54手目 負け惜しみを言う少女
「銀を見捨てた……?」
鞘谷さんは背中を引き、顎に手をあてて首を捻った。
残り時間は、私が3分、鞘谷さんが5分。完全なシーソーゲームになっている。
鞘谷さんは時間が惜しいと思ったのか、20秒ほど使って、4三金と取った。
私は3一角成と突っ込む。同銀、同龍、2二銀。私は9一龍と、香車を拾う。その手を見た鞘谷さんは、かすかに唇を動かす。私の駒台と自分の駒台を、何度も見比べていた。
これは……3一角成から斬り合いになると読んだのかしら? 直感的には、そう見えるかもしれないけど、違うのよね。ここからじわじわと行くのが、私の作戦だもの。
鞘谷さん、時間の使い方、間違ってたんじゃない? 2、3分考えるところだったはず。それに、2二銀のところで、2二角もあったわよね。9一龍なら、9九角成……。もう、過ぎたことだけど、そっちの方が嫌だったかも。
とりま、3二銀を受けないといけないわけですが……。3一角か3一桂もありそうなのよね。頭は丸いけど。そのまま3二銀と打って、3三金、3一銀成、同銀、同龍、2二銀、8一龍。一応、駒得は拡大できてるのか……。あるいは、すぐに2五香と打って、3三角、4五桂、9九角成、3二銀……。これは、馬が強過ぎるかしら。
ただ、どっちでも、先手有利は変わらないと思うのよね。どっかで王手龍とか、そういううっかりをしない限りは……。例えば、4六角、同金の形で、7三角を気を付ける必要がある。角を持ってるうちは、8二角で防げるけど。
ピッ。鞘谷さんの時計が鳴る。持ち時間を使い切り、1分将棋だ。
「これしかないか……」
鞘谷さんは、ちらりと私を睨んでから、4六角と切ってきた。
わお、切りますか。同金ですよ。私がチェスクロを押すと、鞘谷さんは59秒まで考えてから、3一銀と打つ。穴熊を補強しますか。私は4四歩、同金、4五歩、4三金と安全にしてから、4四桂と放り込む。
鞘谷さんは、再び50秒まで考えて、角を手にした。
え? 角? どこに打つの? 私が疑問に思った瞬間、その答えが指された。
??? 金龍両取りだけど……。
8二角で受かってるわよね? 龍の位置をずらしたかったとか?
私は混乱しながら、8二角と合わせた。同角成で……。
違うッ!? 鞘谷さんは、4六角と、金の方を取る。同角成に4二金打。
あうあう……そこに打つ金を調達したんだわ……。
こうなってみると、4四桂がヌルかったかもしれない。できれば、当初の予定通り、2五香としたいけど……。2四桂、同香、同歩、2三桂、同銀、3一龍、2二香……。
足りてないかあ……。じゃあ、先に7五角、8九飛成を入れてから、2五香。ただ、8九飛成なんて、暇そうな手は指してくれないかも。
うーん、落ち着け裏見香子ッ!
絶対こっちの方がいいはずッ! 四枚穴熊だからって、怯むことはないわッ!
私は自分に喝を入れながら、盤面を睨む。ピッ。ああ、これで私も1分将棋……。
手がないなら、やっぱり7五角として……。
そのとき、私はある寄せを思いついた。残り10秒。確認する間もなく、私の右手は香車を掴み、2五に打っていた。
あうッ! 無意識に打っちゃったッ!
自分の指し手にびっくりする中、鞘谷さんはチャンスとばかり、2四桂と合わせる。
こ、ここで7五角とすれば、まだ軌道修正が……。
待って、さっきの筋、本当に寄らないの? 2四香、同歩、2三桂、同銀、3一龍、2二香に、2四馬ッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
一見メチャクチャだけど、同銀に2三金と打つ。同香は2二銀の一手詰み。放置も2二龍で詰み。3二金は、同桂成で意味なし。
受けるとしたら……1三角? でも、同金で……。
ピッ。くッ、とりあえず2四香車ッ!
鞘谷さんは、ノータイムで同歩。私はさっきの局面に立ち返る。1三角なら、即詰みは逃れている。だけど、3二桂成(詰めろ)、同金に同金とすれば、必至のはず。2一金の詰めろが、絶対に解けないから。こっちは100%詰まない格好。
ピッ。2三桂ッ!
同銀、3一龍、2二香。私はもう一度56秒まで読んで、2四馬を指した。
「……ッ!?」
最初はぽかんとした鞘谷さんだが、10秒ほどで顔色が変わった。
「と、取れない……」
鞘谷さんは、右目を硬く瞑って、眉間に皺を寄せた。
決まった。私がそう考えていると、鞘谷さんは3三金寄とする。
……ととと、読んでなかった。同馬、同金は紛れそう。
確実なのは、4二龍……いや、もっと強く……。30秒……40秒……50秒。
ピッ、ピッ、これだッ! ピーッ!
私はぎりぎりで2三馬と入り、チェスクロを押した。
恐る恐る時計を見る。……59秒。セーフ……心臓に悪いわ……。
2三馬に、鞘谷さんは動きを止めた。同香とできないから、同金の一手。そこで、3二銀と打つ。同金、同桂成。……必至だ。詰めろ、詰めろ、必至の手順だから、変化はない。
私は、勝ちを確信した。というか、ぎりぎりまで考えなくても、4二龍、2四金、3二金と打って、同銀、同桂成も必至だったわね。時間切れにならなくて良かったわ……。
鞘谷さんは大きく息を吐き、同金。3二銀、同金、同桂成、5五角、3七角、同角成、同銀、6八飛成、5八歩……。
私が4筋に二歩を打たなかったことを確認して、鞘谷さんは投了した。
「負けました……」
「ありがとうございました」
沈黙が漂う。こういうときは、負けた方が先に何か言ってくれないと……。
私は、鞘谷さんの言葉を待った。
「……最後、どこから寄ってた?」
「……2四馬からは、こっちが勝ってるかな、と」
私は、正直に答える。
「もうちょっと前かもね。6四角と打たれて、それで負けだと思ってから」
確かに……。別に、本局みたいに鮮やかに決める必要なかったかも……。
でも、この勝ち方、かっこいいでしょ、多分。
「4六角、同金、3一銀打としないで、単に3一桂の方が、嫌だったかな」
私の指摘に、鞘谷さんは局面を戻し始めた。私も協力する。
「こう?」
鞘谷さんは、3一桂馬を置き、30秒ほど指を離さなかった。
「……3二銀でダメじゃない?」
「3三金と寄った後が、イマイチ見えなかったというか……」
「3三金……」
鞘谷さんは、金をひとつ寄る。
「3一銀成、同銀、同龍、2二銀、9一龍で、そっちが桂馬得じゃない」
「9一龍は、7三角があるから危ないかな……」
私がそう言うと、鞘谷さんは龍の位置をひとつずらした。
うん、8一龍が正解っぽい。まあ、9一龍、7三角、7一龍、4六角右、同金、同角、3七香でも、先手が勝ってるかな。同角成には同玉として、6七飛成、4七歩。こっちは次に2五桂〜3三桂打と、寄せに困らないし。
「ま、これも負けよね」
鞘谷さんはそう言うと、局面をもっと前に戻し始めた。
「7七歩成、同飛、同飛成、同角に、単に7九飛車だった?」
鞘谷さんは、飛車交換のあたりを気にしているらしい。私も気になる。
あそこは、お互いに読み筋が合ってなかった印象だし……。
「5三桂成かしら……7一飛車もありそうだけど……」
私は迷いながら、とりあえず5三桂成とした。同金に7一飛車。手順的には、あんまり変わらないか。
「2四……3三かな」
鞘谷さんは角を3三に上がる。
感想戦ということで、私は手なりで4三銀と打った。
「同金寄、同歩成、同金、3二金?」
鞘谷さんの質問に、私は頷き返す。
「3三角は取らないよね。同金で、3二に駒を打てなくなっちゃうから」
「3一桂、同金、同銀、同龍、2二……金? 銀?」
「2二金だと、3三角成、同金寄、8八角って打つかな」
8九飛成と逃げたら、3三角成でゲームセット。
「7二飛成、3三角成、同金……2五桂?」
「それは3二金と引かれるから……」
私は、後手玉の周りを観察する。……意外と堅いか。龍がよく利いてるわ。
あれ? じゃあ8八角が間違いなのかしら? いい手だと思ったけど。
「こうするんだったかしら」
鞘谷さんは、さばさばした感じで、そう呟いた。
何か装ったような雰囲気なのよね……内心、はらわたが煮えくり返ってるんじゃないの?
私はそんなことを思いながら、自分の気になった箇所を述べる。
「7七歩成じゃなくて、7三角かなあ、って思ってたんだけど」
「7三角? 飛車交換せずに?」
私が首を縦に振ると、鞘谷さんは局面をそこまで戻した。
「狙いは?」
狙いはですね……よく分かりません。
「……玉のこびん狙いかな」
「ふーん……」
何よ、その呆れたような返事は。
7七歩成が成立しないなら、こう指すしかないと思うんだけど。例えば、7三角、5七飛と寄って、後手も5二飛と回る。そこから中央で捻り合い。
「こっちのブロックは、姫野先輩がいるし、しょうがないか」
……はあ? あんたねえ……私に負けてるでしょうが……。
もう、私の中で、鞘谷さんの株は0円よ。金出されても買わないわ。
感想戦も終わり、私たちは形式的に挨拶した後、席を立った。他の対局は、どうなってるのかしら。とりあえず、同じ長机に座っていた、冴島先輩の対局を……。
あれ? いない。もう終わってる? 辺りを見回すと、先輩は駒桜の控えブースに座っていた。何だか、不機嫌そうな顔をしている。
……負けたんですね。まあ、姫野さんが相手じゃ、しょうがないか。
他の対局は……。むむ、横溝さんと数江先輩のところも、終了してるわね。誰もいない。結果は横溝さん勝ちでしょうし、そこは訊かなくてもいいか。
私は、最後に残っている、歩美先輩と甘田さんの試合を覗き込む。
これは……歩美先輩、大優勢なのでは?
甘田さん、いつものにやけ顔が消えて、苦しそう。6三龍を防がないといけないから、7二銀打かしら? それでもきついかなあ……。
私が適当に考える中、甘田さんは首を捻りながら7二銀打とした。
歩美先輩は、ノータイムで8二銀不成。
わお、いい手がありましたね……。同玉なら、7一角成、9二玉、9三金で詰み。
甘田さんは「うーん」と唸って、59秒ぎりぎりで9四玉と立つ。8四玉じゃないんだ。7三銀不成が、王手になるのを気にしたのかしら。でも、9四玉も9一龍が王手で……。
私が9一龍、9二桂まで読んだところで、歩美先輩は6三龍と切った。
え? 龍切り? もうちょっと安全に行った方がいいような……。
まあ、これでも穴熊勝ちか。同銀、7三銀成、5九飛、3九歩と止めて、自陣龍を作られても、どうせ先手は安泰だし……。
秒読みは続く。甘田さんは同銀、歩美先輩は7三銀……不成?
成らない意味は? 6三成銀とできなくなっちゃったけど……。
甘田さんも意外に思ったのか、盤面をきょろきょろ眺め回した。受ければいいのか攻めればいいのか、よく分からないことになっているっぽい。
ピッ、ピッ、ピーッ!
「あうッ!」
甘田さんは変な声を上げて、5九飛車と打った。
ここで3九歩でしょ。5二飛成とされても、5三金で勝ち。
だけど歩美先輩は、そうは指さなかった。8六桂馬と捨てる。
「え……」
っと、ギャラリーが声を上げてはいけません……。
危ない、危ない。私は口元に手を添える。
8六桂……あ、そっか……。
「あ、詰み……」
甘田さんは、ぼかんと口を開けた。
そうだ、詰みだ。同歩、8五金、同玉、8六歩、9四玉、8五金、9三玉、7一角成。途中の9四玉で7六玉と逃げるのは、7七金、7五玉、7六金打で詰み。
ってことは、7三銀不成が詰めろだったんだ……私もうっかりしてたわ……。
歩美先輩、やりますねえ。
実際の対局も、その通りに進む。7一角成のところで、甘田さんが投げた。
「負けました」
歩美先輩は、チェスクロを止めた。
「……ありがとうございました」
何か、歩美先輩って、勝っても負けても表情が変わらないのよね。
いっつも不機嫌そうな顔してるというか……能面というか……。
「いや、これ酷かったね。ボロ負けだよ」
甘田さんは、いつもの愛想笑いを浮かべる。ちょっと自嘲気味。
「最後、8四玉と逃げた方が良かったかな? 9四玉は詰んじゃったね」
「8四玉なら、6三龍、同銀、6二角成の予定だったわ」
歩美先輩はそう言って、局面を戻した。
「これは……詰めろ?」
甘田さんの質問。私も一緒に読む。7三馬、9四玉、8三馬、同玉、7三金、8四玉、8三金打、9四玉……。ん、ぎりぎり逃れてるっぽい? まあ先手が詰まないから……。
「詰めろね。例えば5九飛車なら、7三馬、9四玉、8三馬、同玉、8四金」
8四金……あ、そっか。同玉なら、7三銀打、8三玉、8四金、9二玉、9三金までか。取らずに8二玉なら、7三銀、7一玉、6二金、8一玉、7三香、9二玉、8二香成。詰んでるわね。
私としたことが、ギャラリーとは言え、うっかりだわ……。
「んー、6二角成が詰めろじゃ、きついよねえ……」
「ただ、7二銀左が、ちょっと面倒だと思ってたわ。予定では、8六歩だけど」
8六歩? それ危なくない?
「桂馬置いちゃうよ?」
甘田さんは、8七桂と王手する。そうそう、これがあるから……。
「同銀、7九龍なら、8五歩と取り込むわ。同玉は、8六金、9四玉、8五金打、同桂、9五馬まで。9四玉の逃げに、7八金打、1九龍、7二馬。同銀なら8四金の一手詰み。放置も8四金だから、8五玉だけど、8六香、9四玉、8三馬までね」
歩美先輩は、すらすらと寄せを口ずさむ。
これ……1分将棋で読み切ってたの? マジ?
「8六歩に単取りだと?」
「単に8六同歩は、8五歩、同玉と吊り上げて、7三馬と桂馬を外すわ」
「7三馬? 同銀だと……あ、詰んじゃうか」
「7七桂馬とパンツを脱いで、7六玉、6七金打、7五玉、7六歩、8四玉、8五金ね」
甘田さんは、またまた自嘲気味にイヒヒと笑う。
「あたしの王様、何回詰まされてんのかね。感想戦でも負かされちゃったよ」
甘田さんは、テーブルの上に置いていたペットボトルを取り、キャップを開けた。中身はコーラだ。一口飲んで、ぷはッと息を吐く。
「中盤、3九飛成じゃなくて、3八飛成だったかな。1七角見落としてたし……」
「その前に、後手は桂馬が捌けなくなってるから、どこかで4六歩を……」
ふむ……盤面が動かされないので、何が何やら分かりません……。
邪魔しないように、控えブースへ戻りますか。
「っと」
私は人とぶつかりそうになる。
「す、すみません」
先に謝ってから相手を確認すると、何と姫野さんだった。
「こちらこそ、失礼致しました。……少し読みを入れていたもので」
読み? 何の? ……ああ、私と一緒で、歩美先輩の対局観てたんだ。
私が言葉を探していると、姫野さんが先に口を開いた。
「2回戦、楽しみにしておりますわ。……では、後ほど」
「よ、よろしくお願いします……」
姫野さんは私に背を向けて、藤女のブースに戻って行った。
私も駒桜のブースへ向かう。テーブルに近付くと、冴島先輩が顔を上げた。
「お、どうだった?」
「……勝ちました」
私の報告に、冴島先輩はガッツポーズを決める。
「よっしゃ、これで駒桜全敗は回避だな。……駒込は?」
「歩美先輩も勝ちです」
勝ちって言うか、圧勝でしたね。
「ふん、さすが駒込だな」
感心したような素振りで、冴島先輩は椅子を傾ける。
スカートでその姿勢は、まずいと思うんですが……。
「じゃ、駒込が感想戦終えたら、飯喰いに行くか」
「そうしよう、そうしよう!」
隅っこにいた数江先輩が、嬉しそうに右手を上げた。
この人は、ほんと食欲ありますね……。
それから駒込先輩が戻って来るまで、私たちは30分も待つハメになった。
場所:2013年度秋季個人戦女子の部
先手:裏見 香子
後手:鞘谷 涼子
戦型:四間飛車vs居飛車穴熊
▲7六歩 △8四歩 ▲6六歩 △3四歩 ▲1六歩 △6二銀
▲6八飛 △1四歩 ▲7八銀 △4二玉 ▲4八玉 △3二玉
▲3八銀 △5四歩 ▲3九玉 △5二金右 ▲2八玉 △5三銀
▲5八金左 △8五歩 ▲7七角 △3三角 ▲4六歩 △4四歩
▲3六歩 △2二玉 ▲3七桂 △1二香 ▲6七銀 △1一玉
▲6五歩 △2二銀 ▲6六銀 △7四歩 ▲5六歩 △4三金
▲4七金 △3二金 ▲2六歩 △9四歩 ▲6九飛 △5一角
▲5五歩 △同 歩 ▲同 銀 △7五歩 ▲4五歩 △7六歩
▲6六角 △4五歩 ▲4四歩 △4二金引 ▲4五桂 △5四歩
▲4六銀 △7二飛 ▲6七飛 △7七歩成 ▲同 飛 △同飛成
▲同 角 △7六歩 ▲6六角 △6九飛 ▲5三桂成 △同 金
▲7五角 △6四歩 ▲4一飛 △2四角 ▲4三銀 △3一金
▲8一飛成 △4四金 ▲6四角 △4三金 ▲3一角成 △同 銀
▲同 龍 △2二銀 ▲9一龍 △4六角 ▲同 金 △3一銀打
▲4四歩 △同 金 ▲4五歩 △4三金 ▲4四桂 △7三角
▲8二角 △4六角 ▲同角成 △4二金打 ▲2五香 △2四桂
▲同 香 △同 歩 ▲2三桂 △同 銀 ▲3一龍 △2二香
▲2四馬 △3三金寄 ▲2三馬 △同 金 ▲3二銀 △同 金
▲同桂成 △5五角 ▲3七角 △同角成 ▲同 銀 △6八飛成
▲5八歩
まで115手で先手の勝ち