63手目 受けて立つ少女
「いやー、辛勝、辛勝。最後、間違ってくれて助かったぜ」
松平は2杯目のコーラを飲みながら、愉快そうに対局を振り返っていた。
何でこいつとテーブルを同じくしなきゃならないのやら。
控え室に戻ろうとしたら、甘田さんに引き止められちゃうし。「将棋を指さなくても、せめて接客して〜」なんて、こんなの契約違反でしょ。報酬を倍貰わなきゃね。
私はまかないでもらったコーヒーを飲みつつ、自分の境遇を呪った。
「そっちは、どういう勝負だったんですか?」
同じテーブルに座っている辻くんが尋ねた。
「よくある対抗型だよ。つじーんは?」
「横歩のマイナーな変化に飛び込んでみたのですが……潰されました」
「なんだよ、そういう大事な研究は、団体戦用に取っとけよな」
「まあ、あんまり自信のある順じゃなかったので、いいんですけどね」
辻くんはそう言って、コーヒーを飲んだ。
「ところで、くららんは?」
「さあ……さっきまで、サーヤと指してましたが……」
松平と辻くんは、室内を見回す。私も蔵持くんの姿を探した。
あ、いた……鞘谷さんと指してるわね……。
「まだ指してるんですか? 1時間近く経ってますよ」
「いや、手を戻したりしてるから、感想戦じゃねえか?」
え、1局をなるべく早く終わらせるようにって、甘田さんが言ってたような……。
「ま、あそこはもうカップル席みたいなもんだから、いっか」
「……そうですね」
いやー、良くないでしょう。
鞘谷さんは、公私混同が激しいタイプかなあ。恋は盲目……。
「ところで、その横歩の変化って、どんなやつだ?」
「この前の順位戦で出た形なんですが……」
しっかし、こいつらも将棋好きねえ。
他のテーブルは、全然別の話をしてるのに。
例えば隣は……。
「おまえ、どの子が好み?」
「あそこにいるちょっと暗そうな子」
「まじで? どのへんが?」
「おっぱいおっきいじゃん」
……将棋の話をしましょう。
「つじーん負けなら、そろそろ俺の出番かな」
松平は、飲み干したグラスを私に手渡す。
あのねえ、私はお手伝いさんじゃ……。
「剣ちゃんじゃ、力不足な気もしますけど……」
へえ、なかなか辛辣。
ただ、指した実感として、姫野>松平な気はするのよね、何となく。
だけど松平は腕を組み、辻くんを睨んだ。
「やってみなけりゃ、分かんねえだろ」
「じゃあ、やってみますか? 裏見さんのときとは、わけが違いますよ?」
は? 何で私と比べるわけ?
そ、そりゃ、レベルが違うのは認めるけど……。
「よーし、やってやろうじゃねえか。俺が勝ったら何かおご……」
「全員動くなッ! 風営法違反で逮捕するッ!」
教室内が、しんと静まり返った。
え? 警察?
私は椅子からひっくり返りそうになりながら、入り口を見やる。
するとそこには……。
「会長ッ!」
室内の何人かが、一斉にそう叫んだ。
そう、入り口の向こう側に立っていたのは、何と千駄会長だった。
しかも汗だく。微妙に爽やかじゃない……。
「待ってましたッ!」
「真打ち登場ッ!」
盛り上がる男子たち。
辻くんがにやりと笑い、席を立つ。
「先輩、いきなり呼び出してすみませんでした」
会長は眼鏡越しに、辻くんを振り返る。
だけど返事はせずに、すぐさま姫野さんへと視線を移した。
「まさかきみが、こんなことをしているとはね」
対局を中断した姫野さんは、その細い指で甘田さんを指差した。
「これは、幸子さんの企画です。わたくしは部員として参加しているだけですわ」
いきなり責任を被せられた甘田さんは、口をぱくぱくさせる。
「ちょ、あたしに押しつけ……」
「まあ、そんなことだろうとは思っていたが……なかなか面白そうだ。僕も一局、指していいかな?」
期待に満ちた目が、ふたりの間を行ったり来たりする。
順番待ちをしていた生徒が、一斉に列を離れた。
「どうぞどうぞ」
最後尾の男子が、へこへこしながら脇に退く。
こいつら、主体性ないわね……。
「ちょっと待ったッ! まずは俺が……むぐッ!?」
飛び出そうとした松平は、周りの数人に取り押さえられた。
ええ? 別に指させてあげてもいいじゃない。
いきなり英雄気取りで会長に登場されても、困るんだけど……ただ……。
「こいつは面白くなったな。2年生No.1とNo.2の対決だぜ」
うん、私もそう思う。松平には悪いけど、こっちの方が面白そう。
というか、いい勝負になりそう。
他のテーブルも対局を止めて、わらわらとギャラリーが集まる。
あらら、これは早めに場所取りをしないとね。
「はいはい、こんなに野次馬が多いんじゃ、商売にならないよ。席替え席替え」
甘田さんはそう言うと、男子の何人かにテーブルを動かすよう指示した。
あっと言う間に、即席のリングができあがる。
その中央に、姫野さんと千駄会長の対局席が設けられた。
「こいつは光栄だね。まるで、個人戦決勝みたいだ」
「そうですわね……新人戦のときを思い出します……」
そう言って、ふたりは席につく。
新人戦って言えば、えーと……姫野vs千駄の、千駄勝ちだったかしら?
まあ、そのとき私は中学生だったから、観てないんだけど。
そもそも、そういう大会があること自体、知らなかったしね、当時は。
「ルールは?」
「30秒将棋です」
「30秒か……姫野くん相手にはキツいな……」
そう言いつつも、余裕の表情ですね、会長。
「じゃ、振り駒を……」
「待った、待った、待ったッ!」
甘田さんはリングの内側に入ると、会長に向かって片手を差し出す。
「ちゃんとお金払ってちょーだいッ!」
会長は眉毛を上げて、やれやれと言った顔を作った。
いや、まあ、お金は払ってもらわないと……ね。
「いくらかな?」
「1回500円ッ!」
会長は財布を取り出すと、500円玉を甘田さんに手渡した。
「まいどありッ!」
甘田さんはそれを持ったまま、机の間を移動して外に出た。
はいはい、これで準備完了ですね。
「じゃ、振り駒を……」
千駄会長はあらためて、歩を5枚宙に放った。
ここからなら……ぎりぎり見えるわね。
と金が……5枚ッ! 姫野さんの先手だわ。
「よし、チェスクロをこっちに置いて……」
会長はチェスクロを右側に置き直して、額の汗を拭った。
「ずいぶん、急いでいらしたようですが?」
「うん、後輩に呼び出されてね、塾から自転車で直行してきたよ」
ちょ、それはどうなの、つじーん。
私は辻くんをチラ見したけど、あいかわらずのポーカーフェイスだった。
先輩を興行に使うとは、やりますね。
「ま、姫野くんも営業で疲れてるだろうし、その点は五分かな」
「筋肉の疲労と脳の疲労は、若干違う気も致しますが……」
「おっと、それは負けたときの言い訳かい?」
千駄会長の一言に、姫野さんの表情が曇った。
あ、煽っていくスタイルなんだ……。会長も、見かけによらないわね……。
「では、始めると致しましょう」
「よろしく」
会長が、チェスクロのボタンを押す。
ピッという音と共に、秒読みが始まった。
姫野さんは、しばらく目を閉じた後、7六歩。
会長はそれに合わせて、3四歩と突いた。
「8四歩ではありませんのね」
「僕も、そこまで自信家じゃないからね。角換わりは受けないよ」
姫野さんは、ふふと笑って2六歩。怖いなあ。
次で8四歩だと、横歩になっちゃうけど……さて……。
むむ、4四歩ですか。
会長が居飛車党なのか振り飛車党なのか、知らないのよね。
出だし的には、振り飛車の予感が……。
「ムリヤリ矢倉ですか……」
姫野さんが、ぼそりと呟いた。
ん? 矢倉? こっから?
「さあ、向かい飛車かもしれないよ」
「またご冗談を……」
2五歩、3三角、4八銀、8四歩、7八金、5二金右……。
ほんとに矢倉模様かいッ!
よく分からないけど、4四歩からでも矢倉になるみたいね。
勉強させてもらいましょう。
6九玉、4三金、4六歩、5四歩、4七銀、6二銀、5八金、3二金。
なるほどね、こうやって組んでいくんだ。最初の4四歩は、角交換を防止して、横歩や角換わりにならないようにするためみたい。だから、ムリヤリ矢倉なのね。
ただこうなると、先手は意外と駒組みの自由がありそうね。どう組むの?
私が疑問に思っていると、姫野さんは7七角と上がった。
そうそう、これが普通の矢倉と違うのよね。普通の矢倉だと、そこには銀がいるから、角は7九〜6八としなきゃいけないはず。
4一玉、3六歩に……2二銀?
……あ、そっか。角を引いてから銀を上がるパターンだわ。
私の予想通り、姫野さんは5九角、会長は4二角とした。
「……少し捻りますか」
姫野さんはそう言うと、銀を6八に上がる。
これは……雁木の伏線? 6七銀と組めば、雁木だけど……。
3三銀、7九玉、3一玉、6六歩、7四歩、3七角……。
先手は、なかなか形を決めないわね。まだ矢倉の可能性もあるかしら……。
会長は7三桂馬として、攻めの形を作っていく。
「後手が先攻するパターンか?」
後ろで、誰かが呟いた。
後手が先攻……なんか矛盾してる言い回しだけど、そうなりそうよね。
先手は、どう囲うのかも見えないし……。
5六銀、2二玉……4五歩ッ!?
わお、もう行きますか。
「銀上がりも端歩も省略か」
千駄会長は、盤面を楽しむようにそう言った。
姫野さんは、にやりと邪悪な笑みを浮かべる。
「守備の形を整えずとも、攻め潰せばいいだけの話……」
ですよねー、姫野さんなら言うと思いました。
赤信号、戦車で渡れば怖くない。これが姫野流。
「ふむ……ま、取るよ」
会長は同歩。同銀に……8一飛車。
これは全然見えてなかったわ……。そういう受けがあるんだ……。
右玉だと、よく見る形。でも、これは玉が左にいるわけで……。
「なるほどな、飛車当たりを避けたか」
私の横で、声がした。
振り向くと、松平が隣で盤面を見つめている。
こいつ、いっつも私の隣にいるわね。気のせい?
と、それはどうでもよくて、角当たり?
……あ、そっか、3七角の筋を避けたのね。桂馬を跳ねるために。
私が納得したところで、4六角が指された。
これは……分かった。桂馬を上がる準備ね。
9四歩、2四歩、同歩に3七桂馬。
端歩は意外だったけど、後は予想通り。
「とんでもない攻勢ですね」
背後で、辻くんの声。私もそう思う。
この形は、矢倉だと一種の理想型なんじゃないかしら?
よく知らないけど。
「さーて、こっからどう押し入るか、見せてもらおうじゃねえか」
松平は顎を摩りながら、そう呟いた。
あのさあ、押し入りって、事務所に殴り込みかけるんじゃないんだから……。
まあ、姫野さんも、何かそんなオーラ出してるけど……。
「これはキツいね、さすがに受けるよ」
会長は4四歩と、銀に当てながら受けた。
5六銀に……5五歩? この手は、よく分からないわね。
大駒は近付けて受けよ、の応用かしら。
同角、9五歩(なんか悠長ね)、2五歩。
ほらほらほら。何か姫野さんの攻めが炸裂しそうになってるじゃない。
この段階で継ぎ歩とか、厳しいわ。
同歩は同桂で加速しちゃうし、どう受け……。
「じゃ、僕も攻めるよ」
え? 攻める? どっから?
端歩……。
「これ、成立してる?」
とと、思わず独り言が出ちゃった。
私が慌てて口を噤むと、今度は松平が唇を動かす。
「ここで攻め合いか……短時間将棋特有の技だな」
さらに、辻くんが相槌を打つ。
「持ち時間が短いと、どうしても攻めている側が有利ですからね」
なーる。成立してるかどうかと関係なく、攻めちゃうわけね。どうせ30秒じゃ、お互い正確には受けられない、と。だったら受け続けるより、攻め合った方がいいわけか。
ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
姫野さんが指した手は……同歩。
さすがに放置できませんでしたか。
会長は9七歩と垂らして、姫野さんは2四歩と継ぎ歩を伸ばす。
この2四歩が、かなり厳しそうなんだけどなあ……。
千駄会長、ここからどうする気なの?