71手目 誘惑される少女
パチパチと、初手の音が聞こえる。
田中くんはしばらく「うーん」と悩んでから、7六歩と突いた。
悩むところですかね……3四歩。
2六歩、4四歩、4八銀、3二銀、6八玉、4二飛。まずは四間飛車から。2五歩、3三角、7八玉に9四歩として、端を打診する。
「うーん」
田中くんは腕組みをして、悩み始めた。
序盤に苦労してるみたいだけど……作戦を決めてなかったのかしら。
「受けとくか」
そう言って田中くんは、9六歩。
受けましたか。ひとまず4三銀と上がりまして、5六歩、7二銀、5八金右、5二金左。ふふふ、私だって、ちょっとくらい勉強してるのよ。昭和将棋からの脱却ッ!
5七銀右、6四歩、3六歩……ん? ほんとに急戦?
団体戦は持久戦の方が多いって、歩美先輩が言ってたけど……。
まあ、いいわ。とりあえず居玉を回避しまして……6二玉、と。
私の玉上がりに、田中くんはうんうんと頷いた。
「ここで、こうだな」
ふえ? 5五角?
……あ、高美濃を強要してから、3七角引きか。
ただ、穴熊を牽制するなら、6三銀〜7一玉なのよね。どうしましょ。……アマチュアの私がここで考えても、しょうがないか。6三銀、と。
6六歩、7一玉、3七角。角頭を窺いますか。3二飛。
「んー、激しいなあ」
まあまあ、初戦から気が萎えないようにね。がんがん行くわよ。
やる気を出した私の前で、8八玉が指された。はい、4二角、と。
ほらほら、次に3五歩と仕掛けちゃうわよ。
先手は王様を囲えてないから、強気でOKなはず。
田中くんは2六角と、3筋を受けた。私はすかさず、2二飛と寄る。
「うわ、また角の頭……」
田中くんはその角に触れた後、指先を放す。
「失礼」
ちょっと謝って、それから再び考え始めた。
ん? 何を考えてるの?
「千日手は嫌だしなあ……」
千日手? ……ああ、3七角、3二飛、2六角、2二飛の繰り返しね。
んー、私は先手番でも後手番でもいいから、千日手はノーサンキューなんだけど。ただ、こちらから回避する手段がなさそうだし、決定権は田中くんにあるかな。
田中くんはさらに1分ほど考えて、4八角と引いた。
千日手回避。私は3二飛と戻る。まさか、ここで2六角じゃないでしょうね。また千日手模様になるわよ。それは勘弁。
私が心配する中、指された手は7八金。
何、この手は? ……6七金右〜9八香とする気? こっから穴熊? 端歩は突いてあるけど、この組み方はそれっぽいわね。だったら、即座に3五歩と開戦……して大丈夫? 例えば、3五歩、同歩、同飛、4六銀で……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3二飛と引いて、5七角、5四歩、6七金右、4五歩(同銀なら4四歩で銀が死ぬわ)、3五銀……危ないか。こうなっちゃうと、むしろ私の方が薄いわね。6一の金なんて、王様以外に紐がついてない状態だし……。
これは止めときましょう。一回8二玉と上がりまして……。
6七金右、7二金。な、なんか、雁木みたいな形になったわね……。
戸惑う私に対して、田中くんは1六歩、1四歩を入れてから9八香。来ました。やっぱりクマる気ね。そうはさせないわよ。3五歩ッ!
田中くんもこれは読んでいたのか、あっさり同歩と取ってきた。同飛、4六銀、3二飛、5七角、5四歩、9九玉、4五歩と突いて、3五銀に容易の手、5三角ッ!
「ん……その手があったか……」
さあさあ、受けなきゃ3五角で、こっちの銀得よ。
3六歩と打ちなさい。3六歩と。
私の気迫が伝わったのか、田中くんは3六歩と打った。
ちょっと手損だけど……3四歩としましょう。2六銀と引かせて、4四銀。
よし、これで好形になったわ。
多分、次の手は……うん、8八銀ね。ハッチは閉められちゃったけど、イケるはず。私は5五歩と開戦した。
「取るしかないよな……」
ですね。放置すると、5六歩と取り込んで、同金なら5五歩で終了。かと言って、5六歩に6八角は、そのまま5五銀と制圧されて勝てないでしょ。
田中くんは歩を取って、チェスクロを押す。同銀、5六歩、4四銀。これで、何かのときに5七歩から、と金を作れるわ。一歩持ったし、焦らずいきましょう。
「ちょっと失礼」
そう言い残して、田中くんはどこかへ行ってしまった。
トイレ? トイレは、先に済ませましょう。
私はそんなことを思いながら、盤面を睨む。こちらの構想としては、7四歩〜7三桂としたいんだけど、銀冠に組み替えられないのよね。変な雁木もどきにしたのは、失敗だったかしら? 囲いに発展性が……。
というか、先手はここからどうする気なの? 案外に、飽和しちゃってる気がするんだけど……この形じゃ、3八飛とは寄れないでしょうし、3七桂は反動が……。
「お待たせ」
田中くんは、アクエリアスのペットボトルを持って帰って来た。なんだ、自販機へ買い物に行ったんだ。私も後で買いに行こう、と。
田中くんは一気に3分の1ほど飲み干すと、蓋を閉めて脇にボトルを退けた。一息ついてから、3七銀と下がる。
む……銀の後退……これは読んでなかった……。
5七銀〜4六銀〜3五銀〜2六銀〜3七銀なんて、手損もいいところだけど、こちらの対応は……2二飛の一手? 放置すると、2筋を突破されちゃうのよね。4二角の受けは、ちょっとありえないし……。
私は盤上この一手で、2二飛車と寄る。向かい飛車になっちゃった。
「クマったし、もう行くか」
啖呵を切った田中くんは、ぴしりとした手付きで4六歩と突いてきた。
……なるほどね、これが3七銀からのワンセットですか。同歩、同銀、4五歩と収めても良さそうだけど……5五銀と出てきたら、3三銀〜5四歩で銀が死ぬし……。
ただそれより、3三桂と跳ねたいかも。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これ、いい手なんじゃないかなあ。4五歩なら同桂で、一気に優勢。もちろん、取らずに6八角なんでしょうけど、自分から4六歩と突いといて、4五歩と取り込めないんじゃ、ダメでしょ。指し手がちぐはぐだわ。
私は桂馬を2度ほど空打ちして、3三桂と跳ねた。
田中くんの顔色が変わる。
「取らない手があるのか……」
おっと、読んでなかったのね。しめしめ。
田中くんは1分ほど悩んで、6八角と引く。私は2一飛車と、手待ちした。
「取れない気がするんだよな……」
かもね。4五歩、同銀、4六歩は、角筋が止まって論外。銀の処置も困難なはず。だから4五歩、同銀に……5五歩?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
次に4六歩で銀が死ぬから(今回、死ぬケースが多いわね)、当然に4六歩。次に4七歩成を狙うわよね。そこで4八歩なら、4四角と出て、歩をかすめ取りますか。5八飛と回れなくなってるから、5五の歩を守れないわよ。
かと言って、4八飛の受けには、2四歩。無視して4六銀なら、同銀、同飛、4五歩、4八飛、2五歩……ん、2四歩があるかしら? 2六角は2八飛で藪蛇だけど、かと言って先手からは2三銀なんてゴリ押しもあるから、2四歩を放置できないような……。
途中で間違えたかも。要検討。
……………………
……………………
…………………
………………
「そっか」
私は思わず、声を漏らしてしまった。
ま、相手も独り言してるし、いいでしょ。
さてさて、トリックが分かりましたよ。4八飛なら、やっぱり2四歩。4六銀に、同銀としないで、3六銀だわ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3七銀とムリヤリぶつけてきたら、4七歩、4九飛、3七銀成、同桂、3八銀、5九飛、4八歩成で大優勢。途中、4九飛じゃなくて2八飛の寄りなら、筋悪かもしれないけど3六銀と打ちましょう。2四歩の取り込みには、3七銀成で一手早いし、3八歩の受けなら、4八歩成とと金を作れる。
オッケー、4八飛も大丈夫ね。ドンと来なさい。
私が構えていると、田中くんはようやく4五歩と取り込んだ。
同銀、5五歩、4六歩……同銀ッ!?
直取りですか。これは同銀と……できないわね。取った後で、こっちの3二に傷が残ってる。でもでも、これにはさっきの読み筋が応用できるんじゃない? 3六銀、3八飛、4七銀成、3四飛に、4三金の顔面受け。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
飛車を引くとしたら、3六よね。次に3四歩と打たれたら終わりだから、こちらが先に3四歩と打ちまして……先手どう指す? こっちが押さえ込めるかどうかの勝負になってるわね。もう、7四歩〜7三桂の暇はなさそう。ひたすら大駒を捌かせないようにしながら、2筋を逆用のパターンか。
うん、悪くはないわ。3六銀、と。
「あちゃー、そこ出れるのか」
ととと、真面目に読んでくださいな。
田中くんは、再び長考に入った。中盤はリードって感じかしら。
「2筋は突けないし、5筋に飛車回るのもなあ」
ですね。2四歩の突き捨てはマイナスになるだけだし、5筋に回るのは、4七銀成、5六飛に、4一飛から逆襲できそう。あるいは単に4六銀と取って、同飛、4五歩と押さえる線も……4六同角なら、4五銀で両取りよ。
田中くんは渋々と言った感じで、3八飛と寄った。
私はノータイムで4七銀成。そこから3四飛、4三金、3六飛、3四歩と進む。
さーて、ここで田中くんが何を指すかだけど……。
田中くんは、長考中に次まで読んでいたらしく、すぐに3七銀と指した。
また読んでない手がきました……。
ここで銀交換は、したくないのよね。3七銀なんて働いてないし、ここで銀交換しちゃうと、3二銀と打たれるのが激痛だから。
よって、候補手は……パッと見、4五桂と5六歩かな。まず4五桂馬だけど、これがあるから3七銀は疑問手だと思うのよね。4六銀のままなら、桂馬を跳ねる余地はなかったわけで……。それに、4五桂の局面で、先手は何を指すの? 何も手が……。
あるわ、4八歩が。4八歩、3七桂成、同桂、同成銀、同飛は、桂馬と銀をそれぞれ交換しただけで、有利なところがなくなってるような……3二銀でも5四銀でも潰れそう……。4八歩、5八成銀として、4六角ならそこで3七桂成は? 同桂なら、2七銀で飛車が死ぬわよ。……同角で何ともないか。先に3七桂成、同桂、5八成銀、4六角、3五銀も、同角と切って、同歩、5六飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
成銀を逃げないといけないけど、やっぱり次に3二銀がある。却下。
5六歩はどう? 5六歩、同金……金がそっぽに行ってるけど、それを咎める手が思い浮かばない。もう4五桂とは跳ねられないし……。
じゃ、じゃあ、単に3七同成銀とする? 同飛なら2六角と出て……あ、4七飛が金当たりになってる……全然ダメ……。
あれ? 思ってたより、有利じゃなかった? 大局観がおかしかったかも……。
……………………
……………………
…………………
………………
4五桂馬と跳ねて、田中くんの間違いを期待する?
4八歩に気付かないかもしれないし……。
いや、でも……気付かれたら終わり……。
私は、頭がくらくらしてきた。自分のおかしな声が聞こえてくる。
4五桂って跳ねちゃおうよ。田中じゃ4八歩なんて気付かないって。
ダメです。香子さん。大切な団体戦ですよ。油断は禁物。
大丈夫、大丈夫。うまく対応されても、終盤で逆ればいいの。
相手は穴熊、こちらは木村美濃。逆転は困難かと。
しょ、将棋の天使と悪魔が戦ってる……。
4五桂以外に手がないわ。これ以上考えるのは、持ち時間の無駄。
どんな局面でも最善を尽くすのが将棋指し。初心を忘れてはいけません。
相手が間違える手を指せばいいんだよ。簡単な最善より複雑な次善。
あうあう……4五桂……。
「ひッ!?」
頬にヒンヤリとした感触。私は思わず悲鳴を上げた。
何かと思って右隣を見上げると……そこには松平がいた。
「ちょっと、対局中……」
「差し入れ」
松平はニヤニヤしながら、お茶のペットボトルを差し出した。
……どういうこと?
「要らないのか?」
松平は、少しショックな雰囲気を醸し出す。
な、何が何だかよく分からないけど、貰えるものは貰っときましょ。
「……あ、ありがと」
私は、雫の流れるボトルを受け取り、蓋を開けた。
松平の視線が気になるので、左を向いてお茶を飲む。
……ふぅ、すっきりした。
っていうか、持ち時間、どうなってるの?
私はチェスクロを確認する。……18分? かなり残ってるわね。田中くんが、10分を切りそうな感じ。序盤で結構、長考してたから。
何だ、これだけあるなら、もうちょっと考えないと。何だかボケてたわ。
私は気合いを入れ直して、盤面に集中する。4五桂は却下。5六歩も却下。単に3七成銀も却下。……他にある? ないなら、悪魔の言う通りなわけだけど……。
そもそも、この局面、私は何をするのがいいわけ? 攻める? 受ける? 第一感攻めだけど、ダメなら受けよね。ただ、受けるって何を……3二銀を? この傷は早いうちに消しとかないと、大変なことになりそう。銀交換に踏み切れないのも、この筋が残ってるからだし……とはいえ、4一飛なんかじゃ、依然として3二銀はあるのよね……。
ん? 飛車じゃなくて、金の方を動かしたら?
先にこうして、それからこうして……。
え、もしかして、こんなのが成立しちゃうとか?
私の意識は、読みの中へと溶け込んで行った。