成功に向かって
次の日の早朝、芳弘は荷物をまとめて家を出た。当面は祐司の家に身を寄せ、綾瀬のイベントが一段落したら離婚手続きをすると決めたようだった。美奈子は当然、応じない様子で、陽子さんいわく、
「まあ、五年間別居して、裁判所に認めてもらうのが一番だわね」
なのだそうだ。
陽子さんは、病院でのやり取りからある程度予期していたそうで、「朝に連絡をしたのに、夕方には前に使っていた部屋が整っていた」と、後日、芳弘が教えてくれた。
そうして落ち着かない一日を過ごした夜。
若砂が無事、俺の住むマンションにやって来た。
手前の空き部屋に荷物を運び、当座に必要になものを用意して一段落したあと、交互にシャワーを使ってさっぱりすると、冷やしておいた白ワインをグラスに注いで若砂に声をかけた。
「飲むか?」
銘柄はもちろんシュペトレーゼだ。
「うん。ありがとう」
若砂はグラスを受け取って一口飲むと、満足げな笑顔になった。
――昨夜、美奈子の激しい毒気に当てられた状態のまま帰り着いた俺は、なんとか気分を切り替えて雅俊に若砂とのことを話した。
「あの発情ぶりはそうだろうと思ったけど、相手が若砂とは……ナンか複雑」
やはり薄々察していた雅俊は、こぼしながらも予想通り承諾してくれた。次に芳弘の店での出来事を話すと、彼はアーモンド型の目を丸くして声を上げた。
「あー、だからおまえ、昼間と今とでそんなに変化しちゃったのか」
そして今日、二人して仕事を終えてマンションに戻ったあと、空き部屋を片付ける俺を捕まえてこう宣言した。
「おれは当分、夜はアトリエに行く」
「えっ、……なんでだよ」
「……ストレートに聞くな。おれが恥ずかしいわ」
雅俊は憮然として上着の袖に手を通した。
「これからおまえは発情バージョンになってくるはずだから避難する」
それでは雅俊を追い出すようで気が引ける。
「ふざけないでくれよ。若砂が気にして出ていっちまう。俺、ケジメはちゃんとするから」
すると上着を着た彼はツカツカと歩み寄り、立ち膝の俺の顔を両手で挟んで上向かせた。
「今日のおまえのツラ、実は結構ヒドいぞ」
目線で問うと雅俊は嘆息した。
「芳さんから聞いた。おまえ、ずいぶん内容を省略して話したろ。かなりダメージ食らったんだろうに、昨夜は気がつかなかったよ。若砂のお陰であの程度で済んだんだな」
目線を逸らすと、彼は顔から両手を離した。
「だからご褒美に時間をくれてやる。遠慮なく発情しろ。そのほうがおれも助かる」
そう言われても、若砂が納得するとは思えない。
途方にくれていると、「大丈夫だ。援護してやるから」と言ったきり、本当に雅俊は行ってしまった。
「拓巳、こぼれそうだよ」
ハッと我に返り、手から滑り落ちる寸前の空グラスを慌ててつかんだ。
「雅俊の言ったとおりだ」
若砂は自分のグラスを一気に空けると、俺の手からグラスを取って一緒にカウンターに置いた。そして戸惑う俺に構わず腕を引っ張り、寝室に入るとベッドに押し倒した。一昨日と逆だ。
「もう、見てられないや」
若砂の全身が俺を覆う。
「―――」
預けられた体の重みがあたたかくて心地よく、心がほぐれていくようだ。俺は思ったより自分が疲れていることに気がついた。
背中に腕を回してしばらく目を閉じていると、若砂が少し頭を持ち上げた。
「聞いたよ、芳弘さんのこと。昨日の夜は大変だったんだね」
「雅俊か?」
「うん。『せっかくいいオーラが出ていたのに、台無しにされた』ってぼやいてた」
「台無し?」
「どうも昨日の昼間の拓巳を見て『新しい作品がおれに示された』って感じたらしくて、取りかかろうとしたら肝心のオーラが夜には半減、今朝は死滅してたって……」
ナンじゃそりゃ。……まて。
「そういや綾瀬も似たようなことを言ってたな。デザインを二着増やすとかなんとか……」
アーティストって奴らはみんなそれか。
「……だから拓巳のことを頼むって、雅俊が……」
「ああ――」
なるほど、援護ってこれか。
「オレも、迎えに来てくれた拓巳と芳弘さんを見て、雅俊の言ってた『痛い目に遭った』って意味がわかったよ。かなりひどいことを言われたんだろう?」
綾瀬の会社のビルへ若砂を迎えに行くとき、芳弘が車を出してくれた。すでに事情を聞いたのか、若砂と一緒に玄関口で待っていた綾瀬は、芳弘に痛ましそうな眼差しを向けていた。
「傷が深いからしばらく労わってやってくれって言ってた」
「そうか……」
「そんな傷ついた顔をして……」
「いいんだ。昔に比べたらずっと幸せだ。芳弘がいて、雅俊や祐司がいて……」
俺は若砂の体を下に入れ替え、胸の中に閉じ込めると、唇をそっと重ねた。
「今はおまえがいてくれる……」
昨夜のやり取りのせいだろう。悪意の棘に心の奥深くまで突き刺された俺は、その痛みから逃れるように若砂を求めた。
荒れ狂う感情の波に翻弄され、棘に苛まれながら挑みかかる俺を、肩をつかみ、歯を食い縛るようにして若砂が受け止める。きつく寄せられた眉根が、額を伝う汗が、その痛みを物語る。それが目に入ると、求めることをやめられない自分を呪いたくなる。
けれどそんなことを思い始めると、すぐに若砂の腕が伸びてきて俺の顔を捉え、唇がやさしく頬をついばむのだった。
「大丈夫。大丈夫だよ……」
繰り返しささやく声が荒れた心に染み渡り、突き刺さった棘をひとつ、またひとつと抜いていく。
やがて棘から解放され、昇りつめた体を預けると、若砂は両腕で包み込み、優しくなでてくれた。あたたかい手の動きを感じながら、微睡みに落ちていく意識の底で、俺は本当の〈癒し〉というものが、どんなものかを知った。
次の日、Gプロ事務所で俺を見た雅俊は、華やかな美貌を輝かせて喜んだ。
「よっしゃ。七十パーセント回復。さすがは癒しのブラックキャッパー。これで新曲にメドが立ったぜ」
おまえのご褒美はすべて楽曲のためかよ。
さらに午後、仕事で合流した若砂に向かってこう言った。
「伝説の君。今日もそのチョーシで頼むゼ。明日は百パーでヨロシク」
若砂は赤面して逃げていってしまった。ただし、
「からかうんじゃない!」
と頭に一発食らわせていったところが綾瀬の血を感じさせた。そんな若砂も、芳弘と俺をかなり心配していたらしい祐司から「ありがとう。これからも拓巳をよろしく頼む」と真顔で感謝されたときは、恥ずかしそうに俯いて返事を返していて、そばで聞いていた俺のほうが赤面してしまった。
やがて新ブランド〈クレスト〉の披露イベントが二週間後に迫り、俺たちはその準備に追われだした。
Gプロ、アヤセ・インターナショナル双方のスタッフが事務所とアヤセのビルを行き交い、打ち合わせやバンド練習、ショーのリハーサルに忙殺された。
特に、綾瀬から二着を追加された俺は、その試着や打ち合わせが加わり、てんてこまいになった。
「若砂が君のところにいてくれてよかったよ……」
とは、二着分のはずが合計七着になった俺のヘアメイクを、スタッフと打ち合わせながら奮闘する芳弘のセリフだ。
「この二着は〈タクミ〉の新バージョンとして展開していくんだって」
寝室の奥で、出来上がった衣装にカバーをかけ、クローゼットに吊るした若砂が言った。
「名前を〈アルガス〉にするって……」
「アルガス?」
「大きな美しい瞳、と言う意味だよ。読み方を変えるとアーガス」
「ああ――」
クレステッド・アーガス、冠青鸞のことだ。
「今の拓巳にはぴったりね、って姉さんが」
言いながら、俺の寝ころぶベッド脇に腰かける。
「拓巳のお陰だよ。ありがとう」
「俺は何もしちゃいない」
実際、俺が変わったというのなら、それは若砂のなしたことだ。
「おまえがいてこそのことだから、おまえが生みの親だな」
腕を伸ばすと、若砂は身を寄せながら顔をほころばせた。
「じゃあ、大事に育てていかないと……」
そのつぶやきが耳に届く頃には、俺の意識は別の感覚を育むことに没頭していた。
そうして日々は飛ぶように過ぎ、秋の風が吹く十月のはじめ、イベント前日の全体リハーサルが行われた。
俺たち〈T-ショック〉は二日ある日程の内、初日ステージのトップを飾るので、音合わせ自体は開始早々に終わった。
雅俊や祐司はそこからが大事なところで、ステージ脇に移動してからもスタッフとの打ち合わせに余念がなく、ファッションショーのリハーサル準備が始まるまで俺にはやることがない。空いた時間を会場の中庭にあるベンチで過ごそうと移動すると、出入り口のガラスドアと対面する奥のガラス越しに意外な姿を見た。
美奈子さん……?
サングラスを外しても遠目で解りづらいが、美奈子が黒っぽいスーツの男と話し込んでいるように見える。別居以来仕事も休みがちで、このイベントにも不参加だと聞いていたが、見間違いだろうか。
サングラスを戻しながら、もう少し近づいて確かめるべきか思案していると、後ろからGプロのスタッフに呼び止められた。
「すみません拓巳さん。これ、前に真嶋さんに頼まれていた迷惑メール一覧のプリントなんですが、なかなか会えなくて……お願いしてもいいですか?」
「ああ、もうすぐ会うから」
「じゃ、よろしくお願いします」
スタッフが去ってから中庭に目を戻すと、人影はすでに消えていた。仕方なく受け取った長い紙切れを開くと、なにやらトーサクに満ちた文面が日付ごとに印字されていた。
あれはいつの話だったか……そうだ、祐司がやられた少し前だから八月のはじめだ。
日付を確認すると、八月の欄には五通のメールがあった。どれも変態オタク系の自己中なアピールだが、中にひとつ目を引くものがあった。
これは……葉っぱか?
文面の下にネームなのか〈エルム-S〉とあり、そこに葉っぱのようなマークがついている。文面は他とそう変わらない変態ぶりだがマーク、というのがなんとなく引っかかった。
「拓巳くーん! そこにいたのかい」
突然のかけ声に内心でぎょっとしながら振り向くと、佐藤マネージャーが焦ったような表情で走り寄ってきた。
「もう一度だけボーカルも入れて合わせるから、急いで行ってくれる?」
「えー…、あ、ハイ」
「えー」と発した瞬間、佐藤の目尻がピクッと動くのを認め、小言を言われる前に退散した。そのとき、プリントを上着のポケットに入れたことが、その後の俺の運命を左右することになる。
翌、十月九日。アヤセ・トベの新ブランド〈クレスト〉の立ち上げ記念を含む、二日間のファッションイベントが始まった。
初日は夜の記念ステージでのパフォーマンスが繰り広げられた。
司会者の紹介を合図に、アヤセが用意した黒系の衣装をまとった俺たちがステージに出ると、広い会場を埋め尽くす観客が一斉に揺れた。
「タクミ、タクミーっ!」
「マース! マース!」
「ユージィっ!」
凄まじい歓声が全身を包む。これが今の俺たちの原動力だ。
俺たちはお互いに目配せし、目下三十万枚を突破中のファーストアルバムから用意した三曲を披露した。
歓声を浴び、信頼の置ける仲間に支えられ、思う存分声を出して託された歌を歌う。曲の合間に舞台袖を見れば、そこには芳弘が、そして若砂が見守ってくれている。
それを感知した瞬間、今までにない幸福感が全身を貫き、まるで酔った時のような酩酊感の中、思いの丈を込めて俺は歌い上げた。
スタッフに労われながら、次の演目のために控えるダンサーたちと入れ替わり、自分たちの楽屋へと戻ると、雅俊が横から飛びついてきた。
「スゴい! スゴいぜ拓巳。どうしちゃったんだ⁉」
雅俊の黒目勝ちの瞳が見たこともないほど輝いている。
「おれ、おまえを選んでよかった。サイコーだ!」
祐司も寄ってきた。
「今までで一番よかったんじゃないか?」
そこまで言われるとさすがに嬉しい。
「そんなによかったか?」
「ああ。感動した」
祐司が感情を顕にするのは珍しい。
そこに芳弘や若砂、そしてGプロスタッフが合流し、やはりみんなに今日の出来を誉められ、不思議な昂揚感が押し寄せてきた。
自分の中に生まれた感情を言葉に乗せ、外に放出したことが、ここまで相手を揺さぶったという事実。
それは俺が初めて、歌によって自分に幸せがもたらされることを実感した瞬間だった。
明けて次の日の午後四時。ついにアヤセ・トベのファッションショーが始まった。
暗い会場の中に、巨大スクリーンが浮かぶ。
最初に映されたのは、図案化された一羽の鳥。
そしてその下に浮かぶ〈CREST〉の文字。
ステージに何本ものライトが煌めき、ビートの効いた音楽が会場に流れ出した。いよいよ本番が始まったのだ。
出番が後半の俺は、支度途中の姿で舞台袖へ向かい、そのオープニングの様子をながめた。ふと横を見ると、少し離れたところで若砂と尾崎高志が肩を並べ、スクリーンに浮かぶ鳥をじっと見ているのに気がついた。
ここから見える横顔は、嬉しそうにも、また悲しそうにも見え、二人に共通する時間を思い出しているのだと知れた。俺は声をかけずにその場をそっと離れた。
モデルを支度する楽屋は、今日はスタイリストたちの戦場だ。芳弘はショーのとき、基本的には俺の専属だが、他のモデルを頼まれてやることもある。今回は最初、俺が二着の予定だったため、三着分の作品を請け負っていた。
若手ながら、すでに評判の高い芳弘のブラシさばきは流れるように美しい。ピンを留める指は正確で淀みがなく、瞬く間に予定したヘアスタイルを作り上げていく。一流のプロになるだろう、芳弘の仕事ぶりを見るのは結構好きだった。
「さあ拓巳、待たせたね」
三着分を終えた芳弘が、笑顔を浮かべながら近寄ってきた。
「そんな薄着で寒くないかい?」
素肌の上半身に上着を引っかけただけでいる俺に、芳弘が心配そうに尋ねてきた。
「冷やすと背中の傷によくないよ」
ファッションショーのモデルは、着替えては脱ぐの連続だ。メンズモデルたちなどしまいには上着を羽織るのも面倒になり、多少寒かろうが上半身はいつでもハダカ状態だったりする。
「大丈夫だ。人いきれで暑いくらいだから」
けれども背中を気遣う芳弘のためにそう返しておいた。
「じゃあ仕上げようか」
その言葉を合図に、モデル〈タクミ〉の仕事が始まった。
若砂のように表面化するわけではないのだが、俺も普段の自分とタクミのときとでは心を別ものにしている。俺の場合は二つ目の異名、〈鉄壁の無表情〉が物語るように、他を寄せつけない孤高のイメージだ。
おいそれとは手が出せない雰囲気を――富永社長に〈タクミ〉のコンセプトを提案されたとき、手を出されてばかりだった俺はそれがとても気に入った。以来、そのイメージを貫いている。今日のモノトーンの五着がそれで、芳弘はそのコンセプトに合わせ、前髪を少し垂らした他はオールバックにセットすることが多い。
しかし今日は、肩下に届く後ろの髪は襟足できっちりと留めたが、ワックスを使って両サイドをなでつけるとあとはいつもほどにはせず、後ろにふわりとかき上げて形づけた。
「あとで〈アルガス〉があるからね」
「えっ? 頭、変えるのか?」
「まだ内緒」
俺はまだ、〈アルガス〉の全容は見せてもらっていなかった。
やがて出番になり、俺は他の五人のモデルと共に舞台へ出た。中央に伸びたステージを無表情に通過する、いつものタクミだ。
スポットライトが当たり、音楽が変化する。都会的な機械音とパイプオルガンの合成が、アヤセのモノトーンの世界をよりいっそう強く押し出す。少しずつデザインの違う五着のスーツを、俺は無事にこなし終えた。
「こっち。早く来て!」
まだ残りの五人のモデルたちが出ている間に、一気に〈アルガス〉に変えるため、舞台袖でスタッフと共に待機していた芳弘が俺をつかんで脇に寄せ、パイプ椅子に座らせた。そして目にも止まらぬ早さでヘアスタイルを変えていった。その間に俺も腕だけを動かして服を脱ぎ、差し出された品を身に付けていく。
そうして五分後に〈アルガス〉は出来上がった。
周囲のスタッフから息を呑む音が聞こえる。
「……綺麗だよ、拓巳。この上もなく今の君に似合ってる」
満足そうな芳弘がスタッフの掲げる細い姿見を指し示した。そこには、かつて見たことのない俺がいた。
光沢のある淡いブルーのショートジャケットに、ブラウスにあしらわれた白いオーガンジーの襟が緩い波を打って被っている。胸元は大きく開いていて、首には薄手の白いストールが巻かれていた。胸ポケットからは花を模したブルーのハンカチが覗いている。
髪はヘアアイロンで緩く波打たせてあり、それがワックスでふわふわとセットされ、全体的にソフトで華やかなデザインだ。今までの〈タクミ〉のイメージとは対極にある。
「…………」
これではいつもの無表情というわけにはいかないだろう。
内心でアセっていると、芳弘が心得たように耳元でささやいた。
「その先の幕間に若砂が立っている。顔を見てから行きなさい。自然にできると思うよ」
背中を押されて狭い幕間に入ると、本当に若砂が隠れるように立っていた。至近距離で顔を見るのは、今日はこれが初めてだ。俺の手が思わず若砂に伸びた。
「拓巳……すごい。綺麗だ」
抱きしめた体から若砂の体温がじわりと伝わってきて、少し緊張していた俺も肩から力が抜けた。
なるほど、自然だ。
「綾瀬の指示か」
「うん。そばで見ていてやんなさいって」
「……さすがアーティスト。なんでも使う」
「え?」
聞き返す若砂に笑みを向けると、幕の外から芳弘の声がした。
「拓巳、出番だよ」
「行ってくる」
一瞬だけ唇を触れ合わせ、俺は舞台へと向かった。
この新しいデザイン〈アルガス〉は、アヤセ・トベの新境地を開いたとして、他のモデルと合わせても僅か五着だったにもかかわらず、その日、最も注目を浴びたようだった。
「それでは、アヤセ・インターナショナルの発展を祝って乾杯!」
幹事の声がマイクから響いた途端、広い宴会場全体から一斉に乾杯の声が上がり、打ち上げが始まった。
フロアの扉が開かれ、ホテルのスタッフが会場のあちこちに設置されたテーブルに温かい料理を並べていく。三ヶ所に用意されたドリンクバーには、早くもアルコールコーナーに人が群がっていた。
綾瀬のブランド〈クレスト〉のショーは大成功のうちに幕を閉じた。
すでに各方面から契約の打診や取材の話が持ち込まれ、若砂の所属するマネージメント部門のスタッフは大わらわの様相を呈していた。今も、外商スタッフがあちこちでビジネスマン風の男性やリクルートスーツの女性と話し込んでいる姿が見える。彼ら経営陣の仕事は、この打ち上げパーティーからが本番なのだった。
「お疲れさま。頑張ったね」
シャンパングラスを手にした芳弘が俺たち三人のもとにやって来た。改めてみんなでグラスを合わせ、中身を一気に飲み干す。今夜は主要スタッフやゲストには部屋が用意されており、俺たちと芳弘には二部屋取ってあるのだという。
「芳弘もお疲れさま。たくさん仕上げて疲れたろ」
俺が声をかけ、祐司が芳弘に新しいワイングラスを差し出した。
「ありがとう。みんなの協力のお陰でなんとかね」
芳弘の店のスタッフもこの会場にいるはずだ。
「拓巳こそ昨日、今日と御苦労さま。〈アルガス〉はよかったよ。綾瀬も満足のようだった」
「あれにゃーおれもたまげたよ。『微笑みを浮かべて歩くタクミは大天使のように美しかった』なんてどっかの雑誌記者がメモしてたよな」
「燭天使だろう」
横のテーブルに手を伸ばした祐司が訂正する。
……どっちもよくわからない。
「さすがは綾瀬だよなぁ……タクミにあのイメージを持ってくるか」
雅俊は何やら胸の中でアーティスト魂を燃やしているようだ。
「そういえば若砂は?」
祐司の問いに俺は仏頂面で答えた。
「仕事。マネージメント部門は今も大忙し」
「さっきも取引先のお偉方に色々説明してたね」
芳弘が付け加えると、祐司が淡々とした口調で聞いてきた。
「で、拓巳。若砂とはどこまでいってるんだ?」
「――っ?」
思わず飲んでいたフルーツワインを噴きそうになる。
咳き込こんだ背中を芳弘がさすり、どうにか復活した俺は祐司をちょっと睨んだ。
「と、突然ナニ聞くんだよっ」
「なんでだ? おまえの私生活に関わる大事なことだろう。俺たちにも関わってくることだ」
祐司はあくまで真面目に言った。そう来られると俺も邪険にはできない。
「……えーっと、俺は真剣デス」
「それはこの先を見据えてと受け取っていいのか?」
祐司はさらに切り込んできたが、今度は芳弘が遮った。
「祐司。二人は始まったばかりなんだよ? 大人だって色々あるんだから、拓巳にそんなことを聞くのはまだ早いよ」
芳弘の言葉には重みがあり、祐司は黙って引き下がった。すると芳弘が俺に向き直った。
「ただ、祐司の気持ちもわかる。君たちは最近、人気がうなぎ登りだから、この先はプライバシーを保つのが難しくなってくるよ。若砂のためにも行動は慎重にね」
ああ、そういうことか。
俺は祐司の言動がどこからきたのか納得した。
「わかった、気をつける。若砂は俺に必要なんだ。今後ともよろしく頼む」
祐司は薄く笑って頷いた。こういう気配りが祐司の貴重なところだ。
雅俊が励ますように言った。
「まあ幸い若砂は仕事で関わりがあるし、見てくれも女じゃねーからすぐには周りもわからないさ」
「おまえの励ましには、何やら別の思惑を感じるな」
疑惑の目で返すと、雅俊はひでぇ、と笑いながら料理のテーブルへと去っていった。
パーティーがお開きになると、俺たちは用意された上階の二部屋に、祐司と雅俊、芳弘と俺で別れて入った。
荷物を置き、少しくつろいでからシャワーで汗を流して出てくると、先に使ったはずの芳弘が外出着を着て立っていた。
「どうしたんだ」
芳弘は少しためらったあとで口を開いた。
「美奈子が離婚協議に応じると言ってきた。これからマンションへ行ってくる」
「これから?」
俺は思わず声を上げた。
「疲れてるのに。明日にしてもらえよ」
彼は首を横に振った。
「向こうがわざわざ今日を指定してきたんだ。明日は休みだし、今夜なら店のスタッフも打ち上げでいないから目立たなくて済むって」
「………」
「僕も、一刻も早くカタがつくならありがたい」
「そうか……」
「遅くなるだろうから、先に寝てるんだよ」
そう言われても。
「気になって眠れないよ……」
「そう思って、若砂を呼ぶつもりだったんだけど」
「えっ?」
瞬時に体温が上がる。芳弘は俺を見て苦笑した。
「あはは、ごめんね。綾瀬に『たまには返してちょうだい。健康が心配よっ』って断られちゃったよ」
そ、それはやはり、最初の所業のセイ……。
心内を読まれ、つい赤面してしまった。
「じゃ、行ってくる」
ドアに向かう芳弘を「見送りたいから」と引き止め、俺は急いでバスローブから服に着替えると、あとについていった。
目黒駅に程近いホテルを出、しばらく連れだって歩いたところで芳弘が足を止めた。
「さ、戻りなさい。遅いからね」
時間は午後十一時。行き交う人影はまだそこそこにあり、前方に見える駅周辺は明るかった。
「……この前のことがあるから、十分気をつけてくれよ」
心配を隠せずにこぼすと、芳弘は笑顔を浮かべて俺の肩を軽く叩いた。
「大丈夫。今度は油断しないよ」
彼は軽く手を振ると、そのまま駅へと歩いていった。俺はその背中が人影に隠れるまで見続けた。
──その、俺と芳弘の行動がすべて読まれていたなんて考えもしなかった。俺たちは完全に油断していて、だから勝負など最初からついていたのだ。若砂との幸せな時間に目が眩んでいた俺は、影に忍び寄る暗い情念を感じ取ることができなかった。
ホテルに戻ろうと体を返すと、正面に立ちはだかった大きな男にぶつかりそうになった。
「おっと……」
咄嗟によける寸前、男が俺の腕をつかんだ。
「元気そうでなによりだ、拓巳」
その声を聞いた途端、条件反射のように体が金縛りにあった。
信じられない声。
信じられない手。
現実逃避したがる脳ミソを叱りつけ、顔を上げるとそこには。
男爵―――!
彼は驚愕のあまり動けずにいる俺をやすやすと腕に抱くと、素早く持っていたハンカチを顔に押し当ててきた。俺はよみがえる恐怖とともに、いとも簡単に意識を手放した――。




