57手目 研究する少女
私が歩美先輩の対局席に向かったとき、既にギャラリーの山ができていた。特に男子が多い。身長差があるから、覗き込むこともできなかった。
私がつま先立ちになっていると、背後から男前の声が聞こえる。
「退け退け。駒桜のお通りだ」
冴島先輩はそう言うと、男子の肩の間を通り抜けた。
ぽかんとしている私を、先輩は一瞥する。
「裏見、観ないのか?」
「えっと……」
私は、周囲の視線を気にする。これって割り込みなのでは……。
困惑する私に、隣の男子が口を開く。
「対局高校の部員は優先だよ」
……あ、そういうことか。じゃあ失礼して……。
私はこっそりと男子の間を縫って、最前列に出た。
目の前に歩美先輩、その対面には……姫野さん。お互いにヤル気MAXだ。2回戦までとは空気が違う感じね。
「えー、振り駒をお願いします」
姫野さんと歩美先輩は、2度ほど振り駒を譲り合い、歩美先輩が振ることになった。
歩美先輩は丁寧に駒を集めて、念入りにシャッフルする。ぱらりと駒が落ち、ギャラリーが一斉に覗き込んだ。背中越しで見えない……。
「……私の先手ですか」
姫野さんはそう言って、扇子をテーブルの上に置いた。
歩美先輩はチェスクロの位置を直す。緊迫した空気が、私たちの間に広がる。
「では、女子の部決勝、対局を始めてください」
運営の一言に、ふたりは頭を下げる。
「よろしくお願いします」
歩美先輩がチェスクロのボタンを押し、時計が動き始めた。
姫野さんはポキリと指を鳴らし、7六歩。歩美先輩は、ちょっとだけ間を置いて、8四歩と突いた。その瞬間、ざわめきが起こる。
「マジかよ……」
この声は……。私が振り返ると、隣に松平くんがいた。
えーと、あんたは高校が一緒なだけで、部員じゃないような……。
って、それはどうでもいいわ。この手の何に驚いてるの? 8四歩とか、超普通だと思うんだけど。驚くなら、7四歩とか他にいろいろ……。
驚いたのは、松平くんだけじゃなかった。冴島先輩も、顔を強ばらせている。
「決勝でそれはねえだろ……」
はて、私の知らない間に、2手目8四歩が死滅したんですかね……。
でも、この大会でも矢倉は普通に見るような……。
私が混乱する中、姫野さんはにやりと笑う。
「なるほど……そう来ますか……」
姫野さんは矢倉にせず、2六歩。
3二金、7八金、9四歩、9六歩、3四歩、2五歩……8八角成ッ!
って、これも驚くほどじゃないわよね。
だって、これは……えーと、あ、思い出した。一手損角換わりだものッ!
昔から知ってるけど、相変わらず名前が出て来ない……。
「出たぞ、伝家の宝刀が」
見知らぬ男子が、後ろでそう呟いた。
ん? 伝家の宝刀? ……ああ、一番得意な戦法ってことか。
「あ……」
私は今の状況に、ようやく気が付いた。つまり、歩美先輩は……。
「決勝で相手の得意を受けたか……」
松平くんの独り言。
凄い。普通は、相手の苦手な戦法に誘導するわけだけど……。角換わりなんて、2手目に8四歩と突かなければ、避けられるもの。歩美先輩が受けなければ、絶対この形にはならないはず。
「何かあるんじゃないか……?」
また別の男子。
確かに、歩美先輩って、勝敗重視派なのよね。
私相手でも、手は抜かないし……。ということは、研究にハメる気?
みんなが見守る中、淡々と指し手が進む。
8八同銀、2二銀、3八銀、3三銀、6八玉、6二銀、1六歩、6四歩、1五歩。
先手は端を詰めて、後手はその間に一手稼ぐ形……。
私なら、1四歩って突き返してるのよね。あんまり定跡は知らないけど。
「これは……」
おっと、この声は……。
私は、左隣を見る。……八千代先輩だ。
男子の対局見るとか言ってませんでした? ……やっぱり気になるのかな。
「どうかしました?」
私が小声で尋ねると、八千代先輩は盤を見つめたまま、唇を動かす。
「これは、4日前に行われた、王座戦第1局と同じ進行です……」
王座戦? ……ああ、プロのタイトルのひとつね。
そう言えば、数江先輩も観たとか言ってたような……。
ニコニコ動画だったかしら? 最近は、ネットでも観られるし……。
「偶然一緒ってことも……」
「いえ、偶然ではないです。……おそらく、駒込さんは研究済み」
……あ、そういうことか。最新型の研究でハメる気なんだ。
でも、そう簡単にいくかしら? プロの将棋を真似るのって、難しいわよ。
6三銀、3六歩、5四銀、3七桂、5二金、4六歩、4二玉、7七銀、3一玉。
え? ちょっと速過ぎない? ふたりともほとんど考えて……。
「前例から外れるまでは、ノータイムですよ……」
眼鏡を上下させながら、八千代先輩が囁く。
ええ? そんなことして、大丈夫なの?
訝る私の前で、姫野さんは3五歩と開戦した。
うッ……私の感覚だと……拙速な攻め……。
でも、姫野さんが指したとなると……。
「これは新手ですか?」
私が尋ねると、八千代先輩は首を左右に振った。
ということは、プロが指した手か……。
歩美先輩は10秒だけ考えて、同歩。手を読んだというよりは、棋譜を思い出してる感じだった。おそらく、これも新手じゃない。
姫野さんは4五桂と跳ね、後手は同銀と取る。むむむ、いきなり銀桂交換か。激し過ぎるわね。どちらかと言うと、姫野さんの棋風に合ってるような……。
4五同歩、3六歩……2六飛? ……歩を取り切る狙いか。でも、これは……。
私の懸念通り、歩美先輩は5五角と打った。同じ狙い筋でも、4六角は駄目。3七歩成のときに、4六飛車と取られちゃうから。
2八角と受けても、同角成、同飛、5五角だし……。
パチリ。澄んだ駒音とともに、姫野さんは3六飛と寄った。歩美先輩は、1九角成と飛び込む。速い。速過ぎる。私の読みじゃついていけないわ。
7一銀、9二飛に……8三角。ん、これは歩美先輩が悪いんじゃ?
1八馬、6六飛、6五桂、2四歩。この2四歩も、よく分からない。
「同歩、2三歩ですか……」
最低限のボリュームで、八千代先輩が呟く。
ところが盤上では、違う手が指された。
4五馬。……自然な活用ね。2三歩成に同馬ともできるし。
八千代先輩の間違い? ……そうとも言い切れないか。姫野さんも、ちょっとだけ怪訝そうな顔をしている。おそらく、同歩を読んでたんじゃないかしら。何となくだけど。
分からない。私は、固唾を呑んで見守る。
「同歩としませんか……」
「……」
歩美先輩は、黙って盤を見つめていた。
姫野さんは30秒ほど考えて、2三歩成。歩美先輩は、同金。
同馬じゃないんだ。これも私には理解できない。姫野さんも小首を傾げた。
「まだ変化しない……」
ですます調が消えた。これは……素が出てますね。間違いない。
姫野さんは、慎重に7九玉と引いた。4二金、4七銀……7二飛ッ!
わお……角筋から角筋に逃げるなんて……。
周囲もにわかに色めき立つ。空気が変わっていく。
「なるほどな……」
松平くんが、意味深に頷いた。私は彼を肘で小突く。
「どこに納得してんのよ」
私の存在に気付いたのか、ハッと顔を上げる松平くん。
……私、空気だった?
複雑な気分を他所に、松平くんは口を耳元に……。近いッ! 近過ぎるッ!
ああ……でもこうしないと、声が漏れるのか……。私は、羞恥心を押し殺す。
「分かったぜ。駒込は、姫野の研究してなさそうなところを突いたんだ」
「研究してなさそうなところ……? そんなの分かるわけ……」
「分かるんだよ。いいか。羽生、中村の感想戦だと、2四歩に同歩、あるいは2三歩成に同馬で、いい勝負って結論になったんだ。それ以降は、後手苦しい。だから姫野が研究してるとしたら、2四歩の周辺だけで、7二飛あたりは、してても手薄なはずだ」
……何となく、分かったわよ。つまり……。
「既に後手悪いってこと?」
松平くんは、真剣な顔で頷き返す。
「ああ……ただそれは、トッププロの話で、アマじゃどうなるか分からねえな」
松平くんはそう言って、眉間に皺を寄せた。
そこへ、八千代先輩が割り込んでくる。
「7二飛自体は、感想戦で出ていた手です。知らないはずはありません」
ふむ……整理すると……。7二飛車は、プロが指摘したけど、姫野さんは調べてなさそうな手。そこを狙って、歩美先輩が研究を用意しておいた。
こんな感じかしら? 事実、姫野さんも長考に入った。扇子を握り締めた手で、顎を支えている。様になってますね。
……おっと、見蕩れてる場合じゃないわ。ここは、読みを入れるチャンスね。
えーと……同角成、同馬は、銀が死んで……ない? 5一飛車があるか。これが王手だから、ひとまず銀に紐がつくわね。……ああ、それでもダメか。4一香車と打たれた後、先手は飛車を動かせない。だったら、次に9三角とでも打って、銀を捕獲。先手良し。それを防ぐには6五飛、同歩、6三桂くらいしかないけど、さすがにムチャクチャでしょ。
じゃあ、7二角成と取らない? でも、取らないと7一飛車で負けだし……。
私は腕組みをして考える。6五角成、同歩、同飛は、一見4五飛と6一飛成の筋が厳しいけど、6三角で受かってそうなのよね。4五飛、同角、8三桂……。これじゃ、何をやっているのか分からない。
……やっぱり取りましょう。7二角成、同馬、5一飛、4一香。そこで……。
ん、あ、そっか、6二銀成があるわ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同馬、8一飛成、7七桂成……。違うか。5七桂成?
……どっちもありそう。7筋の歩を突かれてないから、7七桂成なら、同桂かしら。7五歩、同歩、7六歩の心配がないもの。そこで後手の手が悩ましいわね。……6五歩、同飛に5四角は、そのまま6二飛成と突っ込んで、後手良しな気がする。8一角の働きが悪いし。かと言って、6筋の飛車を放置すると、6四飛〜8四飛と動かれちゃうから……。
むむむ……これは本当に難しいわ……。さすがプロの将棋ね……。
私は一旦読みを中断し、対局者を見た。姫野さんは、左手で拳を作り、それをこめかみに当てて肘をついている。目を閉じ、右手で扇子をパチパチしていた。
これはもう、完全にお嬢様を捨ててますね、はい。
……さて、4一香車は読んだから。2二玉の受けでも見ますか……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは……ちょっと後手、危ないかなあ……。
例えば、6二銀成、同馬、8一飛成で、次に先手は3五桂馬の狙いがある。後手が悠長に5七桂成なら、3五桂、2四金、2三歩、同金、同桂成、同玉、2一龍、2二歩。そこで3六銀と逃げて……。
ん、待ってよ、こうなるなら最初から、2四金って逃げないか……。3五桂に、4七成桂と、銀を取りましょう。2三桂成、同玉、2一龍、2二歩……あるいは、遠くに利かせる意味で、2二香……。これで入玉を狙えそう。六段目には飛車の横利きがあるけど、あそこの飛車は簡単に取れそうよね。最悪、5七角と王手して、6六角成と喰い千切るか、3五角成として、入玉の経路を確保すればいいわけだし。それとも、さらに手堅く6三馬とか?
……ということは、2二玉でもいいんだ。3五桂馬は、そんなに痛くないはず。
じゃあ先手、6二銀成の前に、5八金と締めとく? それなら……。
あ、ダメか。6一香車がある。8二銀成、同馬、6一飛成で、もう桂馬を拾える展開にならない。ただ、放置なら8三香からムリヤリ……。いやあ、でも、香車手放して桂香拾いに行くのもねえ……。
そこまで読んだとき、ようやく姫野さんが、目を見開いた。
彼女の指した手は……。
4六銀? これは……。
あ、そっかッ! 私は思わず、喫驚を上げそうになった。これはいい手だわ。同馬なら、同飛とせずに、7二角成。5七馬と突っ込まれても、8八玉と上がればいい。6六馬、同銀で銀も手順に逃げられる。まさに一石二鳥の手だ。
もちろん、それで先手勝ちってわけじゃない。嫌な筋はたくさんあるし、そもそも4六同馬じゃなくて、6三馬かもしれないわね。そこで7二角成、同馬なら、5一飛、2二玉、6二銀成、同馬、8一飛成。一見、私の読み筋と同じだけど、そこで5七桂成とできない。同銀があるから。
「さすが姫野だな……単に7二角成は、入玉されると見たか……」
松平くんの独り言。ということは、松平くんも2二玉方面を読んでたんだ。
初めて、歩美先輩の手が止ま……らないッ!? 20秒の小考で、5四馬と引いた。これも研究済みってことですか……。
7二角成、同馬、5一飛に、歩美先輩はノータイムで2二玉と上がる。要するに、4一香車と2二玉の優劣は、自宅で研究済みってことか……。これは姫野さんと言えども、結構苦しいんじゃないかしら。歩美先輩は、28分も残している。対する姫野さんは、さっきの長考で、21分まで減っていた。そしてもう一度、長考に入る。
「駒込有利かな……」
後ろで誰かが囁いた。次々に、ギャラリーの声が聞こえる。
「姫野に時間攻めが効くかね……?」
「時間攻めしなくても、入玉できそうじゃないか?」
「いやあ、どうだろうな……4六銀までは、俺もそう思ってたが……」
「どのみち、姫野の駒損だ。駒込が正確に指せば、あるいは……」
みんな、好き勝手言ってますね……。まあ、大筋合意。
歩美先輩のメリットは、駒得と持ち時間、それに研究の蓄積。特に駒得は、7七桂成、同桂まで進めば、かなりのものだ。
一方、姫野さんのメリットは……んー、何だろ。玉は、姫野さんの方が堅いかなあ。歩美先輩の陣形は、3五桂と打たれると、すぐに崩壊しそう。かと言って、3四歩と打つのは、入玉ルートを自分で遮断してるし、2五桂と打たれれば、同じことになっちゃう。
……意外と五分? 私的には、どっちも持ちたくない感じ。
パチリ。ん、駒音? 私は盤面に向き直る。
……6二銀成。この一手って感じだけど、多分、姫野さんが読んでたのは、もっとずっと後の局面ね。同馬、8一飛成、7七桂成、同桂。
さあ、ここで歩美先輩は、何を用意してるのかしら?
【参考棋譜】
2013年9月4日 第61期王座戦五番勝負 第1局
羽生善治王座 対 中村太地六段
http://live.shogi.or.jp/ouza/kifu/61/ouza201309040101.html