4手目 手拍子な少女
サエジマさんは7六歩と突き出し、チェスクロのボタンを押した。
すると、私のほうの液晶画面が秒を読み始めた。
ふーん、こういう仕組みなんだ……と、感心してる場合じゃない。
私は3四歩と角道をあけた。
当然の一手に、サエジマさんはがっかりしたような顔をする。
「なんだ、パックマンじゃねえのか。凹ってやろうと思ったのによ」
さっきの「幸先いい」って、そういうことか。こっちがまた4四歩だと思ったんだ。
棋力の分からない相手に、あんな戦法使うわけないでしょ。
「ふん、どうすっかな……パックマン対策しかしてねえ……」
対策してるだけで十分でしょ。どんだけ熱心なの。
あきれる私のとなりで、ピッとタイマーが鳴った。残り5秒ってわけだ。
「ま、いつも通り指すか……」
2六歩。サエジマさんは飛車先の歩を伸ばしてきた。
この人、居飛車党かしら。私はこの手にすかさず、5四歩と突いた。
サエジマさんの顔色が変わった。
「ん……おまえ、ゴキ中使いか?」
「ごきなか?」
聞き慣れない単語に、私は眉をひそめた。
「……もしかして、この戦法の名前?」
私は5四の歩を指差してそう尋ねた。するとサエジマさんも眉をひそめた。
「なんだ、ゴキ中も知らないのか? ……ゴキブリ中飛車の略だぜ」
これには駒込先輩が、
「後輩に嘘教えちゃダメよ」
と注意した。
後輩……ってことは、サエジマさんは2年生か3年生ってことか。
駒込先輩がタメ口ってことは、多分2年生ね。
じゃあ今から、サエジマ先輩と呼ぶことにしましょ。
私が黙っていると、サエジマ先輩は指を鳴らしながら、口の端をかるくゆがめた。
「へへ、ゴキゲン中飛車なんて洒落た名前で呼びたくねえな。ゴキブリ並にうざいからゴキブリ中飛車って寸法よ……」
んー、口三味線?
マナー違反だと思う。
「サエジマ先輩、早く指さないと、時間がなくなりますよ?」
「まだアラームが鳴ってねえだろ……そう焦んなって……」
サエジマ先輩は2五歩と伸ばしてくる。そこで私は5二飛車。
「やっぱりな。あんた、相当な攻め好きだろ?」
「……受けるよりは好きです」
「オレもなんだよねえ……ってことは、あれだな……」
あれ? なにか秘策があるの?
「ゴキ中退治、行くぜッ!」
めまぐるしい駒組が始まった。
4八銀、5五歩、6八玉、3三角。
サエジマ先輩は3六歩と突いてきた。
もうここを突くんだ……これは速い攻めが来そう。
私は10秒ほど考えて、4二銀と上がった。
それを見たサエジマ先輩は、にやりと笑った。
「やっぱ超速か」
また知らない単語をつぶやく先輩。私は華麗に聞き流す。
「こいつは序盤から気が抜けねえな」
3七銀、5三銀、4六銀、4四銀。
これはおじいちゃんの見よう見まねだ。凄い攻めのカタチ。
先輩は5八金右と中央を厚くした。私もそろそろ王様を囲わないといけない。
6二玉、7八玉、7二玉、6八銀。
穴熊はないみたいね。
私は8二玉と深く入った。
さあ、どうくるかしら。先輩はここで長考に入った。
長考って言っても、30秒しかないわけだけど。
「そろそろ中央を狙うか……」
先輩は7七銀と指してきた。これは予想済み。私は7二金と引き締める。
ほんとは7二銀としたいけど、金銀2枚ならこの形のほうがいいはず。経験的に。
サエジマ先輩はそれを見て6六銀。
今にも5筋の歩が取られちゃいそう。だけどまだ大丈夫。
仮に5五銀左、同銀、同銀、同角、同角、同飛なら、こっちの銀得だ。
私は悠々5一飛と引いた。
「端歩は居飛車の税金ってね」
サエジマ先輩は1六歩。その格言、おじいちゃんも言ってた。
意味はよく分かんないんだけど。とりあえず6二銀。
サエジマ先輩はまた指をポキポキ鳴らして、3七桂と上がった。
あんまり鳴らしてると、関節が太くなりますよ、っと。3二金。
さらに9六歩、9四歩と端歩を突き合って、盤面が飽和状態になった。
おじいちゃんはここから1五歩だったけど──
「よっしゃッ! 腹くくるとすっか!」
サエジマ先輩はそう言って、4五桂と跳ねてきた。
当然だけど、この桂は取れない。
4五同銀なら同銀で、3四の地点が受からないのだ。
私は角を4二へ逃げた。
「どんどん行くぜッ!」
サエジマ先輩は5五銀左と出てくる。今度は3三角がいないから成立だ。
同銀、同銀としたところで、私は最初の長考に入った。
手を作るには──これね。
パシリ
「お、3三桂か」
サエジマ先輩は、私の指した手を口に出した。
ほらほら、同桂成と取って来なさいよ。
ところが私の予想に反して、先輩は4六歩と突いた……こっちが取れってわけね。
取りたいところだけど、それじゃ面白くない。手順に歩が進んじゃう。
ここはひとつ──6五銀。
これが用意の一手。
サエジマ先輩は私の指し手を見て、小さくうなった。
7六の歩を取りにいっただけに見えるけど、違う。
こちらが7六銀〜4五桂〜7五桂と指せば、8七の地点が受からないのだ。
そうなればもう私の勝ち。
だからと言って、7五歩は同角で意味がない。
さてさて、サエジマ先輩の応手は何かなっと。
私は先輩を盗み見る。ひどく真剣な顔をして考え込んでいた。
「なるほどねえ、7五桂狙いか……」
おっと、さすがに見破られたわね。だけどこれ、そう簡単には防げませんよ?
私がチェスクロに目をやった瞬間、ピッと電子音が鳴った。
26秒、27秒、28秒……あれ? もしかして時間切れで勝てる?
ピーッと鳴った後、サエジマ先輩は猛スピードで3五歩と突き、ボタンを押した。
……惜しい。29秒。それにしても先輩、チェスクロをさっきから全然見てない。
もしかして音だけで判断できるとか?
だとしたら私の方が不利かも……っと、集中、集中。私は盤面をみた。
これは取れない。取ったら相手の攻めが加速しちゃう。
私は予定通り7六銀と出た。これで一歩得。後手は次に4五桂、同歩、7五桂だ。
サエジマ先輩、私の狙いには気づいてるみたいだけど、受けないのかな?
そんなことしたら私の勝ちだと思うけど。
私は楽観ムードになってきた。
サエジマ先輩はうんと軽くうなずき、飛車を手にした。
ん、飛車? 3筋に寄るつもり?
「これで受かってるよな」
サエジマ先輩はそう言って、飛車を縦に進めた。
2六飛車……? これはどういう──
「あッ」
私は小さく悲鳴を上げた。サエジマ先輩が口をひらく。
「へへ、なかなかイイ手だろ?」
うッ、確かに……これで7五桂馬が打てなくなってる……理由は簡単。4五桂、同歩のときに、2六の飛車が7六の銀に当たっているのだ。予定通り7五桂と打てば、7六飛で将棋が終わる。
飛車の横利きで止められちゃうなんて……ん、待って。いい手がある。
私は歩をつまんで5四に置いた。
「そう来たか……」
サエジマ先輩は身を乗り出し、盤上に影がさす。
5四歩。アホみたいな手だけど、6六銀ならそこで4五桂、同歩に、今度は7五桂じゃなくて7四桂と打つ。銀はどこにも逃げられないから、次に6六桂で銀桂交換に持ち込めるのだ。もし7七歩としてきたら、これはサエジマ先輩の角が動けなくなって大成功。
むりやり7五銀なら、8七銀成、同玉、7五角。これもこっちがいい。5一に飛車がいるおかげで、1一角成と取れない仕組み。万全ね。
我ながらナイスだと思った。サエジマ先輩は長考に入った。
「この女、一筋縄じゃいかねえな……」
どうですか。将棋部じゃなくても将棋は鍛えられるのよ。
先輩はアラームが鳴るまで考えて、3四歩とした。29秒でボタンを押す。
うーん、時間切れになってくれないのか……そういう勝ち方はあきらめましょ。
それにしても、3四歩とは考えたわね。もう桂馬を交換するしかないじゃない。
4五桂、同歩。
さて、銀を逃げようか、それとも──
私は26秒まで考えて、8七銀成と強く出た。
銀損だけど、次に5五歩で取り返せる。
8七同玉、5五歩。これでサエジマ先輩の王様はかなり薄くなった。
「かーッ、危なっかしいな」
そう言って先輩は、7八玉と体勢を立て直す。それでもまだ薄い形だ。いつでも7五桂から8七銀と打ち込む筋が残ってる。これ、こっちがいいんじゃない?
……でも、次の手が難しいわね。1四歩と端を突いてもいいけど……うーん。
ピッ。アラームの音。もうこんな時間ッ! 私は5秒ほど読んだ攻めの手を指す。
6四角ッ! そしてボタンへGO!
28秒で秒読みは止まってくれた。ふぅ、危ない危ない。
チェスクロに慣れていない分、こちらが不利だ。
っと、こんなこと考えてる場合じゃない。6四角の続きを読まないと。
この手、狙いは単純で、5六歩と突き、5七歩成と1九角成を同時に見せている。相手の角筋も1一を狙ってるけど、5一飛車がいるからすぐには取れない。先に馬を作れば、こちらが有利のは……ず……。
私は目をひらき、盤面に覆いかぶさる。……6五銀は?
6五銀、5六歩、6四銀、5七歩成、同金、同飛成……これは指せそうだ。
5六歩に同銀なら、1九角成で当初の狙い通り。なんだ、大丈夫そう。
背筋を戻そうとした私の脳裏に、ちらりと嫌な手が浮かんだ。
私はふたたびかがみ込む。
……違う。6五銀、5六歩、6四銀、5七歩成は、5二歩だッ!
同飛ならもう1回5三歩。5一飛と逃げると5七金、6四歩で銀角交換。こっちが損してる。あ、でも5二歩の瞬間、逃げないで5八となら? 5二歩、5八と、5一歩成、6九と……そこで同玉なら6四歩で、飛車角と金金銀交換か……サエジマ先輩は丸裸だし、30秒将棋なら……でも、7三銀成、同銀、6九玉なら……。
「チッ! 変化が多過ぎて読み切れねえッ!」
まるで私の心境を代弁したかのように、先輩は舌打ちをして持ち駒をつまんだ。
盤上に桂馬を置き、ボタンを押す。
7六桂……? これも角当たりだけど……。
さっきと同じように読んでみよう。5六歩、6四桂、5七歩成……あ、そこで7二桂成があるのか……うぅ、同じ角取りだけど、6五銀よりずっといい……同玉に5七金なら同飛成。今度は角桂交換か……でもこっちが攻めてるし……。
やっぱり5七歩成には5二歩? そこで5八となら、さっきと同じ……じゃないッ!
じゃないッ! じゃないッ! じゃないッ! 5八とには、7二桂成、同玉、5一歩成が詰めろよッ! だから同銀、5八金で……これは絶対勝てない。
ってことは、6四角はすっごい悪手ッ! やっちゃったッ!
「おいッ! 切れるぞッ!」
先輩の声。ピーッという電子音。
私はなにも考えずに7五角と出てボタンを押した。
29秒。ぎりぎりセーフ……って、手拍子で指しちゃったッ!