59手目 平手打ちする少女
静まり返ったテーブル席。
誰も声を発さない。敗者が喋るまでは喋らないのが、一応のマナーだから。
歩美先輩はしばらく目を閉じて、腕組みをしていた。敗因を検証しているのかしら。それとも……。
1分ほど経って、ようやく感想戦が始まる。
「3七……不利なのは……ってたけど……飛車が……」
声が掠れていることに気付いたのか、歩美先輩は軽く咳払いをした。
そして、同じ台詞を言い直す。
「3七桂で不利なのは分かってたけど、十字飛車が見えてなくて……」
ふたりは自然と局面を戻し、検討を始めた。
「馬を見捨てた方が良かった?」
平素の声音を取戻した先輩は、2五金として、桂馬を払った。
姫野さんは両肘をテーブルにつき、局面を睨む。
「どうでしょうか……。そちらの馬筋は、2五桂、同馬で、簡単に逸らすことができます。例えば6二飛成に4二香ならば、2五桂。このとき同馬と取ると、4二龍で将棋が終わりますわ」
「3四香だと?」
歩美先輩は2五金に代えて、3四香と打った。
うーん……これも単に6二飛成で悪そうな気が……。
「次に3二香と重ねて、3七香成の狙いですか……」
「ただ、3五歩とも受けられるし、取る暇がないと思ったのよね。2枚龍を作らせるくらいなら、本譜の方がいいかと思ったんだけど……」
「……いえ、それ以前に、3二香の局面は詰みますわね」
え? 詰むの? ……あ、ほんとだ。指摘されると簡単ね。
「そっか……3一銀、1二玉、3二龍、2二銀、同銀成、同金、2一龍寄……」
「ええ、ですから、6二飛成は、避けた方がよいかと思います」
ふむふむ、確かにこれで詰むようじゃ、本譜の6三歩しかないみたいね。
「じゃあ、本譜と同じように6三歩と打って……2四飛、同馬?」
再び、沈黙が流れる。これは、対局中にちょっと読んだわよ。
「……3一銀じゃダメですか? 1二玉に4一龍で……」
私は、恐る恐る尋ねた。
歩美先輩が首を曲げて、こちらを振り返る。
姫野さんも、私の示したように駒を動かしてくれた。
「2五馬ならば、3二龍で即詰みですか……」
「2二歩と受ける?」
歩美先輩は、桂馬の上を滑らせながら、歩を打ち込む。
んー、受かってるようにも、受かってないようにも見えますが……。
「なーんかありそうだな……」
顎を摩りながら、松平くんがそう呟いた。
「3二金からのごり押しは、1九飛車と打って、2二銀成、同金、同金、同玉、3二金、2三玉、2一龍に、1四玉と逃げられますね」
つじーんの捕捉。
「そこで2七桂は、どうだ? 詰めろな気が……」
松平くんは、5秒ほど考えて、深く頷いた。
「詰めろだな。2四龍、同玉に4二角。3四玉なら、3三角成の一手詰み。1四玉も、1五歩、同飛成、同角成、2三玉、3三馬、1二玉、2二金までだ」
なるほど、これは並べ詰みですね。見落としようがないわ。
「一時的に詰めろですが、受けはいろいろありそうです……1五銀とか……」
1五銀か……。同桂は、同玉で詰まなくなりそう。2四龍もダメっぽいし……。
単に3五銀と上がる? ……ダメか。詰めろでも何でもないわ。
「じゃあ、こう指した方が良かったわね。2四同金が悪手だったかも」
「いえ、どうでしょうか。3一銀、1二玉に、2二歩という手もあります」
「同金ならば、同銀成、同玉に3五金と打って、いかがでしょうか?」
ふむむ……いかがでしょうか……。
「……もしかして、2四金の形が必至?」
歩美先輩はそう言って、盤面に覆い被さった。
え? 必至? 例えば、2九飛車と打って、2四金、4九飛成、8八玉。ここで後手玉にうまい受けがあれば、後手勝ちそうだけど……さて……。
「確かに、必至っぽいな……3一角からの詰みと、2三金あるいは2三歩からの詰みを、同時に防げねえ気がする……」
松平くんの言う通りだった。3二金としても、2三歩、同金、3一角、1二玉、2二金、同金、同角成、同玉、2三金まで。かと言って、他に良さそうな手もないみたい。
「じゃあ、2二歩は放置ね。すぐに2九飛で、どう?」
歩美先輩の提案に、姫野さんは黙って、2一歩成とする。
……これが詰めろか。先手は……やっぱり詰まないわね。
「歩成りか……難しいわね……。同玉だと、4二銀成?」
「はい。1二玉で寄らなさそうに見えますが、3一龍が意外と厳しいかもしれません。2二銀の受けに、3二龍と引きます」
3二龍? それって2一銀くらいで……。あ、ダメか。
「なるほどな。2一銀なら、同龍、同玉、3二金、1二玉、2一銀で詰んじまう。かと言って2一香は、飛車に当たってねえから、先手は一手余裕ができるって寸法か」
ぐッ……先に言われた……。まあ、早押しクイズしてるわけじゃないんだけど。
「飛車に当てて3一香や3一歩は、同成銀で事態を悪化させるだけですね。2五馬も、同桂が再度詰めろになってしまいます」
と辻くん。
「踏ん張って、2五飛成としてみるか?」
松平くんのアイデアに対して、つじーんは呆れたように目を見開く。
「同桂、同馬に、2六歩がありますよ?」
「2六歩……2六歩……」
松平くんは目を閉じて、頬を掻く。
「……確かに、寄ってるな。同馬なら3四桂が詰めろ。こいつが振りほどけねえ」
恥ずかしそうに、ほっぺを赤くしてる。ぷぷぷぷ、結構照れ屋ね。
……っと、これ、歩美先輩と姫野さんの対局なのよね。ギャラリーがちょっとばかし出過ぎてるような……。それとも、学生将棋って、どこもこんな感じ?
私は、対局者の方に向き直る。歩美先輩は額に手を当て、背中を丸めていた。
「……ということは、2四同馬もダメね。2五桂打の時点で、終わってるのかも」
「なあ、ひとつ質問させて欲しいんだが……」
おっと、ここで冴島先輩のご登場ですか。
ギャラリーの視線が、先輩に集まる。
「円さん、何でしょうか?」
「3六角成のところで、5四角成じゃないのか? 本譜、3七香を誘発してて、あれが良くない気がするんだが……」
ああ、それは私も思ったわ。3六角成に3七香は、歩美先輩も見えてたはず。だから、5四角成としなかった理由があるんでしょうけど……それが、イマイチ分からないのよね。
「なるほど……検討してみましょう……」
さらに局面が戻された。歩美先輩は、66手目、5四角成とする。
松平くんたちと議論してた局面だ。これは難しい。
ギャラリーも読み耽っているのか、誰も候補手を上げなかった。
そんな中で、歩美先輩が先陣を切る。
「うーん、これは事前に研究してたんだけど……多分、捕まるわ」
歩美先輩はそう言って、盤の上で手をひらひらさせた。
全然ダメ、ってジェスチャーかしら? 将棋指しだと、たまに見る仕草。
「捕まる? ……後手玉がか?」
冴島先輩は、信じられないと言った顔をしている。
私はその隣で、一生懸命、議論の内容を思い出していた。
「えーと、それ松平くんたちと話してたんですけど……2九香くらいで……」
私が小声で言うと、歩美先輩もうんうんと頷いてくれた。
「そうなのよね。2九香、2七歩、3五桂。これが痛過ぎるわ」
「4一香の受けには、2三桂成、同玉、3五桂ですか……」
姫野さんは、扇子を鳴らしながら、盤面を覗き込む。
「ええ、それからは、どうやっても寄りそう」
歩美先輩の断言に、ギャラリーがざわめく。
「入玉できそうじゃね?」
端の方で、誰かが呟いた。
姫野さんは、黙って2六に歩を置く。
「これが見た目以上に五月蝿いのよ。1五玉に、1七歩」
「そこで2六玉だと?」
別の男子の声。歩美先輩は振り返りもせずに、先を続ける。
「それは1六金、3六玉に3八金が詰めろ。2五桂馬とトリッキーに受けても、5五銀が開き王手の馬取りになって、3五玉、5四銀、同歩、2六角、3四玉、6二角成と、馬を素抜けるの」
ん……ちょっとよく分からなかったわ。もっと、ゆっくり喋ってくれません?
「そうかねえ……それまだ入玉の目があると思うけどなあ……」
さっきの男子が、ちょっと嫌みっぽく呟いた。
んー、なぜか雰囲気が険悪に……。この前の大会と言い、歩美先輩、微妙に嫌われてる感じがするのよね……。松平くんも、そう言ってたし……。
でも、何が原因なのかしら? ちょっと口が悪いくらいのような……。
……まあ、あんまり深入りしない方がいいかも。
それにしても、5四角成以下の変化は、研究済みだったわけね。だから、3六角成としたけど、それが正しかったかどうかは微妙。感想戦を見る限り、3七香〜3三香成〜3七桂〜2五桂打〜6四飛の流れを、変えられない気がする。やっぱり、7二飛車みたいな捻った手を指さないで、素直に2四同歩か、2三歩成、同馬で良かったんじゃないかなあ。姫野さんの対応力が凄いと言っちゃえば、それまでなんでしょうけど……。
「ポイントは押さえましたので、初手から参りましょう」
「そうね」
対局者のふたりがそう言うと、ギャラリーは散っていった。
さすがに初手からは付き合い切れない、と言った感じかしら。
私はどうしましょ……。
「裏見、疲れたから、控えテーブルに戻ろうぜ」
あ、冴島先輩は戻るんだ。……じゃあ、私もそうしますか。
「八千代先輩は、どうします?」
「私は、男子の方を観て来ます」
そうですか……お疲れさまです……。
八千代先輩と別れた私は、冴島先輩と一緒に、控えテーブルへと戻る。
ん? 何か、もうひとつの気配を感じるんですが……。
私は、後ろを振り返る。
「……あんた、何でついて来てんの?」
私の難詰に、松平くんはきょとんとする。
「え? だって同じ高校だろ?」
「高校は一緒だけど、部活は一緒じゃないでしょ?」
「あのさ……何でそんな俺にキツいの?」
「別にキツく当たってるわけじゃなくて、うちは駒桜《女子》将棋部の……」
「分かった、分かった。夫婦喧嘩は、それくらいにしろって」
冴島先輩の割り込みに、私はカッとなる。
「そういう言い方はないんじゃないですか?」
私が怒ったのに驚いたのか、冴島先輩は、目を白黒させた。
あれ? ……ちょっと言い方がマズかった?
「お、落ち着けよ……どうしたんだ? 負けて、腹の虫が悪いのか?」
「いえ、別にイライラしてるわけじゃなくて……」
「ハハハ、アレだろ、生理だろ?」
パーン
清々しい音が、会場に鳴り響く。
何人かの対局者とギャラリーが、こっちを振り向いた。
「〜〜ッ!?」
ほっぺたを押さえて悶絶する松平。
こいつ、最低。相手にした私が馬鹿だったわ。
「先輩、早く戻りましょう」
「お、おう……」
私は背を向けて、先頭を歩く。
後ろで、冴島先輩の溜め息が聞こえた。
「将棋村の男子は、何でこうもデリカシーがないかね……」