作家な日々
「星野先生、握手してください」
私は、目の前に立つ少女の手を握り、軽く上下に振った。
「ありがとうございますッ! これからも応援してますッ!」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
少女は嬉しそうに本を抱きかかえ、スキップしながらその場を去った。
そんな彼女の背中を見送る私は、星野ナイル。作家です。
え、ジャンルですか? ジャンルは……やおいです。
別に恥じるような仕事とは思っていないのですが……まあ、いろいろと……。
「次の方、どうぞ」
編集さんの声に合わせて、ファンの列がさばかれていく。
みんな、私の新刊・旧刊本を持って、サインをもらいに来ているのだ。
要するに、サイン会ってことですね。握手とか雑談タイムもあります。
読者あっての作家業。私は笑顔を絶やさずに、次々とサインを済ませる。
「先生、ありがとうございましたッ!」
「こちらこそ、ありがとうございました」
いくつサインしたかも忘れかけた頃、最後の少女が現れた。
それに合わせて、編集さんは私に耳打ちする。
「ナイル先生、午前の部は、彼女で最後です。整理券切れましたんで」
「あ、はい」
少女が係員に整理券を渡す間、私はこっそりと体の緊張をほぐす。
これが終わったら、さすがに休憩しないと……肩が……。
「星野先生、こんにちは」
「はい、こんに……」
私は息を呑み、視線を逸らす。
……………………
……………………
…………………
………………
は、傍目さんじゃないですか……なぜここに……。
「星野先生、どうかしましたか? ご気分でも?」
少女は眼鏡の奥から、私の顔を覗き込んでくる。
ま、まずい……非常にまずいです……。
コンタクトだし、髪型も変えて、お化粧もしているから、バレることは……で、でも、傍目さんなら気付く可能性が……と、特に声で……。
「ゲフン、ゲフン」
私は、わざとらしく咳をする。
「先生、風邪気味ですか?」
「は、はい……ちょっと……夏風邪を……」
私は、声をわざと擦らせた。
え、演技過剰だったかしら?
「……お体には、お気を付けください。このまま休憩に入られても……」
「い、いえ、ぜひサインさせてください」
さすがに編集さんの前で、仕事はほっぽり出せない。
私は傍目さんから本を受け取り、見開きにささッとサインした。
手が震えて、ちょっといびつになる。ある意味プレミアムだ。
「どうぞ……」
「ありがとうございます。……ひとつ、質問させていただけますか?」
ダ、ダメです……と言いたいけど……おしゃべりタイムは公認……。
「ど、どうぞ」
「星野ナイル先生の新刊、『秘密のドキドキ♡角交換』は、奨励会3段リーグを舞台にしていますが、先生は将棋にお詳しいのですか?」
あぁ……なんて、いやらしいところを突いてくるのでしょうか……。
も、もしや、バレているのでは……私の正体が……。
ペンネームが本名のモジリなことも、傍目さんなら、あるいは……。
「へ、編集さんに、しょ、将棋の詳しい人がい、いまして……」
「そうでしたか。先生ご自身は、将棋をなさらないのですか?」
「全然……駒の動かし方とか、速度計算とか、居飛車と振り飛車とか、そういうのは、全く存じておりません……」
「……なるほど。ところで先生は、ずいぶんお若いのですね。文体から、妙齢の方かと推測していましたが、大学生……いえ、高校生くらいに見えます。羨ましい限りです」
き、きた。NGクエスチョンきた。
編集さん、ヘルプです!
「すみませーん、星野先生のプライベート情報は、NGとなっております。休憩に入りますので、そろそろ……」
編集さんの注意を受けて、傍目さんは胸に本を抱いたまま、眼鏡を直した。
「大変失礼致しました。今後も、応援しております」
「よ、よろしくお願いします」
あ、今、ホッとして、地声になってたかも……。
だけど、傍目さんは何ごともなかったかのように、ブースを去った。
私は胸を撫で下ろし、深く息を吐く。
私の名前は大川志保。
女子高生やおい作家。