83手目 沈黙する少女
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
私は考え込む。2六歩で助かっているかどうか……。
真っ先に思い浮かぶ後手の手は、3四香車。でも、これは詰めろじゃないはず。一見、1九銀成、2七玉、2八金、1七玉、1八金打、同馬、同成銀で詰んでるけど、2七玉に代えて1七玉が正着。1八金、同馬、同成銀、同玉、2八金、1七玉で詰まない……のは良いんだけど、これはもう敗勢でしょう。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
却下。この順に飛び込む必要性が感じられないわ。
もっと前に戻して……3五桂に5八銀打かしら?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
一旦、受ける。
4七桂不成、同銀、6八飛成、5八銀打。受かってると思うけど、5三香が面倒か。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
馬と角の串刺し……これは勝てないわね。金駒も渡し過ぎだし。
……もしかして、不利になってる? まさか……そんな……。
私はしばらく呆然としたあと、頭を左右に振った。事実は受け止めないと……5五角からの攻めが通じないなら、受けるしかないわ。候補としては……3一金、同金、3六銀?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
とにかく、3五桂を防止。ムリヤリ打ってきたら、同銀、同歩と喰いちぎって、今度こそ5五角、3三香、3四桂、1二玉、8一飛成の一手スキ。こっちの王様は、詰めろじゃないはずよ。問題は、5一歩と止められたあとで、どうやって攻めを継続するかだけど……。
うぅ、横からは突破できないっぽい。5一歩に、8四龍と引く? 3四香なら、2六桂馬のお代わりがあるし、6八飛成なら、一回5八銀打と受けて……5九金? 張り付かれたときの対応が思い浮かばないわ。
あぁ! 混乱するッ! 落ち着け私ッ!
「ま、負けました」
えッ!? い、今のは私じゃないわよッ!
さすがに、ここで投了するほどテンパっては……。
「ありがとうございました」
ん? 歩美先輩の声?
私は、声のした方へ振り向く。……あ、2番席が終わったんだ。
びっくりさせないでよ……男の声だったのに気付かない私も悪いけど……。
ホッとしたのも束の間、今度は女子の声が聞こえてきた。
「負けました」
「ありがとうございました」
うッ……志保部長が負けた……予想はしてたけど……。
そうだ、左右はどうなってるの? 私は、3番席を覗き込む。
八千代先輩は……あぁ、案の定、敗勢……。
「やはりここ次第か……」
幸田さんの呟きに、私は向き直る。
幸田さんは、5番席の方をチラ見して、険しい顔をしていた。
どれどれ……あ、勝ってる。勝勢じゃないけど、冴島先輩有利。
だったら、スネ夫くんの言う通り、ここの勝敗次第だわ。
私が勝てば3—2、負ければ2—3、分かり易くなったわよッ!
私は気合いを入れ直し、盤面に集中する。
真剣に考えなきゃ。えーと……どこまで読んだっけ……そうだッ! 現局面で3一金、同金、3六銀とするかどうかよ。これ以外の手は……即座に5八銀打?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
こ、これもありそう……3六銀との優劣は……。
私はチェスクロを確認する。
残り2分ッ!? 5八銀打と比較してる暇がないわ。5八銀打は、3五桂と打たれるからダメ。そう結論付けましょう。とにかく、3五桂の防止が先決。3一金ッ!
「チッ、取ってきたか」
スネ夫くんは再び舌打ちして、同金。
私はノータイムで3六銀と打つ。
「3六?」
スネ夫くんは10秒ほど考えてから、表情を変えた。
「桂打ちの防止か……」
正解。読んでなかったみたいね。そっちも時間を使いなさい。
幸田さんが考えている間に、私も読む。休んでいられない。
そして3分後。
「それでも打つか」
読み筋の3五桂。来たわね。
同銀、同歩、5五角、3三香、2五桂ッ!
「ぐッ……香車の直狙い……」
そうよ。これが3分間で閃いた手。
3四桂ばっかり読んでたけど、こっちの方がはるかに厳しいわ。1二玉なら、3三桂成、同桂、3三角成と殺到して良し。放置も不能。
幸田さんはしばらく考えて、仕方なく2四銀と打った。これも読み筋だ。3三桂成、同銀に、今度は3四桂ッ!
1二玉に、3三角成と飛び込む。
「くそ、一気に薄くなったか」
もともと薄いでしょッ!
舟囲いですらないのよ。端も突いてないし。
「だが切り返せるッ!」
同桂、8四飛成、6八飛成。
んなもん読んでるに決まってるわッ! 5八香ッ!
香子ちゃん怒りの香打ちで、盤が震える。
テンションMAX! かかってきなさいッ!
「お嬢さん、そいつは選択ミスだよ」
「へ?」
スネ夫くんは、持ち駒の角を人差し指と中指で挟み、私に見せびらかす。
角? 5三香じゃない?
唖然とする私の前で、2五角が指された。
し、しまったッ! これがあるなら、5八銀だったわッ!
て、テンション上げ過ぎた……反省……。
桂馬を助けるか、金を助けるかだけど……うぅ、金しかないわね。3八銀打。
3四角に、私は8一龍と入る。これが厳しいはず。
「何だいそりゃ?」
幸田さんは呆れたように、5一歩。
はい、引っかかったッ! 5三銀ッ!
「銀打ち? ……うッ!」
同金、同馬が金当たりよ。こっちは美濃もどきができてるから鉄壁。
だけど、同金以外にないでしょ。はい、指す指す。
幸田さんの同金に、私は同馬、4二銀と使わせて、7五馬と好位置にバックする。
こうなったら、徹底的に囲いの差を主張するわ。
「こっちも補強するしかないな……」
幸田さんはそう言って、4一金打。
攻撃の手が緩んだわね。振り飛車好みの5六歩ッ!
5六歩を見た幸田さんは、前髪をかきあげて悶絶する。
「くぅ……どんどん堅くなる……」
馬の守りは金銀3枚。
要するに、私の陣地は金銀6枚。持ち駒に金があるから7枚。
崩せるもんなら、崩してみなさいッ!
6六桂馬には、5七香。冷静に逃げる。幸田さんは、5八香と追撃してきた。
ここでクールダウンしまして……8四龍かしら?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これが角当たりなのよね。
2五角って、思ったより良くなかったんじゃない?
ピッ、あうち。秒読みになっちゃった。8四龍。
私が龍を引くと、幸田さんは顎に手を当てて、長考に入った。
1分経過……2分経過……。
困ったんでしょ。素直に白状する。
3分経過……4分経過……っと、手を動かしましたね。
ん? 角を助けない? 代わりに香車を……。
え? 角を見捨てて香車を成った?
……あッ、3四龍に4九成香。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同銀は2八銀の一手詰み……同玉は2八銀が必至……。
て、テンション下げ過ぎた……一気に行けば良かったわ……。
ああ、バカバカバカッ! ピッ。3四龍ッ!
「さすがに頓死はしないか」
当たり前でしょうッ! 同銀、2八銀なんて、一生の恥よ。
憤る私を他所に、3九銀が指される。
経験的にほとんど無意識で1七玉。1八玉は3八龍だ。
スネ夫くんは、またまた長考に入った。
あぁ……こういう大事な局面で時間が残ってるのズルい……ほんとに……。
「龍が邪魔だな……」
幸田さんは桂馬を持ち、もう1分考えてから、2二桂馬と打った。
これは……厳しい……2五桂打、2六玉を中心に読んでたのに……。
私は歯を食いしばって読む。龍を見捨てて2六玉は、3四桂、3五玉、4四銀、3四玉、3五飛まで。詰みだ。かと言って、今さら3八の銀は助けられない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリッ!
「ま、そうするよね」
幸田さんはノータイムで、3八龍と入る。
逆転の芽、逆転の芽を残さないと……どこかに……。
時間が無情に過ぎていく。
30秒……40秒……50秒……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリッ!
私は6六の桂馬を取った。
逆転の芽があるとしたら、2四桂あたりからの頓死狙いしかない。
「面倒な手を指すな……」
幸田さんは、残りの2分を使い、寄せを読み始めた。
私も合わせて読む。一番可能性が高いのは、2八龍、2六玉、2五銀。龍を消す手順だ。同龍、同桂。このとき、2二に馬が直通するのが、私の狙い。次に4五角と王様のこびんを狙えば、勝負になるはず。
ピッ。幸田さんの持ち時間が、ようやくなくなった。秒読みだ。
30秒が過ぎたところで、幸田さんは3回軽く舌打ちする。
「いやはや、腕力のあるお嬢さんだ」
だまらっしゃい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ。
予想通りの2八龍。
私は慎重に読んで、2六玉と上がる。2五銀、同龍、同桂。
これは取れない。取ったら2四銀、3六玉、3五飛、2六玉、3四桂。詰みだ。2二桂がほんとうに邪魔……攻防に利き過ぎてるわ……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリッ!
4五角。こっちも攻防一体よ。
3四歩なら同角と喰いちぎって、同桂に3五玉、4四銀、同馬、同歩、同玉から、入玉を目指してやるわ。負けるよりは持将棋狙いよ。ただ、点数が足りないかも……。
いやいやいや、点数のことなんか考えちゃダメ! 入玉ッ!
「ふーん……受けなければ2四桂か……」
そう、それも狙い。だから攻防一体なのよ。
40秒……50秒……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「くッ!」
パシリッ!
私は幸田さんの指し手よりも先に、チェスクロを確認した。
時間が切れて……ない。くぅ……切れてたら、それで勝ちなのに……。
私は歯ぎしりしつつも、盤面を見返す。
こ、これも巧い……攻防一体の……ん?
……………………
……………………
…………………
………………
これ、悪手じゃない? 3六桂で、どうするの?
3七桂成は2四桂が王手だから、2一玉、3五玉と逃げて安全なような……。
ピッ。3六桂ッ!
私はチェスクロを押しながら、3七桂成が詰まないことを確認する。
あれ? だいぶ前からもつれてたけど、完全に逆転したんじゃ……。
「んー、引っかかったね」
……え?
私が顔を上げるのと同時に、幸田さんは2八の龍に触れる。
「これを見落としてるよ」
2……七……龍?
そんなの同玉で……3七桂成ッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同玉、2八飛成で詰みッ!?
2六に王様がいると詰まないけど、2七なら王手で詰むパターンだわッ!
取れない……この龍は取れない……。
で、でも、まだチャンスはあるわ。3五玉として、4四銀なら同馬、同歩、2四桂と王手をしながら飛車を消し、2一玉、4四玉と脱出。3四銀なら、同角、同飛、4五玉、6三角に5五玉と、どんどん寄って行けばなんとか……。
ピッ。3五玉ッ!
「残念、そいつも詰みだッ!」
………………あッ
……………………
…………………
………………
なんて簡単な……上ばっかり見てたから……。
「ま、負けました……」
「ありがとうございました」
私は投了を告げて、そのままうなだれた。左右を見ることができない。
これって……藤女が勝ってて終わりってオチじゃ……。
震える私の肩に、誰かの手が触れた。
「藤女も負けたわ」
歩美先輩の声。
私は慌てて振り返る。
「本当ですか?」
「1—4で負け」
1—4? ……大敗したんだ。
けれど、藤女「も」負けたという事実が、私の気持ちを重くする。
うち「も」負けたのよね……要するに……。
私が押し黙っていると、ギャラリーの方がざわつき始めた。
「おいおい、幸田、冷やっとさせるなよ。時間切れしたかと思ったぞ」
これは……森さんの声。
「いやぁ、先輩、お見苦しいところを……」
「将棋がか? ……もうちょっと、スマートに寄せられたかもな」
「ふふ……そのあたりは、感想戦で……」
「ところで、初日の結果を知らんのだが、うちは優勝の芽があるのか?」
森さんの質問に、幸田さんは肩をすくめてみせる。
「天堂が升風に勝てば、あるいは……」
「要するに、ないってことか。俺はどのみち受験で、県大会には出れんが……」
「スネ夫くん、こっちは昼食にしたいから、感想戦を始めてちょうだい」
歩美先輩の強い語気に、森さんと幸田さんは目を見合わせ、会話を止めた。
幸田さんは櫛を取り出し、熱戦で崩れた前髪を直す。
「そうだね、手短にしよう。……どこからがいい?」
どこから……正直、このままお開きにしたいくらいだけど……。
「5八香からでお願いします」
「どっちの? 僕が指した方? きみが指した方?」
「す……幸田さんが指した方で」
「裏見ちゃんは、ここで8四龍だったね」
そうね……大悪手。4九成香が見えていれば……。
「方針を一貫させて、4八金打でしたか?」
私は逡巡し、それから金で4八の地点を埋めた。
「うーん……悩ましいね……」
「そのまま5九香成でしょ」
と歩美先輩。
あいかわらず口を挟みますね……。
何か、喋る気力もないんで、代わりにお願いします……。
「8四龍で?」
幸田先輩も、歩美先輩の話に乗る。
そのへんは、微妙に紳士的なのよね……この人……。
「3四角は働いてないんだから、あげちゃっていいでしょ。4九成香、同金、5八桂成と、がんがん攻めて終わり」
「どう見ても、攻撃が止まらないわよ」
確かに……ってことは、もつれたのが勘違いで、終始劣勢だったんだ……。
「対局者の香子ちゃんには悪いけど、検討するなら、最初の5八香だわ」
最初の5八香……私と幸田さんは、黙って局面を戻す。
「ま、これは一目、悪手だよね」
と幸田さん。
ですね……2五角が見えてなかったから……。
再び、歩美先輩が答える。
「香車に代えて銀でどうか、ってところね」
「かな。2五角なら、6九歩の切り返しがあるよ」
「4七角成は、6八歩。9八龍は、6五馬で桂馬を救出できる」
あうぅ……幸田さんは、全部読んでたわけか……。
完全に読み負けてる……6五馬で、金に紐まで付いてるし……。
「まあ、5八銀打なら、2五角なんてしないけどね」
「じゃあ、何を指すつもりだったの?」
な、なんで喧嘩腰なんでしょうか……。
幸田さんは、歩美先輩の勢いを流して、不敵に笑う。
「5九金に決まってるだろう」
「6九歩なら、4九金、同玉、3八銀で終わりだよ」
た、確かに……それで終わってるわ……同玉、5八龍……。
ってことは、5八銀打でも、こっちが悪いってことに……。
「……そうね。5九金は、いい手ね」
あらら、歩美先輩、怯みましたか。
もうちょっと、小突いて欲しかったんだけど。
そんなことじゃ、四天王の座は守れませんよ。
「正直言うと、3六銀のところで、直接5八銀を本線に読んでたかな。3五桂、8四飛成、4七桂不成、同銀、6八飛成、5八銀打、5九金、6九歩。このとき、4七の駒が金から銀に変わってて、4九金、同玉に3八銀が利かないんだよね」
「まあ、それでも再度5九金で、僕の方がいいと思うけど」
直接5八銀打……ああ、時間がなくて打ち切った筋だわ。
いずれにせよ、6九歩が見えてなかったから……ダメね。
「他には?」
幸田さんは、歩美先輩から視線を逸らして、私を見つめた。
私は脳内で棋譜を追い、そして溜め息を吐く。
「……ありません」
5八香以下は、ずっと劣勢。逆転はなかったと思う。
「そうかい。……いい試合だったよ。ありがとうございました」
「ありがとうございました……」
場所:2013年度秋季団体戦4回戦
先手:裏見 香子
後手:幸田 進
戦型:先手藤井システムvs後手右銀急戦
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △8四歩 ▲6八飛 △6二銀
▲1六歩 △5二金右 ▲7八銀 △4二玉 ▲3八銀 △5四歩
▲6七銀 △3二玉 ▲5八金左 △5三銀 ▲4六歩 △8五歩
▲7七角 △7四歩 ▲4八玉 △5五角 ▲4七金 △2二角
▲3九玉 △7五歩 ▲同 歩 △6四銀 ▲7四歩 △8四飛
▲7八飛 △7四飛 ▲6五歩 △7七角成 ▲同 飛 △7五銀
▲7六歩 △8四銀 ▲8二角 △8八角 ▲9一角成 △9九角成
▲8一馬 △8九馬 ▲6四歩 △同 飛 ▲6六香 △8八馬
▲6四香 △7七馬 ▲6三香成 △6七馬 ▲5二成香 △同 金
▲5四馬 △2二玉 ▲4一金 △4九馬 ▲同 銀 △3二金
▲8二飛 △7八飛 ▲6八歩 △6二歩 ▲3一金 △同 金
▲3六銀 △3五桂 ▲同 銀 △同 歩 ▲5五角 △3三香
▲2五桂 △2四銀 ▲3三桂成 △同 銀 ▲3四桂 △1二玉
▲3三角成 △同 桂 ▲8四飛成 △6八飛成 ▲5八香 △2五角
▲3八銀打 △3四角 ▲8一龍 △5一歩 ▲5三銀 △同 金
▲同 馬 △4二銀 ▲7五馬 △4一金打 ▲5六歩 △6六桂
▲5七香 △5八香 ▲8四龍 △5九香成 ▲3四龍 △4九成香
▲2八玉 △3九銀 ▲1七玉 △2二桂 ▲3五龍 △3八龍
▲6六馬 △2八龍 ▲2六玉 △2五銀 ▲同 龍 △同 桂
▲4五角 △2四飛 ▲3六桂 △2七龍 ▲3五玉 △2六銀
まで120手で幸田の勝ち