55手目 味方を呪う少女
歩美先輩の感想戦が遅かったので、私たちは前と同じように、吉野家で牛丼を買い、すぐに会場へと戻った。公民館の自販機で、ペットボトルのお茶を購入。控えブースへ戻る途中、歩美先輩に声を掛けられた。
「香子ちゃん、千駄会長から、何か言われなかった?」
会長から? ……何も言われてないわよね。記憶喪失じゃない限り。
「いえ、何も」
「ほんとに? 全然?」
「……トーナメントの籤を引くようには言われました」
私が適当に答えると、歩美先輩は軽く首を捻った。
それから、いつもの一言。
「そう……」
えーと、何か言われてないと不味いんでしょうか?
まさか、除名とかじゃないでしょうね。私、何も悪いことしてないわよ。
私たちはブースに座り、さっさとお昼ご飯をかき込んだ。数江先輩は、大盛りに加えて、コンビニで買ったおにぎりを食べている。
どうなってるの……この人……。太らないのが不思議だわ。
私は、冴島先輩と、当たり障りの無い会話をする。歩美先輩はそこへ、一度も割り込んで来なかった。真面目な顔で、牛丼を食べている。
そんなに美味しいんですかね?
私が疑問に思う中、歩美先輩は半分くらい残して、席を立った。
トイレかしら? ……あれ? 出口に向かってる?
「おい、裏見、聞いてるか?」
冴島先輩の声。私は箸を止め、右隣を振り返る。
「はい?」
「次、どうすんだ? ヤクザとだろ?」
……嫌なこと思い出させますね。というか、人前で、その渾名は止めましょう。
私は箸を置く。
「そうですけど……普通に指すしか……」
「何か奇襲とかしないのか?」
「奇襲ですか? あんまりそういうのは……」
フェア・アンフェア以前に、指し慣れてないのを指すのは、良くないと思う。結局、自分のマイナスにしかならないから。私は八千代先輩みたいに、いろんな戦法を細かく知ってるわけじゃない。不慣れなところを突かれて、そのまま負けちゃいそう。
私が言葉を濁していると、冴島先輩は溜め息を吐いた。
「ま、当たって砕けた方がいいわな」
むむ……砕けること前提ですか……。酷い……。
「歩美先輩は、どこ行ったんですか? 自販機で買い物とか?」
……なわけないか。歩美先輩、自分用のお茶、とっくに買ってるし。
「駒込なら、緊張してんだろ。気にするなよ」
「緊張?」
歩美先輩が? 緊張? あんまり信じられないんですが……。
相手は横溝さんだし、言っちゃ悪いけど、普通に勝ちそう。
「歩美先輩って、案外アガリ性なんですね……」
私の解釈に、冴島先輩は「はん」と鼻を鳴らした。
「あいつがアガリ性なわけねえだろ……決勝でヤクザと当たるからさ」
決勝で姫野さんと……。ふむ、その可能性は……って。
「えーと、私はもう、負け確で見られてるんですか?」
ちょっと怒ったように言う。冴島先輩は、慌てて首を左右に振った。
「そういう意味じゃねえよ。オレは裏見に勝って欲しい、が……ただ……」
冴島先輩は、妙な間を置いた。
「ただ、駒込は、おまえに負けて欲しいと思ってるだろうな」
……は? 同じ部に所属してるんですが……。
混乱する私に、冴島先輩は説明を加える。
「あいつは、姫野と指すなら、何でもするやつだからな。現に1回戦でも、オレはあいつから全然応援されてねえ。『さっさと負けろ』みたいな目で睨んできやがる」
冴島先輩は、怒っていなかった。むしろ、面白そうな顔をしている。
爪楊枝を取り出し、歯の間を掃除し始めた。ちょ……。
「おまえがヤクザに勝ったら、決勝前にトイレで刺されるかもな」
めちゃくちゃな脅しを掛けてくる先輩。私は呆れてものが言えなかった。
箸を持ち、さっさと残りを食べる。
うーん……歩美先輩、若干自己中だと思ってたけど、ここまでとは……。そう考えると、春の団体戦、もしかしてわざと姫野さんに当たりに行ったとか? あのときは、姫野さんが大将に来るとは限らないって誤摩化してたけど、どうだか……。
私は最後の一粒を摘んで口に放り込むと、お茶を飲んで喉を潤した。
そうこうしているうちに、歩美先輩が戻ってくる。
うわ、さっきの話、聞かない方が良かったかも……。目を合わせにくい……。
「カズちゃん、私の残り食べる?」
歩美先輩はそう言って、食べかけの牛丼を数江先輩に差し出した。
いや、それはさすがに……。
「やったね、歩美ちゃん優しい!」
断らないんだ……。私の方が胸焼けしてきそう……。
「じゃ、私は先に行くから」
そう言って歩美先輩は、対局テーブルへと向かう。
「あ……頑張ってください……」
「……」
歩美先輩は何も言わず、そのままブースを離れた。
マジかぁ……ほんとに私に勝って欲しくないんだ……。
まあ、歩美先輩に気兼ねするつもりはないんだけどね。勝っちゃうわよ。
私はペットボトルを握り締めると、姫野さんの待つテーブルへと急ぐ。時刻は13時5分前。男子の方は、人数が多いからか、30分前には始まっていた。
ほんと忙しいわね。食べ終えたばっかりなのに。
「失礼します」
私は椅子を引き、姫野さんの前に座る。
姫野さんはにっこりと笑い、手にしていた扇子をパチリと鳴らした。
「よろしくお願い致します」
おお……怖い……笑顔なのに怖い……。
裏見香子、頑張れ……。
「女子の部、振り駒をお願いします」
男子の部に配慮してか、幹事のひとりが抑え気味の声で指示した。
私は黙って、姫野さんが振るのを待つ。
「では、失礼して……」
姫野さんは1枚1枚丁寧に歩を拾うと、なるべく音を立てないように、宙に放った。
……歩が5枚。私の後手か。
「わたくしの先手ですね」
姫野さんはそう確認して、歩をもとの位置に戻す。
私はその間に、チェスクロを右手の方に置き直した。
「女子の部、2回戦を始めてください」
幹事の掛け声と同時に、私たちは頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願い致します」
姫野さんは顔を上げると、鮮やかに7六歩と突く。
チェスクロを押し、もう一度扇子を鳴らした。
さて、私の作戦ですが……。矢倉は一回、凹られてるのよね。8四歩と突くと、リベンジ戦になる可能性が高いか……。
私は10秒ほど考えて、素直に3四歩と突いた。
それを見た姫野さんは、目を細め、意味深な笑みを浮かべる。
「なるほど……そうしますか……」
うぅ……何か全てを見透かされてるような……。
えーい、気合い、気合いッ!
私が自分に喝を入れていると、姫野さんは即座に2六歩。私は4四歩と突いて、振り飛車を目指すことにした。姫野さん相手だから、誤摩化さずに行きましょう。四間飛車よ。
5六歩、4二飛、4八銀、3二銀、6八玉、7二銀、7八玉、6二玉、2五歩、3三角、9六歩。
むむ、9六歩と突いてきたわね……。さっきみたいなこともあるし、用心、用心。私は9四歩と突き返し、姫野さんは5八金右。持久戦か、急戦か、そこを見極めないと。
私は7一玉と下がる。姫野さんは目を閉じ、扇子を押し開いた。
「……」
ん? 指さない? 何を考えてるのかしら?
……もしかして、定跡を思い出してる? だとすると……。
「これに致しますか」
姫野さんは瞼を上げて、3六歩と突いた。急戦確定。
私は、8二玉と入城する。6八銀、4三銀、5七銀左、5二金左、4六歩、5四歩。
私がチェスクロを押すのと同時に、姫野さんの指が4筋に伸びた。
「開戦致しましょう」
うわ……6八金直すら保留して開戦ですか……。
チェスクロを確認すると、私は2分、姫野さんは3分しか使ってなかった。
私はここで長考する。この形は、4五歩早仕掛け。同歩とは取れない。定跡は……。
確か6四歩ね。私はその通りに指す。3七桂、6三金、2四歩。
同角と同歩の2通りがあるけど……。同角の方が良かったかしら? あんまり正確に覚えてないのよね……。部室の本で、ちょっと読んだくらいで……。そもそも、大会で急戦されたのって、これが初めてじゃない?
私は記憶を振り絞る。……ふむ、だんだん思い出してきたわよ。確か、同角には、4四歩と取り込んで、同銀、4三歩、同飛、2四飛、同歩、3二角、4二飛、2一角成、4一飛打、3三桂、5一飛だった気がする。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
結構、お互いにメチャクチャな形よね。でも定跡。
一直線だし、姫野さんが間違えるとは思えないから、ここまで進めちゃいましょ。さっきから姫野さん、ノータイム指しの連続。こっちも考えてる暇がないわ。
私が同角とすると、姫野さんは煽いでいた扇子を止めた。
「同角……」
ちょっと顔が険しくなる。
あれ? もしかして、同歩だった? ……んー、どっちでもいいと思うけど。決定的に不利になることは、ないはず……。何だか、ドキドキしてくるわね。
姫野さんは30秒ほど首を傾げて、それから4四歩と取り込んだ。同銀、4三歩、同飛、2四飛、同歩、3二角、4二飛、2一角成、4一飛打、3三桂、5一飛。
何だ、やっぱりこの手順じゃない。お互いに指し手が速いわ。
私が自信を取戻す中、姫野さんは端に指を伸ばす。
え? 端歩? ……これ何?
まさか、ここから端攻めが炸裂するってことは……。
同歩、同香、同香……別に潰れないと思うけど……。
私は、9筋に指を伸ばした。歩に触れた瞬間、嫌な予感がする。
……ちょっと待ってよ。同歩、同香、同香……先手は歩切れ解消で……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
「あッ……」
私は思わず声を出した。
「どうかなさいましたか?」
姫野さんは、私を気遣うように……いや、嘲るように、小声で問い掛けた。
開いた扇子で、口元を覆い隠している。……爆笑してんじゃないでしょうね。
って、それはどうでもよくて……。不味い。そっか、端歩は、ムリヤリ歩を補充するためだったんだ……。4三歩に5二飛寄だと、4四角と銀を取られちゃう。それは敗勢。
かと言って、他に飛車を逃げる場所が……。9八香成と突っ込んでも、7七角で何ともない。私の方は、あいかわらず飛車か銀が死んでるパターン。
んー、つまり、端歩は取れないわけか……。でも、取らなかったからと言って、4三歩の筋を回避できるわけじゃないのよね。9四歩と取り込めば、先手はやっぱり歩を持てる。
……ということは、私の課題はふたつ。まず、端歩を放置すること。次に、その稼いだ一手で4三歩を回避すること。ただ、回避する手があるかどうか……。
飛車を逃げる手は、ないのよね。それは4四角で終了。その4四角を防ぐには……。
5五歩?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
5五歩と突けば、9四歩〜4三歩に、5二飛寄でいいわよね。ただ、9四歩とされた後、後手はもう一手指さないといけない。そこで何を指すか……。
3三の桂馬を取りたいかな? 9四歩、3三銀……5五角? これが銀当たり。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
こ、この局面……手が広過ぎる……。
パッと見だけでも、2一飛or5五同飛or4四銀……。
とりあえず、2一飛、3三角成、5二飛は、角銀交換か。先手の継続手は……4四歩と垂らして、と金作りかしら。ちょっと遅い気もするけど……。あるいはもっと直接的に、4三馬と当てちゃう? 飛車のどっちかは取れるわよ。2二飛上、5二馬、同飛、4一飛、3三角、6六銀……。ん、6六銀なら、5六飛車と走れるわね。
……あ、意味ないか。4七銀、6六角、同歩、同飛は、6七銀と強く受けて良しだわ。最悪、先手は自陣龍もあるし。鞘谷さんと違って、姫野さんが自陣龍を嫌うことはないと思う。
攻めが強い人は受けも強い。と、おじいちゃんが言ってました。
さて……となると、飛車を渡さない方がいいってことかな? だったら、5二飛と逃げられないわけだけど……。2一飛、3三角成、6二飛と、奥に逃げる?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ヒキコモリ気味で、あんまり好きじゃないわね……。
でも、4三馬なら、5一飛と逃げられるわよね。飛車を取られない。指すなら、4三馬のところで、4四歩。と金を作られると不味いから、さすがに4二歩と受けましょう。
……その先が分かんない。3二馬は、5一飛で何ともないし……。
まあ、この局面を選ぶかどうかは、ちょっと保留しましょう。
次、次。確か、5五同飛だったわよね。同歩に……手筋で4七歩ってしたくなるけど、この局面だと同銀で何にもないのよね。2九角は、4六歩と防いで終わりだし……。
逆に先手は、やりたい手がいくらでもある。1一馬でもいいし、4三歩でもいい。これは後手不利ね。5五同飛は却下。
最後に、4四銀か……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
角を逃げると2一飛だから、同角よね。同飛に、先手の馬がどう逃げるか……。
まあ、2二馬かしら。これが飛車当たり。4二飛と逃げ……ないか。それだと、3三馬が再度飛車当たり。一手損してる。だから、4三飛車と、馬を囲うように引いて……。
あ、全然ダメだわ。4四歩とされて、5三飛寄は4二銀。4二飛は3三馬、6二飛、4三歩成……。これは後手終わってる。飛車が閉じ込められた上に、と金とか……。
そっか……だったら、最初の2一飛車が正解なんだ……私が読む限り……。
私はチェスクロを確認する。……あうッ、残り18分。考え過ぎたわ。
姫野さんも退屈そうにしてるし、さくッと指しましょ。
5五歩、9四歩、3三銀、5五角に、2一飛ッ!