62手目 ご奉仕する少女
「ま、そうくるわな」
松平くんはそう言って、同飛と取る。
あれ? 正解だった? ラッキーかも。
私は振り飛車のセオリー通り、4二飛車と戻した。3二飛のままだと、4四飛、同銀、4三角があるものね。剣呑、剣呑。
松平くんは顎に手を当てて、斜め目線で盤を睨む。
「このへんからいくか……」
6筋に指を伸ばし、角道を開ける。6五歩。
これは読んでなかったかも。というか、30秒だと何通りも読めない……。
取り込まれるのはまずいから、同歩としまして……むむ、4三歩。同飛は4四飛、同銀、5四角か。同銀に代えて同飛なら、5五角、4九飛成、1一角成。
後者は普通に戦えそうね。同飛と……。
ん、ちょっと待ってよ。4三同飛に5五角だと?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同角は4三飛成……あ、終わってる。
ピッ。ご、5二飛ッ!
私はぎりぎりで飛車を寄った。松平は、にやりと笑う。
「さすがに取らねえか」
あ、危なかった……でも、この局面、既に後手が良くないような……。4三の歩を払う順が思い浮かばない。
私が四苦八苦する中、松平は5六歩と突いてきた。同歩は4四角で銀損。3五角と出るしかないわね。3五角、と。
松平は4九飛と引く。ここで5六歩は、1一角成か……。
こうなったら、5筋に殺到するしかないわね。6四銀としましょう。
6四銀、5五歩、3三桂。とにかく中央へ駒を集める。松平もそれを許すまじと、5筋の歩を取り込んだ。次に3三角成があるから、私は当然に5五歩と受ける。
「ごちゃごちゃしてきたな」
松平は髪をかきあげて、椅子の上で片足を組んだ。
それ、窮屈じゃない?
「角に退いてもらうか」
松平は3六歩と突き、こっちの角を苛めにくる。
2六角、4七飛……うぅ、角はまだ成れないか。私は4六歩、同飛として、5四飛と上がる。4二歩成なら4五歩、4一と、4六歩で、飛金交換。こっちがいい……はず。
と金がでかいかなあ……。
「歩成は怖くねえと……」
松平は首を捻って、目を瞑る。
と金が大きいと見て、歩成としてきそう?
私が不安になる中、松平は4筋に手を伸ばした。やっぱり歩成……じゃない。4七飛。なるほど、4二歩成、4五歩のときに、飛車当たりじゃないってわけか。
ただ、これで一手稼げたわよ。一足先に4五歩ッ!
4筋を受けた私は、満足げに頷いた。当面、突破されなさそう。
松平も4筋を諦めて、2四歩と突いてくる。今度は、そっちですか。同歩。
2七飛の寄りに、2五歩と伸ばす。2六飛、同歩、2二角、3二金、1一角成。香車を取られて馬ができちゃったけど、まだ五分でしょう。
とりあえず、5一飛と引いて、1二馬を強要。働きを悪くさせてから、5六歩と突いた。
「馬の活用、馬の活用、と……」
松平はそう呟いて、盤面をぐるりと見渡す。
この局面、馬を活用する手はないと思うけど。3四馬くらかしら。
私が3四馬の筋を読んでいると、松平は持ち駒に手を伸ばした。29秒まで考えて、歩を飛車の頭に打ち付ける。
5二歩? ……手の意味が分からない。銀の割り打ちがあるわけでもないし……。
こういうのは、取りましょう。7一飛とかありえないし、同飛。
私が歩を払った瞬間、松平は3四馬と引いた。
これは読み筋……あッ! 4二歩成が飛車当たりになってるッ!
そっか……5二歩の叩きはこの布石で……。
ピッ。とりあえず5七歩成ッ! 私は歩をひっくり返して、チェスクロを叩く。
5七同金に2八飛車。こうなったら攻め合いよ。
「一回受けるか」
松平の手がサッと横に伸びた。7九香車。
くーッ! それ以上堅めてどうすんのよッ! 2九飛成ッ!
桂馬を補充した私に対して、松平は4二歩成を敢行した。同金なら5二馬……。飛車を持たれるのは面倒ね。同飛としましょう。
私は、と金を飛車で払う。松平は、少し意外そうな顔をした。
「ん、同飛か……」
何よ? 盤外戦術?
訝る私の前で、3三角成が指される。
角切り……じゃないッ! しまったッ! 2枚換えだわッ!
同金、同馬に5二飛。駒割りで損したかも。相手は角よりも金が欲しいはずだし……。ああ、もうちょっと考えれば良かった。飛車を渡した方がマシだったような……。
えーい、くよくよしても、仕方がないわ。頑張れ、裏見ッ!
「意外と崩れねえな……寄るか……」
松平はそう呟いて、4三馬とした。飛車を苛める気だ。5三とぶつけるか、それとも5一とかわすか……。5三飛、同馬、同銀引、2一飛、5一歩、6三歩……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同銀なら5一飛成、6二銀、5六龍とか? 次に6五桂が痛そうね……。
だったら、引いて受けた方が……。
ピッ、ピッ、ピーッ! 引きッ!
パシン
あ、やばい……切れたかも……。
私は恐る恐る、チェスクロを確認した。……秒読みは続いていた。セーフ。
どうやら、私のチェスクロさばきも向上したようで……。
「引くかぁ……」
松平は眉間に皺を寄せて、拳でこめかみを叩いた。
どうやら、5三をメインに読んでいたらしい。30秒将棋なのは、お互い様。何通りも読むのは不可能なはず。
「もっかい打つぜ」
松平はそう言って、5二歩と再度打った。
……あれ? 逃げ場所がない? 1一飛、3三馬、1二飛、5一歩成……。
ま、まずいッ! 5一飛は悪手だったかもッ!
私は駒を使わせるため、ひとまず4一飛車と寄った。松平は、歩を手にする。4二歩、1一飛、3三馬、1二飛、5一歩成、同銀……あ、今度は4一歩成が……私ったら、何やってんの……お手伝いしてる場合じゃ……。
呆れる私を他所に、松平は歩から金へと持ち替えた。そして、4二にそれを打ち付ける。
4二金? これは重いような……。
ってか、もう歩か金か何てレベルじゃなく、こっちが悪いわ。
7一飛車って逃げるしかないかも……。私はギリギリまで読んで、7一飛。松平は、29秒まで考えて、5六桂と打つ。
ん? これは? 5三銀引が金当たりだけど……。
「……ミスったか」
松平は、押し殺すようにそう囁いた。私は読み通り、5三銀と引く。
「んー、もうちょい何かあったなあ」
松平は髪をくしゃくしゃにしながら、5一歩成。4二銀、同馬、5三角ッ!
……と言っても、まだ後手劣勢でしょ、これは。端歩の中途半端さが痛い。
松平は同馬、同銀としてから、5二とと引いた。私は、5四銀と縦に逃げる。6四桂、7四桂、7二桂成、同飛、6二金……。
同飛、同とと清算して、私は盤面に覆い被さる。頓死筋は? 8六桂、8七玉、9五桂、8六玉、5三角ッ! と金を抜けるわッ!
私は8六桂と飛び込み、8七玉に9五桂馬と追撃する。
「チッ」
松平は舌打ちをしながら、8六玉と上がった。これは詰……まないか。さすがに。
予定通り、5三角としましょう。合駒を訊きたいし。角打ちッ!
松平は険しい顔をして、29秒まで読む。そして、7五桂と打った。
ここで6二角として……ん? 8三桂成だと? 同玉、8四歩、7四玉……詰まないと思うんだけど……。5二角でも、6四玉と寄れば……。
ピッ。ああ、分かんない。6二角。
と金を払い、チェスクロのボタンを押す。さっきの筋は、詰んでないはず。5筋の方面に逃げ出せば、捕まらない。
私は敵玉を睨んだ。これも、寄りそうで寄らないのよね。とりあえず、5三角と出て、もう一回合駒を……。
「……」
ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
成ったッ!? え? これ詰むの?
同玉、8四歩、7四玉、5二角、6四玉、7五銀、5三玉……。
いや、詰まないでしょ……多分……。
私は疑心暗鬼になりながらも、同玉と取った。すると、6一角が飛んできた。
「角打ち……? あッ」
し、しまった……このタイミングで角打ちをうっかりしてたわ……。7四玉、5二角成、6四玉、7五銀、5五玉、5六歩、4四玉、3四飛……ぴったり詰んでるッ!?
5二角成に6四玉と逃げないで、8三玉、8四歩、9三玉、8三飛、9二玉とすれば、一応詰まないけど、6二馬が詰めろ……。松平の玉は……詰む? 7四桂馬として……。
ピッ。ああッ! 時間がないッ! とりあえず7四玉ッ!
松平は29秒考えて、5二角成。8三玉に、案の定、8四歩と打たれた。
……ここで9二玉は? 8三銀、9三玉、7二飛が詰めろだけど、7四桂、7七玉、8六金、6七玉、6六金として、5八玉なら3八龍、6九玉、4九龍、5九歩まで決めて、そこから7六金右と払えば、詰まないような……。8二飛成、8四玉、7二銀不成、7五玉、6六金、同歩で、そこそこ広いし……。
ピッ。あうち、9二玉ッ!
「ん?」
私が玉を引くと、松平は「エッ?」って顔をした。
あれ? 読んでなかったとか?
「そこに逃げんのか……」
松平は澄んだ瞳で、9二の地点を睨む。
そして、8三銀と打ち込んできた。9三玉に7二飛車。
ここまでは読み通り。私は7四桂と打つ。
チェスクロを押そうと私が手を引っ込めた瞬間、松平くんの右手が伸びた。
ふえ? ……取られた。
「……」
私は呆然と盤面を見つめる。……何で同馬が見えなかったし。
同歩は8二飛成、8四玉、7二銀不成まで……終了。
「……負けました」
「ありがとうございましたッ!」
松平は右手でパーを作り、そこに拳をぶつけた。
「最後、際どかったな。もっと楽に勝てるかと思ってたけどよ」
「9二玉じゃなくて、9三玉だった?」
私は局面を戻す。
松平の顔から、勝利の余韻が消えた。
10秒ほど黙って、それから唇を動かす。
「んー、あんま変わんねえかもな。8三飛、9二玉に8二銀と詰めろを掛けて……」
「これが必至?」
「いや……まだ必至じゃないな。7一金、同銀不成、同角に……6一馬か?」
「これが9三飛成、同桂、8三歩成、8一玉、7二馬までの詰めろで、8二金なら、同飛車成、同角、8三馬まで。9三金も、同飛成、同桂、8三歩成、8一玉、7二馬だな。だから7手必至か、読み間違えてなけりゃ」
「6一馬に、5三角って出ると?」
私は角を飛び出して、王手を掛ける。
「7五金でいいんじゃないか?」
松平はそう言って、持ち駒の金を張った。
「それだと、必至が解けない?」
「いや、金は無くても足りてるぜ。9三飛成〜8三歩成の筋だ」
……そっか。金の有無は、詰みと関係ないんだ。
「じゃあ、松平の玉が詰むかどうかだけど……」
「そうだな……一目……」
松平は桂馬を手にして、それを7四に滑り込ませた。
同金とできないから……。
「7七玉に8六銀?」
「6七玉、6六金、同金、同歩、5七玉、5六歩。取ると4六金で即詰みか」
「取らずに5八玉も、3八龍、4八歩、4七金、6九玉、4九龍、5九歩、5八金で詰むわよ。……もしかして、9三玉なら勝ってた?」
「待て。3八龍には4八金じゃないか? これなら4九龍と滑り込めねえし、そもそも、6六金に同金ってするか? 5八玉じゃね?」
えぇ……? これは、いかにも詰みそうだけど……。
ああ、後手は持ち駒がないのか……。
「とりあえず、5七金かしら。3八龍は6九玉で詰まないし」
「同玉か同銀か……さて、詰むかね?」
私たちは、ふたりで読みに没頭した。何かありそうだけど……。
「同玉、2七龍、4七歩に4六金は、どう?」
「5八玉で?」
「4七金、6九玉、2九龍、5九歩……ダメね」
「かと言って、5六歩、同玉、4六金、6七玉、2七龍、5八玉も一緒だ。最後の5九歩が攻略できねえ気がするぜ。必至が掛かってるから、7五銀と補充できないしな」
うーん、これで詰まないのかあ……納得いかないわ……。
「どこが悪かった? 3三角成のあたりは、微妙にうっかりなんだけど……」
私は正直に、中盤での劣勢を認めた。あれは、誤摩化しようがないから。
「堅さ負けしてる時点で、ダメなんじゃないか?」
そこかいッ! めっちゃ序盤でしょッ!
「まあ、そう怒んなって。玉の堅さは、現代将棋だと重要だからな」
「そうかもしれないけど……中盤でもうちょっといい手が……」
「中盤なら、5二歩成に同金じゃなくて同飛と……」
そのとき、教室の端で喚声が起こった。
振り返ると、姫野さんの席だった。ギャラリーで見えない。
「つじーんが負けたか……」
誰かが、そう呟いた。
椅子を引く音。野次馬の間から、辻くんが姿を現す。
「っと、つじーん負けか」
松平はそう言っただけで、私の方へと向き直る。
感想戦の続きを……。
「それじゃ、罰ゲーム行こうか」
「へ?」
私たちは、顔を見合わせる。
……あッ!
「や、やらなきゃ、ダメ?」
私の問いに、松平は眉をひそめた。
「当たり前だろ……そのために500円払ったんだからな」
ぐぬぬ……言う覚悟はしてたけど、よりによってこいつとは……。
「何飲むの?」
「何でもいいが……コーラで」
私は歯を食いしばり、席を立つと紙コップにコーラを注ぐ。
それを持って席に戻り、テーブルの上に置いた。
「ご主人様……お飲物です」
「両手で差し出すとか、そういうサービスはねえのかよ……ま、いいや」
松平は顔を綻ばせ、そのままコーラを一気飲みした。
ぷはッと息を吐き、笑顔でコップをゴミ箱にシュートする。
「ごちそうさん」
「……どういたしまして」
何だか疲れちゃった。……休憩にしましょ。
場所:藤花女学園文化祭
先手:松平 剣之介
後手:裏見 香子
戦型:後手ゴキゲン中飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲4八銀 △5五歩
▲6八玉 △3三角 ▲5八金右 △4二銀 ▲7八玉 △5二飛
▲2五歩 △6二玉 ▲7七角 △7二玉 ▲8八玉 △8二玉
▲6六歩 △5三銀 ▲7八金 △6二銀上 ▲6七金右 △4四歩
▲5九銀 △4五歩 ▲6八銀右 △6四歩 ▲9八玉 △7二金
▲8八銀 △9四歩 ▲8六歩 △4二飛 ▲2六飛 △4四角
▲3六飛 △3二飛 ▲4六歩 △同 歩 ▲同 飛 △4二飛
▲6五歩 △同 歩 ▲4三歩 △5二飛 ▲5六歩 △3五角
▲4九飛 △6四銀 ▲5五歩 △3三桂 ▲5四歩 △5五歩
▲3六歩 △2六角 ▲4七飛 △4六歩 ▲同 飛 △5四飛
▲4七飛 △4五歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲2七飛 △2五歩
▲2六飛 △同 歩 ▲2二角 △3二金 ▲1一角成 △5一飛
▲1二馬 △5六歩 ▲5二歩 △同 飛 ▲3四馬 △5七歩成
▲同 金 △2八飛 ▲7九香 △2九飛成 ▲4二歩成 △同 飛
▲3三角成 △同 金 ▲同 馬 △5二飛 ▲4三馬 △5一飛
▲5二歩 △4一飛 ▲4二金 △7一飛 ▲5六桂 △5三銀引
▲5一歩成 △4二銀 ▲同 馬 △5三角 ▲同 馬 △同 銀
▲5二と △5四銀 ▲6四桂 △7四桂 ▲7二桂成 △同 飛
▲6二金 △同 飛 ▲同 と △8六桂 ▲8七玉 △9五桂
▲8六玉 △5三角 ▲7五桂 △6二角 ▲8三桂成 △同 玉
▲6一角 △7四玉 ▲5二角成 △8三玉 ▲8四歩 △9二玉
▲8三銀 △9三玉 ▲7二飛 △7四桂 ▲同 馬
まで131手で松平の勝ち