5手目 罠を張る少女
「7五角……?」
サエジマ先輩は、よく分からないと言った顔をする。
私もよく分からない。一応、5六歩〜3九角成の狙いにはなってる……かな。
当惑する私をよそに、サエジマ先輩は29秒まで考えて6六銀と指した。
ですよねぇ。私は泣く泣く4二角ともどる。
この局面、私が2手パスしたのと同じになってる。
こっちの角が変な動きをしてるあいだに、先輩は7六桂、6六銀と指せたのだ。
形勢は私が不利。もうダメかも。
……いやいや、諦めちゃいけない。将棋は終盤ッ!
この人の終盤が弱ければ──の話だけど。
私はちらりと先輩を盗み見る。
「……」
すっごい怖い顔して考えてる。
もしかして私の悪手に気づいてない? なにか狙いがあると思ってるとか?
どちらにせよ、この気が滅入る局面を考えるしかなかった。
私の第一感は4四歩。同歩に3三銀、同金、同歩成、同角、4三金。
そこで……2二角かしら? 3二金、3一角、同金、同飛。
あれ? これはこっちが持ち直してるかも。断言はできない。
「とりあえず玉頭に味つけすっか……」
ピーッという音と同時に、先輩は8四歩。
ぱちんとボタンが押された。
また29秒か。ここまでくると凄いわね。
8四歩か──4四歩は攻めが単調と見た手だ。
でもこれ、私の勘が「あんまりよくない」って言ってる……読もう。
8四同歩、4四歩、同歩、3三銀、同金、同歩成、4三金、2二角までは同じ。
3一角、同金、同飛も一緒だけど……あれ? じゃあ8四歩っていったい?
7五角、3九飛成、8四桂とでもするつもり?
でもそれって8七銀、同玉、6九龍、7二桂成、同玉。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ。
ああッ!?
「とうッ!」
変なかけ声をあげて、私は同歩と取った。間に合えッ!
ぱちんと音がした。私は恐る恐るチェスクロを見る。
29秒。セーフ。これ心臓に悪い。
「ま、同歩だよな……そこでだ……」
サエジマ先輩は指を鳴らし、慎重に読みふけっている。
顔色がさっきより冴えない。やっぱり8四歩って微妙だったんじゃない?
私は4四歩の筋をさらに掘り下げようとした。そのとき──
「初志貫徹だッ!」
そう言って先輩が指した手は、4四歩じゃなくて……8四同桂ッ!?
えッ!? これ成立してるのッ!?
7一金だとどうするの? そのとき4四歩? 同歩、3三銀、同金、同歩成、同角、4三金、2二角、3二金、3一角、同金、同飛……やっぱり同じ……じゃないッ! 今度は歩が2枚あるから、8三歩、同玉、3二歩、同飛、6五角が王手飛車取りッ!
……って、あれ? 3二歩に飛車を逃げると?
ピーッ!
「歩ッ!」
私は左手で歩をつまみ、8三に置いた。同時に右手でボタンを押した。
そうだ、こうすればもっと速く押せ──
「待った」
は? 待ったはナシでしょ、さすがに。
「待ったはナシじゃないですか?」
「ちがう、それは反則だ」
「……8三歩がですか? 二歩じゃありませんけど?」
「チェスクロのボタンは、指したのと同じ手で押さなきゃダメだ」
……え? なにそのルール? マイルールってやつ?
私は駒込先輩に助けを求めた。けど、彼女もしぶい顔をしていた。
「ごめんなさい、説明してなかったわ。円ちゃんが言ってるのは、正式な決まりごと」
反則負けッ!? そんな幕切れなのッ!?
「こら、その円ちゃんってのはやめろッ!」
「いいじゃない。私とあなたの仲だし」
「どういう仲だよッ!」
「ま、負けました……」
肩を落とした私に、先輩たちは口論をやめた。
まさか反則負けになっちゃうなんて。
たしかに指すのは嫌々だったけど、やるからには勝ちたかった……悔しい。
私がしょぼくれていると、サエジマ先輩は気まずそうな顔をした。
「ま、初めてだしな……このまま続けるか?」
ん? これは同情かしら……売られた同情は買うわよ。
「本当ですかッ!?」
私はわざとらしく潤んだ瞳で、サエジマ先輩を見つめかえす。
サエジマ先輩は目を逸らし、絆創膏のある左頬を掻いた。
「オ、オレもこういう決着のつけ方は、好きじゃないからな……」
「ありがとうございますッ!」
よっしゃッ! 二言なしよッ! 私はチェスクロに手を伸ばす。
……あれ、再開ってどうやるんだろ?
「貸せ。オレがやる」
サエジマ先輩はチェスクロを器用に操作し、私のがわのボタンを押した。
するとサエジマ先輩の液晶画面が、秒読みを開始した。
「じゃ、続けるぜ」
望むところ。絶対逆転する。
……とは言え、この8三歩も冴えないなあ。全然読んでない手だし……。
普通に考えると次は7二桂成よね。同玉までは必然。
先輩は案の定、7二桂成とした。すぐに同玉と取り返す。
さてさて、これで持ち駒は銀1枚、桂馬2枚、歩が1枚。色々できそう。
なんだかよく分からないけど、4二角と引いた局面よりは希望が持てる。
「んー、こいつはちょっと単調過ぎたな……」
サエジマ先輩のぼやき。私もそう思います。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
先輩は29秒まで考えて、4四歩と指してきた。
これでもやっぱり厄介か……先輩は金銀を持っている。
とりあえず同歩。
先輩はさらに29秒読んで3三銀。これも同金。
「……おまえ、もうちょっと時間使ったらどうだ?」
そこは仕方がない。
時間に追われてパニックになるくらいなら、余裕を持って指したほうがいい。
先輩はまた29秒考えて、同歩成としてきた。これもノータイムで同角。
さあさあ、サエジマ先輩はなにを指すのかな、っと。
4三金、2二角に、今度は5二金と打てる。7一飛車と逃げるしかない。
そこで3二金なら、なにがなんでも3一角。同金、同飛は、ちょっと怖いけどまだなんとかなりそうね。先輩の飛車が攻めに参加してないし。
ピッ
先輩はゆびを飛車にそえた。
「一枚足すか……」
そうつぶやいて3六飛。今回の記録は28秒。
……まずい。この手、今までの思考で1秒も読んでない。
時間制限がこんなに厳しいなんて……おじいちゃんとは自由に指せるのに……。
えーいッ! とにかく読むッ! パッと見3二歩だけど、これは4三金、2二角に、今度は3二飛成。そこで3一銀なんて受けたら8二金で目玉が飛び出るわ。3一飛のぶつけも意味がない。
ん? 3一飛とぶつける……あッ、この手が成立するかも……?
ピッ
もう、せかさないでッ!
私は角を4二に引いた。叱りつけるようにバシリとボタンを押した。
「こ、こらッ! それ1万はするんだぞッ!」
え……? 私はチェスクロをまじまじと見つめる。
そんな高級品なんだ……これ……。
「す、すみません……」
私はすなおに謝った。口答えしてるヒマはない。
サエジマ先輩もそれ以上はなにも言わなかった。でしょうね、この局面──
「単に角を逃げるとは……読んでなかったぜ」
先手が読まなきゃいけない手は、おそらく2つ。
3二飛成か、4三金。
パッと見、3二飛成としたくなる。けどそれは3一銀が予定の受け。竜角交換なら大歓迎だし、3八龍と逃げるなら、7六桂から勝負する。足りないかもしれないけど、先輩も相当怖いはず。
問題は4三金ね。
「チッ、成れねえか」
サエジマ先輩は舌打ちをして、4三に金を置いた。
私はノータイムで6四角とした。
考えるのを放棄したんじゃない。先輩に考える時間をあげたくないのだ。私が30秒考えると、先輩は合計60秒考えられる。この罠が見抜かれちゃうかもしれない。
頼むから、掛かってちょうだい。お祈りモード。
「……」
「……」
先輩の軽口が減ってきた。迷ってる。だったら、間違う可能性も──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「分かんねえッ!」
サエジマ先輩は飛車をつまみ、3二に成り込んでボタンを押した。
……来た、来た、来たッ! これを待ってたのよッ!
私はノータイムで3一飛と寄った。
「はえ?」
サエジマ先輩が奇声をあげる。
私は息を殺した。先輩は持ち駒から金をひろった。
「そりゃ、8二金で終わって……」
サエジマ先輩は指を8二に伸ばし、ビニール盤に音もなく押しつけた。
やったッ! よろこんだのもつかの間、先輩は指をはなさない。
指をはなさなければ指したことにならない。それはおじいちゃんも言ってた。
「……お、終わらねえッ!」
先輩は金を回収して、頭をかきむしる。
さすがにバレたか……8二金は同玉、6二龍で終わってるように見える。でも、7二金と受けてノープロブレム。3一に飛車がいるから、7一銀と追えないし、かと言って6一銀の引っかけは、6二金で終了。
ぼりぼりと頭をかく先輩。ぱらりと毛髪が舞い降りた。ハゲますよ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「あーッ! 取るぜッ!」
先輩は飛車龍交換に応じた。またまたノータイムで同角。
まだこっちが不利。とにかく時間攻めにしないと……4手前の局面だって、本当は3二飛成に代えて、5二金打でこっちの負けだった。サエジマ先輩も、30秒じゃ完璧には指せないわけね。
これならまだ希望が持てる。もうひとつ間違えてちょうだいッ!
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリという音とともに、4一飛が打たれた。
私は思わずほくそ笑む。
チェスクロを押した先輩の手が硬直した。
「……な、なにやってんだオレはッ!? 打つなら3二だろッ!」
もう遅いッ! 私は飛車を手にして、3九の地点をにらんだ。
ここはノータイムじゃない。徹底的に読むわ。30秒が許す限り。
3九飛、5二金、8七銀、同玉、6九飛成。これで私の玉が詰むかどうか。
6一飛成、8二玉、6二龍、7二桂(銀かしら?)、7一銀、9三玉、8二銀打、8四玉で、そこから……8五歩、同玉、7七桂、7四玉に6五金、8四玉、8五歩は打ち歩詰めだから助かって……ないッ!
6五金じゃなくて、7五歩、同角としてから6五金だッ! 8四玉、7五金で負け……最初の8五歩に7四玉と寄るのも同じ筋で詰んでる。
そ、そんなッ! この局面でもこっちが悪いのッ!?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「!?」
私は目にもとまらぬ速さで6四角と出て、ボタンを強く叩いた。
サエジマ先輩も叱ったりはしない。全神経を将棋に集中させている。
しかし6四角……これはまた私がやっちゃったかも……。
3九飛の筋はもう間に合わない。玉頭から殺到する筋を読む。
先輩が次に5二金として、7六桂に6一飛成、8二玉、6二龍、7二銀、7一銀、9三玉と上がる。先輩は銀を1枚しか持ってないから、今度は8二銀と打てない。だったら7二龍くらいしかないか。
そこでどうするの? あ、そっかッ! 8八桂成、同玉、7六桂、7八玉、8八飛、7九玉に8七飛成ッ! これで8二龍、8四玉なら、8五歩に同龍と取れるッ! しかも次は8八銀の1手詰めッ!
ん、でも8四玉に、7五銀打、同角、同銀、同玉、6六角なら?
「うおーッ! 分かんねえッ!」
先輩はピーッという電子音とともに5二金と上がった。
これは読み筋。私はさっきの6六角以下を考える。
8六玉は7七金、同龍、同角で龍が消えるから却下。
7四玉は7五金の一手詰み。却下。
8五玉は? ……9七桂打、8六玉、7七金か。却下。
左辺に逃げるしかないわね。6四玉だと──
ピッ、ピッ
私は桂馬を手にし、それを7六に叩きつけた。
ここまで難しくなったら、時間切れ負けは絶対イヤ。
ピッ、ピッで指しましょ。
「くそーッ、もっと楽に勝てただろ」
先輩は29秒考えて6一飛成。
私は27秒考えて8二玉。
以下、同じ時間の使い方で、6二龍、7二銀まで進んだ。
私はさっきの局面、6四玉からの逃げをずっと読んでいた。
そして、ある結論に達した。私の玉は詰まない……はず。
私の王様は大海原へ逃げられる。先輩は袋小路。勝機はある。
先輩は29秒で7一銀。私は27秒で9三玉。
チッ、チッ、チッと舌打ちし、先輩は7二龍で銀を取った。
私は8八桂成と飛び込む。長考タイムは終わり。
少しだけ余裕のできた私は、ちらりと先輩の顔を見た。口元に手を当て、ぶつぶつとなにかをつぶやいている。不明瞭で聞き取れないけど、多分詰むかどうかの確認だろう。
「ど、同玉は詰んでんじゃねぇか? こ、こうなったら……」
ワンボリューム上げたかと思うと、先輩は玉に指先を伸ばす。
なんだかんだで奇麗な指していた。
私は玉が成桂を払う瞬間を待った。
パシリ
「6……八……玉?」
私は呻くように、先輩の指し手を口にした。血の気が引いていくのが分かる。
……しまった。あれだけ考えて、逃げる手を読んでなかった。というか、30秒だと2通りの長手順が読めない……私の棋力じゃ無理……。
だけど先輩も苦しそうな顔をしている。私は気合いを入れなおした。とにかく読む。
これは……一目詰まない。少なくとも私が30秒で読み切るのは不可能。
これって8筋が広くなったから、入玉も視野に入れないといけない。
攻める? 受ける? 逃げる?
私が迷っていると、ピッという忌まわしい電子音がした。
と、とりあえず王手ッ! 私は桂馬を7六に置き、ボタンを押した。
先輩はノータイムで5九玉。
ど、どうする? 方針が定まらない。攻めちゃったけど、受けた方が良かった?
ああ、そんなこと考えてる場合じゃない。2九飛、4九歩、2六角、4八……銀? それとも金打? と、とにかくそこで8四玉なら脱出できるんじゃない? 8四玉、8五歩は、7四玉で6五に残ってる金か銀を打つ。8五玉と逃げれば、もう持ち駒が──
「あッ……」
私は口元に手をあてた。
8三龍、8四歩、7七桂、8六玉、8四龍で詰んでるじゃない……うそ……。
桂馬がうざ過ぎるッ! こ、これをなんとかしないと。
ピッ、ピッ
攻めるの止めッ! 入玉よッ!
私は飛車をつまみ、8七に放り込んだ。
先輩の口元から「くッ」という声が漏れた。
先輩にも予想外だったか。私も先を読む。8二龍、8四玉に8五歩なら、今度は同飛成と取れる。7五銀打、同角、同銀、同玉、6六角。少しまえの読み筋と似てるけど、今度は龍が8五にいるから、6四玉に7五金で龍を消せる。
でもそれは先輩がムチャクチャ駒損してる。長引けば私にも勝ち目がある。
「えーいッ! 詰まねえときはッ!」
先輩はそう怒鳴って、持ち駒に手を伸ばした。
8二龍じゃないッ!? な、何をする気ッ!?
パシリ
私は先輩の指し手を見つめた。
……7五銀打? ……次に8二龍で詰むから、これは取るしかない。
同角、同銀。
あ、あれ? 次の8二龍が防げない……ひ、必至だッ!
ろ、6八銀、同金直、同桂成、同金に9二金は? は、8二角があるッ!
手が……ない……なにもできない……。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ま、負けました……」
私はしぼり出すような声で投了した。
先輩は大きく息をついた。
「ふぃい、危ねえ……ギリギリの勝負だったぜ……」
ギリギリ……そうかしら? 終始、私のほうが悪かった気がする。
先輩はグイッと背伸びをした。駒込先輩に向きなおる。
「今、何時だ?」
「4時過ぎよ」
「なッ!?」
サエジマ先輩はあわてて腰をあげ、鞄を肩にかついだ。
「感想戦はまた今度な。遅刻しちまう……おい、歩美、盤駒の片づけは頼んだぜ」
先輩は私たちに背中をむけた。
ただ、去りぎわに一言。
「おまえ、なかなか強いな。リベンジはいつでも受けて立つぜ……じゃあな」
私はずっと盤を見つめていた。
負けた……しかも全く読んでいなかった手で……。
私はその事実に呆然とし、しばらく声を出すことすらできなかった。
場所:学校の裏庭
先手:冴島 円
後手:裏見 香子
戦型:ゴキゲン中飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛
▲4八銀 △5五歩 ▲6八玉 △3三角 ▲3六歩 △4二銀
▲3七銀 △5三銀 ▲4六銀 △4四銀 ▲5八金右 △6二玉
▲7八玉 △7二玉 ▲6八銀 △8二玉 ▲7七銀 △7二金
▲6六銀 △5一飛 ▲1六歩 △6二銀 ▲3七桂 △3二金
▲9六歩 △9四歩 ▲4五桂 △4二角 ▲5五銀左 △同 銀
▲同 銀 △3三桂 ▲4六歩 △6五銀 ▲3五歩 △7六銀
▲2六飛 △5四歩 ▲3四歩 △4五桂 ▲同 歩 △8七銀成
▲同 玉 △5五歩 ▲7八玉 △6四角 ▲7六桂 △7五角
▲6六銀 △4二角 ▲8四歩 △同 歩 ▲同 桂 △8三歩
▲7二桂成 △同 玉 ▲4四歩 △同 歩 ▲3三銀 △同 金
▲同歩成 △同 角 ▲3六飛 △4二角 ▲4三金 △6四角
▲3二飛成 △3一飛 ▲同 龍 △同 角 ▲4一飛 △6四角
▲5二金 △7六桂 ▲6一飛成 △8二玉 ▲6二龍 △7二銀
▲7一銀 △9三玉 ▲7二龍 △8八桂成 ▲6八玉 △7六桂
▲5九玉 △8七飛 ▲7五銀打 △同 角 ▲同 銀
まで95手で冴島の勝ち