64手目 猛攻する少女
私の心配を他所に、千駄会長は悠々と香車を走った。
「ずいぶんと悠長ですわね」
おっと、姫野さんの挑発ですか、これは?
「いやいや、ちゃんと端攻めしてるよ」
会長は、にっこりと笑う。
その視線を一瞬だけ受け止めた姫野さんは、すぐに盤面へと集中した。
「では、どんどん行かせていただきましょう」
うわ、この歩も厳しい……。同歩は同桂から潰れるわね……。
「こりゃ手抜くしかねえな……」
松平の呟きに、私も同意する。放置して……端攻めを続行?
私がそう考えた瞬間、9八歩成が指された。
うーん、間に合うかしら、これ?
4四歩、同銀、同角ッ!、同金、2三銀ッ!
こ、これはキツい……同金は同歩成、3一玉、3二金で詰むし……。
「逃げるしかないね」
会長は、3一玉と下がる。まあ、それしかないんだけど……3二銀成で……。
姫野さんは金を取らずに、駒台へと手を伸ばした。
ん、どこかに歩を打つ気? どこに?
……そこか。
「単に3二銀成、同玉、2三歩成、4三玉、7二金かと思いましたが……」
辻くんの感想。
確かに、7二金は良さそう。飛車銀両取りだから。
「どうだろうな……9一飛車が、8九とからの反撃を見せてるぜ……」
9一飛車……あ、なるほどね、飛車寄りが、端攻めを加速してるんだ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
いやー、それでも6二金くらいで勝ってるような……。
このレベルは、よく分からないわ……。
会長は、5四金と寄った。これも私には意味不明。
3二銀成、同玉、2三歩成、4三玉、4四金、同金、同歩、5二玉……。
「飛車も成らせていただきましょう」
姫野さんは、飛車先を開けるため、3二とと入った。これが角当たり。
6四角に2二飛成。これは勝負あったんじゃない?
「ヤクザ圧勝じゃないか?」
別の男子の囁き。これはもう押し入り強盗レベルですよ、はい。
ただ、姫野さんの表情は、そこまで楽観してないような……。
そこで、つじーんが口を開く。
「微妙ですね……。見た目は優勢ですが、駒損しています」
駒損? 駒割りは……あ、角金交換か。会長が駒得してる。
逆かと勘違いしてたわ。2一龍とは補充できないし……。
会長はギリギリまで考えて、6一玉と早逃げした。
姫野さんは、4二とと追撃する。7二玉、5二とに……。
「チッ、これがあったか」
松平が舌打ちした。あんた、どっち応援してんのよ。
確かに、いい手に見えるけど、と金引きが開き王手よ?
私が疑問に思う中、姫野さんもと金引き。
ほら、これが王手だから……。
歩打ち? ……あ、これで止まってるか。
「同とは手損ですか……同龍しかないですね」
うん、そうね。それは辻くんに言われなくても、さすがに分かるわ。
ただ、同龍とされた局面で、何を指すのかが……。
姫野さんは2、3回歩に触れた後、ようやく同龍と取った。
怪訝そうな顔をしている。
千駄会長はそれを見て、さらに8三玉と上がった。
「ひえー」
ギャラリーから悲鳴が上がる。
ちょっとマナー違反だけど、さすがにこれは叫びたくなるわね。
今にも死にそう。
隣の松平とつじーんも、真剣に読み始めていた。
だからその真面目モードで日常生活をですね……。
「9四金、同玉、9二龍が王手飛車取りだが……」
「それは9三歩、8一龍、8九とくらいで、後手勝ちでは?」
「かもな……とりあえず、入玉は確定しそうだ……」
んーと、この形よね?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
あー、確かに入玉されそう。というか、先手玉、一気に危なくなってるわ。
最悪の場合、5三角とと金を払って、銀に紐をつける手もあるし……。
ピッ、ピッ、ピーッ!
「チッ」
パシリ
おっとー、お嬢様にあるまじき舌打ちきました。
そして指した手は……。
ええッ!? これは……パッと見……良くないかも……。
「飛車取りですが……そこまで厳しくは……」
「8一金が詰めろになってないんじゃないか?」
うん、詰めろじゃない気がする。松平—辻くんの説が正しそう。
姫野さんはやや前傾姿勢になって、盤面を睨んでいた。
の、呪い殺されそうな目をしてますね……。
ただ、会長の顔も険しいわ。飛車取りには代わりがないわけだし。
ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
会長は駒台に素早く手を伸ばして、銀を4九に打った。
姫野さんは目を細め、肩を怒らせてその銀を睨む。
10秒ほど経ったところで、ハッと背筋を伸ばした。
「わ、わたくしが速度計算を間違え……ッ!?」
姫野さんの呻き声。先手と後手の速度は……逆転してるわね。
8一金は詰めろじゃない。一方、5八銀成は詰めろ。
ここは姫野さん、何か受けないと……。
ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
金を引いたッ!?
これは候補としてあったけど、5八の地点が結局受かってないから……。
会長はレンズのつなぎ目に指を当て、眉間に皺を寄せる。
めちゃくちゃ読んでるときの顔ですね、これは。
29秒で、8九とと入る。同玉なら、9九香成が激痛だわ。
姫野さんはノータイムで6九玉と寄った。
私の脳もフル稼働。9九香成と行くか、銀を見捨てて3七角成か……。
「どうやら、僕がご主人様のようだね」
会長はそう言って……5八金ッ!? 突っ込んだ?
私は10秒ほど呆然として、それからハッとなる。
隣の松平も、髪をくしゃくしゃにした。
「終わったな……」
うん……終わってる……。同金、同銀成、同玉に4六桂馬。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4八玉なら3九角、4九玉なら2七角から詰み。
6七玉と逃げても、5八角、7七玉、8五桂馬で詰みだわ。
8六に角が利いてるのが痛過ぎる。
「……」
姫野さんは憮然とした表情で、同金と取った。
同銀成、同玉、4六桂、4八玉、3九角……。
「参りました」
姫野さんは頭を下げた。
会場を静寂が多い、それからざわめきが起こる。
「おお、凄いぜ会長ッ!」
「いやー、あそこから勝つとは思わなかったな」
喜ぶ男子とは対照的に、藤女のメンバーは渋い顔をしていた。
心中お察しします。
姫野さんはしばらく目を瞑り、石のように動かなかった。
よっぽど悔しいんでしょうね。お世辞のひとつも出ないところを見ると。
ギャラリーの熱が少し冷めたところで、彼女はようやく唇を動かした。
「5九金が完全に悪手でしたわ。6七銀と引いておけば……」
姫野さんは、口惜しそうにそう呟いた。6七銀引……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
はいはい、確かに、こっちの方が良さそうね。
攻め100%なタイプだから、守備固めが思考のエアポケットだったのかも。
このへんに、姫野さん対策のヒントがありそう。覚えときましょ。
「さて、サービスの飲み物を出してもらおうかな」
感想戦も何もかもすっとばして、会長はそう宣言した。
「ちゃっかり対局ルール知ってたのね……」
私が呆れて呟くと、辻くんが一言。
「メールにちゃんと書いておきましたからね」
後で姫野さんに何されても知りませんよ、つじーん。
「仕事ですからやぶさかではありませんが……もう1局いかが?」
「悪いね。塾を抜けて来てるから、これ以上は無理だ」
「つまり勝ち逃げなさる、と?」
往生際悪過ぎッ! さっさと注いで終わらせちゃえばいいのに。
甘田さんも見かねたのか、リングの中に入る。
「えっと、営業再開したいから、今日はここまでにしてくんない?」
姫野さんは甘田さんをひと睨みした後、席を立った。
うむむ、こういうときの甘田さんのKYぶりは頼もしいわね……。
「……ご注文は?」
姫野さんも腹をくくったみたい。
千駄さんは眼鏡を押し上げて、一考する。
「そうだな……ウーロン茶をもらおうか」
ずいぶん地味な注文ね。私が聞いた限り、初めてかも。
「幸子さん、ウーロン茶はどちらに?」
甘田さんは、奥のコーナーを見やる。
「……あれ、出してきてないね。ちょっと待ってて」
「いえ、わたくしが自分でやります」
そう言い残して、姫野さんは廊下に出て行った。
あれ? これって、逃げたんじゃ……。
「しかし、途中はヤクザ優勢だったと思うが、どこで間違えたんだ?」
松平は、納得いかなそうな顔をしている。
確かに、あれだけ攻めてたら、普通は優勢としたもんだけど……。
「そのあたりは、会長のテクニックですね。正確に指せば、姫野さんの方が良かったのかもしれません。しかし、危険になってからのノータイム指しで、姫野さんもそれに合わせて攻めが単調になりました。さらに終盤、あれはどうしても端に目がいく局面です。逆サイドの銀打ちから金でばらばらにして桂馬の筋は、30秒では気付きにくいでしょう」
ふむ……冷静な分析ですね……。
「6四に角がいるのも盲点だったか。あんないい位置に角がいることは、普通ないからな」
そうね。あの6四角が、左右どちらにも利いていて、鬼だったわ。
だとすると、3二とじゃなくて、4三金とバラした方が……。
「お待たせ致しました」
あ、ちゃんと戻って来たわね。さすが姫野さん。
姫野さんはツカツカと歩み寄り、紙コップを……。
「お飲物です……ご主人様……」
顔の筋肉をひくつかせながら、姫野さんはコップを差し出す。
「……毒とか入ってないよね?」
「いいえ……そのようなことは……」
というか、コップが半分以上潰れているんですが……握力……。
「じゃ、いただくよ」
千駄さんはコップを受け取ると、一息にそれを飲み干す。
「よッ! 駒桜一ッ!」
男子の掛け声。パチパチと拍手が起こった。
うーん、これじゃ姫野さんが見せ物状態だけど……。
ちょっと可哀想かな……。
「はーいッ! お開き、お開きッ! テーブルを戻してねッ!」
甘田さんの号令に、みんなで会場の整備が始まる。
正方形に作ったリングを崩して、再び喫茶席と対局席に分ける。
「おいーすッ、売り物が切れたぞ」
がらりとドアを開け、冴島先輩が帰ってきた。
うーん、何度見ても、いい男。
「円ちゃん、お疲れッ! どのくらい稼げた?」
先輩はポケットに手を突っ込んで、じゃらじゃらと音をさせる。
「正確には数えてないが……万近くあるんじゃないか? かなり重いぞ?」
ええ……それは凄い……。
紙コップ1杯100円のぼったくりが成功するなんて……。
「さすがは歩くホストクラブだねッ!」
小躍りする甘田さん。冴島先輩は拳を握る。
「オレはホストじゃねえぞッ! ……って、これは何の騒ぎだ?」
先輩は店内を見回した。確かに、ちょっと祭りの後って感じだけど……。
「姫ちゃんと会長の勝負があったんだよ」
「マジかッ!」
冴島先輩は、握っていた拳に力を込める。
「くそーッ、何でオレだけ外回りなんだよ……」
「まあ、まあ、円ちゃんが一番体力あるしさ。それに結果はお察しの通り……」
あ……甘田さん、それは……。
周囲が引き始める。
「あれ? どうしたの、みんな? まだ仕事は終わって……」
「幸子さん」
「ッ!?」
甘田さんの肩に、姫野さんの手がかかった。
甘田さんは、恐る恐る後ろを振り返る。
「あー……何かな?」
「少し話があります。控え室まで来ていただけませんか?」
「えーと、今は取り込み中で……」
「い・ま・す・ぐ・にです」
「……はい」
襟を持って引きずられる甘田さんは、笑顔で残りのメンバーに手を振った。
「円ちゃん、そこのペットボトル補充して、また校内1周よろ。後は適当にね」
「お、おう……」
そのまま甘田さんは、控え室に連行されてしまった。南無……。
「こういうので、部の雰囲気が悪くなって欲しくないなあ……」
と横溝さん。
んー、喧嘩になりそうな雰囲気だったけど……。
「甘田さんと姫野さんは、昔からああいう仲ですからね。なんだかんだで、お説教で済むと思いますよ。あれでウマが合ってるというのも、おかしな話ですが」
へえ、そうなんだ……。
「辻くんって、結構、情報通なのね」
私が半分褒めたつもりで言うと、つじーんは首を振った。
「いえいえ、僕は女子同士の付き合いなんて知りませんよ」
「え? じゃあ、どうして……」
「姉がそう言ってたんです。『姫野・甘田コンビは、見かけよりウマが合ってる』って」
姉……ああ、辻乙女さんか。
「でも、乙女さんは大学生なんじゃないの?」
「そりゃ、今は大学生ですけど、市の大会とかではよく顔を合わせますからね」
「つーか辻姉は、駒桜の女ボスだぞ? 女子はみんな弟子みたいなもんだ」
松平の割り込み。
あ、そうなんだ。通りで、みんな知ってるわけね。
だけど辻くんは、微妙な顔をした。
「女ボスというのは、聞こえが悪いですね……」
「じゃあ何だよ?」
辻くんは顎に手を当てて、考え込む。
ようなことでもないと思うんだけど。
私が仕事に戻ろうとしたところで、辻くんはようやく口を開いた。
「敢えて言えば、女神様……ですかね」
「お待たせしました。次の方、どうぞ」
場所:藤花女学園文化祭
先手:姫野 咲耶
後手:千駄 光成
戦型:ムリヤリ矢倉
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲4八銀 △8四歩 ▲7八金 △5二金右 ▲6九玉 △4三金
▲4六歩 △5四歩 ▲4七銀 △6二銀 ▲5八金 △3二金
▲7七角 △4一玉 ▲3六歩 △2二銀 ▲5九角 △4二角
▲6八銀 △3一玉 ▲6六歩 △7四歩 ▲3七角 △3三銀
▲7九玉 △7三桂 ▲5六銀 △2二玉 ▲4五歩 △同 歩
▲同 銀 △8一飛 ▲4六角 △9四歩 ▲2四歩 △同 歩
▲3七桂 △4四歩 ▲5六銀 △5五歩 ▲同 角 △9五歩
▲2五歩 △9六歩 ▲同 歩 △9七歩 ▲2四歩 △9六香
▲4五歩 △9八歩成 ▲4四歩 △同 銀 ▲同 角 △同 金
▲2三銀 △3一玉 ▲4五歩 △5四金 ▲3二銀成 △同 玉
▲2三歩成 △4三玉 ▲4四金 △同 金 ▲同 歩 △5二玉
▲3二と △6四角 ▲2二飛成 △6一玉 ▲4二と △7二玉
▲5二と △7一銀 ▲5三と △4二歩 ▲同 龍 △8三玉
▲9二金 △4九銀 ▲5九金 △8九と ▲6九玉 △5八金
▲同 金 △同銀成 ▲同 玉 △4六桂 ▲4八玉 △3九角
まで96手で千駄の勝ち