49手目 目隠しする少女
「あー、指した指した、今日は疲れたなあ」
湯気の向こう側で、冴島先輩が大声を出した。まるで、仕事帰りおじさんみたいだ。タオルを頭に乗せて、湯船の縁に寄りかかっている。
食事の後、しばらく休憩した私たちは、お風呂に入る組と、それ以外に分かれた。ここの合宿所は、もともとしなびた温泉だったらしく、浴室だけは豪華だ。私も、温泉は嫌いじゃないし、冴島先輩に誘われたから、こうして一緒に浸かっている。
他に、横溝さんと甘田さんも一緒。横溝さんは私の隣でじっとしてるけど、甘田さんはプールみたいに、あちこちで平泳ぎしていた。
ちょ、何やってんの、この人。
「香子ちゃんは2勝1敗か……」
横溝さんが、辛うじて聞き取れる声を出した。
まだ気にしてるの? 公式戦じゃないんだから、別にいいと思うんだけど……。
「それにしても、うちは全勝者0か。気が滅入っちまうな」
冴島先輩は、目を閉じたまま、ちょっとだけ深刻そうな顔をした。
「全勝者のひとり、甘田様はここにいるよん」
甘田さんは泳ぐのを止めて、こっちに近付いてくる。
冴島先輩は彼女をひと睨みして、軽く舌打ちをした。
「おまえのは、あたりがヌルヌルだろうが」
「おっと、香子ちゃんもいるのに、そんなこと言っていいのかな?」
甘田さんのちょっかいに、冴島先輩は二度目の舌打ち。
私の方をちらりと見て、申し訳なさそうに頭を掻く。
「そういう意味で言ったんじゃねえぞ。……残りのふたりだ」
ま、いいんですけどね。甘田さんのあたりがヌルかったのは事実だし。
私が首まで湯船に浸かると、曇りガラスの向こう側に人影が現れた。
この高身長……長髪……誰か分かっちゃうわね。
ガラリと扉が開き、すらりとした脚が床のタイルに伸びる。
「姫ちゃん、遅かったね」
胸元から下をタオルで隠した姫野さんが、浴室に入って来た。
姫野さんは、しばらく甘田さんの姿を探していた。湯気で見えないらしい。
「猿渡さんと、少々打ち合わせをしておりました」
「さいですか」
甘田さんはそれだけ言って、また泳ぎ始めた。
姫野さんは、そのまま蛇口のひとつへと向かう。
「凄い……奇麗……」
横溝さんの声。私も同意する。
天は、姫野さんにいろいろ与え過ぎなんじゃないですかね……。
それからしばらくの間、私たちは冴島先輩たちと、適当な話をしていた。みんな将棋には疲れちゃったのか、学校生活とか、美味しい甘味処とか、そういう話に終始する。その間に気付いたことがふたつ。横溝さんは、凄い着痩せするタイプだってこと(お腹が、じゃないわよ)と、冴島先輩は、腋の手入れが甘いということ。女子力……。
姫野さんが湯船に脚を沈めたとき、私たちの会話は自然と終わった。
「おい、姫野。駒込との対局、戦型は何だったんだ?」
冴島先輩の問い掛けに、姫野さんは、黒髪の位置を直しながら答える。
「角換わり腰掛け銀……」
冴島先輩は、呆れたように頭のタオルを叩く。
「マジかよ、アホだなあいつ」
同じ部員をアホ呼ばわりとは、やりますね。まあ、冗談なんでしょうけど。それに、姫野さんを呼び捨てにしてるのも、冴島先輩くらいなのよね。同学年とは言え、なかなか呼び捨てにし難いと思うんですが、いろんな意味で。
会話が途切れた。姫野さんって、どんな話なら食いついてくるのかしら。私が話題を考えていると、再び甘田さんが近付いてきた。今度は平泳ぎのままだ。
「ねねね、目隠し将棋やろ、去年の文化祭みたいにさ」
目隠し将棋? ……駒と盤を使わずにやる、アレですか?
「お、いいな。だけど、5人いるぜ?」
「あたしが審判やったげるよ。観てた方が面白いし」
自分から誘ってきたにもかかわらず、甘田さんは審判を引き受けた。
「誰と誰がやるんですか?」
私が尋ねると、冴島先輩はにやりと笑う。
「もちろん、ペアだぜ」
「ペア……? ふたり一組ってことですか?」
「ちょうど藤女とうちで4人いるしな」
そうだけど……目隠しペア将棋なんて、したことない……。
心配になった私は、横溝さんを見やる。横溝さんも、不安そうな顔をしていた。
「私……自信がないです……」
横溝さんの発言に、甘田さんはイヒヒと笑う。
「大丈夫、大丈夫。やってみたら、案外できちゃうから」
「裏見と横溝は、今回が初めてか。じゃあ、ルール説明からだな」
ルール説明? 普通に交代で将棋を指すってわけじゃないのかしら?
私が訝っていると、冴島先輩は説明を始めた。
「基本は普通のペア将棋だ。ふたつのチームに分かれて、メンバーが交代で指す。例えば、姫野→裏見→横溝→オレ→姫野→裏見……みたいな感じだな。途中で並びを変更するのは不可。パスもなし。詰まされたメンバーのいるチームが負けだ」
何だ、普通の将棋じゃない。私は、ふんふんと頷き返した。
すると、今度は姫野さんがバトンを受け取る。
「但し、いくつか決め事があります。まず、お手付きは3回まで。二歩、持ち駒の勘違い、移動できない場所へ駒を移動した場合など、反則は全てお手付きです。3回目のお手付きになった時点で、形勢と関わりなく、負けとなります」
なるほど……目隠し将棋だから、反則=即負けは厳しいという配慮か……。
姫野さんは、先を続ける。
「次に、仲間との相談も、3回までとします。相談できる内容は、第一に、全体の大まかな方針……例えば、矢倉にするかどうかですわね。第二に、持ち駒の確認。なお、相手チームに持ち駒を訊かれても、答える義務はありません。第三に、駒の配置の確認。2六に歩があるかどうか、などです。第四に、詰みの有無」
詰みの有無? それって、詰みを相談してもいいってこと?
私が質問しかけたところで、甘田さんが捕捉する。
「但し、詰み手順を相談するのはNGだよん。詰むかどうかだけ。イエス・ノー方式だね。他にも付け加えておくと、具体的な指し手を相談するのもダメ。『2四歩、同歩に同角としますか?』なんて訊いた時点で、反則1回だから、注意してね」
「要するに、指し手自体は自分で考えないといけないわけですね?」
「お、さすが香子ちゃん、飲み込みが早いね」
甘田さんはそう言うと、一歩離れて、両サイドを見比べる。
「じゃ、文化祭のときと同じで、1手20秒ね」
「「えッ!?」」
私と横溝さんが、同時に喫驚を上げた。
甘田さんは、にやにやしながら理由を説明する。
「100手でも、2000秒、30分超えだよ。1手1分なんてしたら、のぼせちゃう」
そ、そう言われると、そうだけど……。1手20秒? 目隠しで?
「おっと、大事なこと言い忘れてたぜ。同じ理由で、穴熊やミレニアムに組むのは禁止な。持将棋もなしだ。王様が最下段に到着した時点で、勝ち。どうぶつ将棋と同じルールだぜ。だからって、最初から入玉狙いみたいなのは止めろよ。面白くねーからな」
私は、だんだん自信がなくなってきた。
横溝さんは、このルールで納得なのかしら?
ちらり……。横溝さんは、もの凄く真面目な顔をして、宙を見つめている。
「よ、ヨッシー?」
「ごめん……頑張って脳内将棋盤作ってる……」
そ、そうですか……それは失礼しました……。
私も深呼吸して、脳内将棋盤を思い浮かべる。
ふむ……ここまではいいとして……。
「おまえら、そんなに心配しなくても大丈夫だって。将棋の手ってのは意味があるんだからな。歴史の年表覚えるより楽だぜ?」
「それでは、じゃんけんよろ」
姫野さんと冴島さんが、それぞれ右腕を突き出す。
じゃんけんぽん。姫野さんがグー、冴島先輩がパー。おっと、先手ですか。
冴島先輩は、そのまま両手を合わせて指を鳴らすと、私の方に近寄った。それと入れ替わるように、横溝さんは姫野さんサイドへ。
「裏見、どっちが初手指す?」
「……先輩どうぞ」
「おう」
冴島先輩は、男前に返事をする。
姫野さんたちも、同じ相談を始めた。
「初手は横溝さんにお譲りします」
「え……いいんですか……?」
「構いません」
甘田さんは、パンと柏を打ち、両手の平を擦り合わせる。
「さてさて、秒読みはあたしが担当するね。10秒と16秒以下でよろ」
「10秒と16秒以下?」
「10秒を最初に読んで、次に、16秒、17秒、18秒……って読むやつ」
あ、なるほど。
つまり、10秒経過と、残り5秒を教えてもらえるわけか。
「じゃ、ルール説明はこれくらいにして、いくぜッ! 7六歩ッ!」
冴島先輩の大声とともに、ペアマッチが始まった。
「……3四歩」
横溝さん、もっと大きな声で……。
と、私か。2六歩か6六歩だけど……。冴島先輩は居飛車党。私も、居飛車は指せる。それなら、居飛車にした方が良さそうね。横歩が心配だけど、横溝さんは横歩を指せないだろうから、そうはしないでしょ。
「10秒ぉ〜」
甘田さんの秒読み。
「2六歩」
私の宣言に、冴島先輩は笑みを漏らす。
「裏見、気遣わせて悪りぃな」
「相談タイムです」
姫野さんの声に、全員が振り向いた。
「え? もう使うの?」
ちょ、甘田さん、あなた審判でしょ。助言禁止。
姫野さんもそれが分かっているのか、甘田さんを無視して、横溝さんに声をかける。
「横歩は、どれくらい指せます?」
「……全然ダメです」
「一手損角換わりは?」
「……もっと分かりません」
予想通り。横溝さんは、純粋振り飛車党。だったら、姫野さんの選択肢はひとつ。
「承知しました。では、4四歩と突かせていただきましょう」
姫野さんは、振り飛車を選択する。これで、少しはハンデになったはずよ。姫野さんは、純粋居飛車党だし。
……とは言っても、対抗型なら、居飛車党でも定跡を知ってるか。
「ふん、対抗型か……4八銀」
「……4二飛」
「へえ、よっしー、4筋に振るんだ」
審判喋り過ぎ。私はそんなことを思いながら、5六歩を宣言する。
余興だと思っているのか、それとも長引かせると悪いと思っているのか、ほとんどみんな10秒以内で指していく。3二銀、6八玉、6二玉、7八玉、7二銀、9六歩、9四歩、2五歩、3三角、5八金右、4三銀。
そろそろかな……。
「相談タイムにします」
私の宣言に、冴島先輩はお湯の表面を見つめたまま、頬を掻く。
「どうした?」
「持久戦にします? 左美濃とかはどうですか?」
「んー、あんま気が進まねえな……。ペア将棋だから、定跡が固定されてる急戦にしてえ」
なるほどね。持久戦に持ち込むと、指し手がちぐはぐになると見ましたか。ただそれは、藤女ペアにも言えそうだけど……。あ、でも姫野さんの棋力なら、横溝さんの振り飛車に合わせられそうだしなあ……。
「分かりました。どの戦法にします?」
「裏見が決めていいぞ」
ま、丸投げですか……。私は、立ち上る湯気を追う。
八千代先輩に手伝ってもらって覚えた戦法リストが、役立ちそうですよ。
「……5七銀左急戦で」
「おまえ、それマジで言ってるのか?」
はい、きました。決めていいと言いつつ、文句をつけるパターン。最悪です。
「左銀急戦とか、今時誰もしねえぞ?」
「え? そうなんですか?」
おじいちゃんとか、普通に指してくるし、結構優秀だと思うんだけど……。
でも、言われてみると、部室で誰にもされたことがないような……。
「大会では、ね。ネット将棋なら、普通に観るよん。4五歩早仕掛けの次に優秀じゃん」
甘田さんの割り込み。冴島先輩は困ったような顔をした。タオルでこめかみを拭う。
「まあ、決めていいって言っちまったからな。それでいいぜ」
「じゃあ、3六歩で」
一悶着あったけど、再び指し手が速くなる。
7一玉、6八銀、8二玉、5七銀左(だから5七銀左急戦と言う)、5二金左、6八金直と引き締めまして、横溝さんは5四歩。
「1六歩」
「ん」
冴島先輩を、私の顔を覗き込む。
「な、何ですか?」
「そこの歩、突く必要あったか?」
「あれ? 違いましたっけ?」
冴島先輩は、気まずそうに視線を逸らした。
「……普段指さねえから、忘れた」
ぐはッ! そりゃないでしょう。私も自信ないけど。
半分漫才になった私たちを他所に、姫野さんは6四歩と突く。4六銀、1二香。
んー、悪くない形ね。端がマイナスになってるとも思えないし。
「3五歩」
ついに開戦だ。
「3二飛車」
姫野さんは、飛車をひとつ寄った。このあたりは間違えてくれそうにない。
3四歩、同銀、3八飛、4五歩。銀当たりだけど、無視して3三角成が定跡。同飛に2二角と打って、4六歩、3三角成、同桂、3四飛に、4三金の顔面受け。
冴島先輩は3八飛車と引いた。まだ誰も間違えていない……はず。
「4四角……」
横溝さんは、急所に角を据えてくる。
9九の地点に利いてるから、受けないといけない……。
「7七銀」
「銀打ちかあ」
冴島先輩は、大きく背伸びをした。やっぱり腋が気になる。
まあ、それはいいとしまして……。
「2七角」
姫野さんは、歌うような声で、2枚目の角を置いた。
さあ、難しくなってきましたよ。
《ルール確認》
1、反則は3回目でアウト。
2、相談タイムは3回まで。相談できる内容は、
a:大まかな方針(戦法とか戦型)。
b:持ち駒の確認。相手チームには答える義務なし。
c:駒の配置の確認。
d:詰みの有無。具体的な手順は禁止。
3、時間が掛からないように、穴熊禁止。入玉時はトライルール。
4、1手20秒以内で指す。