虚構に咲く花
「そりゃ珍しい子だねぇ」
忙しく頭上で手を動かしながら、芳弘は興味深そうに言った。
「じゃあその子は、とうとう君の顔には何の反応もなしだったんだ」
「なにしろ『ねーさん』だったからな」
思い出した途端、ムッとした。するとカメラマンから「顔、しかめないでっ」と指示が飛んだ。
ここは青山の一角、ファッション雑誌のカメラマンがよく使う撮影用スタジオだ。あれから五日、今日は土曜日、モデルの仕事で芳弘と朝からこもっている。
「真嶋サン、どう?」
カメラマンの催促に、白シャツに黒のスラックスといった美容師定番姿の芳弘は、持っていたリングコームを胸ポケットにしまい、「どうぞ」と答えると斜め後ろへと下がった。撮影は順調に進んでいる。
芳弘は横浜を拠点に活躍中のヘアスタイリストで、俺の親代わりの後見人だ。祐司とは従兄弟同士の関係にある。
すらりとした長身で、祐司と似て彫りの深いシャープな顔立ちだが、短髪の黒髪に黒い目の祐司に対し、ウェーブのきいた長めの髪や目の色が明るい分、雰囲気が柔らかく見える。中身も穏やかで、そばにいるだけで心地よい安心感を得られる存在だ。
もともとは地方出身の上京者だが、横浜にある祐司の自宅に身を寄せ、市内の大手美容チェーン店に入社して修業し、資格を得た。
横浜の駅近くで、まだ勉強中だった芳弘にカットモデルを頼まれ、ほんの気まぐれで協力したことが、芳弘の、そして俺の運命を変えた。百人規模のスタッフがひしめく中、若手のトップとして活躍するようになった彼が、大手メーカーのコンテストに挑戦するにあたって、モデルに俺を起用したのだ。
芳弘はそのコンテストで見事優勝を果たし、副賞として有名ヘアスタイリストの主宰するヘアショーに参加した。もちろんモデルの中には俺もいた。
そこで彼はいくつかのファッション雑誌や、ファッションショー参加の契約を取り、俺は今の富永モデル事務所にスカウトされた。
こじんまりした会社だったが、他のデカそうな会社の担当者より、芳弘の師匠から紹介されたそこの社長のほうが好感を持てたので、芳弘と二人セットを条件に、この事務所と契約したのだった。
俺が家庭に事情を抱えた未成年で、芳弘以外の手にかかるのを拒絶したからだが、この事務所の富永藤子社長はなかなかの太っ腹で、息子のような歳の俺たちのワガママによく対応してくれた。
そのお返しといってはなんだが、俺も芳弘も仕事で評判を上げ、事務所にも少しは恩返しできたと思う。今日の撮影は、その社長が見守る中、ここでの最後の仕事だった。
「はーい、OKでーす。お疲れ様でした!」
スタッフの声が響き、ふと我に返る。内心の物思いとは関係なく仕事が終わっていた。
どうやら無意識のうちに、カメラマンの指示に従っていたらしい。あるいは俺のコンディションを知りつくした社長の指示で、今日のスーツのデザインが、ゴシックとかクールモノトーンとかに限定されていたのかもしれない。どちらも俺の二つ目の異名〈鉄壁の無表情〉が威力を発揮するタイプなのだそうだ。
「いやぁ、さすが〈衝撃の美貌〉。噂には聞いてたけど、いい画が撮れたよ」
ハデなプリント柄のシャツを羽織ったカメラマンが、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「そうですか? ありがとうございます」
それを牽制するように、富永社長が紺色のロングスカートの裾を捌いて俺の脇に立った。
「藤岡さんは、タクミを撮るのは初めてでしたかしら?」
「そ。君の会社の所属で撮るの、今日が最後だって聞いたから、担当の松井サンに頼んで代わってもらったんだ」
「あら、そうでしたの。どおりで……」
社長の表情が変わった。俺はなんとなく、この藤岡とかいう四十前後に見えるヤサ男に警戒心を覚えた。
「いやぁ、でもわざわざ出張ってきた甲斐があったよ。ウワサ以上だね、君。今度オレが任された写真集に出てみない?」
「藤岡さん、仕事のお話はまた。タクミは今度、違う仕事を始めますので」
「ロックバンドでしょ? 聞きましたよ。もうデビューしてるんだってね。いいじゃないの。そっちの宣伝にもなるよ?」
藤岡はこちらにグッと身を乗り出すと、顔を近づけてささやいた。
「夜も付き合ってくれたら悪いようにはしないけど、どう?」
「…………」
俺はウンザリした。
わかってる。世の中にはこういうヤローが溢れている。このギョーカイにも腐るほどいる。いちいち腹を立てていてはヤッてられないほどに。
問題なのは、そういう奴らがどのくらいの力を蓄えているかということだ。それによって対応を変えないと、こっちが結構なダメージを食らう羽目になる。
業界初心者の年は、社長に苦労をかけたよなぁ……。
俺は〈鉄壁の無表情〉を貫きながら、素早く芳弘に目で尋ねた。彼はすぐに反応した。しかし。
「藤岡さんの撮影はこれで終わりでしたよね。今日はこれからもうひとつ大事な撮影あるんですよ。よろしかったら見ていかれませんか?」
ふざけんな、オイ!
内心が伝わったのだろう、芳弘がチラッと目配せをよこした。
どうやら考えがあるらしい。
「そお? まだこの子仕事なんだ。忙しいんだねぇ」
藤本が相好を崩す。富永社長が心得たように続けた。
「今日が最後なものですから、夜まで埋まっておりますの」
「じゃあオレ、夜にもう一度、顔出させてもらおうかな。最後ならやるんでショ? 打ち上げ」
「もちろんです。ぜひおいでくださいな」
社長がニッコリと微笑み、俺は少しだけ動揺した。この二人を疑うわけではないが、意図がサッパリだ。
夜の酒の席に呼んでどーするんだ。俺を喰わせる気か?
すると彼女は嬉しそうに畳みかけた。
「タクミの送別会も兼ねますが、このあと撮影するブランドのデザイナーをゲストにお迎えしてのパーティーでもありますの。ですからぜひ服装を整えておいでくださいね」
藤岡はちょっと怯んだ。
「デザイナー?」
「藤岡さんならご存知でしょう? パリで活躍するデザイナーのアヤセ・トベですわ」
「アヤセ……」
「昨日、来日してましたでしょ? 彼女はタクミをとても高く評価してくださってまして。日本の店舗には彼をイメージした作品まで個別に展示していただいて……ですからこの機会にと思ってお招きしましたの」
藤岡が突然声を上げた。
「アヤセ・トベって、あのっ?」
「そう、あの」
社長の微笑みをどう受け取ったのか、藤岡は顔面蒼白になると、「あっ、オレもしかしたら仕事ひとつ忘れてたかも。また連絡するわ」などと言いながらそそくさと去っていった。
俺はあっけに取られた気分で二人の顔を交互に見た。芳弘が笑って言った。
「こうしていると、君の無表情にもバラエティーがあるんだってわかるよね」
「そうねぇ」
社長も笑う。俺は少々ムッとした。
「笑ってないでどういうことか教えてくれよ。アヤセ・トベってダレだよ」
社長は笑いを納めた。
「ああ、名前じゃわからなかったのね。あなたが珍しく気に入って仕事した、メンズブランド〈ガイエ〉のデザイナーよ」
「〈ガイエ〉って……えっ? あの服のデザイナー、女なのか?」
それは元々はドイツ発祥の、今はパリでも一流として名を馳せるメンズブランドのひとつで、東京にも支社があり、都心には幾つかの店舗もある。俺は特に服に興味はないが、このブランドは、デザインや色遣いがわりと好みに合っていて、しかも着心地がよく、歩きやすかった。日本人がデザイナーとして参加してるとは聞いていたが、まさかあのスーツやジャケットが女のデザインだったとは。
「アヤセはパリコレのモデルだったんだけど、早くからデザイナーを目指して仕事の合間に勉強を積んで、まずは自分のブランドを立ち上げたの」
それもスゴい話だ。
「その仕事でミラノに行ったとき、前の〈ガイエ〉のチーフデザイナーと意気投合して、仕事を一緒にするようになったのね」
はじめは子会社のレディース部門だったが、本社のメンズをやったら、そっちのほうがさらに受けたという。
「今では〈ガイエ〉パリ本店のサブチーフよ。あのアヤセちゃんが……立派だわ」
「アヤセちゃん…?」
なんだか今の話とそぐわない。
読み取ったらしい芳弘が苦笑してフォローした。
「アヤセが最初にモデルの道に入ったのが、この事務所だったんだよ」
「私の姪っ子の同級生でね。その当時十四歳で、そりゃあ綺麗な子だったわ」
そんなつながりがあったので、一流デザイナーになった今でも、日本での仕事はこの事務所を通し、帰ってくれば顔を出すのだという。
「アヤセはね、マナーを守れない男を毛嫌いすることで有名なの。彼女のチェックに引っかかったら、ファッション関係で仕事するのはかなり難しくなるのよ」
だから、藤岡のような男はアヤセに近づきたがらないのだという。
「へえ……」
感心していると、そばにきた芳弘が額に落ちかかる俺の髪を指先で払った。
「君が順調にモデルとして仕事ができたのは、彼女の力が大きいんだよ」
「そうなのか?」
覗き込むように見上げると、芳弘は目を細めた。
「〈ガイエ〉の日本支社に採用されたとき、彼女が大人のメンズモデルとしてショーに起用してくれたから、その後も質の高い仕事が続けて取れたんだ。君、まだ十四歳だったでしょ? いくら外見が大人びていて、年齢不詳を売りにしていても、一流相手の仕事じゃ普通は通用しないんだよ」
常よりも神妙な面持ちに少し引っかかりを感じていると、富永社長が横合いから続けた。
「これまで拓巳君には、裏方の細かい事情は伝えてこなかったけれど、そういうわけだから、今夜は挨拶しないといけないわ。芳弘君もそのつもりで支度をしてあげてね」
言葉を切った社長が芳弘を見上げると、彼も薄茶色の目で社長を見下ろした。二人はしばらく目線を交わし、やがて芳弘が「承知しました」と答えた。俺はなんだか腑に落ちなかったが、追及するのもためらわれたので黙っていた。
そのあとの仕事は順調に進み、俺は富永社長のもとでの最後の仕事を終えた。
その夜、俺の送別会を兼ねたパーティーが、横浜駅近くのホテルで開かれた。
壮行会も兼ねようということで、雅俊や祐司も招かれていた。百人は下らない客のいる席で、俺一人が主賓にされるのはかなわないので、雅俊や祐司がいてくれるのはありがたい。
もっとも、そこは俺の事情を知りつくしている富永社長だ。パーティーは洗練されたマナーを要求される立食形式で、客の注目がゲストのデザイナーに集まるように企画されていた。お陰で俺は、パーティーにありがちなしつこい勧誘や接待、酔っぱらいオヤジどものセクハラに遭うこともなく、時々会釈するだけでいたって気楽に過ごせていた。
「さすがは気配りの富永さんだ。ここの中華料理、一流だな」
量は食べないが、舌は肥えている雅俊は大喜びだ。祐司はガタイが百八十八センチと大きいだけあって、鋭い眼差しと寡黙な態度で周りを取り囲みそうな客を牽制しながら、引き締まった体に黙々と料理を補給していた。
その祐司がふと箸を止め、まじまじと俺を見てこう言った。
「今日はまた、いつにも増して飾り立てられてるな」
俺は斜め向かいの壁に嵌め込まれた大鏡を覗き、ろくに見もしなかった自分の姿を確認してみた。
「…………」
確かに、いつもと違う。
俺は人前に出るとき、服装は芳弘に丸ナゲだ。彼は俺の出席するTPOに合わせ、大抵はうまくやってくれる。今日もそのハズなんだが――?
鏡に映るその男は、地模様が浮きでた純白のシルクシャツに、光沢のあるグレーのタキシードを着て、襟にはシルバーのタイをつけていた。タイの真ん中には、プラチナの土台に真っ黒なオニキスを配したブローチがタイピン代わりについている。さらに胸ポケットからは花を模した白いレースのハンカチが覗いていた。その上に背中に届きはじめた髪の毛が落ちかかり、向かって右サイドだけがワックスで立ち上がるようにセットされている。まるでステージ衣装ばりに気合の入った姿、そこにこのツラ……。
芳弘。ホントにコレでいいのか! 撮影と間違ってないか?
「………」
鏡に目をやったまま立ち尽くしていると、気の毒に思ったのか、祐司が声をかけてきた。
「よく似合ってる」
エビチリの小皿を片手に持った雅俊が明るく説明した。
「あー、大丈夫だ拓巳。今日はみんなハデだから。祐司、おまえだってそうなんだぞ?」
雅俊が祐司を見上げて言った。二人の装いを見ると、確かにいつもより華やかだ。
雅俊は深い臙脂色に黒襟の、タキシードに似たスーツを着ている。総レースのブラウスに、ブローチがガーネットな分、俺よりスゴいかも知れない。
祐司も、色こそ定番の黒い上下だが、よく見ると、地紋の浮き出た鈍い光沢のある詰め襟タイプのジャケットで、オニキスのボタンが肩から脇に斜めに並んでいる。まるで十九世紀ヨーロッパのエリート将校の制服を真っ黒にしたようなデザインだ。
俺はこっそり周囲を見渡し、全体的にいつものパーティーより出席者の服装がグレードアップしていることを確認した。
「なんでだ?」
雅俊に聞くと、あっさり答えが返ってきた。
「そりゃゲストの影響さ」
「ゲストっていうと例の……」
さらに聞こうとしたそのとき、奇怪なモノが俺と大鏡の間を通り抜けようとするのを目撃してしまった。
「おいっ!」
つい、条件反射のように呼びかけると、相手は一瞬ハッとしたように目を見張り、次いで俺たちに気がついた。
「あれー? 拓巳じゃん。雅俊も。何してんの?」
「何って……おまえこそここで何してんだ?」
「あ、オレ?」
キョトンと立ち止まった相手は、マギレもなく雅俊の病院で出会ったあの小僧だった。しかし……?
「やぁ、若砂。ナニ、今日は別人じゃーん?」
雅俊が驚いて言うとおり、今日の若砂はいわゆるフォーマルで決めていた。
髪をオールバックにセットして額を出しているので、印象がこの前よりグッと大人びて、容姿もグレードアップしている。
襟元にレースを使った真っ白なブラウスに、青みがかったパールホワイトのスーツは上着が燕尾服に似たデザインだ。胸ポケットを飾るのは、淡い紫のハンカチでかたどられたバラの花で、アスコットタイを留めているサファイアのブローチと対なのだろう、小振りのピンが二つ、ハンカチを留めていた。
まるで、どこかの貴公子のような雰囲気だ。
「馬子にも衣装って言いたいんだろ? オレが選んだんじゃないからな」
若砂はちょっとふくれっ面になった。すると、小皿を置き、グラスを手にした祐司が横から声をかけた。
「いや。似合ってる」
俺たちは思わず祐司の顔を見上げてしまった。
何を言っているんだ、祐司!
「あっ、ども。えーっと、ダレ?」
若砂も面食らったようで、雅俊に尋ねる仕草が不安げだ。
「あ、コレはユージといって、おれのバンドメンバー」
雅俊が手に持った小皿ごと祐司を指し示した。すると。
「井ノ上祐司だ。ギターをやってる」
俺はさらに面食らった。――自分から自己紹介する祐司? 見たことねえっ!
若砂は神妙な顔で「ども。戸部若砂です」と名のると、雅俊に顔を戻した。
「バンドやってんの? いつから?」
「うーん。かれこれ丸二年経つなあ。でもデビューはついこの前だけど」
「丸二年? デビュー?」
若砂は頭がこんがらがったようだ。俺は焦れったくなって口を挟んだ。
「メジャーデビューだ。バンドは前から組んでた」
雅俊はちょっと驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
「メジャーデビュー? スゴいじゃんっ。知らなかったよ。って言ってもロック自体にあんま縁がないんだけど。拓巳も一緒にやってるのか?」
「こいつがボーカルなんだよ」
最後のエビチリをつつきながら雅俊が答えた。
「へぇぇ! じゃ、今日はその関係?」
「いや、今日はそっちじゃなくて……」
俺が口ごもると雅俊が引き継いだ。
「今日はこいつの送別会を兼ねてんの。だから、こいつは主賓の一人。おれと祐司は付き添いみたいなモン」
「えっ? だって今日の主賓って、富永さんとこにいるあの超絶美形モデルのタクミ……」
若砂が俺の顔を見た。俺もヤツの目を見返した。沈黙することしばし……そして。
「あっ、そうか!〈タクミ〉って、拓巳のことか!」
若砂がすっとんきょうな声を上げ、俺たちは周囲から振り返られた。俺は思わず祐司の体の陰に身をひそめた。
「ご、ごめん」
若砂が小さく謝った。
「で? 若砂はなんでここにいるんだよ」
改めて雅俊が尋ねると、こう答えが返ってきた。
「姉の趣味で」
アネのシュミ? 俺が首を傾げたそのとき。
「若砂」
後ろから、高らかなヒール音を響かせて近づいてくる足音が聞こえた。
「お友達?」
なんだか声も迫力のあるアルトだ。
足音が背後で止まる。すると目の前の小僧だったヤツが一瞬で別人に変化した。
「姉さん、覚えていないですか? 雅俊くんですよ」
美しく答えるパリのギャルソン風美少年。――あんたダレ?
「ああ、鞠江さんのところの……」
「姉さんご贔屓のタクミは、雅俊くんの結成したバンドのボーカルなんだそうですね。今、話していたところです」
「そうなのですってね」
背中から響く深い声の迫力に、俺は意を決して振り返った。すると。
「お元気そうね、拓巳。若砂がお世話になっていたのね。知らなかったわ」
目の前に、孔雀のような女が立っていた。
「………っ!」
「――綾瀬」
雅俊のつぶやきが耳に届く。そう、俺たちの認識は別のところにあった。
肩で切り揃えられた黒髪が白い細面の縁を飾り、ただでさえ力強そうな美貌をさらに引き立てている。鋭い光を放つ印象深い眼差しは雅俊にも劣らぬ黒目勝ちで、紅に濡れた唇と好対照をなしている。
黒一色のスリムなロングドレスの上に、レースのストールをまとい、ゴールドのアクセサリーをつけただけのシンプルな姿なのに、相変わらずなんという存在感なのか――。
思い出すだけでも身震いのするような暗い記憶の中の、僅かな光の残照とともに、その女の姿はあった。
俺は一切の感情を瞬時に断ち切った。そうやって自分をガードしなくては、立っていられないほどの衝撃だったからだ。
「アヤセ。どうかなさって?」
後ろから追いついてきた富永社長に、彼女は余裕のある笑みで答えた。
「いいえ。今、タクミに声をかけたところよ。若砂がお世話になっていたようで」
「あら。若砂君、そうなの?」
富永社長の質問に、どうやら顔見知りらしい若砂が畏まって受け答えている。俺は周囲に緊張を気取られぬよう、綾瀬に挨拶した。
「初めまして、タクミです。〈ガイエ〉では、ありがとうございました」
その短い挨拶に、綾瀬は眉をひそめるでもなく優雅に応えた。
「バンドでデビューしたからモデルを辞めるだなんて、口惜しいこと。聞けば、雅俊がリーダーだそうね」
彼女は雅俊に顔を向けた。
「あなたとは、遥か昔にも会っているのよ。覚えていて?」
構えていたのだろう、彼は正面から挑むように答えた。
「いえ、忘れていました。本当にすっかり。あなたが……気がつかなかったです」
このセリフに、どれほどの感情が入り混じっているのか、もちろん、綾瀬にはわかっているようだった。
「そう。あなたとは、タクミの今後のモデル活動について、話し合いの場を持つ必要がありそうね、リーダーさん。私はタクミの才能を買っているのよ」
「後日でよければ承りましょう」
雅俊が緊張を解かずに答えるのを、祐司が肩に手を添えてそっと支えている。彼も、俺たちの異変を察知しているのだ。
「約束よ? 楽しみにしているわ。連絡は若砂を介してくれて構わないから、なるべく早くね?」
俺たちの様子をどう捉えたのか、綾瀬は富永社長を促すと、そばに立つ、白いスーツのギャルソンに「頼んだわよ」と声をかけ、優雅な足取りで会場の中央へと戻っていった。
「大丈夫か?」
祐司がハンカチを差し出している。
「ひどい汗だ」
「ああ――悪いな」
俺は背中から緊張を解き、素直にそれを受け取ると、普段、あまりかいたこともない汗をふいた。すると。
「スゴいなー、雅俊も拓巳も。あの人相手に一歩も引けを取らなかったよ。祐司さんもぜんぜん動じないし」
パリのギャルソンから、ただの小僧に戻りつつある若砂が感心したように言った。
「オレなんて一生ムリかも」
その自然体な口調に、俺たちを取り巻いていた重苦しさがスッと軽くなった。
雅俊が口を開いた。
「そんなことないさ。もー目一杯」
「えー? 見えなかったよ? 姉さんと真っ向から顔を合わせるなんて、それだけでもスゴいよ」
ネエサン……?
そのとき、長らくフリーズしていた俺の頭が、ようやく回路を復活させた。情報がすばやくインプットされていく。そして。
「……れが、ダレの姉だって?」
「あ?」
「だから、誰が誰の姉なんだって?」
若砂はちょっと面食らったように答えた。
「アヤセが、オレの、姉だよ」
「今さら、なに言ってる?」
祐司が不審げにこちらを覗いている。だが俺はそれどころではない。
「おまえが綾瀬ときょうだい⁉」
あの綾瀬の!
「似てねぇぇ――っっ!」
久々に我を忘れて声を上げた結果、俺はギャルソンだったやつに強烈なエルボーを食らうハメになった……。
「まだ痛てぇ……」
脇腹を押さえてベンチにうずくまっていると、妙に上ずった声が頭上から降ってきた。
「あ、謝らないからなっ」
俺は顔だけを動かして声のヌシに答えた。
「別に、謝れなんて、思っちゃいねーよ……」
視界には、言葉とは裏腹の心配したような顔が映っている。ヘンなやつだ。
「何がおかしいんだよ」
俺の顔が笑って見えたのか、心配げな顔がふくれっ面に変化した。見てるとなんだか百面相ができそうで面白い。
ここは横浜駅西口正面、俺たちはベンチに座り、迎えの車を待っている。
社長以下、成人スタッフの面々は二次会に行ってしまい、未成年組の俺と雅俊、そして若砂が、すぐ近くにある芳弘の店の駐車場から、彼が車を移動してくるのを待っているのだ。
「みんな自宅が横浜駅付近なんだ」
若砂が気がついたようにつぶやいた。
「帰りが近くてありがたいや」
俺は隣でくすんだ夜の空を見上げている雅俊に目をやった。雅俊は俺の視線に気がつくと、口の端で僅かに笑った。
むろん俺たちには、これが富永社長の配慮だということがわかっていた。彼女は俺たちが帰りやすいように、事務所のある五反田ではなく、わざわざこの横浜のホテルに会場を取ったのだ。
「雅俊は、今どこに住んでるんだ。山手の豪邸じゃないのか?」
「いや。おれの事務所が用意してくれたマンションに拓巳と住んでる。若砂は? たしか実家は……」
「うん、元町だ」
俺はふと思いついた。
「……綾瀬は横浜の出身だったのか」
「そうだね。家は移ったけどね。今の家は、姉さんが母さんにプレゼントしてくれたんだ」
「プレゼント? 凄いな。って、母親に?」
もしかして……?
俺は気がついて口を閉じようと思ったが遅かった。
「ああ、母子家庭だからな」
「悪い。詮索するつもりはなかった」
すぐに返すと、若砂はまた、あのふわっとした笑顔を浮かべた。
「あんたはホントーに細やかな配慮をする人なんだな。今どき母子家庭なんて珍しくないよ」
言葉を探しあぐねていると、雅俊が唐突に手を打った。
「ああ、そうかっ。若砂がおまえの〈衝撃の美貌〉に反応しないわけがわかったぞ!」
若砂が雅俊に顔を向けた。
「〈衝撃の美貌〉? ナニそれ?」
「拓巳の異名。なにしろ初対面でこいつに会う人会う人、みーんなノックアウトされたように固まるんでついたのさ」
「ははぁ~。わかるような気がする」
「それにしちゃ、若砂は拓巳に会ったとき、リアクションなしだったっていうじゃん?」
雅俊に指摘され、若砂はちょっと首を竦めた。
「そ、それは、アクシデントのせいで……」
「違うね。そういうのがあってもなくてもカンケーないから衝撃なの。若砂のは間違いなく免疫だ」
「免疫?」
若砂が首を傾げる。俺は雅俊の意見に納得した。身内にあんな迫力美人がいたら、他に何を見ても動じはすまい。そこまで思い巡らせたとき、芳弘の車が到着し、その話はそこで終わった。