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決心


「……正直、驚いた。拓巳が承諾するとは思わなかったよ」

 ポツリとつぶやきながら、若砂が手にしたワイングラスを口元に傾けた。透明な液体がグラス越しにライトを反射して輝く。

「俺もだ」

 それを見つめながら、同じように手にしたワインを自分でもひと口飲んだ。

 時間は午後十時半。平日のせいか、ホテルの中にあるラウンジは人影もまばらだった。

 あのあと、若砂に連れられて会場に戻ったものの、どうにも気が荒れ、スタッフと交流するような気分ではなくなってしまった。若砂も同じ気持ちなのか、フロアへは戻らず、入り口の脇に設置された飲み物のテーブルへと向かうと、白のワイングラスを二つ取って俺にひとつ差し出した。

「いいのか?」

 アルコールの規制に関して、たまに羽目を外す俺や雅俊に比べ、若砂はいつもちゃんとしているのだが。

「いいから飲んでみて」

 口調を戻した若砂が自分のグラスをぐいっと飲んだ。ほぼ一気飲みに近い。

「あーっ、スッキリした」

 ワインでスッキリ? あまり聞いたことのない取り合わせと思ったが、まずはひと口飲んでみた。

「あ、ホントだ」

 程よい甘みとしっかり効いた酸味でとても飲みやすい。後味も爽やかで、なのにカクテルよりも味に深みがある。

「うまい」

 俺も二口目は一気に飲み干してしまった。アルコールにはあまり強くないのだが、これはスルスルと入っていく。

「これドイツの銘柄で、シュペトレーゼっていう種類。他と味が違うでしょ? オレのイチオシなんだ」

 なるほど、どうやら若砂のほうが酒との付き合いは深いらしい。外ではかなりセーブしていたわけだ。

「へえ……ドイツワインか。ガンガン入りそう」

「油断しちゃだめだよ。軽くても度数が7%はあるからね」

 オレたち仕事してるけど、一応、未成年だからね、と若砂は二杯目を、今度はゆっくり飲みはじめた。俺も若砂に倣い、味わって飲んだ。そうして二人で美味いワインはああだこうだと話しているうちに、いつのまにやらワイン好きのスタッフが加わり、気がつくとワイン談義で盛り上がっていて荒れた気分はどこかへ飛んでいた。やがて一次会が終わり、若砂がその後の指示をスタッフに伝えてから、俺たちは会場をあとにしたのだった。

 そして今、ラウンジのカウンターで綾瀬を待ちながら、俺たちはまた一杯空けようとしている。

「おまえは俺に嘘をついていたな」

 ふとこぼすと、上着を脱ぎ、ネクタイを緩めていた若砂が少し目を見張った。

「オレが? いつ」

「成瀬……おまえの母親。まったく譲る気なさそうだ。おまえは俺に、綾瀬が説得してくれたって言ったんだぞ」

「あ、ああ……」

 若砂はバツの悪そうな顔になった。

「もしかして、家に帰るといつもあんな風なのか?」

「――まあ、ね」

 俺は自分の迂闊(うかつ)さにため息をついた。若砂は俺に心配をかけまいと黙っていたのだ。仕事をして、疲れて帰ってアレが待っていたのでは、さぞかしたまらんだろう。

「俺の責任でもあるな」

 若砂は慌てて言った。

「拓巳に責任なんて、どうしてあるんだよ」

「あるさ。成瀬が言ってたじゃないか。『あなたの影響ね』と。俺だってそう思う」

 俺の影響――成瀬に責めるように言われたとき、それは不思議な心地よさとともに胸の奥深くに納まった。

 ところが若砂は強い口調で否定した。

「拓巳はきっかけだ。オレは自分の心を知った。だから母さんに言ったんだ。その結果が招いたことを、他人のせいにするつもりはない!」

 言い切られた瞬間、全身が沸騰した。

 ――わかってる。若砂はその誇り高い自立心から言ったのだ。だが冷静に判断できたのはもっとあとの話で、そのときの俺は、自分を刺し貫いた別の言葉のために余裕を失った。

「他人?」

「あ……」

 若砂もその言葉がもたらしたものに気がついたようだ。

「他人。そうか。おまえにとって俺は他人か」

「違う、拓巳。ごめん、今のは失言だ」

「そうだな。おまえが家で辛い目に遭っていても、他人の俺には何もできないな」

 どうしてか、責める気持ちが止まらない。貫かれた心が痛い。

「拓巳!」

 若砂の声がひきつった。

「頼むっ、勘弁してくれ! そうだ。拓巳の言うとおりオレは今、家では辛い。この上、拓巳にまでそんな風に突き放されたら……」

 ここで俺は我に返った。目の前に、半泣きの若砂の顔がある。

「謝るからっ」

「若砂……」

「ダメだ。考えただけでも心が()える。オレは今、拓巳といる時だけが自分らしくいられる時間なんだ。頼む、オレからそれを取らないでくれ……っ」

 若砂は肩を震わせて声を絞り出すと、カウンターの(ふち)をつかんだまま片手で顔を覆った。

 俺の短気な言動が、若砂をこうまで打ちのめしているのだ。

 それは俺の中に、相反する二つの感情を生んだ。

 傷つけたことへのいたたまれなさ。

 そして、請い願われる喜び――。

 震える肩に、俺の手が自然と伸びた。シャツ越しに伝わってきたのは思ったより薄い肩。

 その瞬間、またひとつ感情が弾けた。

 ――帰したくない。

 こんな風に嘆くほど、居場所のない若砂の魂。

 胸を貫いた僅か一言の過ち。薄い肩。

 そのときの気持ちをどう現せばいいんだろう。理屈では説明できない衝動が、俺を突き動かした。

「拓巳……?」

 おもむろに携帯を取り出すと、若砂が目を見張った。俺は構わずに指を動かし、連絡を取った。

「ああ綾瀬、いいんだ。それより悪いが今日は……そう、明日の午前中で……すまないな。あと若砂を」

 そこで目線を下げると、若砂の心細げな眼差しとぶつかった。

 一瞬、お互いの目線が絡み合う。そのとき、俺の中で最後の壁が崩れた。

「――一晩、預からせてもらう」



「来い」

 空いた椅子にかけてあった上着を手に取ると、俺は若砂の腕をつかんでラウンジを出た。

 そのまま目的の場所へと歩き出す。

「拓巳、どこへ……」

 言いかけた若砂もすぐに口を閉じた。自分が手配したのだからわかって当然だろう。

 その部屋に入ったとき、時計は午後十一時を回ろうとしていた。

「俺が怖いか?」

 振り返って尋ねると、若砂は青ざめながらも首を横に振った。

 俺はすでに、ここまでついてきたことを答えと受け取っていたので、それ以上、問いかけることはせず、左脇のセミダブルベッドの上に置かれたそれを渡して言った。

「先に使え」

「あ……」

 若砂は手渡されたそれ――バスタオルを食い入るように見つめた。その横をすり抜け、シングルにしては広い室内の奥に据えられたソファーに座る。若砂はしばらく立ち尽くしていたが、やがてバスルームに姿を消した。

 自分の進めようとしていることが、いささか性急すぎるとは自覚している。しかし二度と『他人』とは呼ばせないとの一念がそれを上回っていた。

 入れ替わりでシャワーを使ったあと、バスタオルを腰に引っかけて部屋に戻ると、薄明りに浮かぶベッド脇で、ホテルのナイトガウンを着た若砂が途方に暮れたようにこちらに背を向けて立っていた。

「若砂」

 後ろから呼びかけると、薄い幅の肩が一瞬、震えた。俺は背後に立ち、顎に手をやってこちらに仰のかせると、有無を言わせずに唇を重ねた。

「――、……」

 長いようで短い時が過ぎ、そのままベッドに倒れこむと、組伏せた腕の中で若砂が目を見開いていた。体が小刻みに震えている。その様子にふと思い至った。

 きっと初めてだ。 

 俺が動きを止めたのをどう捉えたのか、若砂は顔を背けて身をよじった。

「オ、オレの体は普通じゃない。やっぱり」

 逃れようとする体を腕で封じる。

「不安か?」

「………」

 横を向いた顔が切なそうに歪んだ。その脇に肘をつき、顎に手を添えてそっと戻す。若砂は逆らわなかった。

「前に、雅俊と同じって言ったな」

「……言った」

「ならあのとき、俺はあいつのことを何て言った?」

「……ほぼ知っている、と」

「そうだ。だから心配するな……」

「拓巳――」


 ――俺は、生まれてはじめて自分から人を抱いた。


 否応なく求められ、流されるように抱かれるのと、自ら求めて抱くのでは、こうまで違うものなのか。

「……っ」

 貪るように味わうごとに、若砂の体が熱を増す。

「たく……っ」

 喘ぐように呼ぶ声が、すがりつく指先が、なまめかしく俺を誘う。

 上気した肌、(にじ)む汗、時折漏れる吐息。そのすべてを自分が導いているのだと思うと、それだけで心が弾け飛びそうになった。

 だからその時が来ても、思うようには労わってやれなかった。

「――っ!」

 瞬間、肩にすがっていた指先が爪を立て、腕の中の体が緊張して強張った。俺は意志の力をかき集めて自分を止めた。

「……あ」

 少しだけ緊張が解け、きつく寄せられた眉根が僅かに緩む。唇を寄せ、そっと首筋を辿ると、まもなく肌が熱を取り戻してきた。さらに唇を(ふさ)ぎ、丁寧になぞると、体がほどけるように柔らかくなった。するとそれを感知した俺の内側が出口を求めて暴れ出した。

 ………っ。

 正直、それを押さえるのがこんなに辛いとは思わなかった。

 十一の時に強引に奪われて以来、それは俺にとって、相手から引き出されては自分を通り抜けていくだけのものだった。こんな風に強い衝動を覚えたことはない。

 かといってそれに身を任せるには、俺は苦痛を知りすぎていた。無理やり貫かれる痛みは長く記憶に残る。若砂にそれを味わわせたくはない。

「……くっ」

 わかってはいても、身の内に閉じ込めた衝動が意志を裏切って暴れ、気が遠くなりそうだった。すると。

「いいよ……」

 若砂が手を差しのべながら、潤んだ瞳でささやいた。

「大丈夫だよ……拓巳が、辛そうだ……」

 若砂は俺の顔を抱き寄せると、唇で頬をついばんだ。柔らかい感触を感じた瞬間、その気持ちがストンとはまった。

 ――愛おしい。

 なぜ他とは違うのか、どうして帰したくなかったのか、ようやく府に落ちた。

 俺は、いつのまにか若砂に心を捕らわれていたのだった――。


 ふと目が覚めると、まだ薄暗い部屋の中、俺たちは抱き合ったままの姿で寝ていた。腕の中では若砂の寝息が聞こえている。上掛けをかけ直し、改めて眠る若砂をゆっくりとながめた。

 ただでさえ幼げな顔が、こうして目を閉じているといっそうあどけない。若砂の気迫と魂、あの陽気で一本気で時にしたたかな、でも人への思いやりに満ちた人柄を表すのは、すべてこの伏せられた瞳の中にある。

 俺の脳裏に刻まれた若砂の叫び。

 オレは今、家では辛い。拓巳といる時だけが、オレらしくいられる時間なんだ――。

 再び微睡みに落ちていく意識の底で、俺はひとつ心に決めた。そのためには、綾瀬と話し合わなければならないだろう。



「まあ拓巳。あら、まぁ……」

 午前九時。昨日よりはラフなジャケットを着て身繕いを済ませ、約束した社長室を訪ねると、すでに待っていた綾瀬はナゼかそう言って絶句した。

「……?」

 疑問の眼差しを向けると、綾瀬はハッと我に返り、黒いワンピースの裾を揺らしながら俺を来客用ソファーへと導いた。歯止めのきかなかった昨夜の所業が響いていたので、座り心地のいい椅子に腰かけられるのは正直ありがたい。

 席に着いてまもなく、コーヒーが運ばれてきた。質のよさそうないい香りだ。

「どうぞ」

 丁寧な所作でカップをテーブルに置いたのは、昨日のパーティーで言葉を交わした記憶のある、若い男性スタッフだった。

「どうも」

 顔を上げると、こちらを見下ろす彼と目が合った。すると。

「あっ……」

 そいつは声を上げたきり、真っ赤になって頭を下げ、来たときの倍の早さで退室していった。

「……なんだアレは」

 ムッとしてぼやくと、正面に座った綾瀬が取りなすように言った。

「まっ、失礼しました。……けど、今日の場合はちょっとやむを得ないから、大目に見てやってちょうだい」

「なんでやむを得ないんだ?」

 綾瀬は美しい眉根を寄せた。

「……あなた、今朝、鏡を見たかしら」

「鏡なんてチラッとしか……」

 そこでふと、綾瀬が身なりに厳しいたちであることに思い至る。

「もしかして、俺はどこか変なのか?」

「変、というのではなくて……一夜にして変わってしまったわね」

 どうやら服装のことではないらしい。が……?

「変わったって、何が?」

「……あなたの〈衝撃の美貌〉に、今までにない色香が加わってしまって、眩しくてまともに見られないわ。……朝から困るわ」

「困ると言われても……」

 俺も、困る。

 綾瀬はそんな俺を横目で(まっすぐ見るのはイヤなんだろう)見ながらズバリと切り込んできた。

「原因はあの子なのね?」

 ――そう来るか。

 俺は内心の狼狽を押し隠して本題に入った。

「若砂を成瀬から離したい。協力してくれないか」

 綾瀬はため息をついた。

「それは昨日の母の言動のせいかしら」

「ああ。あれはちょっと見過ごせないぞ。成瀬は昨日のことで俺を恨んだだろう。その分まで若砂に当たられちゃかなわない」

 このまま帰したんじゃ絶対当たるぞ、と俺は言外に伝えた。

「……それに関してはお詫びするわ。私も忙しさにかまけて、母と若砂のことに目がいってなかったのね」

 綾瀬はカップに手を伸ばし、一口飲んでから続けた。

「あなたを紹介して欲しいなんて言うから、てっきり(ねぎら)ってくださるのだとばかり……」

「………………」

 スゴい(ねぎら)い方だったな。お陰でこっちは行くトコまでいっちまったケド。

「綾瀬にも弱点はあるんだな」

 意外な発見にちょっとおかしくなり、俺は口の端で笑いながらコーヒーに手を伸ばした。すると綾瀬がくるりと横を向き、コーヒーをグッと流し込んだ。

 ……らしくない仕草だ。

 俺が注視しているのがわかったのだろう。綾瀬は困惑の表情で目線だけこちらによこした。

「拓巳。あなた、今日はなるべく素顔を見せないほうがいいわね。あとでサングラスをかけなさい」

 なんだかヒドい言われようだ。

「仕方ないでしょう……無表情でも免疫のない人はあなたをまともに見られないのに、そんな風に内側から輝かれてしまっては……あなたのためよ」

 綾瀬はカップをテーブルに置いた。

「で? 具体的にはどうして欲しいの? お詫びを兼ねて、できるだけのことはするわ」

 俺は手にしたコーヒーを飲み干してから答えた。

「あの家には帰したくない。俺の住んでいるマンションは祐司の部屋の分が空いている。雅俊には今朝、事情を知らせて許可を得たから若砂を連れていく。綾瀬には、自宅にある若砂の荷物を送って欲しい」

 最低限でいいから、と付け加えると、綾瀬は「ちょっと待って」と遮った。

「あなた、自分が何を言い出しているのかわかっているの?」

「わかってるつもりだが」

 即答すると、綾瀬は面食らったように言った。

「私に、あの母と渡り合えと」

「若砂の有能な働きぶりを見れば、渡り合う価値は十分にあるだろう?」

 あんたの助けが足りなかったせいでこじれてるぞ、とは言わないでおいた。

 綾瀬はしばらく考え込んでいたが、やがて思い切るように顔を上げた。

「いいわ。確かにそこはあなたの言うとおりだもの。ただ、重要なことだから確認させてちょうだい」

 俺が目を向けると、綾瀬は真剣な顔で聞いてきた。

「あなたは昨日、母にこう言ったわね。『戸部若砂という人物は自分とっては立派な青年だ』と」

「ああ」

 ホントは青年ってところが少年なんだが。

「その流れでいけば、この話は、あなたの言葉で親子関係が悪くなった若砂への責任感から出た申し出、となるわ」

「まあ、そうだな」

「でも、今日のあなたを見る限り、とてもそれだけとはとても思えないわ。だから改めて聞くけど、あなたにとって若砂は何なの?」

 その質問は、若砂を連れていくと言った時点で覚悟の上だったので、俺はすぐに答えることができた。

「かけがえのない存在だ」

 綾瀬は少しもどかしそうな顔をした。

「つまり、母に答えた時と今とでは意味が変わったということかしら」

「そう取ってもらって構わない」

「それは今日、あなたが今までになく美しいことと、若砂を欠勤させて欲しいと言ってきたことに関係があるのね?」

「…………」

 容赦なく突っ込まれ、俺はつい、今朝の若砂とのやり取りを思い出してしまった。 

『あ、足腰が動かないよ、拓巳っ……』

『……ゴメン』

 昨夜は俺が若砂を〈足腰が立たない〉状態にしてしまったようで、狼狽(うろた)える若砂を(なだ)めて今日は仕事を休むよう言い含め、ビルを訪ねる前、綾瀬に送ったメールの最後にに休ませたいと付け加えておいたのだ。

 さすがにそれらの内容は口にしかねたので、俺は頷くことで返事に換えた。

 綾瀬は不思議そうに聞いてきた。

「なのに、あなたにとってあの子は女性ではないの?」

 言外に、昨夜で変化したのではと聞かれ、俺は首を横に振った。

「俺にとって、そこはあまり重要じゃない」

「なぜ? あなたの嗜好(しこう)は普通の男性と同じでしょう? 少なくとも、過去に辛い目に遭わされたあなたは同性愛者が嫌いなはずよ。心を分かち合おうという相手が男の性を選んでも平気なの?」

 俺にとってもここが理解してほしい大事なところだったので、少し身を乗り出して言った。

「なぁ、綾瀬。あんたは俺がどういった経歴を経てきたか知ってるよな」

「……ええ」

 出会いがあの店なのだから当たり前だ。

「〈バードヘブン〉で商品にされたとき、俺を最初に奪ったのは女の客だったよ」

「――え?」

「数は少ないけど、いたんだよ。常連の金持ちが。だから最初は女がいいだろうって、(かなめ)のヤローが希望者から選んで」

「要……高橋オーナーね」

「そう、あのクソ親父。どうせならその顔も役立ててやるから、初めての経験が女なことに感謝しろ、だと」

「……っ」

「その女は少年嗜虐(しぎゃく)趣味の女社長で、金に糸目をかけないことで有名だったから、俺をエサにしたんだな」

 綾瀬の顔が一瞬、嫌悪に歪んだ。

「十一歳だった俺は、まだそういった衝動が自然にあるかないかの時期だったんだ。あの女は俺の意思なんぞおかまいなしに、薬を盛って抵抗を封じると、やりたい放題一昼夜」

「………」

「しまいにゃ(さわ)られただけでイッちまうような状態にされたよ。そしたら、それ見て何て言ったと思う?」

 投げるように問うと、綾瀬はあの氷のような眼差しで聞いてきた。

「……なんて?」

 不思議と今日はその瞳に恐れを感じない。だから淡々と言えた。

「『おまえを一人前の男にしてあげたわよ。感謝しなさいね』だと。あの女はそう言って勝手に俺の体を反応させると、のしかかって(よろこ)んでた。――これが凌辱(りょうじょく)でなくてなんなんだ?」

 俺の顔が殺伐としてきたのだろう。綾瀬の氷の眼差しが悲しみの色を帯びてきた。

 奪われたことのある者への共感――。

「男は言うに及ばずだが、俺の意思を無視することでは女だって似たり寄ったりだったさ。だから俺にとって、男だろうが女だろうが意思を無視する存在はみんな同じだ」

 俺を踏みにじり、奪っていった数多くの大人たち。

「それで、とどめが男爵(バロン)の〈ブルー・パラダイス〉だろ? アレで正直、俺の中にはもう、そういった意味で誰かを欲しいと感じる機能はなくなったと思っていたよ」

 それは、完膚なきまで砕かれてしまったと。

「だから若砂に心が揺さぶられたのも、もともと性別とは関係ないところなんだ」

 それは若砂の魂の色。その心のありよう。そういったものが積み重なって、いつしか増えていた想い。

「俺にとっては、そう思える相手が存在してたこと自体がすでに奇蹟に近い。だから若砂が男として振る舞いたいならそれで構わない。大事なのは選べたかどうかであって、選んだ結果じゃない」

 口を閉じると、綾瀬はひとつため息を吐いた。

「わかったわ……。あなたがそこまで言うのならそこに口は挟まないわ。よくも悪くも、あなたの成熟度はもはや世間一般の未成年者とは同列にできないもの。その考え方は尊重します。あとは二人の問題でしょうから」

 綾瀬は若砂を連れていくことに対して条件をつけた。

「ひとつは芳弘さんの許可を得ること。自分の身に起こったことをちゃんと報告して、若砂とそこで暮らしていいか判断を仰ぎなさい。芳弘さんは今のあなたの親なのだから、彼の判断を私もよしとします。あともうひとつは」

 そこで綾瀬は立ち上がると、俺にも立つように促した。

 口元に妖艶な笑みが浮かぶ。

「母に立ち向かうだけの気力を補いたいから、私に楽しみをちょうだい。あと二着、今日のあなたをイメージして作るから、増やさせてもらうわよ」

 そうして彼女はソファーを回り込むと、「若砂を迎えに行くから」と俺の背をドアに向けて押し出した。俺は、タダでは転ばない綾瀬のしたたかさに脱帽した。


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