72手目 読みふける少女
雑音が消えていく。
私の脳裏に閃いたのは、この局面で4四金。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ぼんやりしてるようで、狙いは2つはある。
ひとつは、3二銀の回避。もうひとつは、飛車の押さえ込み。4四金とされた局面で、先手は指す手が難しいはず。例えば4六銀と戻るのは、同成銀、同角、4五銀。これまでと違うのは、そのときに3二銀の打ち込みがないこと。これは先手の負け。同角に代えて同飛なら、4五金と直進するか、あるいは4五歩or4五銀で押さえ込む。
銀を戻らず4八歩、5八成銀、4六角なら、今度は4一飛車の回りがあるわ。
すぐに飛車を成り込めるわけじゃないけど、先手も3七銀が遊んでるし、最悪、4五桂馬から突っ込んでもいいと思う。こっちは薄いから、際どい勝負だけど……少なくとも、単に4五桂馬と跳ねるよりは、戦えそうね。
よし、決めた。4四金としましょう。
私は金に力を込めて、まっすぐ立った。
「金?」
田中くんは額に皺を寄せて、盤面を睨む。
悪手だと言いたそうな顔を最初はしていたが、だんだん表情が変わっていく。
「こ、こんな手があるのか……」
私も、田中くんに合わせて読む。
優勢にはならないけど、互角な変化が多いみたい。
読み抜けていなければ、あるいは……。
田中くんの持ち時間は10分を切り、それからも長考が続いた。両腕を組んで、体を前後に揺すっている。将棋を指す人が、無意識にやる動作だ。
残り時間が5分に突入したところで、田中くんは大きく息を吐いた。
「これがあるなら、3七銀はなかったなあ」
どうやら、困ってるみたいね。実際、3七銀のところで、4八歩と銀交換を強要された方が、嫌だったかも。いつでも3二銀があるし、交換後に4四金と立っても、今度は5四銀の打ち込みがあるから。……この一手を稼げたのは大きいわ。
となると、普通の手じゃなくて、勝負手がきそう。経験的に。
私がそう思った瞬間、案の定の予想外な手がとんできた。
2六銀? ……なるほど、銀を取られると困る変化があると見ましたか。
個人的には、まだ4八歩の方が嫌だった気もするけど……さて……。
3七に銀がいないなら、4五桂はちょっととぼけてるかな。2六銀には一応、3五歩からガリガリこじ開けていく変化もあるし、悠長な手は指せないわね。例えば4一飛、3五歩、同歩、同銀、同金、同角、同角、同飛、5八成銀、3三飛成、4八飛成。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
途中で変化はありそうだけど、これが一例かな。3五歩を放置するのが困難ね。さすがに長考しただけあって、2六銀が無意味な手ってことはなかったか。
何かいい手は……む、5七歩とか、どう? 角筋が止まれば、3五歩からの攻めは成立しないんじゃないかしら。それどころか、こっちからも3五歩と突き易くなる。5七歩、5四歩、同銀、5九歩、4五銀、3九飛……守備駒の銀が離れちゃうけど、これもありそう。飛車は4一じゃなくて、6一に回る形かしら。
私はもう一度読み筋を確認して、それから5七歩と打った。
田中くんは、また溜め息を漏らす。
「そうするよなあ……これは……」
田中くんはぶつぶつ言いながら……同金ッ!?
こ、これは疑問だわ。少なくとも、私の直感はそう言ってる。穴熊の金を、わざわざ立ち往生してる成銀と交換してるんだもの。先手が損よ。
でも、これはチャンス。当然の同成銀、同角に4五桂馬はどう?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この角当たりが厳しいんじゃないかな? 例えば4六角に3五金打として、同銀、同金、同角、同歩、4六飛。桂当たりだけど、放置して6九角、7九金打、3六角成、同飛、同歩とすれば、こっちが有利……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
じゃないわね。5四歩があるわ。
同銀に3二角が痛打。かと言って3五角も4三角くらいで悪いような……。せっかく敵の穴熊がスカスカなのに、7九金打とさせるのは、センスないかも。というか、金銀渡しちゃダメでしょ、常識的に考えて。
方針変更。あくまでも押さえ込みましょう。4六角なら5六金とへばりついて、角を逃げた瞬間に5七桂成と足がかりを作る。飛車があいかわらずニートだけど、むしろ守りに利かせちゃいましょ、右玉の8一飛車みたいにね。よし、決まり。
私は同成銀、同角、4五桂と進める。田中くんは予想通りの4六角を指し、私の5六金に素早く2八角と逃げた。んー、2八に逃げますか。個人的には疑問。
私は駒音高く、5七桂成と突っ込む。
「ん? 桂成?」
田中くんは、眉間に皺を寄せた。
え? 悪手だった?
背中にひんやりとしたものを感じた瞬間、田中くんは中央の歩を突いた。
「5四歩?」
今度は私が驚く番だ。
これは……金で取ると、3四飛と走られちゃうわよね。だから銀で……。
銀で取って、何か悪いの?
私はいろんな筋を読む。……同銀で悪くない……はず。同銀。
私の手とほとんど入れ違いに、5八歩が打たれた。
「ふえ?」
……あッ……金が助からない。同成桂は5六飛、っていうか、どう動いても5六飛。金を助けるには5五金と引くしかないけど、それは5七歩で成桂を……ん? 成桂を?
……………………
……………………
…………………
………………
これって悪手じゃない? こうしたら、どうするの?
私は成桂を、6七に寄った。
田中くんは、大きく目を見開く。
「金、貰っちゃうよ?」
どうぞ、どうぞ。
私の催促が届いたのか、田中くんはあっさり5六飛と寄った。
では、わたくしも……。
「あれ?」
田中くんの動きが止まる。
はい、これは私が得してますね。
5八歩が妙手に見えて、錯覚しちゃったパターンだわ、きっと。5四銀と素直にぶち込まれてた方が、よっぽど嫌だったかも。
「そっか……いやー……参ったな……」
ぼやきを連発する田中くん。
どんどん時間が減ってるわよ。30秒……20秒……10秒……ピッ。
はい、1分将棋。私はまだ9分残してる。持ち時間でも差がついたわ。
田中くんは後頭部をぽんぽん叩いた後、銀を手にする。
7九銀打と補強する気? それは同成桂で……。
「もう暴れるしかないな」
そう言って田中くんが指した手は……5五銀ッ!?
……同銀、同角、同金、同飛狙い?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
んー、角を逃げた後で補強されると、意外と面倒……でもないか。
さすがにこっちがいいと思うけど……具体的にはどうやって……。
あ、そっか、この手があったわ。一応念入りに読んで、と
……………………
……………………
…………………
………………
成立かな。じゃあ、同銀ッ!
同角、同金、同飛と指して、田中くんは口元を引き締めた。
やれる、って顔してるけど……この手はどうですか?
私は8八成桂として、当然の同玉に7九銀と打つ。
「タダ捨て?」
じゃないわよ。よーく見てくださいな。
10秒ほどして、田中くんアッとなる。
「王手飛車かッ!」
正解。同玉は4六角で王手飛車よ。
ただ、その後がちょいと面倒で、実はそこまで優勢でもないという……。
ピッ、ピッ、ピーッ!
田中くんは覚悟を決めたかのように、同玉と取った。
私はノータイムで4六角と据える。
再び考え込む田中くん。この王手飛車、応手がいろいろありそうだけど、正解は多分ひとつだけ。5七金。それ以外は、潰れる順がありそう。例えば5七飛なら、5六歩で終了。6八銀なら、5五角、5四金の両取りに……。
むッ! 6八金と受けて来ましたかッ! これは予想の斜め上ッ!
この勝負、いただきよッ!
私は5五角と飛車を回収し、田中くんは渾身の5四金。
両取りには両取り返し、の予定なんでしょうけど、そうは問屋が卸しません。
6六角ッ!
7七銀打と受けたら同角成、同金、2六角。飛車得はさすがに勝ちでしょう。
だからと言って受けないのは……8八金から詰みますよ。
田中くんは、腕組みを解いて、背筋を伸ばした。
「……負けました」
「ありがとうございました」
私も一礼して、大きく息を吐いた。
「いやー、きれいに決まっちゃったな。5七銀だった?」
5七銀? ……あ、4六角への応手か。感想戦ね。
「5七金の方が良くない?」
「金? 何か違いある?」
「5七銀だと、5五角、5四金に、やっぱり6六角って出られるわ」
「同銀で?」
「6七金」
「そっかそっか、これが詰めろ銀取りなんだな」
そういうことですね。5七金なら、6七に打たれないのよね。
「正直、5七金で難しいかと思ってた」
「うーん、5七金はちらっと考えたんだけど、5五角、5四金、2六角、5五金のとき、5九角成の備えになってなさそうだから、切っちゃったよ」
5五角、5四金、2六角、5五金、5九角成……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
確かに、これも嫌かな。私の勝ちに見えるわね。
でも、6六角の方が激痛なわけで……ん? もしかして……。
「ごめん、失礼なこと訊くけど……6六角が……」
田中くんは両腕を組んで、真面目な顔付きになる。
「うん、見えてなかった」
っと、そういうことでしたか。
「タダ取りできる銀を放置して、6六に出てくるとは思わなくてさ」
1分将棋だから、2六角の方ばかり読んでたわけね。納得。
このへんは、終盤に時間を残してた私の作戦勝ちかしら。
「中盤はどうだった?」
そうねえ……中盤は……。
「こっちの方が苦しかったかな?」
私が正直に答えると、田中くんは小首を傾げた。
「そうかな? 俺の方が苦しいと思ってたけど」
ふむ……お互いに息苦しさを感じてたパターンですか。
一手ばったりの局面が続いてたし、さもありなんって感じね。
「正確に指したら、やっぱり穴熊の堅さが生きるんじゃない?」
「正確にねえ……どこで間違えたかな……」
「とりあえず、5四歩は疑問だったかも。5八歩が意味なかったし」
私の指摘に、田中くんも頷いた。
「あそこから、いきなり悪くなったもんな」
「6七成桂で大丈夫と読んでた?」
田中くんは照れくさそうに笑い、刈り上げられた頭を掻く。
「いやー、てっきり5五金、5七歩で、成桂を払えると思っててさ」
あらら……そんなことだろうと思ってました。
まあ、一瞬ドッキリしたのは認めるわよ。見えてない筋だったし、金が7八じゃなくて7九にいたら、ほんとに困ってたもの。6七成桂が効いたのは、たまたまだったわね。
「じゃあ、5四銀って打ってみるか」
田中くんは気を取り直して、5四銀と打ち込んできた。
これは……。
「同銀、同歩、同金までは確定かな?」
私はそこまで進める。
「3四飛車って走るよな」
……ですね。飛車成と金取りの十字飛車。
「4三銀と受けても、3三飛成が銀取りね……」
「そこで4四金だと?」
4四金? それは……。
「4五歩って打つかな」
「3二歩で龍を追い返せない? 3八龍なら、そこで4五金」
「うーん、龍は逃げないと思う。4四歩、3三歩、4三歩成くらいで……」
局面を進めた田中くんは、頬をぷっくりと膨らませる。
「んー、4八飛があるぞ」
おっと、両取りどころか、三面取りですか。凄いわね。
5三とと角を取るか、2八の角を逃げるか、7八の金を受けるか……。
角逃げはないかな。働いてない角を守ってもしょうがないし。
二者択一で、7八の金を守るか、5三の角を取るか……。
「7九金打って受ける? そこ取られたら、将棋が終わっちゃいそうだけど」
「5三と、7八飛成に、7九金って弾けないかね?」
……そうかも。すぐ受ける必要はないか。
「5三と、2八飛成、7九金打、2六龍……じゃなくて6七成桂?」
「こりゃ、穴熊特有の、切った張ったになりそうだなあ」
そうねえ、ただ、6七成桂は、下手すると2手スキにすらなってないわけで……。例えば4五角くらいで、全然ダメそうなのよね、後手が。
「やっぱり、5四銀って打たれたら、困ってたかも」
「だね、そう打っときゃ良かったな」
後悔先に立たず、か。いい諺だわ、ほんと。
「じゃ、俺は先輩たちの応援したいし、ここまでにしようか。ありがとね」
いえいえ、こちらこそ、どうも。
「ありがとうございました」
場所:2013年度秋季団体戦
先手:田中 広典
後手:裏見 香子
戦型:居飛車穴熊vs四間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二銀
▲6八玉 △4二飛 ▲2五歩 △3三角 ▲7八玉 △9四歩
▲9六歩 △4三銀 ▲5六歩 △7二銀 ▲5八金右 △5二金左
▲5七銀 △6四歩 ▲3六歩 △6二玉 ▲5五角 △6三銀
▲6六歩 △7一玉 ▲3七角 △3二飛 ▲8八玉 △4二角
▲2六角 △2二飛 ▲4八角 △3二飛 ▲7八金 △8二玉
▲6七金右 △7二金 ▲1六歩 △1四歩 ▲9八香 △3五歩
▲同 歩 △同 飛 ▲4六銀 △3二飛 ▲5七角 △5四歩
▲9九玉 △4五歩 ▲3五銀 △5三角 ▲3六歩 △3四歩
▲2六銀 △4四銀 ▲8八銀 △5五歩 ▲同 歩 △同 銀
▲5六歩 △4四銀 ▲3七銀 △2二飛 ▲4六歩 △3三桂
▲6八角 △2一飛 ▲4五歩 △同 銀 ▲5五歩 △4六歩
▲同 銀 △3六銀 ▲3八飛 △4七銀成 ▲3四飛 △4三金
▲3六飛 △3四歩 ▲3七銀 △4四金 ▲2六銀 △5七歩
▲同 金 △同成銀 ▲同 角 △4五桂 ▲4六角 △5六金
▲2八角 △5七桂成 ▲5四歩 △同 銀 ▲5八歩 △6七成桂
▲5六飛 △7八成桂 ▲5五銀 △同 銀 ▲同 角 △同 金
▲同 飛 △8八成桂 ▲同 玉 △7九銀 ▲同 玉 △4六角
▲6八金 △5五角 ▲5四金 △6六角
まで112手で裏見の勝ち