78手目 ダークサイドに堕ちる少女
ふぅ……すっきりした。席に戻りまして……。
「失礼しました」
私が詫びを入れると、久世さんは盤から顔を上げた。
「遅かったね」
ついでに、顔を洗ってたからかな。5分と経ってないと思うけど。
「余計なお世話かもしれんが、離席は時間攻めに遭うし、要注意だぞ」
時間攻め? ……あ、そういうことか。私が席を離れた直後にこっそり指せば、私の時間だけどんどん減っちゃうんだ。微妙に危なかったわね。
「ま、俺はそういう非紳士的行為はせんがね」
そう言って久世さんは、すぐに同龍と取ってきた。
ふむ……これは予想通り。
私が戻ってすぐ指したところを見ると、待っててくれたのかも。
悪いことしちゃった。今度から、トイレは事前に行っておきませう。
私が同玉と応じると、久世さんは深く頷く。
「そっちか……」
同金もあると思うけど、両方読む時間がなさそうだったのよね。
こういうところで、時間制限が重荷になるわ。読み切れない。
久世さんは30秒ほど確認して……。
8二飛……7四角じゃなかったか……。
まあ、これも7二歩で……。
駒台に手を伸ばした私は、青ざめる。……二歩だ。
しまった。7四角〜8二飛なら7二歩だけど、逆にされると打てない。
ま、また手順前後……8九歩成に続いてのポカ……。と、とにかく、何か受けないと。候補は、7二桂、銀、角、飛のどれか。5一玉の逃げは、7四角が詰めろで、7九飛と下ろせない。第一感は……詰ますときにあまり使わなかった、桂馬かな。使うときは、確か7二に打った気がするし。
7二桂。私は桂馬を打ち、チェスクロを押した。残り4分。久世さんは5分。そこからさらに1分使って、久世さんは8一飛成と入った。
んん? 8一飛成? これは詰めろじゃない……わよね? 7九飛に6一金、6三玉(7三玉は8四龍、6四玉、7四龍、5五玉、6五龍で頓死)、8三龍、7三銀(5四玉は7四龍、6四歩、6五角、5五玉、5六歩まで)、7四角、5四玉、6六桂、6四玉、6五歩、5五玉……うん、詰まないわ。相当際どいけど、詰まない。ただ問題なのは……この手順、久世さんの詰めろを消しちゃってるのよね。7三龍、4九角、6八玉。ここで6七歩は、打ち歩詰め。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3八角成で打ち歩自体は回避できるけど、私の王様は5六銀の一手詰み。
7九飛車と下ろせないなら……1回受ける? でも、どうやって? 7一銀なんて打ったら、それこそ攻め駒が足りなくなるわ。9一龍、7九飛、6九香、6三歩、6八銀。これは手順に銀を逃げられて、勝てない。
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………………
5四歩と突く?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
6一金に5三玉、8三龍、6三歩を用意するわ。
これなら、7九飛〜4九角〜6七銀の詰み筋を残せる。
ただ、そこで7四角と出られると、相当困ってるような……6三歩なら、6五桂が7三金と6一金の詰みを見た詰めろ。これが相当受けにくい……。
ピッ。持ち時間がなくなった。ここからは、1分将棋だ。
6五桂……6五桂にうまく対処できれば……ああッ! 分かんないッ!
方針変更ッ! 7九飛からの攻め合いに託すわッ!
ピッ、ピッ、ピーッ! パシリッ!
「む、先打ちか」
久世さんは、少し驚いたような顔し、頬を紅潮させた。
両者気合い十分。土俵はまだ割らないわよ。
久世さんは両手を眼鏡のフレームに合わせて、肘を突く。
て、テーブルが軋んでる……。
「これは読んでなかったな……」
やったッ! 時間を使ってくださいなッ!
私も合わせて読む。読み抜けて、詰んでないでしょうね。大事件よ。
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………………
詰んではないわ。だけど、5五玉の処置が問題。
うまい回避がなかったら、7九飛は敗着……それだけは勘弁……。
「金で引っぱり出すしかないな」
む、その結論に至りましたか。
私は背筋を伸ばし、久世さんの着手を待つ。
予想通りの6一金。
私はノータイムで、6三玉と立った。
「読みきりか……」
というわけでもないんですけどね。
問題は、時間の使い方。お互いに1分将棋だから、相手の分も使わないといけない。私が1分考えると、その間に久世さんも1分考えられる。私がノータイムで指せば、久世さんは自分の時間を使うしかないけど、私は自分で自分を時間攻めしてることになる。
こ、このバランス……度し難いわ……。
久世さんは8三龍と引き、王手をかけてきた。これも予想済み。私は、久世さんの時間が増えることを承知で、56秒ぎりぎりまで考え始めた。
その間も、将棋は進んでいく。7三銀、7四角、5四玉、6六桂、6四玉、6五歩、5五玉。ここまでは読み通り。久世さんのターンだ。
私がさっきから読んでいるのは、7三龍の詰めろに、7八飛成の王手。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
6八銀打なら、5六銀と6四銀、同桂、同龍の詰みが消える。しかも、6七角、5九玉に7九とが詰めろだ。同銀は同龍で即詰み。逃げるなら3九銀だろうけど、6八とと銀を回収し、5二角成なら5八と、3七玉、7七龍と壁を一掃、入玉模様ね。
そこまで考えたとき、久世さんは一瞬だけ、8三の龍に手を伸ばした。
きたッ!
「……失礼」
久世さんは目を細め、龍を置き直す。
あうぅ……そのまま指してくださいな……。
でも、7三龍以外に何かある? 候補としては、5二角成だけど……。
久世さん、顔を真っ赤にして読んでるわね。入玉に気付いたかしら。
「そうか……抜けられる……」
ああ……気付いたっぽい……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
指された手は……5六歩。
ん? 5六歩? これは……同玉、5七銀、5五玉のつもり?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
でも、これは打ち歩詰めで……。
あ、そっか、4九角からの詰めろ消しか。分かったわ。
じゃあ、恐れずに同玉ッ!
私は歩を払って、チェスクロを押す。
お互いの王様が、真っ正面に睨み合った形だ。怖い。でも大丈夫。
久世さんは、また59秒まで考えて、5七銀と上がる。5・五・玉。
これで詰まないわ。
「よし、寄せるか」
久世さんは暑くなったのか、腕まくりをして、7三龍と寄った。
うんうん、これで私の読み筋に入ったわ。7八飛成として……。
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………………
6八銀左があるじゃない。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
そうか……5六歩〜5七銀は、この布石……桂馬に紐をつけて……。
7八飛成、6八銀左、6七角、4八玉は、先手に銀が残ってて、詰めろの解消になってないわ。6四銀で詰み……。血の気が引いて行く。
……いや、待って。5六銀の詰みは消してるんだから、6四さえ守ればいいのよ。
ピッ。7八飛成ッ!
「やはりそうきたか」
久世さんの6八銀左に、私は6七角と打ち込む。4八玉に、6三歩ッ!
かっこいい手じゃないけど、今はこれしかない。
とにかく、詰めろを消さないと。
「むぅ……」
久世さんはひとつ呻いて、口元を結んだ。
ここでムリヤリ攻めるなら、5六歩、同角成、同銀、同玉(6六玉は6七銀打、同龍、同銀引、5五玉、5六飛で都詰み)、5七銀打、5五玉。そこで2八角が好手に見えるけど、4六歩で止まっている。同角なら4五玉。同銀なら、今度こそ6六玉だ。
50秒、51秒、52秒、53秒、54秒……ピッ。
「いかん、いかんいかんッ!」
久世さんは猛スピードで駒台に手を伸ばし、5六歩と打った。
ボタンを叩いた反動で、チェスクロが跳ね上がる。
私はノータイムで同角成とし、同銀、同玉。
さあ、5七銀と打って来なさいッ!
久世さんは顔をますます真っ赤にして、盤の左側を睨んでいた。
ん? 左側? 何が……あッ!
「銀打ちは詰まんッ!」
久世さんは自分にそう言い聞かせて、6四歩と突いた。
ぐッ……銀を打たずに角筋を通した……で、でも、これは……。
私は10秒も考えずに、6六玉と寄る。こうなったら時間攻めよッ!
久世さんは肩で息をしながら、寄せを読んでいる。
まずい……正確に読まれると……寄りそう……間違えて……。
「うっしッ!」
50秒がカウントされたところで、久世さんは5七角と打ち付けた。
5五玉なら6六銀、5四玉、6五角の詰み……。
ぴ、ぴったり、歩すら余らずに詰んでる……。
でも、7六玉と寄れば……6五角ッ!?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
どう応じても、7八龍と抜かれちゃう……8七玉と滑り込めない……。
と、とにかく7六玉よッ! 最後まで諦めないわッ!
7六玉、6五角、同玉、7八龍に5六桂。私は必死の反撃を試みる。
3九玉に4二金引。このへんは、おじいちゃんとの対局で心得たテクニック。
即詰みがなくなったし、焦ってちょうだい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「分からん、分からんぞ」
久世さんは慌てた手付きで7五飛。
私は人差し指一本で、5四玉と下がる。
久世さんも私も前傾視線。盤が暗い。
「えーいッ! 安全策だッ!」
くぅ……このへんは、さすがの3年生……冷静な一手だわ……。
だけど、ここで攻防の5五角打ッ!
「そ、その手があったか……」
4二金引は、この角打ちの伏線。いきなり5五角は、6五銀で詰んでしまう。
3四銀、9九角成。1九もあるけど、それは6六桂で危険と判断したわ。
「つ、詰みはないのか?」
うーん……あるかも……ないかも……。
私はもう、時間攻めモードだし、久世さんはいい感じにテンパってくれてる。
あとは、5五銀と指せれば……逆転……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「引きずり出すッ!」
そ、それでも打って来たッ!? ……いい手かも。5五銀が間に合わない。
私は頓死しないよう、5五玉と上がる。
7五龍引、6五香。
「同龍ッ!」
なッ!? 切って来たッ!!
同玉、7四龍、5五玉。王様が中央で大暴れ。
「俺の玉は詰まない……はずッ!」
て、手を渡したッ!?
放置なら6四龍の一手詰め。同金なら同龍で詰めろ。
でも、5四銀と打てば受かって……ないッ!
4六金、同歩、同角で詰んでるッ! こ、こんな詰み筋が……。
ならば踏み込む一手ッ! 同金、同龍、6八桂成ッ!
「……と、取りながらの詰めろ逃れかッ!」
うふふ、うっかりしたみたいね。
久世さんは、脂汗だらだらになりながら、同角。
それも悪手ッ!
「ん……それは……」
久世さんは動きを鎮め、じっと飛車の王手を睨んだ。
駒台の香車を掴み、5九に打ち付ける。
そう……それで困ってるように見えるんだけど……5七銀。
「……」
「……」
時間が止まる。時代劇で言えば、斬り合ったあとの静止画。
「か……角が助からん……」
そう、その通り。5六歩、同玉、4八桂なら、6七玉と滑り込み、5四桂に6六歩と打つわ。最初から9五角の逃げは、7七歩と止めて盤石。少なくとも、1分将棋では完全に逆転模様。これが9九角成の効果よ。
さあさあ、この銀は、放置できないでしょ。取る手は同角のみ。
「ど……同角……」
5九飛成。
はい、王手角取りのできあがり。
ふふふ……ふあっはっはっはッ! これが裏見様の終盤術よッ!
伊達に毎日毎日、狡猾なご老人方と指してないわ。
「バカな……7三龍の時点では、勝ってたはず……」
でしょうね。あの時点では、私の敗勢だったわね。
でも、待ったなーしッ!
久世さんは苦悩しながら、2八玉と上がる。
5七龍、6五銀(この手は予想通り)、4九銀(5六金を誘うわ)、5六金(来た)、同龍、同銀、同玉。これで久世さんの持ち駒は、飛車と桂馬のみ。詰まないはずだし、詰みがあるとしても、1分じゃ読み切れないわよね。
「よ、4八金」
それも読み筋。5五角。
久世さんは、桂馬を惜しんで3七桂と跳ねた。
「それ、詰みますよ」
「……なに?」
3八金、同金、同銀成、同玉……3七角成。
当然に同玉だけど、2五桂打の追撃。私は桂馬を惜しまないわ。
4八玉なら3七銀、5九玉、7七馬、6八歩、5七香、5八歩、同香成、同玉、5七金、5九玉、4八銀成、6九玉、6八馬まで。2六玉と上がるのは、3七銀、1六玉、1五香、同玉、1四歩、2四玉、1三金まで。同銀と取っても同桂でお代わりだから無意味。
19手詰めよ。菅原先輩より2手長いし、こっちの方がフ・ク・ザ・ツ。
「つ、詰んでるのか?」
あーら、まだ分からないのかしら。うふふ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同玉ッ!」
「2五桂打」
……………………
……………………
…………………
………………
「そ、そうかッ! 5九玉に、7七馬と引けるのかッ!」
正解ッ! まだ指しますか? 指しませんか?
「飛車合いも、同馬で詰む……負けました」
「ありがとうございました」
私が歌うように挨拶すると、あたりはしんと静まりかえり、それから唐突にざわめきが起こった。
「こ、これを逆るのか……完全に負けてただろ……」
「つえぇ……」
私たちの対局テーブルは、いつの間にかギャラリーに取り囲まれていた。
これがいつも姫野さんの見てる世界か……だけど……。
今なら彼女にも勝てる……そんな気がするわね。
場所:2013年度秋季団体戦3回戦
先手:久世 友治
後手:裏見 香子
戦型:先手筋違い角
▲7六歩 △3四歩 ▲2二角成 △同 銀 ▲4五角 △6二銀
▲3四角 △3二金 ▲6六歩 △6四歩 ▲8八銀 △6三銀
▲7七銀 △3三銀 ▲7八角 △5四銀 ▲6八飛 △4四歩
▲3八金 △4五歩 ▲4八銀 △2四歩 ▲5八金 △4三金
▲6七金 △4四銀 ▲5八玉 △3三桂 ▲6九飛 △3五銀
▲5六金 △7四歩 ▲8六歩 △8四歩 ▲3六歩 △4四銀
▲6五歩 △8五歩 ▲同 歩 △6五歩 ▲同 金 △同 銀
▲同 飛 △8八歩 ▲6二歩 △7一金 ▲6三飛成 △5二金
▲6九龍 △8九歩成 ▲5六角 △6二金寄 ▲6三歩 △5二金
▲6二銀 △同金上 ▲同歩成 △同 飛 ▲同 龍 △同 玉
▲8二飛 △7二桂 ▲8一飛成 △7九飛 ▲6一金 △6三玉
▲8三龍 △7三銀 ▲7四角 △5四玉 ▲6六桂 △6四玉
▲6五歩 △5五玉 ▲5六歩 △同 玉 ▲5七銀 △5五玉
▲7三龍 △7八飛成 ▲6八銀左 △6七角 ▲4八玉 △6三歩
▲5六歩 △同角成 ▲同 銀 △同 玉 ▲6四歩 △6六玉
▲5七角 △7六玉 ▲6五角 △同 玉 ▲7八龍 △5六桂
▲3九玉 △4二金引 ▲7五飛 △5四玉 ▲7二飛成 △5五角
▲3四銀 △9九角成 ▲6六桂 △5五玉 ▲7五龍引 △6五香
▲同 龍 △同 玉 ▲7四龍 △5五玉 ▲6三歩成 △同 金
▲同 龍 △6八桂成 ▲同 角 △6九飛 ▲5九香 △5七銀
▲同 角 △5九飛成 ▲2八玉 △5七龍 ▲6五銀 △4九銀
▲5六金 △同 龍 ▲同 銀 △同 玉 ▲4八金 △5五角
▲3七桂 △3八金 ▲同 金 △同銀成 ▲同 玉 △3七角成
▲同 玉 △2五桂打
まで140手で裏見の勝ち