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成瀬

「よく来てくれたわね、拓巳」

 綾瀬の新会社、アヤセ・インターナショナルの入ったビルに車が到着すると、なんと一階ロビーにある会社の入り口前に、大勢のスタッフと共に綾瀬本人が待っていた。

 彼女の定番の装い、黒ベースに金を配した、今日はツーピースを着こなして立つ姿は、かつての一匹狼のような綾瀬とは雰囲気が変わっていた。

「その濃緑のスーツは芳弘さんのコーディネートね? よく似合っていること」

 端麗な目元を細める様子は経営者としての風格が漂い、パーティーで目にした時よりも穏やかな印象が増していて、俺は体から緊張が薄れていくのを感じてホッとした。

「では、上にご案内するわ。こちらへどうぞ」

 綾瀬は微笑むと、ロビー奥にあるエレベーターに俺を誘導して乗り込んだ。

 そうして通された社長室の中、ブラインド越しに柔らかい光が射し込む部屋の右寄りのスペースで、洗練されたデザインのソファーセットの一角に案内され、正面に座る綾瀬と契約書を取り交わした。

 はす向かいに座った若砂が書類を示しながら詳しい内容を説明していく。

「高橋様は未成年ですので、後見人である真嶋芳弘氏の署名、捺印をいただいてのち、契約が成立します。何かご質問は?」

 淀みない仕事ぶりに感心しつつ、俺は最後の書類に印鑑を押して答えた。

「ない」

 若砂は嬉しそうに片手を差し出した。

「これで〈クレスト〉のモデルとして仮契約が成立しました。以後、よろしくお願いします」

「よろしく」

 俺が差し出された手を握ると、綾瀬が満足したように微笑んだ。

「今夜はあなたを歓迎して席を設けてあるから、楽しんでいってちょうだい。若砂、詳細はお伝えしてあるわね?」

「はい」

 すると綾瀬が立ち上がった。

「〈ガイエ〉から〈クレスト〉に、〈タクミ〉のコーナーも移動したの。目を通してもらうわね」

〈ガイエ‐ジャパン〉時代の綾瀬が日本の店だけに置いた、俺をイメージした作品のことだ。綾瀬が後ろのデスクにある受話器を取って指示を出すと、まもなくスタッフが入室し、五体のマネキンを俺の正面に並べて設置した。どれもモノトーンで統一された三つ揃いのフォーマルだが、色の濃淡や形がそれぞれ違っている。

「ショー当日に着るあなたの服よ。二着、選んでちょうだい」

 綾瀬の言葉に俺は驚いた。

「今から? 選んでいいのか」

「もちろん。どれでも好きなものを」

「だったら芳弘に来てもらえばよかったかな……」

 見比べながらつぶやくと、近くのマネキンに手を伸ばした綾瀬が説明した。

「これは、私のデザインを元にして社員が完成させた作品の中から、今回のために芳弘さんに選んでいただいたものなの。どれを選んでも大丈夫よ」

 二度驚いた俺は、はす向かいの若砂に尋ねた。

「普通、たかだかモデルに対してそこまでしないよな」

 すると若砂が仕事の口調で説明しだした。

「〈ガイエ-ジャパン〉の〈タクミ〉はれっきとしたひとつの独立ブランドでしたので、同列にはできません。今回は二着しか披露(ひろう)できませんが、本来は十着くらいの内容でショーに出展するべきものです」

 俺はふと思い当たって聞いてみた。

「じゃあ、作品って全部で何着あったんだ……?」

「三十着のデザインを用意しました。そこから真嶋様に今回の五着を選んでいただきました」

 ……うそ。あとはボツ?

 あまりの確率の厳しさに硬直していると、綾瀬が笑い声をたてた。

「まあ拓巳。この世界では当たり前のことなのよ?」

 ねぇ、とマネキンのそばに立つスタッフに綾瀬が顔を向けると、五人の若い男女が、揃いの制服も初々しく綾瀬に頷いた。俺が目を向けると、気づいたスタッフたちが俺の顔を凝視し――一瞬にして固まった。

 いつもの初対面者の反応だ。

 ……俺はメデューサか、っつーの。

 すると綾瀬が声を発した。

「あらあら。あなたたちはタクミが初めてなのね。我が社の顔になってくださる方に失礼な態度をとって、私に恥をかかせる気……?」

 それを聞いたスタッフたちは一斉に直立不動になった。

「失礼しましたっ」

 全員の声が揃う。ちょっとだけ気の毒になったので、俺は仏頂面を改めた。

「ごめんなさいね、拓巳。話を戻しましょう……だから遠慮はいらないの。あなたが気に入ったものを選んでちょうだい」

 俺は改めて五体のマネキンを見やり、ため息を吐いた。その様子を気遣ったのか、若砂が小声でささやいた。

「もし、気が咎めて言えないようなら、あとでオレに言ってくれな」

 それに感謝の眼差しで応え、口に出してはこう言った。

「選べない」

 するとマネキンに視線を泳がせていた綾瀬がこちらを振り返った。

「まあ」

 うっ、眼光がコワい。

 俺は素早く付け加えた。

「どれもいい。だから選ばない」

「拓巳?」

 若砂が戸惑っている。俺は若砂に聞いた。

「今から三着って、増やしても大丈夫か?」

 若砂は目を丸くして――でも嬉しそうに言った。

「もちろん。いかがでしょう、オーナー」

「あら、まぁ」

 綾瀬は、彼女にしては珍しく驚きを(あらわ)にした。

「本当に……よろしいの?」

「以前、綾瀬には世話になった。長い間、礼も言えずに申し訳なかった。感謝している」

「拓巳……」

「芳弘からも少し聞いている。俺を引き立ててくれた、と」

「……芳弘さんが」

「それらを含め、またこちらの――」

 俺は若砂に目を向けてから続けた。

「あなたの弟には、ここ数ヵ月の間に何度も助けられた。今日ここに来る勇気が持てたのも彼のお陰だ。その気持ちとして、せっかく用意してある五着、やらせてもらいたい」

 目を戻すと、綾瀬の顔がほころんでいた。彼女はスタッフに向き直ると指示を出した。

「では、これは当日使うほうにしまってちょうだい」

 やがて全員が出ていくと、綾瀬はもとの席に戻り、正面から俺の顔を見た。

「ありがとう。スタッフも喜ぶわ。成長したのね。そんな風に気を配れるようになって……あの時の、凍った目をした少年が」

 綾瀬の脳裏に浮かんでいるだろう、俺の姿が想像できる。

 息をしているだけの人形。芳弘に救われる直前の、壊れかけた俺だ。

「芳弘さんの尽力がどれだけのものだったのかが伝わってくるわ。よかった……」

 どこか感情を抑えるような綾瀬の表情に、俺はふと芳弘との会話を思い出した。

(約束だったからね――)

(綾瀬は拓巳の成長を願っていたから)

 二人の間には、俺の知らない何があるのだろうか――。

「では、場所を移りましょうか」

 思いを断ち切るように綾瀬の声が響いた。

「今夜は素晴らしい夜になりそうだわ」



 パーティー会場は、綾瀬の会社が入ったビルに隣接するホテルの宴会場だった。時間を気にしないようにと、俺には部屋が取ってあり、明日はタクシーまで予約されているという。至れり尽くせり過ぎてなんだかあとがコワい。

「姉さんはそれだけ嬉しいんだよ」

 その感想を聞いた若砂は上機嫌で答えた。綾瀬から、俺が思った以上に大事に扱われていることが嬉しいらしい。

 スタッフの司会が始まり、綾瀬の紹介で俺が会釈すると、会場の六十人からなるスタッフが歓声を上げた。どよめきの中で若砂が乾杯の音頭を取ると、さらに会場内は盛り上がった。持ち前の人懐(ひとなつ)こさで、若砂はすでにアヤセ・インターナショナルにしっかりと足場を築いているようだった。

 料理が次々に運ばれ、スタッフが歓談に沸く。アヤセのスタッフは(ほとん)どが二十代前半で、役員が三十代から五十代という、極めて若い会社だった。食べ盛りが多いのか、みんな良く食べ、飲んでいて、目前に迫ったイベントの日に向けて、誰もが充実しているように見えた。

 若砂から紹介された人物がいた。伝説の名ホスト、かつてのブラックパラダイス、尾崎(おざき)高志(たかし)――若砂の尾崎先輩だ。

 彼はまだ僅かに片足を引きずってはいたが、高く整った鼻梁、涼やかな目元、柔らかな笑みをたたえた口元など、さすがは横浜に名を残すだけの雰囲気があった。少し長めの黒髪を後ろにかき上げて整え、紺色のスーツに身を固めた姿は清潔感があり、何より気に入ったのは、俺の顔を見ても動じずに対応が自然だったことだ。

 あとでそう告げると若砂は笑みを漏らした。

「ありがとう。それを聞いたら先輩も喜ぶよ。でも、さっき本人はオレに『あまりの迫力ある美貌に、何を(しゃべ)ったのか思い出せない』なんて言ってたけどね」

 そんなやり取りをしながら、若砂や顔馴染みになったスタッフ数人と小皿やグラスを手に歓談していると、ふいに後ろから声がかかった。

「ごめんなさい、みなさん。ちょっとお借りするわね」

 綾瀬が俺の腕をつかんで連れ出そうとしている。目で訴えると、若砂も慌てて手に持った小皿を置いた。

 さすがに一対一はまだコワい。

 導かれた会場の奥にVIP席のような一角が設けてあり、そこに、先ほどまでは見かけなかった着物姿の女性が腰かけていた。彼女は俺を連れた綾瀬に気がつくと、浅く座っていた椅子からスッと立ち上がった。

「ご無沙汰しております。娘たちがお世話になりまして」

 丁寧に会釈をする姿には、もちろん見覚えがあった。

「こちらこそ、お久しぶりです」

 それは、戸部――たしか成瀬(なるせ)という名の、若砂と綾瀬の母親だった。

 紫の着物姿のせいなのか、以前会った時とずいぶん印象が違う。あの時はただ美しい、そんな感じだったのだが、今日は綾瀬と似た端麗な美貌に、成熟した大人のみが持ち得る貫禄が加わり、得も言われぬ妖艶さを漂わせていた。

 もし誰もいない夜道でこの人とバッタリしたら、俺は迷わず来た道を引き返すだろう。

 ふと横を見ると、俺の隣に立った若砂が緊張しているのがわかった。

 ――何だ?

「どうぞ、おかけになって」

 戸部成瀬は俺を奥の席に導き、自分は向かい側の席に腰を下ろした。綾瀬が成瀬の隣に、若砂は俺の隣にそれぞれ座る。テーブルには、会場とは別に運ばせたらしい数種類の料理が皿に盛られ、シャンパンやリキュール類に加えてノンアルコールカクテル、フルーツワインなど、年齢に配慮した飲み物も脇に置かれていた。

 成瀬はしかし迷いもせずにシャンパンを手に取り、慣れた手つきで四つのグラスに注ぐと、それぞれの前にひとつずつ差し出して自分のグラスを掲げた。どうやらここで保護者としての立場を通す気はないらしい。

「まずは乾杯を。ご契約、おめでとうございます。今日はお帰りの心配がいらないと伺っておりますわ」

「ありがとうございます」

 俺は型通りにグラスを掲げ、ひと口飲んでからテーブルに戻した。

「娘たち、特にこの若砂から、拓巳さんのことは常々聞かされておりました。仲良くしていただいているようで感謝しております」

 なんだかここまで丁寧な口調で話されると、逆に含みがあるようで居心地が悪い。

「……こちらこそ」

 俺は内心の不快感を表に出さないよう、慎重に答えた。

 それを感じ取る風でもなく、成瀬は綾瀬に言葉をかけながら、次々と料理を小皿に取りわけて俺の前に並べ始めた。すると、さっきから固い表情でいた若砂が口を開いた。

「……母さんがこういう席に来るのは珍しいですね。確かお嫌いでは?」

 俺は耳を疑った。

 母親に対するにしてはあまりによそよそしい口の利きようで、普段の姿からは考えられない態度だ。

 成瀬は黒光りする目を若砂に向けた。

「そうね。今でも得意ではないわ。だから綾瀬にここを用意してもらったのよ」

 なるほど。彼女にはこういった銀座の一流クラブもどきが馴染みの雰囲気なのに違いない。俺にとっても見慣れた空間ではある。が、嬉しくはない。

「そうですか。ですが明らかにここだけ浮いてますよ。(しゅ)(ひん)を閉じ込めてはいけません」

 若砂が俺の身柄を取り戻しにかかった。

「ご挨拶がお済みのようでしたら、ここから先はご遠慮ください。身内が独占するのはよくありません」

 どんな感情が渦巻いているのか、どこか陰りのある笑みを母親に投げてから、若砂は俺に目を向けた。

「では戻りましょうか」

 どうやら若砂も成瀬のそばにはいたくないらしい。

 頷いて動こうとすると、綾瀬が手を上げて制した。

「今、来たばかりではないの。あと少しくらいならみんなも許してくれるわ」

「オーナー」

 若砂の声が強張った。

「時間が問題なのではありません」

「若砂」

 成瀬が艶のある笑みを浮かべて呼びかけた。

「わたくしが拓巳さんとお話しするのが気に障るの?」

 若砂はぎくりと肩を強張らせた。

「……そういうわけでは……」

「そう、ならいいのよ。ごめんなさいね、拓巳さん。この()が変に口を出すから……そうそう、拓巳さんは歌手デビューもなさっていらっしゃるのですってね」

 俺は浮かそうとした腰を元に戻した。

「ええ。ロックバンドですが」

「存じませんでしたわ。先日出したアルバムがたいそうヒットされているとか。おめでとうございます――綾瀬?」

「心配は要りませんわ、お母様。若砂に我が社から心ばかりの品を持たせました」

「ああ――」

 俺は先日の打ち上げに、差し入れがあったことを思い出した。

「その節はありがとうございました。忙しいところをわざわざ彼が店まで届けてくれて」

「そうなの。せめて一言だけでも直接お祝いをと言って――」

「拓巳さん」

 成瀬が綾瀬の言葉を遮った。

「彼、ではありませんわ。若砂は娘ですので」

 綾瀬が驚いて鋭く小声を発した。

「お母様! ここでそんな」

「いいえ、はっきりしておかないと」

 成瀬が告げた瞬間、若砂の顔が歪み、肩が震えた。

 俺はこの母親の意図がなんとなく読めてきた気がした。我知らず背筋が伸びる。

「どういうことでしょう。戸部若砂という人物は、俺にとっては立派な少ね……青年ですが」

 成瀬も姿勢を正してこちらを見据えた。

「困りますわ、拓巳さん。親しくさせていただいていると聞きましたから、この()の体の事情はご存じかと思いました」

「もちろん、伺っています」

 間髪を入れずに返すと、成瀬は目を見張った。その顔が僅かに朱をのぼらせたように見えた。

「……やはり、あなたの影響でしたのね。若砂があんなことを言いだしたのは」

「母さん!」

 慌てて身を乗り出だそうとする若砂を片腕で制しつつ確信する。成瀬はそれを確かめるために、わざわざここに来たのだ。

「ひょっとして、性別選択の話ですか?」

 わざとらしく投げかけると、成瀬も受けて立ったようだった。黒々とした眼差しに剣呑(けんのん)な光が宿る。

「選択ではありません。医師の、診断の話ですわ」

「医師によっても、様々な意見があるようですね」

 ――医者一人の意見では決め手にはならないぞ。

 俺は言外に匂わせた。雅俊のことがあったので、俺もIS医療については時々調べたりしている。その辺の大人よりはよほど詳しいはずだ。だが成瀬は食い下がってきた。

「若砂は違います。はっきりと結果が出ましたわ。申請すれば、戸籍にも女性と明記できますのよ」

「体と心は違う。本人の意思は別のところにあるようですが」

「……形がはっきりすれば、やがて心も定まるでしょう」

 その瞬間、俺の中で何かが音を立ててブチ切れた。

 思わず言葉がほとばしる。

「そんなバカな話は聞いたことがないですね」

 選択の自由。本人の自己決定権。俺にとって、踏みにじられながらもギリギリで守られてきた大切なものが、目の前で、しかも親たる者に軽んじられることには耐えられなかった。

 俺から放たれる気配が一気に険しくなったからだろう。成瀬は遮られたにもかかわらず、言葉を継げないようだった。

「そこまでに願いますわ、お母様」

 ようやく、とばかりに綾瀬が割って入った。

「このおめでたい席でなんてことをなさいますの」

 そして若砂に目を向けると嘆息混じりに告げた。

「主賓をフロアへお帰ししてちょうだい。私はお母様をお見送りしてきます。会場は予定どおりの進行でお願いね」

「了解しました」

 若砂は社員に徹することで、平静を保とうとしているようだった。

「拓巳」

 綾瀬が俺に目を向けてきた。表情に懇願(こんがん)の色が(にじ)んでいる。

「後ほど場所を変えて時間をいただきたいわ。お詫びを兼ねて……お願い」

 昨日までの俺だったら、いくらお詫びと言われても、綾瀬と一対一になるのは避けただろう。だが俺の中で何かが切り替わったように、不思議なほどはっきりとその言葉が出た。

「承知した」


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