90手目 ジャーマンな少女
「よぉ、裏見、はりきって喰ってるな」
私が熱々の春巻きを頬張っているときに、声を掛けて来たのは……。
「ふふぁふぁふぁひぇんひゃい」
「……口にものを入れて喋るな」
おっと、失礼。
私はジュースで春巻きを流し込み、挨拶し直す。
「菅原先輩、こんばんは」
「おぅ。……そんなに慌てて喰わなくても、いいんだぜ?」
いえ……年上を待たせるのは、どうかと思いまして……。
というか、菅原先輩、今日は制服なんですね。
天堂は、薄い紺色のブレザーに、グレーのズボン。結構、地味。
帽子も被ってないし、一瞬誰だか、分からなかったわ。
「みっちー、早く食べようよ」
数江先輩が箸を振り回して、菅原先輩を誘う。
「おまえは、いっつもガツガツしてるな……他人の財布を、ちったぁ気遣えよ」
いやいや、ここまでお金持ちなら、与らない手はないわけでして。
私は迷い箸をしながら、次の獲物を探す。
「そういや、裏見はオールスター選ばれたんだな。おめでとさん」
「ありがとうございます」
私は餃子を摘んで、醤油を探す。お酢、お酢。
カラシはないのかしら?
……そう言えば、部員以外に祝福されたの、これが初めて? 松平は、関係ないからチェックしてなさそうだし、サーヤは……嫉妬で言えないとか? ありえるから怖いわ。ヨッシーは、言うチャンスを逃したパターンかな。
「菅原先輩も、おめでとうございます」
「サンキュ……ま、10枠もあるしな」
そ、そう言えるのが凄いわ……ベスト10なら余裕ですか……。
「みっちーの好きな酢豚があるよ。できたてだよ」
「木原、おまえはちょっと、落ち着け……」
そう呆れつつも、菅原先輩は皿を取って、料理をよそい始めた。
食事の邪魔しちゃ悪いから、このふたりはそっとして置きますか。
あと、体育会系のノリで食べ続けてる冴島先輩も……。
「裏見さん、こんばんは」
聞き慣れぬ女性の声。うぅ……今日は声掛けが多い……誰?
私は摘んでいた餃子を、醤油の海に戻して、後ろを振り返る。
あ……この前髪で左目が隠れてる、女鬼太郎みたいな人は……。
「つ、辻さん」
「どうしたの? 幽霊にでも会った顔しちゃって?」
「い、いえ……こんばんは」
辻さんも呼ばれてるんだ……大学生だったわよね?
このへんの女子の元締めみたいだし、無視できないのかも。
「裏見さん、十傑に選ばれたらしいわね。……おめでと」
「あ、ありがとうございます」
この話題、ループしかけてますね。
入学おめでとうと、同じパターンに陥りかけてるような……。
「うちの竜馬も、標準ポイントで入選してるし、よろしく」
辻さんは、「標準ポイントで」の部分に、微妙なアクセントを置いた。
何ですかその、「あなた8ポイントでしょ?」みたいな言い方は……。
「まあ、弟は将棋強いし、当然かな」
そう言って辻さんは、自慢げに「うふふ」と笑う。
この姉弟は……ダメみたいですね。弟がシスコンなら、姉はブラコンか。
私はじと目になりながら、餃子を頬張る。
あうあう……醤油に浸け過ぎた……もう一個。
「ところで、駒込さんは……」
「香子ちゃん、お待たせ」
ごふッ! 餃子が喉に……ジュース、ジュース……。
私が噎せ返る中、歩美先輩は辻姉に挨拶する。
「乙女さん、いらしてたんですか」
「私は毎年呼ばれてるわよ……まあ、大学2年生だから、ちょっと浮いてるのは事実だけどね。ところで駒込ちゃん、ちょっと話が……」
辻姉は歩美先輩を連れて、どこかへ行ってしまった。
……あれ? 姫野さんも用事があるとか言ってたような……。
まずい……伝え忘れたかも……。
私はもう一度、歩美先輩の姿を探す。……あ、いたいた。なんだ、辻姉と一緒に、姫野さんのところにいるじゃない。さっきの金髪少女もいるし……ん? 金髪少女?
パンパン
白いドレスを着た姫野さんの柏に合わせて、会場が静まり返る。みんな一斉に飲食と会話を止め(てないのも数名いますが)、視線をホールの中央へと向けた。
うーん、姫野さん、ドレスが似合い過ぎてるわ……私とは、月とすっぽん……。
「みなさま、こんばんは。今宵は、姫野家恒例のクリスマスパーティーにご参加いただき、誠にありがとうございます。駒桜市の将棋に関わる方々と、これを機会に親睦を深められればと思っておりますので、ぞんぶんにお楽しみください」
はいはい、楽しんでますよ。主に、飲食ですが。
「さて……今夜は、みなさまにご紹介したい方がいらっしゃいます」
姫野さんはそこで言葉を区切り、隣に立つ少女に目で合図した。
や、やっぱり……さっきトイレでぶつかった子よ……何でここに……。
「こちらは、エリザベート・ポーンさん。今月初めに、ドイツから日本へと留学なされた方です。両国では教育システムが異なるため、現在は語学研修生というご身分ですが、来年度4月より、藤花女学園に1年生として入学なさりますので、ご紹介致します」
姫野さんの紹介が終わると、ポーンさん(で合ってるのよね?)はスカートのひだをちらりと持ち上げて、華麗に会釈の仕草をした。
「Damen und Herrn......わたくし、エリザベート・ポーンと申します。今夜はみなさまにお会いできて、sehr frohでございますわ。よろしくお願い致しませ」
ちょ、ちょっと日本語が変だけど……すごい流暢。
「すっげぇ、美人」
「人形みてぇだな」
「ヒュー、ヒュー」
男子の中から、口笛が飛ぶ。ああ……日本の恥……。
ポーンさんの自己紹介も終わり、姫野さんは先を続ける。
「では、ご紹介も終わりましたので、引き続き……はい?」
挨拶を終えかけていた姫野さんに、辻姉が何やら耳打ちする。真剣に聴く姫野さんの顔色が、少し変わった。
「……よろしいのですか? そのような見せ物は……」
「大丈夫、本人は同意してるから」
あの……会場内が静かだから、丸聞こえなんですが……。
これでも、地獄耳の裏見と呼ばれてますからね、はい。
私はこっそり餃子を摘んで、それをむしゃむしゃと食べた。
うーん、美味しい。これ、持って帰れないのかしら?
おじいちゃんのお土産にいいと思うんだけど。
私がテイクアウトの算段をする中、今度は辻さんが話し始めた。
「こんばんは、辻乙女です。エリザベート・ポーンさんは、趣味で将棋が指せますので、この機会にぜひ、とのこと。どなたか、お相手をしていただけませんでしょうか?」
ふぇ? 将棋? 将棋が趣味? ……チェスの間違いじゃない?
同じことを思ったのか、会場内がざわつく。
「将棋が趣味って、すげぇな」
「どうせお遊び程度だろ」
「でも、ポーンちゃんの前に座れるなら、立候補してもいいな」
はいはい、すけべ心丸出しなやつは黙る。
こうなったら、女子の私が出て……。
「ここは、僕がお相手しようかな」
げぇッ! スネ夫くんッ!
私は、取り落としそうになった皿を、慌てて掴む。
危ない……こんな高級カーペットに醤油こぼしちゃダメ……。
「幸田くんか……いいわよ」
辻さんは、嫌がるどころか、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「スネ夫の野郎、ちゃんと手加減しろよ」
冴島先輩が、隣でぼそりと呟いた。
まあ、その心配はないんじゃないでしょうか。女性に優しいタイプみたいだし、もしかすると、勝ちを譲る可能性すら、ありそう。
奥からメイドが数人登場し、特別の対局テーブルを準備し始めた。
そ、そこまでしますか……。
みんな飲食も忘れて、自然とそのテーブルを囲う。んー、確かにこれじゃ、見せ物状態よね。本人が同意してなきゃ、ちょっと失礼かな。
メイドに椅子を引かれたポーンさんが座り、続いて幸田先輩が腰を下ろす。幸田先輩は、やたら念入りに前髪をセットしていた。そういうのは、事前にやりましょう。
「ルールは?」
幸田先輩は、辻姉に話し掛ける。
それはポーンさんに直接……訊けないか。勇気いるわよね。
スネ夫くんって、そういうところがチ・キ・ンかも。
辻姉はポーンさんに向き直り、何やら相談を始めた。
「Wie lange möchtest du spielen?」
「Blitzschnell」
「Naja, ich verstehe's schon, aber wie lange? Bitte genauer」
「Zehn」
「Zehn Minuten? OK, dann......」
「Nein......Sekunden」
そこで、辻姉の顔色が変わった。
「Zehn Sekunden? Ist das dein Ernst?」
「Allerdings!! Es wäre besser, dass man so schnell wie möglich spielen würde, auf einer solchen Party, oder?」
「Hm.......」
あの……ギャラリー、完全に置いてきぼりなんですが……通訳。
辻姉は数秒ほど腕組みして、それからスネ夫くんに向き直る。
「10秒将棋がいいらしいんだけど……」
は? 会場の全員が息を呑む。
スネ夫くん、明らかに動揺してます。
「じゅ、10秒将棋ですか? ……お嬢さんには、きついと思いますけどね」
「Es geht!! わたくしにお任せあれ!」
そ、その日本語は、使うシチェーションを間違ってるような……。
スネ夫くんは、ちょっと複雑な顔をしたあと、いつものキザな態度に戻った。
「分かりました。それなら10秒将棋で。チェスクロは……」
「あ、チェスクロはなしで。切れ負けだと、興醒めだから」
うわ……絶対に盤上で勝敗をつけろと……辻姉、鬼ですね。
「どうやって10秒計るんですか?」
「適当でいいのよ。できるだけ早指しすればオッケー」
「……了解」
少し前まで溢れていた私語が止み、会場に静寂が訪れる。
うーん、いつもこの瞬間は、緊張しますね、他人の将棋でも。
「振り駒を致しましょう」
「いや、先手はポーンさんに譲るよ」
「Danke schönですわ。では、早速……」
ポーンさんは、人差し指と中指で歩を摘み、奇麗に7六歩と下ろした。
うッ……手付きがめちゃくちゃ奇麗……これは、もしや……。
「へぇ……手慣れてるね……じゃ、3四歩で」
そこからは10秒将棋。猛スピードで対局が進んでいく。
2六歩(居飛車なんだ)、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛、8六歩、同歩、同飛、3四飛。
うわッ! 横歩になったッ!
てっきり、定跡無視の力戦形になるかと思ってたけど……。
「おいおい、スネ夫先輩、大丈夫か?」
っと、ここで松平登場。
さらに、つじーんと蔵持くんもおまけでついてきてますね。
いつものメンバー。
対局は、幸田先輩の3三角に……5八玉?
あれ? これって、いつも見てるのと違うような……。
「驚きました……青野流ですよ」
さすが、辻くん。つじーんと言えば横歩、横歩と言えばつじーん。
解説をお願いします。1手10秒だけど。
ポーンさんも、すぐに玉を上がった。
わ、わけが分からない……。
「5二玉型を選びましたか……」
とつじーん。3六歩。
「これは、後手がかなり勝ち越してる形だが……」
と松平。7六飛。
「今年の竜王戦挑決トーナメントで、先手の羽生さんが勝ってなかった?」
とくららん。7七角。
「ですね……幸田先輩も横歩を指しますから、次の手は……」
つじーんが10秒で喋りきれない間に、2六歩が指された。
「これですよ……さすがは幸田先輩、ここでは間違えませんか」
3八銀。
「どうやら、羽生vs小林戦をなぞる格好になりそうだな」
松平はそう言って、前髪をくしゃくしゃにする。
横歩って、定跡が細か過ぎるから嫌いなのよね。
乱打戦に見えて、実は繊細極まりないという。
7四飛、同飛、同歩、2四歩。
はいはい、わけの分からない進行来ましたよ。
飛車交換からの歩打ちとは……。
7七角成、同桂、2七歩成、同銀、2八飛。
うわ……いきなり王手銀取り……。
左が壁だから、これは3八銀と引くしかないわね。
と思った瞬間、ポーンさんは3八銀と引いた。
スネ夫くんはすかさず、2七角。
こ、これも厳しい……素人目、終わってるけど……。
「このポーンさん、何者ですか? 青野流5二玉型を、ここまで把握してるとは」
さあ……ひとつだけ言えるのは、お笑い要員じゃないってことかな。
1六角という見事な受けが出て、同角成、同歩。
だけど、これは……。
ですよねー。もう一回打てばいいだけ。
先手、どうするの?
「次がポイントだぜ。間違えなければ、飛車を……」
ひえぇ〜、こ、こんな手が……。
私は、頭がくらくらしてくる。
「どっちも完璧に覚えてるみたいだね」
くららんが感心したように言う。
次期会長、完全に他人事ですね。
「このまま進むと、先手勝ちになるぜ?」
「ポーンさんから手を変える必要はないので、幸田先輩の研究次第ですが……」
研究将棋ですか。さあさあ、スネ夫くん、どうする?
っていうか、10秒以上経ってますよ、先輩?
《更新情報》
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92手目 闘争心溢れる少女 5月27日(火)7:00