6手目 喫茶店の少女
木原先輩は盤面を見つめながら、
「うーん……難しいなあ……」
とつぶやいた。
【先手:裏見香子 後手:木原数江】
両腕をテーブルにおいて、さらにそこへ頭をのせている。お行儀が悪い。
局面は終盤。私の圧倒的な優勢。さすがにここから逆転はないでしょう。
プロ相手ならともかく、後手は木原先輩だし……ちょっと失礼な言い方だけど。
「8一玉だと……うーん……」
それは7三桂不成、9二玉、8三金、同歩、同歩成で詰み。
「……あ、そっか、8一玉は7三桂成でダメだね。必至がかかりそう」
成らずで詰むでしょッ! なんで成るし……成りたがりなお年頃?
先輩はべつの手を読み始める。
「8四金、7三銀、8一玉、8四銀成はどうかなあ……」
7三銀は打たない。いきなり7三桂成と捨てる。
同玉に6四馬。6二玉なら、7三銀、7一玉、7二歩、同金、同銀成、同玉として、そこで7三金。以下、6一玉、6二歩、7一玉、7二歩、8一玉、8二金で詰み。だから7三桂成を取らずに8一玉だけど、8四飛車が詰めろ。先輩が考えてる7三銀よりも速い。
「他になにかないかな、っと……」
ないです。そろそろ投了して欲しい気もする。
そもそも私がここへ来たのは、木原先輩と指すためじゃないのだ。
リベンジ。冴島先輩と対局するのが目的。
そう、ここは駒桜市立高校女子将棋部の部室。部室と言っても、物置のようなところに、テーブルをふたつ並べてあるだけ。学校の備品がしまってある本棚に、たくさんの棋書が置かれていた。
「ふむふむ、香子ちゃんの王様は詰まないんだね」
詰むわけないでしょッ! まともな王手が掛からないじゃないですかッ!
……ふぅ、いけない、血圧が上がる。高血圧は美容の敵。
それにしても木原先輩、よっぽど将棋が好きなのね。私が冴島先輩を待ってたら、やたらと誘ってきたし。
それからもうひとり、気になる人物がいた。私のとなりに座って、じっとこちらを観戦している眼鏡の女の子だ。部長の大川先輩じゃない。今日初めて見るひと。三つ編みのお下げで、ところどころそばかすがあった。
タイピンのラインは2本。2年生。
部員名簿をちらりと見たら、ひとりだけ知らない名前があった。
傍目八千代さん──このひと?
それにしてもおかしい。八千代先輩の観戦態度が、じゃない。私が来たとき、傍目先輩と木原先輩は一緒にいた。だけど木原先輩は、彼女と将棋を指していなかった。入室した私を見て、「やっと指せるよ」なんて言ってたくらい。
もしかして傍目先輩、駒の動かし方も知らないのかな?
数合わせの幽霊部員ってやつ? ……それにしては熱心に観戦してる。しかも彼女が手にしてる雑誌、将棋の雑誌な気がする。『将棋ワールド』って書いてあるし。
ここで木原先輩が動いた。
「しかたないから8四金って取ろ」
私はノータイムで桂馬を成ろうとした──ろうかでにぎやかな声がした。
聞き覚えがある。私は桂馬を持ったまま、入口をふりかえった。
スライド式のドアがあき、3人の女子が姿をあらわした。
「おーすッ」
いたッ! 部長の後ろに冴島先輩を発見。あいかわらずの学ラン姿だ。
校則違反にならないのかしら……? ま、どうでもいい。
「先輩、待ってました」
私は木原先輩との将棋を中断し、冴島先輩に声をかけた。
冴島先輩もさすがに私の顔をおぼえていた。
「よお、昨日の今日で入部してくれるとはな。指した甲斐があったってもんだ」
「入部じゃありません」
私の返答に、冴島先輩は「へッ?」と声をあげた。
「今日はリベンジに来ました」
「あのなあ……それはちょっとばかし……」
ここで駒込先輩がわりこんできた。
「円ちゃんにリベンジしたいなら、入部してもらわないとダメよ」
いやいや、私も反論する。
「リベンジするなら入部、っていう条件はなかったと思います」
「私がたった今そう決めたから。円ちゃんは今後、将棋部員以外とは対局禁止」
メチャクチャだ。となりの冴島先輩もあきれてる。
「先輩はここのシェリフってわけですか?」
「そうよ」
駒込先輩はあっさりそう言ってのけた。逆に私が困惑してしまう。
私が言葉に詰まっていると、先輩は先を続けた。
「私は駒桜市立高校女子将棋部の主将よ。主将は部員の生活にまで口出しできるの。一日何時間将棋の勉強をするとか、だれとだれが指すとか、大会期間中はテレビゲームをしないとか、いろいろね……だから円ちゃんは対局禁止」
な、なによその強権!? 日本の首相だって、そこまで口出しできないわよッ!
「そういう管理社会みたいな部には入れません」
駒込先輩は「そう」とだけつぶやき、会話が終わった。あのさぁ。
もうこのひとは放っておこう。でも冴島先輩とは指したい。このままじゃ、先輩の勝ち逃げになっちゃう。勝ち逃げされるのが一番ムカつくのよね。
私と駒込先輩がバチバチやっていると、大川部長があいだに割って入る。
「えーと……これから例会ですので、議論はまたの機会に……」
大川部長、ちょっと弱気。権力関係が主将>部長っぽい。
どうやら公式の部活動らしく、私は退室させられてしまった。
鞄を持って、部室をあとにする。
肩を怒らせて、校門へと向かう。
まったくあの駒込ってひと、どういう神経してるのかしら。
怒髪天で校舎を出ると、5月の風。校庭には運動部がいるだけで、友だちはみんな帰ってしまっていた。1時間も将棋してたら当たり前か。
冴島先輩にリベンジできなかったのは残念だけど、また今度にしよう。
さて、今日はおじいちゃんも、なにかの例会で遅くなるって言ってたし、帰っても特にすることないわね。ファミレスで詰め将棋の本を読みますか。
学校から歩いてわずかに10分。もう見えてきた……あれ?
ようすが変……駐車場に自転車が一杯……嫌な予感がする。
私はファミレスの入口をくぐった。レジの店員と目が合う。
「申し訳ございません。ただいま満席となっております」
見回せば、スポーツユニフォームの男女が一杯。
体育会のパーティーか。いくら学校で飲食できないからって、ここはやめて欲しい。
「……また来ます」
私はベルの音を背にファミレスを出た。
はあ……今日はとことんツイてない。どこか他にくつろげる場所──
あ、そうだッ! 今日は水曜日じゃないッ!
水曜日と言えば、あそこの喫茶店がコーヒー学割100円ッ!
ファミレスのコーヒーに大金払うところだったわ。団体客様々ね。
私は一度来た道を半分ほど戻り、十字路で今度は左に曲がる。一見住宅街のような地域に見えるけど、穴場のコーヒーショップがあるのだ。名前は八一と書いてヤイチ。おじいちゃんの後輩で、やっぱり将棋好き。八一っていう名前が、その証拠。
……あ、見えてきた。私は店のガラス戸を開ける。
涼やかな鈴の音。口髭のある店長が、こちらを見てほほえんだ。
「いらっしゃい、香子ちゃん」
「こんにちは、マスター」
「いつものコーヒーだね?」
私はうなずいて、早速席をさがした。うーん、さすがに混んでるわね……宣伝もなにもしてないお店だけど、口コミで有名だから。
でも4時を過ぎてるし、お客さんは減ってるみたい。
木原先輩の長考が、まさかこんなところで役立つとは。
……あった。私は窓際の奥、観葉植物に近い席に腰を下ろした。
鞄の中から、詰め将棋の本をとりだす。先月買って、半分くらい解いてあった。
ちゃちゃっと片付けますか……私が集中していると、図面に影がさした。
マスター、今日はえらく速いのね──ん?
顔を上げると、立っていたのはマスターじゃなかった。
びっくりしちゃうくらい奇麗な女の人が、じっとこちらを見つめていた。
セーラー服を着ていた。市内の名門、藤花女学園の制服だとすぐわかった。
上着の左胸に、藤の花の刺繍があったからだ。
「あの……どなた……」
「あなた、将棋をなさりますの?」
はい……それがなにか? そのまえに、あなたはだれ?
腰まである長々とした黒髪に、ちょっと切れ長の目。
私がじっくり観察していると、少女は先をつづけた。
「わたくしも将棋をたしなんでおりますの」
はあ、そうですか……けっこう珍しい趣味だけど、私も人のこと言えないし。
で、なにがおっしゃりたいのでせうか?
「いかがでしょう、ひとつお手合わせなどを……」
お手合わせ……? 一局指せってこと? ここで?
私が目を白黒させていると、少女は勝手に向かいの席に座った。
私は本を置き、どう対応したものか迷った。
「あの……将棋盤とかないですし……」
「わたくしが持っております」
少女は鞄から、ビニールの盤と樹脂駒を取り出した。
絶句。部室にあったのと同じものだ。
最近の女子高生は将棋盤を常備してるの? そんなまさか。
少女はそれをテーブルに広げ、さらに時計のようなものを取り出す。
……チェスクロじゃんッ! なにが起こってるのか、わけがわからなくなる。
少女は駒箱を開けて、中身を盤の上にそっと出した。なるほど、お嬢様学校なことだけはあるわね。私なんか、一気にぶちまけちゃうのに。
って、そんなことどうでもいいわ。このシチェーションはなんなの? どうして喫茶店で知らない女と将棋を指すのよ……おかしいでしょッ!
なんか周りの人たちに見られてるし。
「ご自分でお並べになってください」
ハッ! ……この人、もう半分並べてる。
私は無意識のうちに、王様を手にしていた。定位置におく。
「見事な手つき……これは期待できそうですわ……」
いや、期待しなくていいから。それよりこの状況を説明してよ。あなただれ?
「あの……お名前は……」
「姫野咲耶と申します」
ヒメノ……お姫さまの「姫」に、野原の「野」かしら?
そういうことにしときましょ。他校だから学年はわからない。
「さて……」
先に並べ終わった姫野さんは、余った歩を駒箱にしまって、鞄へもどした。
「15分30秒でいかがでしょうか?」
「はい?」
私は上ずった声で、姫野さんを見つめ返した。
姫野さんも私を見つた。
「15分30秒では、ご不満ですか?」
「いえ……15分30秒ってなんですか……?」
あら、と言った顔をする姫野さん。
そういう業界用語はやめてください。
姫野さんは説明を始めた。
「持ち時間15分。それがなくなると、一手30秒未満で指すルールです」
「あッ、そういう……」
「お分かりになられまして?」
私はうなずきかえした……なんでこの流れに呑まれてるの、私? おかしくない?
私が混乱してると、マスターがコーヒーを持って来た。
「あれ、咲耶ちゃんじゃない」
姫野さんもあいさつする。
「おひさしぶりです、マスター」
「さっき来たの?」
「ええ、こちらのかたが詰め将棋の本をお持ちで、それが目にとまり……」
マスターは納得顔でうなずきかえした。
いや、どういうことなんですか? 私は姫野さんを盗み見する。マスターが驚かないところを見ると、このひと、将棋で有名なのね。でなきゃ、マスターは私のほうに声を掛けてくるはずだし……手強いかも。さっきの駒を並べる手つきも、素人じゃなかった。
私は気合いを入れる……って、やっぱり流れに呑まれてるじゃないッ!
「咲耶ちゃんもコーヒー?」
「いえ、ダージリンでお願い致します……ミルクで」
注文を聞いたマスターは、ふたたびカウンターへもどる。
姫野さんは私に向きなおり、にっこりとほほえんだ。
その笑みには、どこか薄ら寒いものがあった。
「それでは、振り駒をいたしましょう」