79手目 涙する少女
「い、いかんッ! これは俺が戦犯のパターンかッ!?」
久世さんは顔色を変えて、席を立った。
戦犯? ……あ、そうだ、冴島先輩の対局ッ!
歩美先輩は勝ってるはずだから、冴島先輩さえ勝ってば……。
4番席にも、ギャラリーの人集り。
私と久世さんの対局が終わって、みんな移動したらしい。
「失礼します」
対戦校優先ッ! 私は人垣の中へと飛び込む。
最前列に出た私を待ち構えていたのは……必死に歯を食いしばり、盤面を睨みつける冴島先輩と、冷静ながら殺気に満ちた辻くんの姿だった。
形勢は……冴島先輩敗勢……いや、ほとんど詰んでる……そんな……。
「つじーんの勝ちだな」
後ろの方で、誰かがぼそりと呟いた。
そ、そんなはずは……頑張ればまだ行ける……はず……。
無情に秒読みが進み、無情に指し手が進む。
……………………
……………………
…………………
………………
やっぱり、詰んでる。
簡単過ぎて、誰も見落とさないような詰みだった。
「負け……まし……た」
頭金を置かれた冴島先輩は小刻みに震える手で、投了を告げた。
しんと静まり返るギャラリー。誰も声を上げない。
「うぅ……あぁ……」
嗚咽を上げる先輩。それは次第に、号泣へと変わった。
先輩が……負けた……。
「ぐすん、チームも負けちゃった」
いつの間にか隣にいた数江先輩は、涙ぐみながらにそう言った。
「升風も、危ない試合するね」
「入ってれば、事件だったが……」
決着を見届けたギャラリーたちは、散り散りになっていく。
あとには、涙を流し続ける冴島先輩と、無表情のつじーん、それに私と……。
「う、裏見くん」
半分涙目になっていた私に、後ろから声がかかった。
振り向くと、そこには久世さんがいた。
「な、なにか……」
私は目尻を拭いながら、掠れ声で答えた。
「す、すまない……感想戦だが……止めにするかい?」
感想戦……そっか、まだだっけ……。
「いえ……大丈夫です……」
「そうか……じゃあ、先に席に戻って待ってるよ」
久世さんはそう言い残して、3番席へと戻って行った。
私はしばらく気持ちを落ち着けて、対局席へと向かった。
「すみません、お待たせしました」
着席したときには、盤面はなぜか少し進んでいた。
詰みを確認していたのかもしれない。
「いやいや、構わんよ。……どこから始めようか」
「……6九飛の周辺でお願いします」
私が逆転を感じたところだ。
だけど、確実に逆転してたのかは、分からない。
むしろ、久世さんのポカの可能性の方が大きいと思う。
「ふむ……6九飛ね……」
久世さんは一息吐くと、盤面を再現した。
駒を動かしているうちに、私はだんだんと気持ちが楽になる。
自分の将棋に集中する。
「さてさて、手拍子で5九香と打ってしまったわけだが」
久世さんはそう言いながら、5九に何度も香車を空打ちする。
まあ、それは何と言うか……打ちたくなるわよね。
「王手を防ぎつつの王手ですからね」
「そうなんだよなあ。だけど結果的には、5九金だったか」
「……そうですね。金打ちの方が嫌でした」
私が正直に答えると、久世さんは軽く頷いた。
「まあ、しょうがないな。5九香に5七銀が見えてなかった」
なるほど……そこが見えなかったんだ……。
だとしたら、どうやっても5九金じゃなくて香と打つわね。
「5七銀なあ……これがなあ……」
久世さんは、何度もぼやきながら、桂馬を空打ちし始めた。
あ、それね。
「同角、5九飛成、4九桂で、受かってないですか?」
おっと、この声は……蔵持くんですね。
久世さんは空打ちを止めて、その太い首をねじ曲げる。
「お、くららん、どうだった?」
「いやぁ、歩美さんに、こてんぱんにされちゃいました」
照れくさそうに頭を掻く蔵持くん。
「ハッハッハ、そうか、そうか。俺もだ」
ぐぅ……この勝ちチーム特有の開放感は……。
まあ……久世さんはこてんぱんってわけじゃないけど……。
「ところで先輩、本譜は?」
「本譜は、5九飛成、2八玉、5七龍だな」
「あれ? 桂馬は? 角に紐がつきますよ?」
「うーん、それなんだがなあ……5八銀と打たれたときの対応が……」
声をか細くしながら、久世さんは4九桂馬と打つ。
私はそれに合わせて、5八銀。
「……何ですか、この銀?」
ぽかんとするくららんを他所に、私は感心していた。
なるほど、この罠は、見えてたんだ。パニクったようで、案外冷静ね。
「種明かしすると、6五銀の詰めろに、4九銀成、2八玉、5七龍でな……」
しばらく盤面を見つめたくららんは、ハッとなる。
「あ……そういう……」
「そうそう、そうなんだよ。本譜より、さらに桂損してるんだよなあ」
正解。4九桂の紐には、この5八銀を用意してたんだけど……引っかからなかったわね。ただ、この銀打ち周辺は、先手に妙手があると、すぐに終わっちゃう形かも。1分将棋ならではの攻防戦だ。
「4九桂に5八銀が見えたのが、40秒あたりで、もう時間がなかったから、とりあえず角を捨てて守りに入ったんだ。だけど、その後がまた……」
「んー、これも良くなかったな。6六玉くらいで逃れてそうだ」
そうね。本譜はカッコつけで4九銀としたけど、6六玉の方が安全そう。
「確かに、6六玉で入玉を確定させた方が、良かったかもしれないですね」
「ってことは、5七龍以下は、どうやってもこっちの負けか」
……かな。6九飛、5九香の時点で、先手は勝ちが滑り落ちた感じ。
「じゃあ、もっと遡らんといかんな。個人的には……5七角あたりか」
「これ、どうだった?」
どうだったと言われましても……。
「あるんじゃないでしょうか……実際、龍を抜けましたし……」
「打った瞬間はそう思ったんだが、よく見ると、微妙に損してるんだな」
損? ……あ、そっか、途中で桂馬を取られてるんだ。龍を抜いたとは言え、それは角捨ての代償だし、純粋に駒割りで見ると、角桂交換まで戻ってる。もちろん、こっちが依然として駒損だけど、その前は銀損だから、かなり接近してるわね。
「そう言われれば、そうですね」
「ふむ……大技が見えると、ついついやってしまうが……」
その気持ち、分かります。
私でも、「いい手、見っけ!」とか言って指しちゃいそう。
「やはり、5七銀打、5五玉と引かせた方が良かったか……」
「6三角成は、どうです?」
おっと、この声は……。
「お、歩美くん……アドバイスかね?」
「ええ、6三歩と打たれた瞬間に、同角成で」
歩美先輩、久世さんには一応敬語なんだ。
私がそんなことを思っている間、久世さんは6三角成とした。
「これは……」
「放置したら、6四馬、同桂、同龍までですよね。だから、当然の同金ですけど、同龍が7三角からの詰みと5六歩からの詰みを見せた、上下の詰めろ。回避するなら、3五銀とでも捨てるしかないですが、冷静に同歩で勝っているのでは?」
「うーむ、6三歩に同角成だったか……さすがは歩美くんだ」
た、確かに……これは助からない……負け濃厚……。
「ということは、龍抜きの大技が敗着……これだから将棋は止められん」
おお、太っ腹ッ! 負けてなお趣味に楽しむ、ですか。
しかし、あの6五角が敗着とは、ちょっと思わなかったわね。
指された瞬間は、むしろ「やられた」って感じだったけど。
「これで負けなら、私の7九飛が悪手ということに……」
「7九飛か……」
「これは正直、読むのを後回しにしていたな。5四歩かと思ってたよ」
「それは私も読んだんですが、7四角、6三歩、6五桂が分からなかったんです」
「7四角、6三歩、6五桂……」
「6一金と7三金のダブル詰めろか……意外と厳しいな……」
「7四角って、詰めろなんですか? 違うなら、先に7九飛と下ろせません?」
と蔵持くん。冷静ですね。
「ちょっと読もう」
……………………
……………………
…………………
………………
ぎりぎり詰まないっぽい?
「えーと、一番厳しいのは、5二角成、同玉、7二龍、6二歩、6四桂ですか?」
「うむ、俺もそれを読んでいたが……5三玉は、5二金、6四玉、6五金、同玉、7五龍までだな。4二玉は6二龍、3一玉、3二金で即死だ」
私は頷きながら、別の筋を披露する。
「ですから、4一玉と逃げて、先手は6一龍」
「5一の合駒は全部同龍ですから、3二玉と逃げますよね」
「さて、これが金2枚、桂馬1枚で詰むかだが……」
詰まないんじゃないかしら?
3一金、2三玉、1五桂、1四玉。これはもう、王手がかからないでしょ。
2三金、同玉、2一龍、2二金も一緒。斜め後ろに利く駒がないわ。
「違う手順で詰んでません?」
歩美先輩きたーッ!
でも、どうやって?
「詰むかい?」
「初手を5二角成とせずに、6一金です。7三玉なら8三龍、6四玉、6五歩、5五玉、6七桂まで。5三玉なら、そこで5二角成」
ん……これはさっきと似たような展開ですが……。
「あ、そっか……」
「うーむ、なるほどッ!」
同玉なら、7二龍で詰みだわ。5三玉、6二龍まで。
かと言って、5二角成に6四玉は、7五金、5五玉、6七桂まで。
ぴったり……本当にぴったりの詰み……。
「ということはだぞ。7四角が詰めろだから、7九飛とは下ろせんわけだ。すると、本譜の先に7九飛が、まだマシだったことになる」
「そういうことに……なりますか……」
私たちが了解し合う中、歩美先輩はさらに口を挟んだ。
「個人的に、後手は7九飛〜4九角〜6七銀の筋にこだわらないで、7八飛、6八金と金を使わせ、7九飛成、6九歩からの捻り合いに持って行った方が、良かったと思います。この展開なら、さっきの6五桂馬にしても、詰めろが外れますから」
……ですか。すぐには同意できないけど、最初から7八飛もあったわね。
7八飛、6八金、7九飛成も、詰めろか。見えてなかったわ。
「いやはや、こいつは面白かった。いい対局だったぞ。ワハハ!」
久世さんの高笑い。そっちはチームが勝ってますからね……嬉しいでしょうよ。
これで私は2勝1敗。チームも2勝1敗。
ただ、私が勝ったらチームも勝つ、って法則は成り立ってない。
私が負けてもチームは勝つし、勝っても負ける。そんな展開だ。
「……他のチームは、どうなりました?」
私が尋ねると、歩美先輩はこちらに視線を下ろした。
「藤女、駒北勝ち」
うーん……やっぱりそうか……。
これで2勝1敗が3校。戦国時代に突入ね。
感想戦はこれくらいにして、最後にひとつだけ……。
「久世先輩……どうして筋違い角を?」
私の質問に、久世さんは一瞬きょとんとしてから、豪快に笑った。
「いやぁ、裏見くんは、相居飛車でつじーんに勝ってるだろ。対抗型でもかなり勝ってるみたいだし、俺じゃちょっと相手にならんと思ってな。攪乱戦術だよ」
なるほど……そういう……舐められてたわけじゃないんだ。むしろ、逆ね。
そう考えると、ちょっとだけ嬉しいかな。
「よし、今日はお開きだ。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
○
。
.
夕暮れ時。
日の短くなり始めた市民会館の前に、私たちは集合していた。
誰が中心になるとでもなく、円陣を組み、一様に押し黙っている。
その沈黙を破ったのは志保部長だった。
「それでは、1日目の反省会を開きたいと思います。まずは……」
部長は、ぐるりと部員を見回し、歩美先輩に視線を止めた。
「まずは、主将からお願いします」
指名を受けた歩美先輩は、静かに頷いた後、その唇を開く。
「今日は3勝で、いいスタートを切れたと思うわ。内容もまずまずね」
……………………
……………………
…………………
………………
え? これだけ?
「駒込さん、以上ですか?」
「以上よ」
短い……勝者の余裕ですか……それとも、ほんとに喋ることがないのか……。
部長も少し戸惑っていたが、すぐに先を続けた。
「では、私が。今日は1回戦と2回戦に出させていただき、2戦とも勝ちを収めることができました。特に1回戦は、3—2の一角に滑り込めたので、大変嬉しく思います。升風の調子が良いので、総合優勝は難しいかもしれませんが、藤女も2—1ですから、2日目も頑張って行きましょう。以上です」
うーん、手堅くまとめてきましたね。
っていうか、部長、2勝0敗って、何気に凄くない?
相手が両方当て馬クラスだったのを考慮しても、貢献度大よ。
「では……木原さん、お願いします」
おっと、数江先輩か。
冴島先輩に、ちょっと配慮したかな。
「えっとね、今日は3回指して、1勝2敗だよ。勝っちゃった。やったね」
……………………
……………………
…………………
………………
「以上ですか?」
「うん、以上だよ」
私がずっこけていると、部長は八千代先輩を指名する。
先輩は眼鏡を直したあと、厳粛な顔で話し始めた。
「今日は3回戦目、当て馬として出させていただきました。うまく千駄会長に当たれて、役目は果たせたかと思います。将棋の内容は、私の四間に対して、千駄会長の鷺宮定跡。『傍目さんじゃないと、こういう将棋に付き合ってくれないからね』と言われたのが、何と言いますか……大変ときめきました。はい。以上です」
好きなアイドルと握手した女子高生みたいになってるんですが……それは……。
「では、冴島さん、お願いします」
きた……空気が変わる。みんな、ちょっとだけ気まずそう。
冴島先輩は軽く溜め息を吐いたあと、悲し気な笑みを浮かべた。
「今日は全部出て1勝2敗……チーム貢献ゼロの完全なお荷物だ……すまねえ」
うわぁ……いきなりそう入りますか……重い……。
「何と言うか……準備が足りないってわけじゃないんだが……いや、言い訳は止すか。1回戦は部長が勝ってくれなきゃチーム負けだったし、3回戦は裏見が勝ってくれたのに、オレのせいで負けにしちまった。……本当に申し訳ねえと思ってる」
「円ちゃんは悪くないよ。当たりが悪いんだよ」
うぅ……数江先輩、優しい……。
「へへ、ありがとな。……ま、3回戦はみっともなく泣いちまったが、将棋の内容は酷いもんで、横歩のマイナー研究にはめられて、そのまんま押し切られた形だ。もうちょっと勝負に徹した方が良かったかもな。つじーんの横歩を受けたのがバカだったか」
冴島先輩は、少し俯いて、遠い目をする。
「……まあ、今さら言ってもしょうがねえな……すまん」
静寂。数江先輩と部長は、目を潤ませていた。
八千代先輩も、黙って耳を澄ませている。
ただひとり歩美先輩だけが、全てを聞き終えて、指先を立てた。
「ま、2—1で折り返せたし、良しとしましょう。藤女は升風、うちは駒北を残して最終戦が直接対決だから、県大会進出の目は、大いにあるわ。張り切っていきましょ」
そうか……とりあえずの目標は、藤女を破って県大会進出……。
「よっしゃ、いい加減、県大会出るか」
冴島先輩が手を叩く。
そうよッ! その意気だわッ!
「そんじゃ、張り切っていきましょ」