52手目 フェイントをかける少女
「ひとつ質問してもいいですか?」
がやつく周囲を無視して、私は冴島先輩に質問を投げ掛ける。
「何だ?」
女子の制服を着た先輩は、恥ずかしそうに返事をした。
そう……先輩がスカートを履いてるということは……。
「何で個人戦が、9月の第一週にあるんですか? ……早過ぎません?」
今日は9月8日、日曜日。
新学期が始まったばかりだと言うのに、私たちは例の市民会館に集まっていた。
春の団体戦よりも、人数は若干少ない気がする。3年生がいないのと、もうひとつ、腕に自信がない人は、出場しないのだろう。私は、そう睨んだ。
「なんでって……理由のことか?」
私は、黙って頷き返す。
「そりゃ、秋は文化祭とか体育祭があるからな。被らないようにしてんだよ」
あ、なるほど、そういうことか。
実際、9月の第一週に行事を催す学校はない。少なくとも、駒桜市ではそうだ。ちなみに駒桜市立では、9月28日が体育祭、10月19日が文化祭になっている。
他の高校も、似たり寄ったりのはずだ。
「それより、ちゃんと準備してきたか?」
準備? ……ああ、将棋の準備ですか。
ばっちりですよぉ。優勝狙ってますから。
「まあ……それなりに……」
私は、謙虚に答えた。
冴島先輩は、羨ましそうな顔をする。
「8月はスポーツ大会も多いから、あんま練習できなかったんだよなあ」
おっと、いきなり言い訳ですか。
こういう人は、案外に用心しとかないとね。
私が横目で冴島先輩を見ていると、千駄さんがこちらにやって来た。会長は、立方体の小さな箱を持っている。それが意味するところは、ひとつ。
「おはよう、女子の部の抽選だよ。中からひとつ、カードを引いてくれないかな」
ふむ……女子の部を千駄さんが担当するんだ……。不正防止かしら? 女子の幹事は、女子の部に出場するでしょうしね。特に、甘田さんとか。
「おい、裏見、引かねえのか?」
「……先輩どうぞ」
私は一応、先輩に先を譲った。特に意図はないんだけど、何となく。
先輩は勇ましく箱に手を突っ込むと、1枚のカードを引き抜く。
「……1番か。幸先いいじゃねえか」
えーと……トーナメント表の番号だと思うんですけど……。
「裏見さんもどうぞ」
会長は、にこやかに箱を差し出して来た。
はいはい、引かせてもらいますよ、と。どれどれ……。
私は手を突っ込んで、適当に1枚引き抜く。
「……3番ですね」
「了解。冴島さんが1番……裏見さんが3番ね……」
会長はそれをメモに取り、その場を立ち去った。ちょっと離れたところにいる、歩美先輩へと近付く。
私はそれを見届けることもなく、冴島先輩に向き直った。
「1番と3番なら、1回戦で当たることはなさそうですね」
私の確認に、冴島先輩は大きく目を見開いた。
「ん、知らねえのか? 同じ高校が1回戦で当たることは、まずないぜ」
「え? そうなんですか?」
「ああ、多分、会長が持ってた箱、奇数のカードしか入ってねえんじゃねえかな。後で藤女が偶数のカードを引いて、その組み合わせになると思うぜ」
「人数がぴったりじゃない場合は?」
「そのときは、しょうがねえ。同じ高校同士でやるんだ」
私は、会場にいるメンバーを確認する。
駒桜から出場しているのは、歩美先輩、冴島先輩、数江先輩と私。八千代先輩が来ていないのはともかく、志保部長も来ていなかった。まあ、3年生だから、さもありなんよね。
私は、藤女のスペースに視線を移す。テーブルを陣取っているのは……姫野さん、甘田さん、鞘谷さん、横溝さん……。
あれ? 猿渡さんは? やっぱり3年生だから来てないとか?
私が首を伸ばしていると、冴島先輩がぼそりと呟く。
「藤女も4人か……こりゃ、学校別の対抗戦になりそうだな」
ふむふむ、それは分かり易いですね。ということは、1回戦は藤女の誰かか……。
姫野さんだと、嫌だなあ……。戦う前から諦めるのは、私の性分じゃないけど、本音としては当たりたくない。せめて、甘田さん……。
私がお祈りする中、千駄会長は箱を持って、幹事ブースに戻った。メモ帳を見つつ、ホワイトボードに線を引き始める。
「お、見に行こうぜ」
怖いけど……見に行きますか……。私は、冴島先輩の後に続く。
8人しかいないトーナメント表は、私たちが辿り着く前に、完成していた。
「げえッ!?」
冴島先輩は、変な声を上げて、そのまま固まってしまった。
……お悔やみ申し上げます。
私の相手は、鞘谷さんか……。相手にとって、不足はナシね。前回は持ち時間10分だったけど、鞘谷さんは長い将棋と短い将棋、どっちが得意なのかしら。
男子の方は、人数が多いだけあって、まだトーナメント表の作成中だった。千駄さんは手を叩き、衆目を集める。
「時間も押してるから、女子の部は9時10分に開始します。そろそろ着席を」
私はうんうんと頷き、冴島先輩に声をかける。
「じゃ、2回戦で……」
「お、おう……」
あんまり自信がなさそうですね……。
まあ、勝たないと2回戦には出られないわけだから、私も頑張りましょう。
私が3番の席に向かうと、鞘谷さんは先に着席していた。わお、凄いやる気ですね。何だか、変なオーラが出てるような……。
「おはよ、よろしくね」
私はそっと椅子を引き、なるべく明るい顔で挨拶をした。
「……」
はい、無視されました。む・か・つ・く。
このまま場外乱闘に持ち込んでやろうかしら。腕力には自信があるのよ……。
っと、駄目ね、ここで興奮したら、相手の思うツボだわ。私は深呼吸する。
「女子の部、振り駒を始めてください。男子の部も席についてください」
会長の声。しばらく見合いになった後、鞘谷さんが歩を集めて、宙に放った。
……歩が2枚。私が先手か。
鞘谷さんはチェスクロの位置を直し、お互いにじっと盤を見つめた。
「では、女子の部は初めてください。男子の部も、振り駒が済んだところからどうぞ」
会長の説明が終わる前に、私たちは頭を下げる。
「お願いします」
後手の鞘谷さんが、チェスクロのボタンを押す。
30分60秒。久々の長丁場だ。私は7六歩と突く。
鞘谷さんは10秒ほど呼吸を整えて、8四歩。矢倉にしませんか、ってこと?
拒否、拒否、拒否ッ! 断固拒否ッ! 6六歩ッ!
私が居飛車を拒否すると、鞘谷さんはさらに10秒ほど考えて、3四歩と突いた。私はすぐに1六歩。そこから6二銀、6八飛、1四歩、7八銀、4二玉、4八玉、3二玉、3八銀と、すらすら進んだ。
端歩を突き返してきたから、穴熊じゃないでしょ。5四歩、3九玉、5二金左、2八玉、5三銀……。
「ん?」
私は、6九の金に伸ばした手を止めた。
5三銀? 持久戦模様ってこと? まさか、右銀急戦じゃないだろうし……。
1四歩と5三銀の組み合わせなら、米長玉が有力かしら? 私は半端な知識を駆使しつつ、5八金左とした。8五歩、7七角、3三角……。やっぱり、左美濃っぽい気がするわね。4六歩〜3六歩〜3七桂として、どんどんプレッシャーを掛けましょう。
4六歩、4四歩、3六歩、2二玉、3七桂、1二香……。
「なッ?」
私の喫驚に、鞘谷さんはちらりと顔を上げた。
それから、めんどくさそうに視線を戻す。
ぐッ……端歩を突き返しといて穴熊とか……小癪な……。
私は6七銀と上がる。1一玉、6五歩、2二銀、6六銀、7四歩。
7筋からの攻めを防ぎましたか。じゃあ、5筋から攻めましょう。5六歩。
4三金、4七金、3二金、2六歩と、お互いに駒組みを飽和させる。
鞘谷さんは、9四歩と税金を払い、私は6九飛車として、強く戦えるように備えた。
鞘谷さんは持ち時間を1分使って、5一角の展開。私は5五歩と仕掛ける。
これは同歩の一手だ。でないと、5四歩、同銀、5五歩で銀が死ぬ。
私の読み筋は、同歩、同銀に7五歩。7五歩を突くタイミングは、多分ここしかない。5五同歩、同銀、5四歩、6六銀に7五歩は、同銀とできるから。
7五歩に代えて8六歩なら、5四歩とするつもり。8七歩成なら、無視して5三歩成、7七と、4三と。このとき、7七とが飛車に当たっていないのが、6九飛車の効用だ。5四歩に4二銀と逃げるなら、あらためて8六角と歩を払う。
鞘谷さんは3分ほど考えて、5五同歩。私の同銀に、予想通り7五歩と仕掛けてきた。
さて、ここで同歩とするか、それとも別の手を指すかですが……。
候補手は多分、同歩or5四歩or4五歩。順番に読みましょう。まずは同歩から。
7五同歩には、8六歩かしら? 7六歩は、5九角として、次に6四歩か5四歩を狙えばいいだけだもの。8六同歩、8八歩、同角、8六飛は不味いから、同角よね。そこで後手がどうするかだけど……。8六飛車はつまらないかなあ。同歩、7八角、7九飛、6七角成と馬を作っても、イマイチ冴えないし……。7五歩突きを活かすには、5四歩? 6四歩に5五歩と攻め合って、6三歩成、4二銀。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
このとき、4二角成、同金引、6二銀のごり押しがないのが、7五歩のメリットね。5二と、同飛、6一飛成には、5四飛、8一龍、5六歩……。んー、銀損は痛いかなあ。これはあんまり感触が良くないわね。
さて、次は5四歩を読みましょう。5四歩には、一回4二銀よね。7六歩なんて攻め合っても、無視して5三歩成、7七歩成、4三と。先手勝てそうだもの。ここでも、6九飛車がいい味出してる。だから、4二銀なんだけど……そこで7五歩と手を戻すと、8六歩、同角同飛、同歩として、7八角……。
ん? 7八? さっきも7八に置いたけど、8七角の方がいいかしら? 7九飛車なら、6五角成で終わるわよ。だから、6八飛と浮いて、7六角成、6四歩、同歩、同銀、6七歩と飛車先を遮断。7八飛、6五馬、5三歩成、6四馬、4三と、同銀……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
うわー、分かんない。これどうなってんの? 穴熊+馬は、ちょっと嫌かしら。
途中変化も、もっといろいろありそうな……例えば、6八飛車じゃなくて、6六飛車と高く浮くと……7三桂、6四歩、同歩、同銀(同飛は6五角成、同飛、同桂)、6五桂で、手順に桂馬を跳ねられちゃうか……。ふむ……。
最後に、4五歩を読みますか。第一感、これが一番厳しい。同歩なら、4四歩、4二金引に4五桂馬と跳ねて、5四歩、4六銀、7六歩、6六角、7二飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4筋の楔が大きいわ。ここを拠点にして、穴熊を攻略できそう。
例えば、5三桂成、同金、4三銀の打ち込みがある。ただ、ごちゃごちゃするから、見落としがあったら終わる形だけど……。
私は、チェスクロを確認する。残り時間は、私が21分、鞘谷さんが24分。結構、考えたわね。1四歩からのフェイント穴熊で、長考させられたところもあるし……。
残り1分だけ考えましょう。私は盤面に集中する。
問題は、7二飛の局面で、本当に先手が指せるか、よ。5三桂成と突っ込むと? 同金、4三銀、3一金、5九飛……9五角があるか……。5八飛、7七歩成、5四銀成、6七との展開は……。ん? 食らいつけないこともないかしら? 5三成銀、6六とでも、あるいは5八と、同金でも、次の4三歩成が厳しくない? 勘違いかしら……?
おっと、これは1分以上考えちゃったわね。危ない、危ない。
私は、最後の選択肢、4五歩を選んだ。明確に良くなるとすれば、これだから。
「ふーん……やっぱり、そっち……」
私の手を見て、鞘谷さんは小考した。どうやら、私の時間を使って読んでたみたい。読みが噛み合うと、こういうときに困る。鞘谷さんは1分だけ使って、7六歩と取り込んだ。
あうち、こっちが先か……。
でも、これって、さっきの読みと合流するんじゃないの?
私は30秒ほど確認して、6六角と逃げる。4五歩、4四歩、4二金引、4五桂、5四歩と進む。なーんだ、合流したじゃない。私は、4六銀と引いた。
「先に引くんだ……」
鞘谷さんは、両手の人差し指を眉間に当て、ごしごしと両目を擦った。
ん? 「先に」ってことは……。ここでいきなり5三桂成を読んでた? さすがにそれは急ぎ過ぎだと思うけど……。まあ、いいわ。時間を使ってくださいな。
1分……2分……。んん? かなり使ってるわね。もしかして、6二銀を読んでる? 私はだんだん、自信がなくなってきた。本当に7二飛車と寄ってくれるのかしら? 難所に差し掛かっていることだけは、確実に感じている。
6二銀なら、7五角と出たいんだけど……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
8六歩なら、ガン無視で6四歩、同歩、同角、8四飛、4二角成、同金、4三金。これは後手、潰れてるでしょう。8六歩とせずに、そこで7二飛なら、4二角成、同金、6四歩、同歩、4三金、4一金、6三歩。同銀なら5三金か5三桂成。4三歩成が入れば、私の勝ちだと思う。
ということは、さっきは気付かなかったけど、7二飛車しかないみたいね。7五角を防ぐ手が、それくらいしかないから。よって、鞘谷さんがここで7二飛車じゃなかったら、私は7五角と上がりましょう。それで、私が有利なはず。
うん、だんだん自信が出てきたわ。かかってきなさい!
私が意気込んでいると、鞘谷さんは「うーん」と呻き声を上げる。目を閉じ、最後の確認をしているようだ。それからおもむろに瞼を上げ、飛車に指を伸ばす。
あ……やっぱり……。息を呑む私の前で、7二飛車が指された。