選択
気持ちの整理がつかないまま、時間だけが過ぎていく。
「リハーサルいきまーす」
スタッフのかけ声が脳裏を通過していく。
「拓巳、しっかりするんだ!」
芳弘が両手で顔を挟んで声を吹き込むときだけ、俺は我に返って返事をする。
「あ、……ああ、ごめん。頑張るから」
足元がふわふわして床を踏む実感がない。
しっかりしなくては。ちゃんと終わらせないと、若砂のもとへ帰れない――。
「拓巳っ!」
雅俊の鋭い叫びで我に返ったとき、本番がもう始まっていた。割れんばかりの喚声の中、俺はステージの真ん中に立っていた。そんなことは初めてで、頭が真っ白になった。すでに前奏が流れている。そのフレーズが耳に入った瞬間、心臓が飛び跳ねた。
――出だしが間に合わないっ!
そのとき。
キュイィィーンッ!
もの凄いノイズをたて、祐司のギターが宙を舞った。一回転して目の前に落ちてきたそれを反射的にキャッチすると、場内の観客がどよめいた。
「ユージ! おまえのパフォーマンスはまだ早い。まずはタクミの出番だぜっ」
雅俊が伴奏をつないだままアドリブを入れ、改めて前奏から入ってきた。全身から冷や汗を吹き出しながら、俺は祐司にギターを投げ返すと、なんとか立て直して最初の六曲をこなした――。
「拓巳! 腹に力を入れろ!」
身構えた瞬間、雅俊のストレートが脇腹に入り、衝撃に息を詰まらせながら俺は床に倒れ込んだ。
「雅俊!」
「雅俊君!」
止めようとする芳弘やマネージャーを振り切った雅俊が、鬼のような形相で俺のジャケットの襟をつかんで引きずり上げる。もう一発、今度は顔に平手が入った。一瞬、頬に焼けたような痛みが走り、床に手をついて辛うじて上体を支えた。
今、ステージでは祐司のギターパフォーマンスが、バックミュージシャンたちと共に繰り広げられている。駆け巡るいくつものスポットライトが、このステージ脇の奥にもちらちらと光を投げかけていた。
「貴様の、その弱い根性を叩き直してやる!」
さらにつかみかかろうとするのを周囲のスタッフが止めた。
「雅俊さん、だめです!」
「止めるんじゃねぇ!」
スタッフの腕を振り払った雅俊は、俺の襟元を再びつかむと押し殺した声で叫んだ。
「さっきのあのステージはなんだっ! てめぇは若砂に恥ずかしくねぇのかっ」
振り上げた片腕は、しかし今度は下りて来なかった。
「そこまでだ、雅俊。顔はやめてくれ」
芳弘が雅俊の腕を後ろから捕らえていた。
「言いたいことがあるのなら存分に。でも叩くのはもういいだろう?」
「……わかったよっ」
雅俊は腕を取り戻すと俺に向き直った。
「若砂は今、一体誰のために一人で耐えているんだ? なんのためにおまえを送り出したんだよ!」
のろのろと目線を上げると、激しい憤りを滲ませた眼差しが俺を射た。
「それは俺たちが、まだ戦ってる最中だからだろう!」
二度と地獄に落とされないように、自分たちのテリトリーを築き上げる――その戦いは未だ続いている。
「ひとつでも落としたらおれたちは負けるんだ。だから若砂はおまえを送り出したんだろうがっ。いい加減、目を冷ましやがれ!」
雅俊は俺の頭を両手でつかむとステージの方向に向けた。
「いいか。次にステージに立ったら正面を見ろ。カメラがあるはずだ。そこに映るおまえを若砂があとで見るぞ」
俺は弾かれたように幕を見た。その向こうにあるはずの撮影用カメラが脳裏に浮かぶ。
「今日の映像は残る。若砂はそれを必ず見るんだ。だから胸を張れ。負けるんじゃない! おれたちが勝った姿を見せてやれっ!」
雅俊は俺の顔を戻すと、鼻が触れんばかりに顔を近づけて言った。
「できるな?」
俺は、今度ははっきりと頷いた。
若砂が見る――必ず。なら、無様な姿は見せられない。
「悪かった。もう大丈夫だ」
俺は立ち上がると、後ろで見守っていた芳弘に言った。
「芳弘、ステージに立てるようにしてくれよ。……これじゃマズイだろ?」
ボロボロにされた自分を指差すと、芳弘の顔がほころんだ。周囲からも笑いが漏れた。張り詰めていた空気がようやくいつもの流れを取り戻していった。
その後、俺は前半の分を取り返す勢いで歌に集中した。
雅俊の音楽を、その詞に込められた想いを、会場の、そして正面に据えられたカメラの向こう側に向け、今持てる自分のすべてを振り絞り、声に乗せて届けた。
煌めくたくさんのライト。
滑るようにギターをあやつる祐司の指先。まるで踊るような雅俊のキーボードプレイ。
最初につまずいたという思いがその後の集中力に昇華されたのか、雅俊の、祐司の奏でる音の細部までが頭に響く。そのすべてを受け入れ、俺の喉を介し、外に向けて放出した。
やがてアンコールが終わり、拍手と喚声に包まれたステージのライトが消えた。すべての行程が終わったのだ。
汗だくになり、その場に立ち尽くしていると、誰かが抱えるようにして舞台袖へと連れていった。明かりのついた奥まで来て、それが祐司であることがわかった。
「立派だった」
祐司が俺を抱きしめた。
「立派だったぞ」
「拓巳!」
雅俊が飛びついてきた。見ると、雅俊の黒目勝ちの瞳からは涙がこぼれていた。
「おまえの想いを観客が受け取ったぞ。見たか? みんなが涙を流してたのを」
まだ半分ほど入り込んだままの状態だった俺は、雅俊と祐司の腕の中で徐々に目を覚ました。
「俺、ちゃんとやれてたか……?」
おそるおそる聞くと、目尻をぬぐった雅俊が大きく頷いた。
「おれたちは仙台を取った。おまえは勝ったんだ!」
聞いた途端、体から力が抜け、その場にへたりこんだ。
「拓巳!」
祐司と雅俊の腕が咄嗟に肩や胴をつかみ、もがくようにしてそれへと縋りつく。
へたっている場合ではない。予定通りなら、もう午後九時を回っているはずだ。
「ごめん、気が遠くなりそうなんだ。悪いが連れて行ってくれ。若砂が待っている」
それだけなんとか口にのぼらせると、辺りが真っ暗になった……。
病院に向かう車の中で息を吹き返したあと、俺はどうにか若砂の病室にたどり着いた。
「よく頑張ったね」
意識のあった若砂は、やつれた顔に微笑みを浮かべて労ってくれた。
胎児の容態は未だ予断を許さず、俺はうとうとしながら若砂のそばで過ごした。途中、芳弘が俺の着替えを手に交代を促し、朝方には祐司や雅俊も付き添いに加わった。そうやって俺たちは若砂を見守りながら、夜が明けていくまでの時間を過ごした。
やがて担当医の診察の時間を迎え、病室の外の廊下で俺たちはその時を待った。
「最初の処置が的確で、動かさないでいてくれたのが功を奏しました。この出血で母子共に無事だったのは奇跡です」
診察を終え、目の前に現れた医師は、若砂を最初に発見したスタッフたちの働きを誉めた。若砂は乗り切ったのだ。
その日の午後、綾瀬が成瀬を伴って駆けつけてきた。俺は若砂を託し、一旦、横浜に戻って渡辺医師に報告した。彼の指示を受け、芳弘の手を借りながら転院手続きを進め、すべての準備を終えてから再び仙台へ飛んだ。若砂を伴って横浜に帰りついたときには、仙台に入ってから二週間が過ぎていた。
渡辺医師からの呼び出しを受けたのは、若砂が転院してからさらに三日後のことだった。
芳弘と、それから成瀬にも同席をと告げられ、胸の奥に暗雲が立ち込めた――。
「子宮の裏側に癌が見つかりました」
以前にも案内された小会議室のような部屋の席で、沈痛な面持ちの渡辺医師から告げられたとき、俺は来るべき時が来たことを知った。一瞬、揺れそうになった上半身に力を込め、かろうじて姿勢を保たせる。成瀬の前で無様な姿は晒したくない。
「若砂はどうなるのですか」
成瀬の質問に渡辺医師は二つの意見を示した。
「ひとつは、見つかった癌を直ちに治療することです。外科手術を受け、放射線治療や投薬を開始すれば治癒する可能性は十分にあります。詳しくは取ってみないとわかりませんが、転移がなければ可能性は高いでしょう」
俺はたまらず質問した。
「外科手術をしたら、子どもはどうなるんですか?」
渡辺医師は俺をじっと見返した。
「この癌は深くてたちが悪く、しかも卵巣に近い場所にあるんだ。残念だけど、子宮ごと全部取るしかないでしょう」
「全部……!」
「胎児はやや小さめで、しかも七ヶ月に入ったばかり。生存率は……高いとは言えません」
つまり、命はないかもしれないのだ。
「そんな……」
隣の芳弘がつぶやき、渡辺医師は続けた。
「もうひとつは子どもを助けることを優先します。あと四週間で八ヶ月に入る。帝王切開すれば助かる可能性が高くなります。運が良ければ今手術するのとそう変わらない条件で癌の治療に入れます」
成瀬は気丈にも問いかけた。
「運が悪ければ……?」
「そのときは、癌が進行していることになります。治療が……大がかりになるでしょう」
渡辺医師は丸い体をしょんぼりと縮めた。
「すみません、はっきりと伝えられなくて……私も残念です」
「それで、本人には……?」
成瀬が聞くと、渡辺医師が顔を上げた。
「それをご相談したくて今日は皆さんをお呼びしました」
俺は我知らず震えだした。今までの俺なら相談されるまでもない、答えは決まっている。自己決定権は俺たちがなにより大事にしてきた砦、俺と若砂をつなぐ絆の中心なのだ。でも――!
(子どもを諦め、治療に専念する)
(子どもを守り、自分の治療を後回しにする)
こんな惨い運命を本人に選ばせる、これが地獄でなくてなんだろう。こんな決定を本人に委ねるのが、本当にいいことなのだろうか……!
その疑問は俺の根幹である自己決定権を揺るがした。生まれ落ちた問いが、大きな杭となって胸に突き刺さる。
「……っ!」
息が詰まりそうになったとき、俺の横で成瀬が静かな声を発した。
「若砂に伝えるか伝えないかを三人で話し合って決めなさい――そう先生はおっしゃるのですね?」
「そうです」
「今日、この部屋を出る時は、三人の意見が一致した時、ということですわね?」
「……そうです」
成瀬はうっすらと微笑みを浮かべた。
「先生。先生がなんのためにわたくしを今日、ここへ同席させたのかがわかりましたわ。この――」
そして俺のほうを向いた。
「若い方に悔いのない選択をさせるために、ですのね……よろしいでしょう。お役目を果たさせていただきますわ。どうぞわたくしどもを三人にしてくださいな」
成瀬が告げると、渡辺医師はちょっと寂しそうな顔をして一礼し、部屋を去っていった。
成瀬はゆっくりと椅子から離れて俺の前に立った。その眼差しはいつになく熱を孕んでいた。
「迷うことはありませんわ」
スッと細い指が動き、俺の顔を仰向かせた。
「あなたがその望みを口に出せないのなら、わたくしが言ってさしあげます。今すぐにでも麻酔をかけ、手術してくれと」
俺は極限まで目を見開いた。
「当然でしょう? 伴侶ですもの。一日でも長く一緒にいたいと願って何がいけませんの?」
成瀬の眼差しが迫る。
「この先、ちゃんと生まれるかどうかも定かでない子どものために、若砂の命を危険に晒すなど愚の骨頂。大人の選択ではありませんわ」
「成瀬……っ!」
「遠慮は要りません。すぐにでも、渡辺先生にわたくしが伝えて差しあげます」
「待ってください。それではあんまりだ」
俺の肩を抱えたまま芳弘が声を上げた。
「若砂の意見を聞かずに、何を決められるというのですか」
「では、芳弘さんは」
成瀬は熱に潤んだ眼差しを芳弘に向けた。
「決めてしまったがゆえに、この先、苦しむだろう若砂を憐れには思いませんの?」
「それは……!」
「自分で選べますの? 片方は子どもの命を失いますし、もう片方は運がなければ自分の命を落とします。それは」
俺の顎に触れる成瀬の指先が震えた。
「自分の不運だけではない。子どもがもし無事でなければ、家族の縁が薄く孤独だったこの方を、一人置いていくことになりますのよ? その選択の苦しみを若砂に背負えとおっしゃいますの?」
さすがの芳弘も言葉に詰まった。こうして口に出すと、なんと恐ろしい選択であることか……!
「苦しいのなら、母親であるわたくしが決めて差しあげます。ええ、いくらでも!」
成瀬は再び俺を見下ろすと、唇に笑みさえ浮かべて言い放った。
「拓巳さん。わたくしはあなたの意志を踏みにじってでも、今すぐ手術するよう、渡辺先生に言えますわよ……!」
俺は正面から成瀬を見……そして、気がついてしまった。
「成瀬。あんたはわかっているんだな……俺の出す答えがひとつしかないことを」
それがたとえどれほど辛く、恐ろしくても。
「俺が、どんなにそれを避けたくても、若砂に聞くしかないと」
「いいえ」
「若砂に聞いてしまったら、どう答えが返ってくるかも」
そう。渡辺医師の話を聞いた瞬間、俺がわかってしまったように。
「いいえっ」
それでも成瀬は首を横に振った。
「そんなことはありません。今ここで、わたくしたちが決めてしまえばいいのですわ……!」
「そして残りの一生、ずっと若砂に俺たちを恨ませるのか? それは、できないよな……」
俺の顔に触れる成瀬の指が滑り落ち、やがてそれは彼女の顔を覆った。言ってしまった俺は、芳弘の肩に体を預けると、成瀬の頭越しに天井を見た。蛍光灯の光が目に染みる。俺の、そして成瀬の目からこぼれる涙がこの光を反射していることだろう。芳弘の手も震えている。三人とも、もうわかっていた。どんなにそうしたくても、成瀬の意見は無理なのだということを……。
「子どもを優先します。治療はそれからにしてください」
俺たち三人の見守る中、若砂は予想通りはっきりと答えた。
「まだ三、四日猶予があります。よく考えてからもう一度返事をください」
渡辺医師は諭すように告げてから病室を去っていった。
「今日はありがとう、母さん。疲れたでしょう」
若砂は成瀬を労うと、芳弘に向かい、母を送って欲しいと頼んだ。
「わかった。……行きましょう、成瀬さん」
若砂の気持ちを汲み、芳弘は成瀬を促して出ていった。
二人だけになると、どちらともなく手を差しのべあい、俺たちは抱きあった。
「若砂……!」
「拓巳……拓巳っ!」
俺の背にしがみつきながら、胸に顔をうずめて泣く若砂。その頭に顔を伏せ、背中をかき抱く俺。今日ばかりは流れる涙を止めようもない……!
そうやって、どのくらいの時が経ったのか。
狭いベッドの上、枕を背もたれ代わりにして、俺は若砂を抱いて座りながら、首回りで踊る髪を繰り返しなでていた。若砂はされるがままになりながら、やがてポツリとこぼした。
「まだ諦めるのは早いよね」
「ああ、そうだな」
「子どもを無事、世に送り出して、治療が間に合って……元気になって、三人で暮らすことだってありだよね」
「そうだな……」
そんな風になったらどんなにいいだろうか。だが渡辺医師の様子からは、その可能性が僅かであることが窺えた。
「オレ、勝負に出る。両方無事なほうに賭ける」
若砂は目をぬぐうとこちらを振り仰いだ。
「だから泣くのは今日だけする。賭けるときは自分の勝ちだけをイメージして、強気でいかないとダメだから。オレ、賭けは結構、強いよ」
黙ったままでいると、若砂の手が頬に添えられた。
「拓巳も……だからオレを信じてこれから先、行動して欲しいんだ」
俺は目を閉じて頬に触れた手を取ると、そこに唇を落とし、ひんやりとした手の甲を感じた。
「おまえの、望むように――」
そして今度は深くあたためるように唇を重ねた。若砂の強運が、最後に実を結ぶように祈りながら――。
だからその日、六月十日。コンサートツアーの最後を飾る横浜では、仙台のように揺らぐことはなかった。
病院側から特別に許可を取りつけ、若砂の病室で寝泊まりしていた俺は、芳弘に頼んでそこで支度してもらい、若砂に姿を見せた。
「ああ、綺麗だ……!」
若砂が顔をほころばせた。それは、綾瀬に頼んで今日のために用意してもらった、〈アルガス〉の夏用の白いロングジャケット――若砂の持つ、白い燕尾服に似たスーツの対になるデザインのものだった。あのフォーマル姿の若砂を見た富永社長のパーティーから、ちょうど一年が経つのだった。
芳弘と、衣装を届けにきた綾瀬に見守られる中、俺はベッドの上に座る若砂を抱き寄せた。若砂の手が背中を軽く叩く。
「まずは拓巳の勝負だ。横浜を取ってくるんだ」
「ああ」
「ここで、これを見ながら成功を祈ってる」
若砂のベッドの脇には、祐司の用意したノートパソコンが置かれていた。ネット回線を利用してカメラの映像を送るのだという。
「ああ、頼む」
想いを込めて抱きしめ、唇をひとつ額に落とすと、俺は芳弘に伴われて病室を後にした。
「よし、いい顔だ」
楽屋に入った俺を、雅俊は力強い眼差しで出迎えた。その隣では祐司が頷いている。
二人には日を改め、Gプロの事務所で病状を説明した。
それを話したとき、雅俊は一瞬にして青ざめ、祐司は表情を強張らせた。そんな二人に俺は若砂の希望を伝えた。
「だから若砂と会うときは、無事であることを前提にして話してやってくれ」
「拓巳……!」
「そんな顔しないでくれよ雅俊。若砂の言うとおりになることだってあり得るんだ。たとえ確率が低くても」
そう口にしたときはさすがに語尾が震えたが、俺自身の心は不思議と凪いでいた。
「おまえは、静かだな」
祐司が声をかけてきた。
「コンサート、やる覚悟があるんだな?」
「ああ、やる」
若砂から学んだ勝利への執念を、今、ここで表すことで少しでも励みにしたかった。そう伝えると、二人はそれぞれに頷いた。
「わかった。――望むところだぜ」
「全力を尽くそう」
その日から二週間、出来る限りの努力をし、入念に準備して今日の日を迎えたのだった。
「時間です!」
楽屋で待機していた俺たちにスタッフの声がかる。俺は椅子から立ち上がり、後ろの芳弘を振り返った。
「行ってくる」
芳弘も立ち、俺の顔に落ちかかる前髪を直すと、そのまま抱擁してきた。
「行っておいで。悔いのないようにね」
「ああ」
ステージ脇に行くと、バックミュージシャンによる演奏がすでに始まっていた。大勢の観客の声援が、場内に反響しているのが聞こえてくる。
「今日がツアー最後のシメだ。伝説になるようなステージを見せてやろうぜ」
雅俊の言葉に俺が、祐司が頷く。お互いの片手を打ち合うと、俺たちは満員の観客が待つステージへと向かった。
――その日のコンサートは、あの仙台の後半のステージとともに長く語り継がれ、やがてビデオソフトとして売りに出されると、ソールドアウトが続出した――。
帰りついた俺を、若砂が笑顔で迎えてくれた。
「すばらしいコンサートだったよ、拓巳。まずは一勝だね」
そして左手の点滴を指し示した。
「次はオレの番だ」
帝王切開の予定日まであと十日を切り、手術の準備が始まっていた。
それから五日後、若砂は再び出血しだした。仙台のときのような激しいものではなかったが、大きくなる子宮と、その裏側に食い込んだ癌との間に亀裂が生じ、そこから血が流れているのだという。日を追うごとに亀裂は面積を広げ、出血量が増していく。しかも……
「胎児が思ったより小さい……若砂君の子宮は普通の女性より小ぶりなので影響が出たんだ」
渡辺医師は顔を曇らせ、予定まであと三日というところで、絶え間ない出血と、子宮の傷が引きつれる疼痛に苛まれ続けてきた若砂がとうとう意識を失った。
「若砂!」
いくら輸血をしていても限界はある。俺はたまらず渡辺医師を呼んだ。
「先生……! もう、若砂は……」
「あと、せめて二日、なんとか……!」
「二日! そんなにはもう……」
もたないんじゃないのか、そう口に出そうとしたとき。
「だめだ、拓巳……」
意識を取り戻した若砂が訴えた。
「若砂!」
「わたしは頑張る……絶対死なないから、子どもを諦めないでくれ」
「でもっ!」
ベッドに横たわった若砂は俺に顔を向けると、壮絶としか言いようのない笑みを浮かべた。
「わたしは今、勝負の最中なんだ」
「………っ」
「いくら、拓巳でも……勝負の邪魔をするのは、許さないよ」
若砂は渡辺医師のほうを向いた。
「先生。二日あれば、子どもは大丈夫、なんですね?」
渡辺医師は気を呑まれながらも頷いた。
「あ、ああ。あと二日あれば心強い。……頑張れるかい?」
「受けて、立ちましょう」
それからの二日間、若砂は戦った。
帝王切開のあとで、癌の手術も受けなければならない若砂に、体力を補うためのさまざまな点滴が打たれていく。胎児のために、最小限の局部麻酔だけで痛みと向き合ながら、貧血で震える手を使い、なるべく食事を摂った。口から胃を通して栄養を取ることが一番体力をつける、そう聞いていたから、何度も戻しそうになる胃を押さえながら、少しずつでも食べ続けた。この食事量が自分の命運をわける――そう、理解していた。
俺もそば近く付き添い、若砂を手伝った。
「意識のないときはこの機械の音と数字で見極めてください。危険かそうでないかがわかります」
看護師に機械の見方を教えてもらい、昼夜をともにした。
「拓巳、少しは休まないと」
芳弘や綾瀬、若砂ですら気遣ってくれたが、俺はきかなかった。
「俺たちの子なんだから、一緒に戦いたいんだ」
「そうか、お父さんになるんだもんな」
若砂はそれ以上、何も言わなかった。
それは気の遠くなるような長い時間に思え、或いはあっという間にも思えた。
やがて二日目の朝の光が暗い病室のカーテンを照らしたとき、俺と若砂は手を握りあい、未だ無事であることを確認した。
「よし」
若砂が俺を見た。
「今日が最後の大勝負だ。拓巳」
俺は枕元に顔を寄せた。
「オレは必ず勝つ。絶対帰ってくる。だから休んで待っていてくれな」
無言でいると、若砂は困ったように笑った。
「手術後のオレは悲惨だよ。しばらく身動きはできないんだ。痛いし、トイレにも行かれない。拓巳も去年、経験したろ?」
俺は背中の怪我で入院していたときのことを思い出した。
「ああ……確かに」
「オレはこの体だから、拓巳以外の人にはあんまり世話されたくないなぁ」
ナースはたくさん人が入れ替わるからさ、と若砂は口を少しだけ尖らせた。
「だから拓巳には、よーく休んでおいてもらって、そっちで活躍して欲しいんだ。ダメか?」
「なんだかおねだりが上手になってきたな……」
「まあね」
「わかったよ。おまえが行ったらすぐ休む。帰ってきたら、三日でも四日でも付きっきりになって、ナースの手が要らないようにしてやるから……」
語尾がつい、揺れてしまった。
「必ず、帰ってきてくれよ……」
今日は普段通りに。そう心に決めていたのに、なかなか現実にはうまくいかない。枕元に突っ伏した俺を若砂の腕が抱いた。
「発見だ。拓巳は意外と泣き上戸だったんだな」
そういう若砂の声も少し湿っていて、俺たちは泣き笑いの状態で、白々と明けていくその日の朝を迎えた。