機器、そして準備の整った小林医師の姿が映し出された。

 視線が小林医師に吸い寄せられると、帽子とマスクの隙間から覗く目が笑みを浮かべたように見えた。

 やがて自動ドアが動きを変え、二枚の扉が若砂のベッドを隠していく。漏れる光が完全に消えたとき、扉が『パシャンッ』と音をたてて閉まった。

 若砂の大勝負が今、始まった――。



 それから約一時間後、待機室に集う俺たちのもとに吉報がもたらされた。

「赤ちゃんは無事、産まれました。千四百グラムの男の子です!」

「状態は? 体に異常はありませんか?」

 成瀬の質問に看護師が答えた。

「詳しい検査はこれからですが、今のところ異常は見られません。小さいだけです」

 成瀬と綾瀬が顔を見合わせて喜んでいる。先天性の遺伝子異常であるISの(くびき)を誰よりも心配していた二人だ。喜びはひとしおだろう。

「それで、手術はどうなっていますか」

 思わず立ち上がって正面から聞くと、看護師は顔を赤らめながらもしっかり答えてくれた。

「今、次の摘出手術の準備に入ってます。何事もなければ、あと五時時間半から六時間くらいで終わるかと思います」

 俺は礼を言うと、後ろに来ていた芳弘を振り返った。彼は諭すような口調で告げた。

「拓巳、もういいだろう? 部屋へ戻って寝なさい」

「ああ。でもきっと自力じゃ眠れない。薬をくれないか? 五時間、眠りたいんだ」

 芳弘に薬をもらうと、綾瀬と成瀬に頭を下げ、俺は病室へと戻った。

 洗面台のコップで薬を飲み、簡易ベッドに倒れ込む。若砂のベッドが置かれていたあたりを見ているうちに落ちるような眠りが訪れた。

 やがて目を覚ましたあと、待機室に戻ると、芳弘が一人、奥の畳スペースに座っていた。彼は壁にもたれて足を伸ばし、目を半眼に閉じていて、辺りには他に誰もいなかった。時計は午後三時半、あれから四時間半が経過している。

 俺が近づくと、彼は気づいて顔を上げ、腕を曲げて手招きした。靴を脱ぎ、足を投げ出して隣に座る。肩に体を預けながら俺は状況を尋ねた。

「綾瀬と成瀬は?」

「成瀬さんが少し疲れてきてしまって。別室にベッドを借りて休んでるよ」

 成瀬はここのところ、体調がすぐれないようだった。

「よかったら食べなさい。体力をつけて若砂を待つんだろう?」

 芳弘は横にある小さなテーブルを指差した。そこには昼食用だろう、いなり寿司やパンが置いてあった。俺は頷いてパンを取り、お茶のペットボトルに手を伸ばした。すると芳弘が静かに切り出した。

「子どもの名前を若砂から預かっている」

「ああ……」

 それは薄々承知していた。

(――オレが考えた名前を付けていいのなら、伝えておく)

 昨日、若砂が告げてきたとき、俺は拒否した。

(それはおまえが帰ってきたら直接聞く)

(でも、万が一……)

(聞かない。おまえが帰ってこなければ子どもは無しになるぞ。心配だろう)

(ひどい)

(だから根性出して帰ってこい)

 そんなやり取りをしたのだった。

「自分は必ず帰るつもりだが、名前の申請期間には間に合わないことがあるかもしれないから、と言っていたよ」

 名前の申請期間は生まれてから二週間以内。それまでに役所に届けなければならない。

「もし、十日経っても自分の意識が戻らなかったら届けてくれるように、との伝言だった」

「……わかった」

 現実は容赦がない。あらゆることを想定した若砂を責めることはできなかった。

 やがて時計は午後五時を回った。予定ならそろそろ連絡が来てもいい頃だ。

「遅いな……」

 食事を取り、再び芳弘の肩にもたれながらつぶやいたそのとき、部屋の向こうから俺たちを呼ぶ声が聞こえた――。



 手術は成功した。

 手術室の前に駆けつけた俺たちに向かい、小林医師は誇らしげに告げた。

「予想より少し範囲が広く、時間がかかりましたが、見つかった癌のすべては取り除きました。若砂さんを誉めてあげてください」

 芳弘が「よかったね」と俺の肩を叩いた。ただし、と小林医師は続けた。

「まだ転移に関する検査ができていません。体力の回復を待って行うつもりです。それはご承知ください」

 そのことは渡辺医師からも説明を受けていたので、余計な質問は控えた。だが、ひとまずは山を乗り越えた喜びに満たされたのだった。

 若砂は二晩を集中治療室で過ごし、病室にはその次の日の午前中に戻って来た。

「拓巳……」

 大勝負を戦った若砂は面やつれし、表情は未だ薬の影響があるのかぼんやりしていたが、俺の顔を見るとうっすらと微笑んだ。

「オレ、……勝ったよ」

「ああ、よく頑張った。先生も誉めてたぞ」

 手を握ると、若砂も僅かに握り返してきた。

 俺は約束通り若砂の世話をして過ごした。

 世話をしたいと渡辺医師に申し出ると、彼は心情を察し、最初に俺に動じなかったベテラン看護師をつけて許可してくれた。彼女の指導のもとで若砂の世話をする俺を、当初、遠巻きにしていた他の看護師たちも、次第にアドバイスをくれるようになった。

「看護師さんたちがね。声をかけてくれるようになったよ」

 若砂は笑って言った。

「若い女性看護師さんは、『羨ましいです』だって。世話されるほうも勇気いるんだけどなぁ」

「こいつ……」

 だが実際、すべてを一人でやろうとしたのだが、慣れない俺の手では体をふくことひとつ取っても若砂には辛そうで、結局ベテランにやり直してもらうハメになった。

「ウソ。嬉しいよ。今は上手だし」

 悔しかった俺はムキになって覚え、顔を出した雅俊を捕まえて、衣服の脱着の練習台にしたりしていた。

 術後四日目に若砂は転移の検査を受け、そのあとで歩くリハビリに入った。昨今の術後のリハビリは早いほど効果があるとかで、辛そうにフロアを歩く患者たちの姿が痛々しかった。しかし、病院のリハビリトレーナーは、悪魔のごとく微笑みながら当たり前のように指導してくるので、若砂も覚悟を決めてよろよろと歩いていた。

 そのあとで俺たちは新生児室へと向かった。

「ほら、あれだ」

 指差した窓ガラスの向こうには大きな保育器があり、そこに一人の赤ん坊が眠っていた。

 一目でわかるくらい、その赤ん坊は他の新生児たちとは違っていた。

「小さい……」

 窓ガラスに貼り付いて覗く細い肩を、俺は後ろから支えた。

「本当ならまだ、お腹の中なんだもんな……」

 少し悲しそうな横顔に別の話題を振る。

「名前を教えてくれよ。他の子はもう付いてるぜ」

 ガラス越しの手前に並ぶ新生児たちは、ベッドに名前の札が付いていた。

和巳(かずみ)

 若砂がガラス越しに呼びかけた。

「おまえは和巳だよ」

「カズミ?」

 若砂は俺を振り向いた。

「そう。オレのもうひとつの名前。『和可砂』の『和』に『拓巳』の『巳』で和巳。わかりやすいだろ?」

 男でも、女でも、もし自分のように両方だったとしても……。

「どんな場合でもぴったりだ。意味も、『何にでも馴染む自分』」

「なんにでも馴染む自分……」

「そう。どこへ行っても、どんな人に会っても調和することができる自分。そんな気持ちを込めんたんだ」

 普通とは違う、俺たちのような存在にも。

「いい名前だ。俺とおまえの子に相応しい」

「だろ? 色々な価値観を受け入れてくれるような、広い心を持った子に育って欲しいんだ」

 そう言って、若砂は保育器に眠る和巳を長いこと見つめていた。

 それから五日後の午後――。

 再び俺と芳弘と、体調のすぐれない成瀬に変わり、綾瀬が渡辺医師に呼ばれた。



「……!」

 ベテラン看護師から廊下で呼び止められ、すでに芳弘と綾瀬が例の小会議室に呼ばれていると告げられたとき、持っていた若砂の着替えが俺の手から滑り落ちた。

 若砂を同席させない。それだけで、何を告げられるかがわかってしまう。若砂がリハビリの時間であることを見越しての、この呼び出しだということは明白だった。

「一緒に……行きましょうか?」

 拾い上げて差し出された着替えを受け取ると、彼女はそう気遣ってくれたが、俺は礼を言って断り、足早にそこを離れた。

 そして十数分後――。

「検査の結果、転移が見つかりました。……残念です」

 小会議室の席で、芳弘に支えられ、辛うじて背筋を伸ばす俺の耳を、渡辺医師の悔しそうな声が通過した。

 息を呑む綾瀬の気配を右隣に、芳弘の震えを左側の肩に感じながら、俺はひたすらその時間を耐えた。

 どんなに覚悟していても、どれほど身構えていても、この衝撃には打ち勝てそうにない。だが、俺はまだ聞かなければならなかった。

「時間は、あとどのぐらい残されてるんですか……?」

「早ければ三、四ヶ月、どんなに長くても一年は難しいと……」

 無情にも渡辺医師の声が答えた。若砂の転移はすでに細かく散らばりすぎていて、やがてすべてが増殖するのは時間の問題で、化学療法も追いつかない見込みだという。

「ですから……二つの選択になります」

 ひとつは延命治療。少しでも長く生きるため、あらゆる治療を試みる。

「様々な化学療法や抗がん剤を試みます。うまくすれば一年を越える延命が叶うでしょう。ただし、かなりの副作用を覚悟する必要があります」

 健常な生活はなかなか送れない――それが延命治療のリスクだった。

「もうひとつはホスピス……終末医療です」

 残された日々を可能な限り安らかに、豊かに過ごすための、主に痛みを取り除く治療。それがホスピスだ。

「どちらかを選んでいただく、それが今日お呼びした理由です」

 本人に告知するかと聞くことはなく、渡辺医師は頭を下げると部屋を出ていった。

「拓巳」

 しばらくすると綾瀬が呼びかけてきた。俺は隣を向き、少し目を見開いた。綾瀬は黒いスーツの背筋を伸ばし、大きな黒目勝ちの瞳で俺を見据えていた。

「若砂には私から話します。あなたは少し休みなさい。……そう、久しぶりに芳弘さんのところへ行くといいわ」

「え……?」

「もうずっと詰めたままで疲れたでしょう? あなたは十分、若砂に尽くしてくれた。でももう、ここから先は無理しなくていいのよ……」

 俺は、頭の片隅ではそれが綾瀬の優しさから出た言葉なのだとわかっていた。しかし面と向かっては、その言葉を聞き逃したり、ましてや肯定することなど断じてできなかった。

「……それは、どういう意味だ、綾瀬」

 自分でも驚くほど凍った声が出た。

「拓巳……」

「まさかとは思うが、俺には若砂と添い遂げることができないとか思ってるんじゃないだろうな?」

 前のめりになった上体を、芳弘の腕が後ろから少し押さえた。

「それが俺に対する侮辱だと、わかって言ってるのか?」

「………」

「答えろよっ、綾瀬!」

「拓巳、やめなさい」

 芳弘の腕が今度は明確に押さえにかかった。

「俺は綾瀬に聞いてるんだ!」

 振り向きざまにそれを牽制し、綾瀬へと顔を戻す。

「どうなんだ。言えよ!」

 綾瀬はしかし(ひる)まなかった。

「……そんな切羽詰(せっぱつ)まった態度で、若砂と冷静に向き合って話し合えるとは思えないわ」

「………」

「あなたがそんな姿で話せば若砂も乱れるわ。でも、そうならずにはいられないでしょう? だからここからは私が代わろうと言っているのよ」

「いらない」

「拓巳!」

 綾瀬が聞き分けのない子どもに対するような鋭い声を出した。俺は綾瀬に言い返した。

「あんたの言うとおりだ。俺は揺れるだろう。若砂も取り乱すかもしれない……けど、それのどこがいけないんだ?」

「拓巳……!」

「二人で泣いて乱れて……心を同じところに置いて一緒に苦しんで、そして二人で手を取り合う。それが伴侶じゃないのか?」

「拓巳、あなた……」

 綾瀬は俺の顔を見て絶句した。俺の頬を雫がひとつ、落ちていった。

「少なくとも、俺にとってはそういうものだ。乱れた姿をさらけ出せない相手を、俺は伴侶とは呼ばない」

「………」

「だからどんなによろよろしていても、若砂には俺が伝えるんだ」

 体から徐々に力が抜け、俺は後ろの芳弘に寄りかかった。彼の腕が俺の肩を寄せ、ほつれた髪ごと頭を抱いた。

「たとえ、世間から認められてなくても、書類が出せなくても、俺が若砂の伴侶であることは譲らない」

 だからせめて、身内には認めていてほしい。

「頼むから、綾瀬。あんたと成瀬だけは、俺たちを見守って、見届けてくれよ……」

 綾瀬は両手で顔を覆い、一言だけつぶやいた。

「わかったわ……」



 二人には帰ってもらい、若砂のもとへは俺一人で戻った。

 病室のドアを開けると、リハビリを終えた若砂がベッドに腰かけるところだった。

「あ、拓巳。見てくれよ。やっと最後の点滴が外れたよ」

 見ると、長いこと色々な管につながれていた若砂の体からすべてが取り除かれていた。

「やっぱりスッキリする」

 近づいた俺に、若砂は嬉しそうに両手を振って見せた。

 もう体も自由に動かせる。そう、自由に――。

「拓巳、どう……」

 こちらを見上げた若砂の声が途切れた。俺は無言のまま若砂の顔を見続けた。幾筋もの流れが顔をしたたり、顎から足元へと落ちていく。

「……あ」

 若砂の瞳が見開かれ、やがて少し歪むと、その目からも涙が溢れだした。やがて両手が顔を覆った。

「若――」

 もう、言葉にならない。

 俺の腕が若砂を抱きしめ、その頭をかき抱き――。

「ぁあっ!」

 とうとう悲鳴のような音が自分の喉から漏れた。

 俺が言葉に出す前に、若砂はすべてを理解した。そして。

「拓巳っ、いやだ!」

「……っ!」

「そんなっ、いやだぁ――っっ!」

 それは、俺が初めて聞く若砂の苦悶の叫びだった。

 あの仙台の出血からおよそ一ヶ月半。ずっと耐え続けてきた若砂の魂が今、撃ち落とされたのだ。


 ――俺たちは勝負に勝ち、そして賭けには負けてしまった。


 その夜は二人で寄り添って寝た。とても離れてなどいられなかった。

 夕方、様子を見に来てくれたあのベテラン看護師に、夜は二人にしてくれるよう頼むと、彼女は何も言わずに頷いてくれた。

 まだ手術痕も痛々しいその体を気遣いながら、痩せて細くなった肩を抱き、顔を寄せ合い、体温を感じて過ごした。時々お互いの目から涙が溢れると、どちらともなく唇を寄せ、探りあてて重ねた。

 やがて白々と夜が明けたとき、若砂がぽつりと聞いてきた。

「それで、オレはあとどのくらいなんだ……?」

「三、四ヶ月から、もって一年……」

 言葉に出すと体が震えてくる。だが、ここまできて誤魔化しても何の意味もない。

「延命か、ホスピスか、選ぶよう言われた……」

 俺は、渡辺医師から告げられた内容を、時々つかえながらすべて話した。若砂は俺の胸に頭を落としたままじっと耳を傾け、最後に「わかった」とだけ答えた。俺はその頭をなで続け、柔らかい髪を手に感じた。そうして夜が明け切るまでの間を、俺たちは静かに過ごした。


 朝食を終えたあと、若砂は自分から渡辺医師を訪ねたいと看護師に申し出た。彼から承諾を得たと伝えられると、今度は俺にこう聞いてきた。

「オレのスーツ、あるかな?」

 俺は芳弘に連絡し、出勤のついでに届けてもらった。

 シャワーを使い、身なりを整えた若砂は、痩せたせいかすらりと精悍な姿になっていた。

「賭に負けたときは、引き際が肝心だ」

 若砂は強い光を宿した眼差しで告げた。

「潔く、美しく、有終の美を飾る。オレのおじいさんの教えだ」

 そして立ち尽くす俺の手を取ると、両手でギュッと握り締めた。

「だからごめんよ。悪あがきはしたくないんだ」

 その言葉が若砂の選択を教えていた。俺は手を握り返し、目を逸らさずに頷くことで返事に代えた。俺を見た若砂は、その顔に大人びた笑みをたたえてこう言った。

「さあ、幕引きに行こうか」



「ホスピスを選びます」

 渡辺医師に向かい、若砂はしっかりとした声で自らが出した答えを告げた。

「そうですか……」

 彼は若砂の姿を眩しげに見ながらつぶやいた。

「先生」

 若砂が呼びかけた。

「先生は以前、わたしが母と性別選択の手術で揉めたとき、言ってくれましたよね。『長く生きることだけが、幸せじゃない。どれだけ自分らしい生を(まっと)うできるかも大事なことだ』って」

「ええ。そうです」

「わたしはあのとき、まだ迷いがありました。ありのままの自分でいることは孤独を意味していたから」

 若砂の顔に苦い笑みが浮かんだ。

「母の言う『伴侶を得ることで味わう喜び』という言葉が無視できなかったんです。わたし自身は男であることを捨てたくないと望みながらも、母を説き伏せるだけのものがありませんでした。いつも心が中途半端で苦しかったから」

 でも、と若砂は続けた。

「この人と出会い――」

 若砂が隣に座る俺を見た。

「ありのままの自分でいることの喜びを知り、受け入れられる幸せを味わいました。あのまま母のいうように手術をしてしまっていたら、そうはならなかった」

 若砂は渡辺医師に目を戻した。

「この人がある事件に巻き込まれたとき、わたしははっきりと悟りました。紛れもなく自分は〈男〉でもあるのだと。どんなに体が女性に傾いても、それを捨てることはできないのだと。だから完全な女性体にされていたら、わたしはおそらく不幸になったでしょう」

 若砂の言葉に、渡辺医師がゆっくりと頷いた。

「子どもを宿したときも。この人は一度もわたしへの態度を変えたりしませんでした。妻とも妊婦とも口にしなかった。だからわたしは心を乱さずにいられました。この人以外にそれはあり得なかった……」

 目尻に溜まる涙が部屋の明かりを反射した。頭を一振りしてそれを押さえると、若砂は最後まで続けた。

「また今になってみて、女性体を具えたことを受け止めることもできました。この人を独りにせずに済む、それは女性体を持っていたお陰だから」

 和巳を得た、それもまたわたしの人生の証、と若砂は誇らしげな表情を浮かべた。

「先生。わたしは今、幸せです。他の何十年の人生にも引けを取らない自信があります。できれば、あと少しだけ猶予をいただけたら嬉しいですが――」

 そこで渡辺医師の顔が少しだけ歪んだ。

「先生の言葉は正しかった。わたしは自分の選択に悔いはありません。ありがとうございました」

 若砂は背筋を伸ばすと両手を差し出した。その手を渡部医師が握ると、深々と頭を下げた。

「礼を言わなきゃならないのは私のほうだよ」

 顔を上げた若砂と、その隣の俺とを交互に見ながら渡部医師は言った。

「若砂君、そして拓巳君。二人のなしたことは、性別の狭間で苦しむ多くのISの人に、またひとつ選択肢が増えたことを教えてくれた。ありのままを受け入れることの大切さを、私はこの先も言い続ける勇気が持てた。感謝するよ」

 その言葉に若砂の顔が輝いた。

「君のホスピスの件は、私が責任を持って手配させてもらう。君らしい今後を過ごせるように手を尽くすから、安心して」

 俺と、若砂と、渡辺医師の視線が交錯した。

「悔いのないように過ごしていきましょう」

 彼の小さな瞳が蛍光灯を反射して光っていた。俺たちは立ち上がり、二人でもう一度渡辺医師に頭を下げ、そして彼の診察室を後にした。


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