47手目 辛い少女
「組み合わせが決まりましたので、席を移動してください」
私は、ちらりと鞘谷さんの方を盗み見る。彼女は、まるで明後日の方角を向いていた。腰を上げる気配がない。
私に移動しろってこと? まあ、どっちかが移動するわけだけど……。
私は立ち上がり、鞘谷さんの前に座った。鞘谷さんは局面を崩し、駒を並べ始める。私も王様を拾い上げながら、鞘谷さんに笑いかけた。
「初めての対局だね。よろしく」
「……」
ん、無視された? さっきから、何か感じ悪いわね。1年生同士のエース対決だから、こてんぱんにしてやるとか、そんなことでも考えてるのかしら。
ま、鞘谷さんが藤女のエースかどうか何て、知らないんだけど。横溝さんと、どっちが強いのかしら。
「準備が整ったところから、対局を始めてください」
志保部長の声に合わせて、左右でチェスクロを押す音が聞こえた。
おっとっと、どうやら私たちだけ遅れてるみたいね。私は歩を拾い上げ、手の中で掻き混ぜてから、宙に放った。……表が0枚。後手か。
私はチェスクロの位置を直し、頭を下げながらボタンを押す。
「よろしくお願いします」
今度は、鞘谷さんもさすがに挨拶してくれた。
まあ、当たり前か。そしてすぐに、7六歩が指される。3四歩、2六歩。ふむ、鞘谷さんは、やっぱり居飛車党なのね。ここで8四歩と突くと、横歩になるし、むりやり矢倉模様にするのも、得意じゃない。だったら、普通にいきましょう。4四歩、と。
4八銀、4二飛、5六歩、3二銀、6八玉、6二玉、7八玉、7二玉、5八金右。お互いに呼吸が合っている。対抗型だから、序盤は悩まなくてもいいわね。8二玉に、2五歩、3三角、5七銀。
むむむ、これは嫌な予感が……。9四歩、7七角、9五歩、8八玉、7二銀、9八香。
うはッ! 熊ったッ! でも、これは予想できてたこと。私は4三銀と上がる。
鞘谷さんは、何も言わずに3六歩。私は5二金左と、美濃を完成させた。まあ、次は9九玉よね……そこで5四歩とするか5四銀とするか……。
私が悩んでいると、とんでもない手が飛んできた。
5五歩? 天王山をここで取る? 突っ張り過ぎな気がするけど……。
私は5四歩を諦めて、3二飛と寄る。鞘谷さんは5六銀と、5筋の位を確保した。9九玉としないなら、もう開戦しちゃいたいんだけど……。3五歩、同歩、5一角、3八飛……。うーん、あまりパッとしないわね。
これなら、最初から2二飛車って寄れば良かったかも。反省。でも待ったなしだから、どうしようもない。私は、2二飛車と寄り直した。
ここで6八角かしら? そう思った矢先、鞘谷さんは9九玉と入る。
今から入るの? 8八銀のハッチが閉まらないうちに、開戦しましょ。2四歩。
これはさすがに無視できないから、鞘谷さんは同歩。私は同飛と突っ込んだ。同飛、同角に2二飛車は、2八飛の打ち返しで何ともない。それどころか、次の7九角成が、飛車金両取りで終了。
さて、鞘谷さんはどうするのかな? ……ふむ、2五歩ですか。交換拒否。じゃあ、一旦2二飛と引きましょう。
私が飛車を引くと、鞘谷さんは即座に6八角と動いた。次に2四角の狙いね。そうは問屋が卸しませんよ、と。3五歩ッ!
同歩に、私は5一角と深く逃げる。鞘谷さんは、ようやく8八銀。これで、一手稼げたわよ。3三桂馬と跳ねましょう。振り飛車の優劣は、ここの桂馬が捌けるかどうかに掛かってるもの。
私が3三桂、鞘谷さんは2四歩。一瞬怖いけど、2五歩で受かってる。鞘谷さんは、3四歩、同銀を入れてから、6五銀と出てきた。
これは……いまいち狙いが見えないわね……。5四歩なんて、何ともないし……。
まあいいわ、がんがん行きましょう。とりあえず、3五歩と位を確保して……。
私が歩を打つと、鞘谷さんの指が角に伸びた。
む……8六角か……。見えてなかったわ……。
4五銀と受けても、5四歩、同銀、同銀、同歩に3一角成。これは後手劣勢。
だったら、一回2四飛と浮いて、5四歩、同歩、3一角成に、2六歩を用意しましょう。6八金寄、2七歩成、5八飛、3八とで、これは後手有利ね。
オッケー、2四飛、と。そこで、鞘谷さんの手が止まる。
「……」
「……」
何か、重苦しいわね。まるで公式戦じゃない。
私、そんなにライバル視されてる? これが初対局なのに……。
ま、あんまり気にせずにいきましょう。神経すり減らしても、しょうがないから。
「こうするしかないか……」
鞘谷さんはそう言って、6八金と寄った。どうやら、5四歩は無理と見たらしい。
私は何度か軽く頷いて、続きを読む。金寄りの意図は、もちろん5八飛車だ。だから2六歩と突くのは、5八飛、2七歩成、5四歩で藪蛇になる。
5筋を受けないといけない。私は、4三銀と引いた。
「引きか……」
鞘谷さんは背筋を伸ばし、眉間に皺を寄せて額を叩く。
2六歩を本線に読んでた感じ? 私の予想を裏付けるかのように、鞘谷さんは1分の長考の末、5八飛車と寄る。私は、4五歩と突いた。
5四の地点を、飛車の横利きで受ける。我ながらナイスな構想。
鞘谷さんは、もう一度長考に入る。いい感じなんじゃないですか?
私が内心ほくそ笑んでいると、鞘谷さんの指が持ち駒の歩に触れた。歩? 歩を打つ場所はほとんどな……い……。
むむむ……2三歩ですか……。なるほど、同飛なら5四歩……。
今度は私が悩む番だ。前髪を整えて、仰け反り気味に盤面を睨む。
放置すれば、当然のごとく2二歩成だ。次に2三ととされて、取らざるをえなくなる。そうなると、鞘谷さんの攻めが炸裂しちゃいそう。例えば、2六歩なんてしたら、2二歩成、2七歩成、2三と、同飛、5四歩、同歩、3一角成、3八と、5四銀、2九飛成、4三銀成で、一気に中央突破されちゃう。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同金に5二銀で終わりだ。却下。
かと言って、2二歩成を防ぐ手段もないし……。
んー、困ったわね。せめて4二角として、3一角成だけは防ぎましょうか。後は、終盤の捻り合いで何とかするしかなさそう。有利だと思ったんだけどなあ……。
私は、4二角と上がった。2二歩成、同飛、5四歩、同歩、4二角成、同金。
はい、ここまでは了解で、この先が問題よ。下手すると、振り飛車、いいところなしで終わるわよ……飛車が捌けない展開とか最悪……。
まず、この局面を見たら、先手持ちの人が多いと思う。唯一の救いは、鞘谷さんが歩切れなこと。歩があったら、いくらでも手が作れそうだもの。
私は溜め息を吐く。それを見計らったかのように、5四銀が指された。同銀は、3四歩で桂馬が死ぬ。私は綾を求めて、4六歩と突いた。
正直、取ってくれないかもしれない。4三銀成、同金、3一角、4七歩成、2二角成、5八と、同金寄、3九飛、5九歩、2九飛成、4一飛とか?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
あるいは、4一飛に代えて3一飛……。途中変化も多そうだし、面倒……。
私は気分転換に、持ち時間を確認した。私が5分、鞘谷さんが6分。10分は、本当にきつい。しみじみそう思う。
パチリ。盤上で音がした。私は、視線を戻す。4三銀成が指されていた。
嫌なのきたわね……とりあえず同金としまして……。
鞘谷さんは、3一角と滑り込ませる。さあ、ここで4七歩成かどうかね。それだと、さっき読んだ順が濃厚だけど……。
いや、ここは受けた方がいいかも。3二飛と一回寄りましょう。8六角成と退かせて、それから4七歩成。多分、鞘谷さんは1八飛と寄るはずだから、そこで体勢を……。ん、でもこっちは3四に傷があるのか……。3四歩、同金、4三銀が強烈……。ということは、1八飛車には、一回4五桂と跳ねて……。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これで勝負か……。後手不利、ってわけでもなさそう……。
よし、決めたッ! ぐだぐだ迷ってもしょうがいないわッ!
私は3二飛と寄り、角を退かす。8六角成、4七歩成……5九飛車ッ!?
こ、これは読んでなかった……てっきり1八飛だと……。もしかして、飛車がニートになるのを嫌ったとか? ありうるけど……頑張り過ぎな気が……。
チャンス到来。私の脳裏に、なぜかそんな言葉が浮かんだ。確信はないけど、これまでの経験がそう言っている。私は両手を畳につき、一心不乱に読み耽る。
と金が消えちゃうけど、5八歩と打ちたい。3九飛なら、4五桂と畳み掛ける。同金上なら、同と。そこで同金か同飛かだけど……。同飛は、5七歩と叩いて、同金(同飛は4六角がある)、4五桂としましょう。同金の場合は……。それも同じか。5七歩、同金、4八銀と横から割り打つか、あるいはそのまま4五桂と跳ねる。どっちかって言うと、前者ね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
よろしい。裏見香子、納得しました。
私は、5八歩と打ち込む。
「何、その重い手?」
はい? 何ですか、そのバカにしたような態度は……。
っていうか、重くないし。失礼しちゃうわね。
鞘谷さんは首を捻りながら、盤面を見つめていた。数秒後、ふと顔色が変わる。
おっと、気付きましたか。そうよ、この手で先手は痺れてるはず。
鞘谷さんは正座を直し、やや前のめりになって、テーブルに肘をついた。目を細めたり見開いたりと、忙しい。だけど最後は、ちょっと苦しそうな表情に落ち着いた。
鞘谷さんの持ち時間が、どんどん少なくなっていく。ピッと最後の60秒を告げられたところで、鞘谷さんは同金上と取った。私は10秒ほど確認して、同と。同金、5七歩、同金と吊り上げて、4八銀と打ち込む。鞘谷さんは、仕方なく5八飛と上がったが、5七銀成、同飛に4五桂馬が炸裂する。
「……」
鞘谷さんは、右目を瞑り、歯を食いしばった。いくら穴熊と言えども、先手は金損している。後手優勢だ。あとは、馬の守備をかいくぐるだけだけど……。
ただ、鞘谷さんの応手が気になるわ。ここで何を指すの?
彼女は既に1分将棋。無慈悲に時間が進んでいく。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリッ! 鞘谷さんは、4一に銀を打った。
これは……苦し紛れと見た……。私は丁寧に読む。4二飛なら同馬、同金、4七飛のつもりかしら? 4一金、4五飛……。これでも後手良さそうね。あんまり負ける気がしないわよ。先手スカスカだし。
ただ、もっと分かり易く……。私は、5七桂成と飛び込んだ。
3二銀不成に4九飛車と打ち込む。攻めが目的じゃない。金の守りだ。
鞘谷さんはぎりぎりまで考えて、4三銀成。私は同飛成と、自陣龍に構えた。
「ぐッ……」
鞘谷さんは、持ち駒の上に指を這わせた。攻めるか受けるか、迷ってるみたい。
ピッと鳴ったところで、飛車を摘まみ上げた彼女は、2一にそれを打ち付けた。
私の残り時間は、2分。貴重なそれを使って、私は盤面を見渡す。ここで焦って角打ちなんかすると、逆転の芽になりかねないもの。
個人的な候補は、6七成桂と寄るか、あるいは4八龍と入る手。4九龍は、5九歩で微妙に止められそうなのよね。
6七成桂に1一飛成なら、4四角が詰めろ龍取りだ。これはもう受からない。かと言って、他に受ける手も……なさそうね。だったら、4八龍より、6七成桂の方が分かり易いか……。
ピッ。最後の1分を告げる音。私は成桂を持ち上げ、押し付けるように6七を穿つ。
鞘谷さんは、またまた59秒使って、7九金。さすがに1一飛成とはしないか。
これで後手は安泰。全く手がつかないから。但し、先手も馬付きの穴熊。焦って駒を渡すと、変なことになる。とりあえず、金を使ってくれたから、4九龍と入りましょう。
鞘谷さんは、当然の5九歩。4八龍、5八銀、同成桂は、つまらない。成桂はちゃんと働いてくれてるんだから、銀と交換する必要がないもの。
何かいい手は……。あ、これがあるわ。ピッ。はい、決まりッ!
私は、7八成桂と捨てる。同金に、1二角。飛車金両取りだ。
鞘谷さんは、拳を口元に当て、自陣と私の陣を交互に睨んだ。多分、飛車を逃げるか、それとも金を受けるかを読んでるはず。まあ、前者でしょうけど。
私の予想通り、鞘谷さんは1一飛成と逃げた。7八角成に、7九香車。ここで6九馬とすり込むのは、5八銀でアッとなる。と言っても、同馬、同歩で、まだ後手優勢かしら。そう指してもいいけど……。
鞘谷さんとの初戦。私は何が何でも勝ちたくなってきた。せっかく中盤でミスしてくれたんだもの、これを活かさない手はないわよね。
だったら、もっと辛く……。
私は、馬を3四に引いた。