81手目 裏をかかれる少女
大会2日目。
残り試合もわずかとなり、会場は緊迫の空気に……ってわけでもないのよね。そのへん、切り替えがうまいと言うか、何と言うか。4回戦の組み合わせは、升風vs藤女、駒桜vs駒北、天堂vs清心なんだから、重要なフェイズだと思うんだけど。優勝の芽がない天堂と清心だって、最下位決定戦なわけだし。
それにもかかわらず、会場では10秒将棋やおしゃべりに興じる人ばかり。
緊張してる私だけ、場違いな感じだわ。
「香子ちゃん、緊張してる?」
どこからともなく、歩美先輩の声が聞こえてきた。
振り返ると、腕組みをした先輩が、背後で仁王立ちしていた。
「え……まあ、ちょっとは……」
「……そう」
先輩は、全然緊張してないんですね。
個人戦の決勝で姫野さんと当たったときと、大違いだわ。
「ところで、オーダーはうまくいきそうなんですか?」
私は気分を和らげるため、話題を逸らした。
「ま、オーダーなんて、当たるも八卦、当たらぬも八卦よ。スネ夫の考えまでは、さすがに読み取れないから。一応、証拠固めの最中」
証拠固め?
スネ夫先輩を、逮捕でもするんですかね?
訝る私の視界に、八千代先輩が現れた。
何か、こそこそしてるけど……いったい……。
八千代先輩は、私たちのそばに来ると、小声で話し始めた。
「見て来ました」
「どうだった?」
「森さんは、やはり来ていません」
……あ、そういう……駒北の控えテーブルを偵察してたんだ。うーん、そこまでやりますか。確かに、2日目に来ないって保証は、なかったけど、それでも……。
「オッケー、こちらの予想通りになりそうね」
歩美先輩はそう呟いてから、私に視線を戻す。
「ただ、気をつけて。オーダーがうまくいっても、即座に勝ちってわけじゃないから。あくまでも、当て馬対決は、こっちが有利ってだけの話よ。気分的には、レギュラー陣が全勝で望んだ方がいいと思う。レギュラー3人が勝てば、それで3勝なんだから」
うん、その方がいいわよね。
他が勝ってくれるだろうって読みは、ちょっと危険だわ。
私が頷き返したのとほぼ同時に、前列から声が聞こえた。
「えー、それではオーダー交換の時間になりましたので、お願いします」
散らばる部員たち。
私たちも志保部長を追って、3列目の長机に向かう。
初日にオーダー表はチェックしてあるからか、人集りは少なかった。
「よろしくお願いします」
部長は腰を下ろし、先に来ていたスネ夫……もとい幸田さんに挨拶する。
「こちらこそ、よろしく」
あいかわらず、笑い方が嫌みったらしいわね。
部長がオーダー表を広げ、スネ夫先輩もそれに続く。
「どちらが先に?」
「駒北からで結構ですよ」
おっと、譲りましたか。まあ、特に意味はないと思うけど。
このへんが、部長の人柄よね。
スネ夫先輩は意味深に眉を上げ、それから口の端を釣り上げた。
「では……駒北、1番席、大将、森です」
「……」
辺りが一瞬だけしんとなり、それから小さなざわめきが起こった。
部長は困惑したような顔で、ごにょごにょと唇を動かす。
「森くんですか?」
「3年生の大川さんなら、顔見知りだと思いますが?」
いや……そういう意味じゃないでしょ……。
こいつ、わざと……。
「こ、駒桜、1番席、大将、大川です」
「2番席、副将、鈴本です」
「に、2番席、駒込です」
「副将ですね?」
「あ、そうです。……失礼しました」
部長、取り乱しちゃダメですよ。
「3番席、三将、藤井です」
「3番席、三将、傍目です」
え、え、え、え? これって……まさか……。
「4番席、四将、裏見です」
「4番席、四将……」
その瞬間、スネ夫くんは、ちらりとこちらを見た。
「幸田です」
嘘……捕まっちゃった……。
「5番席、五将、冴島です」
「5番席、八将、津山です」
私は思わず列から飛び出して、駒北のオーダー表を覗き込んだ。
なッ!? な、何よ、これッ! 予想と全然違うじゃないッ!
周囲のざわめきは、収まるどころか、だんだん激しくなってきた。
そして、冴島先輩の怒声が響く。
「おいッ! スネ夫ッ! 不在者を試合に出すのは、規約違反だぞッ!」
冴島先輩の迫力に押されたのは、むしろギャラリーの方だった。
野次馬が静かになった一方で、幸田さんは涼し気に肩をすくめてみせる。
「知ってるよ」
「だったら、この時点でうちの不戦勝だッ!」
「円くん、規約はちゃんと読まないとダメだよ。『対局開始時点で、対局者が対局会場内にいなかった場合は、急病などの理由がない限り、相手方チームの不戦勝とする』だろう。オーダー交換時じゃないよ」
「じゃあ、森さんをここに連れて来てみろッ! 全然見かけねぇぞッ!」
「それはね……と、失礼」
携帯の音。
幸田さんはポケットに手を突っ込み、キザっぽく前髪をかきあげる。
「はい、幸田です……あ、森さんですか。ええ、オーダー交換が終了したところです。対局は間もなく始まりますので、急いでください。それでは……」
ボタンを押し、通話が途切れる。
「な、何だ、今の電話は?」
「何って、森さんからの電話に決まってるだろ。会館前のバス停に着いたらしいよ」
「なッ!?」
冴島先輩は、軽く青ざめた。
「そんなにうまくバスが着くわけないだろッ!」
「着いたものは、しょうがないだろう。だいたい、森さんは、受験で忙しいんだよ。今回の団体戦だって、『2日目だけなら行ってやる』と言われたくらいだからね」
嘘よ……受験云々、2日目云々は本当かもしれないけど、わざわざ遅刻してくる理由がないもの。バスが到着したって言うのは口実で、もっと早くから、そのへんの喫茶店に潜伏してたに決まってるわ。でないと、こんな都合のいい話が……。
「スネ夫、騙したなッ!」
「騙した? ……そもそも、森さんがうちの控えテーブルにいないことを、何で知ってたんだい? スパイでもしたのかな?」
「そ、それは……」
どもる冴島先輩。
こ……これはまずいわ……突っ込みが的確過ぎる……だって、「うちに有利なオーダーを作るため、森さんがいないかどうか偵察してました」としか、言いようがないから……。
だけど、怒りの収まらない冴島先輩は、拳を振り上げた。
暴力ダメ! 絶対ッ!
「こんなのはムチャクチャだッ! 訴えるぞッ!」
「運営にかい? 出るとこ出ても、いいんだよ?」
「てめぇ!」
「こら、そこッ!」
ああ、これは例の展開だわ……。
全員が振り返ると、そこには千駄会長が立っていた。
ちょ、ちょっと怒ってますね……。
「駒北と駒桜は、何を怒鳴り合ってるんだ? トラブルでもあったのか?」
「……」
当事者が誰も返事をしないので、野次馬のひとりが、会長に耳打ちする。
「現時点でいない選手が出てる? ……幸田くん、それは本当かい?」
幸田さんは、さっきよりもおとなしくなり、首を縦に振った。
「現時点では、だよ」
「対局には間に合うんだろうね? あと5分で開始だよ」
「それはもちろん……」
「幸田先輩、森さんがいらっしゃいました」
そばかす顔の少年が、スネ夫くんにそう告げた。
ギャラリーの視線は、自然と森さんを探し始める。
も、森さんの顔知らない……。
私が戸惑っていると、正面玄関から、眼鏡の痩せこけた人が入ってきた。
な、何か、骸骨みたいなんですが……でも、こっちに近付いて……。
「いや、遅れてすまない」
ようやく聞き取れそうな声で、その人はスネ夫くんに話し掛けた。
「森さん、お忙しいところ、ありがとうございます」
「全くだよ。俺を引っ張り出すからには、勝算があるんだろうね?」
森さんは、やや厳し目の表情で、スネ夫くんを見下ろした。
スネ夫くんは、笑みを浮かべ、前髪をかきあげる。
「僕次第……ですかね」
その気取った返答に、森さんはにやりと笑う。
「ふん、あいかわらずだな。……せいぜい、事故らんでくれよ」
森さんはそう言って、今度は志保部長に顔を向ける。
「大川さん、久しぶり」
「は、はい……お久しぶりです……」
「お互いに大変だね。受験生の身なのに狩り出されて」
「そ、そうですね……」
あ、この人、志保部長が推薦入試って知らないんだ。
まあ、推薦入試組も、そのへんは言い出しにくいわよね。
森さんはオーダーを覗き込み、ぼそりと呟く。
「……ほぉ、大川さんと俺か。最近指してないし、お手柔らかに」
森さんはそのまま鞄を下ろし、1番席についた。
確か森さんは……前主将? 棋力は分からないけど、強豪のはず……。
「はめられましたね。1—2スタートです」
後ろで、八千代先輩が、そう囁いた。
や、やっぱり。八千代先輩の相手も、確か2連勝してるし、苦しいわ。
要するに、1番席から3番席までは、●○●で、ほぼ確定……。
「それでは、間もなく対局を開始しますので、着席してください」
運営の声。これは……もうどうしようもないわね。
私は諦めて、4番席へと向かう。
「裏見さん」
ん? 名前を呼ばれた?
振り返ると、ぴったりと後ろに八千代先輩が立っていた。
……あ、そっか3番席だから、私の隣だわ。
「何ですか?」
「冴島さんにも言いましたが、頭に血を昇らせないでください。駒北がやっていることは、完全に合法です。相手方チームに、誰が不在かを告げる義務はありませんし、対局者がオーダー交換までに来ないといけないというルールもありません。そもそも、オーダーで有利に立とうとしたのは、うちも同じです。駒北だけ非難はできません」
……ですね。何と言う説得力。
「駒北の作戦は、裏見さんと冴島さんのどちらかで拾うというものでしょうが、本命は裏見さんの方だと思います。そのために、幸田さんが自分から当たりに来たのです」
うぅ……それは暗に、勝てって言ってますよね……。
「観る専のアドバイスですが、少しでもお役に立てれば幸いです」
「いえ……どうもありがとうございます」
私は礼を述べて、4番席に座る。
幸田さんは、先に着席して、櫛で髪型をセットしていた。
うぅ……八千代先輩が正しいのは分かるけど……むかつくッ!
「おや、どうかしたかい、お嬢さん?」
何がお嬢さんよッ! このツンツン頭野郎ッ!
「……何でもありません」
「そう緊張しないでくれよ。いくら僕が、2年生四天王の一角だからってね」
……はあ? 何を言ってるんでしょうか、この人は。
私が呆れていると、何と2番席から、歩美先輩が割り込んできた。
「ちょっと、あんたは四天王に入ってないでしょ?」
幸田さんは、櫛を胸ポケットに片付けながら、返事をする。
「いやいや、入ってるよ。千駄、姫野、僕、みっちー」
「何言ってるの? 会長、姫ちゃん、私、みっちーでしょ」
あの……これは……いったい……。
中二病は、中学生で卒業しましょう、はい。
「歩美くん、きみも強情だね」
「強情なのは、そっち。私たち5人で優勝経験がないの、あんただけでしょ」
「でも、勝率は僕が3番だよ」
「そりゃ、会長と姫ちゃんから逃げ回れば、勝率は上がるわよね」
「逃げてるわけじゃないよ。当たる機会が……」
「駒北と駒桜の選手ッ! 私語は謹んでくださいッ!」
はい、怒られました。
ほんと、しょうもない……ここは、幼稚園か何かですかね?
ふたりはしばらく黙ったあと、小声で会話を再開した。
「じゃあ、妥協案で、千駄、姫野、僕、君ね」
「……それならいいわ」
いいんかいッ! 菅原先輩だけ除け者とか、ひどい。
っていうか、集中力が乱れるでしょッ! 味方を妨害してどうするのよッ!
「では、振り駒をお願いします」
振り駒は、森さんと部長が譲り合い、結局部長が振った。
「……駒桜、偶数先です」
「駒北、奇数先」
また偶数先……4連続……。
でもでも、今回は4番席だから、私が先手ね。
くだらない会話も終わったみたいだし、集中、集中。
「……では、対局を開始してください」
「よろしくお願いします」
スネ夫くんがチェスクロを押し、私は7六歩と突く。
うん、駒に触れれば、雑念が消えていくわ。
3四歩、6六歩、8四歩。
対抗型ね。四間飛車にしましょう。6八飛ッ!
「四間か……」
見りゃ分かるでしょ。いちいち言わなくてよろしい。
6二銀に1六歩。端を打診するわよ。
幸田さんは30秒ほど考えて、5二金右。やけに慎重ね。考えるところじゃ、なかったと思うけど……方針を考えてた?
7八銀、4二玉、3八銀、5四歩、6七銀、3二玉。普通ね。杞憂だった?
5八金左としまして……5三銀か。持久戦模様ね。この席が決勝点を稼ぎそうだし、穴熊の可能性がかなり高いわ。……4六歩。
「ふむ……やっぱりそう来たね……」
幸田さんはそう言って、8五歩、7七角を入れた。
何が「やっぱり」なのよ。この進行を狙ってたってこと?
ただの対抗型じゃない。おじいちゃんと腐るほど指したわよ。
私はちらりと視線を上げる。目が合った幸田さんは、にやりと笑った。
「オーダーのことはそろそろ忘れて、将棋で決着をつけようか」