7手目 おしとやかな少女
「歩が3枚……わたくしの先手ですわね」
姫野さんはそう言って、歩をもとの位置にもどした。
後手か……かえって助かったかも。居飛車党なのか振り飛車党なのかも分かんないし、相手の作戦を確認できる後手のほうがいい。
私は深呼吸し、気持ちを落ち着けた。
コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「では、よろしくお願い致します」
「お願いします」
姫野さんはそのしなやかな指を伸ばして、7六歩と突いた。
爪も長いし、凄く奇麗……って、集中集中。
私は8四歩と突いた。
「8四歩……ですか」
姫野さんは、歌うように私の指し手を読みあげた。嬉しそうに目を細める。
「アマチュア棋会ですと、そこを突かれる方は少ないのですよね。皆さん、対抗型や横歩取りなどをお好みのようで……うふふ、面白くなりそうですわ」
な、なんかつぶやいてる……怖い。
私はコーヒーを飲みながら、視線を店外に逸らした。
パチリ──澄んだ駒音に、私は盤面を見る。
この出だしはおじいちゃんと腐るほど指してるわ。
私は3四歩と、角道を開けた。
「やはりそう来ますか……」
姫野さんは6六歩。私は6二銀。
以下、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右、3二金、7八金、4一玉、6九玉、7四歩、6七金右、5二金、7七銀、3三銀、7九角、3一角、3六歩、4四歩。
持ち時間15分。ゆっくり考えられるけど、おたがいに指し手は速い。あせっているわけでもなければ、適当に指しているわけでもない。この4四歩までの手順は定跡として決まっているのだ……と、おじいちゃんが言ってました。
「新矢倉24手組……将棋400年の歴史の中でも、これほど洗練された形は他にございません……美しい……」
うっとりとした表情で、姫野さんは駒組を見つめた。
もしかして、危ないひとに引っかかっちゃった? トイレにでも行って、そのまま抜け出しちゃおうかしら……いやいや、それじゃ飲み逃げになっちゃう。それにマスターと面識があった以上、おかしな人ではないはず。多分。
「さて、この25手目、いかがいたしましょうか」
適当にしちゃってくださいな。私はもう一口、コーヒーをすすった。
姫野さんが1分ほど考えたところで、マスターが紅茶を持って来た。
「ありがとうございます」
姫野さんは丁寧に礼を述べ、紅茶のシリンダーをしばらく放置する。
そしてそのあいだに6八角と上がった。
「今日は森下システムを試してみましょう」
専門用語入りました。私には分かりません。
おじいちゃんは将棋を教えてくれるけど、専門的な話はあまりしない。
飛車を6筋に振るのが四間飛車だとか、そういうことだけ。
私は深く考えずに、4三金と上がった。
「あら、雀刺しではございませんの?」
雀だか燕だか知らないけど、私語多すぎ。
お嬢様校に通ってる人は、やっぱり頭がぶっ飛んでるわね。
私のいきどおりをよそに、姫野さんはまた1分ほど考えた。
私はまだ14分残してる。姫野さんは12分。そんなに考えるところかなあ?
「……わたくしも古典的に指しましょう」
姫野さんは2六歩と突いた。私は8五歩と、飛車先を伸ばす。
姫野さんは紅茶をカップにそそぎ、ミルクを混ぜておしとやかに一口飲んだ。
「ここの紅茶は、大変美味しゅうございますわね」
「そうですね」
飲んだことないけど。私はコーヒー派だから。
姫野さんはカップを皿にもどし、7九玉と寄った。
囲うつもりね。
私は角を6四へ繰り出す。こうしないと角が邪魔で、王様を動かせないのだ。
姫野さんはノータイムで3七銀。角が飛車当たりだから当然。私は7三銀として、いつでも攻勢に入れるよう準備した。4六角のぶつけなら、無視して3一玉としましょ。
姫野さんは8八玉。先に矢倉へ入場した。私も3一玉。
さあ、ここからが難しいのよね。矢倉は本当に神経を使う。ここでも4六角とぶつけてくる手があるんじゃないかしら? よく分かんないけど。
私はコーヒーを飲みながら、気分転換に店内を見回した。
うわッ! みんなこっち見てるッ!
パチリ
軽快な駒音がする。
私は恥ずかしさもそこそこに、盤面へ視線をもどした。
……あれ? なにも変わってない?
私が視線を上げると、姫野さんは扇子を取り出していた。
パチパチと器用に音をたてる。
そ、そんなグッズを持ってるなんて。
私が驚愕していると、姫野さんも顔をあげる。
「……扇子の音が耳障りでしたかしら?」
「い、いえ、お構いなく……」
うぅ、この人と絡んでたら頭が変になる。さっさと終わらせて帰ろう。
私は視線を落とす。視界に姫野さんの指が伸びて来た。4六銀と上がった。
2二玉と囲いたいけど……こっちは既に攻撃態勢。行っちゃいますか。
私は7五歩と開戦した。
パシリと扇子が閉じた。
姫野さんはじっと7五の歩を見つめている。な、なんか雰囲気変わった?
私がビビっていると、姫野さんは同歩と取った。私はノータイムで同角。
7六歩と打っては……来ないかな? そう思った瞬間、3七桂がきた。
……ここはさすがに囲いますか。3一玉じゃ、強く戦えない。2二玉、っと。
チェスクロのボタンを押した瞬間、姫野さんは飛車を5筋に展開した。
中央突破か──私は6四銀として5筋を守る。
「5五歩は許さないおつもりね……」
当たり前でしょ。私が内心突っ込んでいると、姫野さんは右に手を伸ばす。
ん? 2五桂かしら? だけど指はさらにその右へ──1六歩。
「端歩……?」
困惑する私をよそに、姫野さんは紅茶を飲んだ。
うーん、5筋から攻めて来るかと思えば、今度は端歩か……この感覚、なんだかおじいちゃんと矢倉を指しているときに似てる……右かと思えば左、左かと思えば右、攻めるかと思えば守って、守るかと思えば攻める。
うむむ、ちょっと用心しよう。私は時間を使うことに決めた。
……ん? 待って。これって姫野さんが危なくない? だって4筋が──
罠かしら? 私は1分ほど使って、ある筋を読んだ。
……………………
……………………
…………………
………………イケる。
これで先手が困っているはず。
私は4筋の歩に指を伸ばし、グイっとひとつ前に突き出した。
4五歩。同桂だろうが同銀だろうが、4四歩で死ぬという寸法。
さあ姫野さん、どうするのかなっ、と。
ちらりと視線を上げると、うれしそうに笑みをこぼす姫野さんがいた。
怖ッ!
「うふふ、やはりそうですわよね……」
読み筋ってこと? どう対応するつもり?
私はいぶかしんだ。うまい応手がないでしょ。
そう思いきや、姫野さんはすぐに4五桂と取ってきた。
私は速攻で4二銀。次に4四歩で桂馬を取れる。回避する手段はない。
まさかいきなり4四歩、3三桂成、同桂を読んでたんじゃ……私はもう一度、姫野さんの様子をうかがった。笑みは消えてたけど、困っているようにもみえない。ってことは、これも読み筋か。
姫野さんは持ち駒に手をやり、7六歩と置いた。
んー、こういう細かいやり取りは、よく分からない。とりあえず8四角ね。
私がチェスクロを押すと、姫野さんは3五歩。
右、左、右といそがしい。私は無視して、待望の4四歩を打った。
はい、これで桂馬いただきッ!
姫野さんは悠長に3四歩。
私は4五歩で桂馬をゲット。いきなりの桂得。これは大きい。
しかも4五歩が銀当たり。姫野さんは同銀しかない。またまた私の手番。
さてと、桂馬をもらったから、9四桂〜8六歩と攻めたいのよね。
そのためには、8筋にいる角が邪魔。私は7三角と引いた。
この手、9四桂だけじゃなくて、5三銀〜1九角成も見せている。
全部同時に受けるのは不可能。姫野さん、どうするつもりかしら?
私が注目していると、姫野さんは角に指をそえた。
ふえ? まさか4六角? 私が読みを再開した途端、角は3五へと舞った。
……なにこの手? 7一角成狙いなのは分かる。
でもそれって……私は5三銀と引いた。これで受かってる。しかも、こっちは1九角成が狙えるようになったのだ。3五角は、お手伝いな気が。
私が混乱する中、姫野さんは4六歩。ふむ、なるほど、それで受かってるのね。でも3五角が動けなくなったわ。今のうちに攻めちゃいましょ。9四桂ッ!
私は狙いの一手をはなった、姫野さんは3八飛。私は即座に8六歩と突く。
同歩、同桂、同銀。私は飛車を持ち、同飛……ん、ちょっと待った。今ので、私の持ち駒にもう1枚歩ができた。私は4筋を見て、にんまりとした。
飛車を8二にもどし、4四歩と打つ。
姫野さんが3六銀と逃げるなら、3四金で今度は角が死亡する。
放置は4五歩で銀を取られる。うーむ、我ながらイイ手ねッ! マスターと知り合いだからって警戒したけど(棋力的な意味で)、ただの将棋好きなお嬢様みたい。さっき感じた殺気も、きっと気のせいだわ。
そんなことを考えていると、凄い手が飛んできた。
2五桂打……? 銀を逃げないの? じゃあ取っちゃいましょ。
私は姫野さんの銀に触れて、それを──
「……」
なにか嫌な予感がした。ちょっとくらい読もうかしら。
4五歩に……角を切ると……。
「……あッ」
私は銀を取り落とし、あわててその位置を直した。
4五歩は5三角成、同銀に3三銀だッ!
同桂、同歩成、同金寄、同桂成、同金に、3四歩でこっちが潰れちゃう。
ん? でもそこで同金、同飛、3三歩と収めれば……受かって……ないッ! 飛車取りを無視して4三金があるッ! 3四歩なら3三歩、8六飛、8七歩、8二飛、3二金、1二玉。5三金で銀を補充して、1四歩は2五桂、2一桂は3一銀、2一銀は……2一銀なら難しい? 同金なら6九銀と引っ掛けて詰みまでありそうな……。
ちょっと戻りましょう。そもそも3四飛、3三歩、4三金、3四歩に、3三歩で合ってるの? 例えば2五桂としたら……次に8六飛、8七歩、8二飛、3三桂成、1二玉、2二金と清算して、同飛、同成桂、同玉、3二飛、2一玉……あッ、そこで3三金か……3一角が多分最強の受け。でも5二飛成が激痛……次に5三の銀を取って、3二銀〜2三金の筋があるわ……4二飛車は唯一その筋の詰みを免れてるけど、金銀だけじゃ先手玉を詰ませられない。
せ、セーフッ! 危なかった。もっといろいろ受けはありそうだけど、とにかく気持ち悪過ぎる。この路線は却下。
姫野さん、そこまで読んで銀を逃げなかったの……? まさかね。
私は冷めかけたコーヒーを飲んで、一息ついた。
体に力が入ってたみたい。肩が凝る将棋だわ。さてと、集中集中。
銀を取れないとなると……私はしばらく盤上を見つめる。そして、あることに気が付いた。さっきの不利な手順、途中から8六飛、8七歩、8二飛が入ってた。そこで手番が姫野さんに回るから、こっちは受けが一手遅れるんだわ。だったら、この時点でそれを指しちゃえばいいんじゃない?
……うん、そうだ。私は8六飛と走った。
「うふふ……さすがにここでは間違えませんか……」
私がボタンを押した途端、姫野さんは嬉しそうにつぶやいた。
えッ、さっきのはほんとに予定通りってこと……?
思考を整理するヒマもなく、8七歩、8二飛と進んだ。
さあ、これで次は4五歩と取れるわよ。かかって来なさい。
身がまえる私のまえで、姫野さんは1筋の歩を突いた。
1五歩……また予想外だわ。もう銀はくれるってこと?
うーん……私は考え込んだ。しばらく経ってから、なんとなくチェスクロを見た。
残り5分じゃないッ! 姫野さんは7分残してる。か、考え過ぎた。
私はさくッと4筋の銀を取った。4五歩だ。
ほらほら、5三角成と切って来なさい。見事に受け切って──
「そろそろ反撃させていただきましょう」
そう言って、姫野さんは1筋の歩をさらに伸ばした。
1四歩。な、なによ、この歩は……いや、次に成れるのは分かるけど……。
取ったら今度こそ5三角成なんでしょうね。同銀、3三銀、同桂、同歩成、同金寄、同桂成、同金、3四歩、同金、同飛、3三歩。ここまでは前の読みと同じ。だから4三金、3四歩、2五桂。ここで8六飛の必要がないから、なにか指せる。第一感は6九銀の引っかけだけど……3三桂成、1二玉、1四香、1三歩、2二金、同飛、同成桂、同玉、3二飛、2一玉、3三金。
今回は7八銀成が利く。同玉に……6九銀ねッ! 同玉、4九飛、5九銀、4七角、5八銀打、同角成、同玉、4七金、6八玉、5九飛成、7八玉、6九銀、8八玉、7九銀、7七玉、8五桂、8六玉、9五銀、7五玉、8四金、6五玉、6四歩。
詰んでるじゃーん。あッ、でもこれは姫野さんが全く受けないパターンか。
うーん……ん? ってか姫野さん、銀2枚損してるじゃない。
あッ、だったらもっとイイ手を思いついたッ! これよッ!
私は持ち駒の銀にゆびを伸ばし、それを4四に打ちつけた。