42手目 中二病な少女
さて、お昼休みなわけですが──
手近なファミレスに寄った私たちを待っていたのは、何とも気まずい空気だった。
甘田さんは、にやにや笑いながら、
「いやー、まさか2回戦で全滅とはね」
と言った。はい、そうです。
横溝さんは同情気味に、
「千駄さんと姫野さんの当たりが悪かったですね……まさか、ふたりとも優勝経験者とぶつかるなんて……」
とつぶやいた。
奥でコーヒーを飲んでいた姫野さんは、ちらりと視線を上げる。
「籤運を嘆いても仕方がありません。精進が足りなかったのです」
うッ、かっこいい。
さすがは姫野さん。
それに比べて、私の隣にいる松平は、
「あれ勝ったらベスト32だったんだが……」
と、たらればを愚痴っていた。
どうも学生の目標はベスト32らしい。これは周囲の会話から察した。
ベスト32か……120人くらいだから、3回戦まで進めばいい計算だ。
うーん、辻さんレベルがごろごろいるなら、それでもキツいか。
松平はいきなりこちらを向いて、
「裏見には、いいとこ見せられなかったな」
と謝った。いや、別に見せなくていいし。
私があきれていると、ふいに女の子の声がした。
「すみません……駒桜高校のかたですか……?」
ショートカットに冷たい目をした、少しばかり影のある少女が立っていた。
全然記憶にない。というか、着ている制服にも見覚えがなかった。
私は、
「え、あ……そうですけど……」
と、しどろもどろに答えた。
「将棋部ですか……?」
「……はい」
だれ? しかもなんでうちの高校に話しかけてくるかな?
私がいぶかっていると、少女は、
「一局指してもらえませんか……?
と言って、少女は鞄から小さな盤を取り出した。
300円くらいで売っている、安物の金属盤だ。
その上に、びっくりするくらい小さな駒。これは指しにくそう。
甘田さんは、
「盤貸そうか?」
と言って、盤と駒、それにチェスクロを取り出してくれた。
……あれ、対局決定なの? おかしくない? 自己紹介は?
私は駒を並べながら、頭にいくつものハテナマークを浮かべていた。
「ちょ、ちょっと待って。名前は?」
「飛瀬カンナです……」
「どこの学校?」
「ホグワーツ魔法魔術学校……」
ホグワーツ魔法魔術学校……? そんなの聞いたことが……あるわよッ!
ハリー・ポッターだ。
この女の子……やばいんじゃない? 電波をびんびんに感じる。
甘田さんは、
「ありゃりゃ、魔法の国から来たんだ。それとも、中二病かな?」
と笑った。
いや、笑ってる場合じゃないです。私は思わず、
「そ、それって、冗談?」
と訊いてしまった。
「……冗談です」
ぐッ……からかわれた。
くすくす笑う声が聞こえる。鞘谷さんだ。
おのれえ、サーヤめ。
まあそもそも本当のわけがないから、確認した私も変だったけど。
私はもういちど出身校をたずねた。
トビセさんは私を無視して、歩を拾い集めた。
両手でシャッフルし、盤上にばらまく。
歩が2枚……私が先手か……って、条件反射してる場合じゃないでしょ!
「よろしくお願いします……」
チェスクロを押す音。時計が進み始めていた。
29……28……27……30秒将棋ですかッ!?
パニックになる中、私は7六歩と指した。
トビセさんは8四歩。居飛車党か。いや、そんな冷静な分析をしてる場合ではない。
でも、ここでチェスクロを止めるのもどうかと思うし──
ええいッ! こてんぱんにしてから訊きましょうッ! 6六歩ッ!
「振り飛車……」
トビセさんは軽く首を捻り、3四歩と角筋を開ける。
6八飛、6二銀、4八玉、4二玉、3八玉、3二玉、2八玉、5四歩。
すっごく普通の展開になってる。言動は電波だけど、将棋は常識的。
私は3八銀と立ち、美濃に囲った。トビセさんは5二金右。
7八銀、5三銀、5八金左……あ、これ穴熊模様かも。30秒だときつい。
私が心配する中、トビセさんは8五歩。7七角に……1四歩?
穴熊じゃない? とりあえず1六歩ッ!
2四歩、6七銀、2三玉……左美濃ッ! 今時、珍しい。歩美先輩が「藤井システムが登場してから、左美濃はほぼ絶滅した」って言ってたけど、そうでもないのかしら。まあ、耳学問だし。
ピッ
あうちッ! 30秒将棋だったッ! 4六歩ッ!
3二銀、3六歩に、トビセさんは1二玉。
米長玉か。変な形に見えて、意外と堅いという。
とりあえず方針は維持よ。2六歩。
2三銀、2七銀、3二金、3八金、4二銀、3七桂、4四歩、5六歩。
速い。とにかく速い。トビセさん、ほとんどノータイムで指してる。
かなり指し慣れた形と見たわ。手付きも奇麗だし、用心しないと……。
3三銀、4七金左。はい、これで銀冠の完成よ。玉頭戦なら負けないわ。
「そろそろ攻めます」
宣言しなくても結構ッ! どうせ3一角でしょ?
……やっぱり、3一角だ。私は即座に8八飛車と回った。
4三金右、6五歩、9四歩、9六歩。
税金を払ってから、トビセさんは6二飛と動いた。
この手をみた甘田さんは、
「ひゃー、積極的」
と歓声をあげた。
気付いたら、テーブルのみんながこちらを観ていた。
姫野さんも、カップに手を当てて、じっとこちらを睨んでいる。怖い。
ギャラリーも多いことだし、派手に行きますか……私は、端歩を突いた。
松平は、
「それはやり過ぎじゃないか?」
とコメントした。
松平、あんたは黙ってなさい。ギャラリーの助言禁止。
それに30秒将棋なら潰せそうっていう感じ?
とりま端攻めしてオッケーでしょ。適当、適当。
「舐めプですか……」
トビセさんはそう呟いて、同歩。
ノータイムで8六歩ッ! これで8筋は受からないでしょッ!
同角かと思いきや、トビセさんは29秒まで考えて6四歩と突いた。
くッ、チェスクロの使い方が、私より上手いッ! 8五歩ッ!
6五歩、8四歩と、お互いに歩を進めまくる。
トビセさんはいったん2二玉と寄った。れ、冷静だ。
8三歩成に8六歩、手筋の押さえ込み。
だけど、ここで用意しておいた手があるのよ。それは、7二と!
同飛に8六角、同角、同飛、8二歩。そこで6三角が狙いの一手。
さあ、どこに逃げる?
「……」
トビセさんは、お地蔵さんみたいに盤を見つめ、29秒で4二飛車と寄った。
よし、これで飛車がニートよ。私は8一角成と突っ込む。
横溝さんは小さな声で、
「これは香子ちゃんがいいかも……」
とつぶやいた。でしょでしょ? 指せてる感じがするわ。
なんせ、先に桂馬を取った上に、馬までできちゃってるんだもん。
後は、丁寧に受けていけばいい。
「少し苦しいですか……」
トビセさんは劣勢を認めて、4五歩と突いた。
困ったときには、戦線拡大か。同桂、4四銀、3五歩が見えるけど、ここから玉頭戦に持ち込む必要はないわね。危ないし。だったら、安全策で同歩としましょう。
私が歩を取ると、トビセさんは1六歩と伸ばしてきた。
1六歩? 1八歩と謝りましょうか? でも、それはさすがに癪だから……。
飛車が8二に成れないのよね。8五飛~6五飛~6一飛成を目指しましょう。
8五飛、と。私がチェスクロのボタンを押すと、トビセさんは4六歩と打ってきた。
同金は5七角か……4八金と引きましょう。ちょっと利かされてるけど。
私の金引きに、今度は6六歩。
これはさすがに同銀……ん? 7四角があるか。7五飛、5六角、7三飛成、8九角成は五分っぽい。
まあ、安全に5八銀でいいか。5八銀、と。
私が銀を引くと、トビセさんは7八角と打ち込んだ。ずいぶん窮屈な角ね。
5七金で受かるわよ。5五歩、6六金。ほら、歩を取れちゃった。
パシリ
「え? 角成り?」
私は思わず、そう呟いてしまった。
ギャラリーからも喫驚が上がる。
これは当然の同金、同歩。ここでどう攻めるかだけど──次に1七金が微妙にめんどくさい気がする。同香、同歩成、3九玉、2七と。これは先手が悪くしてる印象ね。だから、先に1八歩と謝るか、1五歩、同香に1八歩。
どっちがいいか。歩もたくさんあるし、後者ね。1五歩。
私が1筋に歩を置くと、トビセさんは……ん? 取らない?
5九金? なにこれ? めちゃくちゃ重くない?
6七銀くらいで……あ、それは5七歩成か……。
で、でも、他に逃げ場所がない。まさかの4八金?
え、え、え? これもう悪くなってる? そんなバカなッ!
私はパニックになりかけた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
ここで松平が叫んだ。
「おい! 切れるぞ!」
松平の大声に、私は4四歩と突いて、チェスクロを押す。
秒読みは、29秒で止まった。トビセさんは、微妙に表情を曇らせる。
「残り時間の指摘は、反則ですよ……」
「す、すまねえ……つい……」
あ、そうなんだ……ってことは、公式大会なら、この時点で私の負け。
だけどトビセさんは、将棋を続行する。同金。
もうしわけないながらも、私は4五桂馬と跳ねた。
さあ、これで勝負。
4四歩に代えて4八金は、5八金、同金、5七銀で食いつかれる。
悪くても攻め合わないと。
銀当たりにもかかわらず、トビセさんは5八金。3三桂成、同桂、1四桂ッ!
同香、同歩、同銀に再度1五歩と打ち、私は一息吐いた。
「……」
トビセさんの表情が険しくなる。
同銀なら同飛車だ。トビセさんは29秒まで考えて、2三銀と引いた。
さすがに飛車の横利きをうっかりはないか。5三銀、と。
これで相当寄りが戻ったわよ。少なくとも五分のはず。
5九金には、私も焦ったけど。あれはいい手だったっぽい。
私が感心する中、トビセさんは4五桂打と継いだ。単に跳ねじゃないのか。
私は迷わず、4二銀成と、飛車を取る。
ギャラリーの声が遠ざかっていく。みんな黙り始めていた。
ノータイムで同金かと思いきや、トビセさんは3七銀の打ち込みを選択した。
1八玉は、そこで4二金が詰めろか……先に1六香車として、端歩を払っておいた方が良かったかも……あ、でもそれじゃ5三銀が指せなくなるし……。
ピッ
私は3七同金と取り、同桂成、同玉に、4七金が飛んできた。
ぐッ……そっか……これが厳しいのか。
いや、でもまだ詰んではいない。2八玉。
私が玉を下がると、トビセさんは4二金と手を戻す。次に4五桂馬が見えている。放置すれば3七桂成からの詰み。
後手玉は詰まない? 1三銀とか? 同玉、1一飛、2二玉……金がないッ!
詰まないなら、駒を使わせましょう。8二飛成ッ!
4五桂なら、4二龍から詰むわよッ!
トビセさんは軽く舌打ちして、5二桂馬と受けた。
って、年上に舌打ち禁止! 6一飛車ッ!
私はぴしゃりと飛車を打ち付ける。トビセさんは4一銀。
あー、めんどくさい。でも、これは勝ち筋に入ったはずよ。1六香車としましょう。
私が歩を払うと、トビセさんはノータイムで4五桂馬と跳ねた。でも詰めろじゃない。
1四歩が厳しいかしら? 3七桂成、1八玉、1二歩、7三龍、4八金寄、1三角、3二玉、2一銀、同玉、2三龍……詰んだッ! こっちの方が圧倒的に速いわッ!
1四歩ッ!
私の歩突きに、トビセさんは10秒ほど考えて3七金と寄った。
桂成じゃないんだ。1八玉、と……む、4七歩成と来ましたか。7三龍だと、2七金、同玉、3七と、1七玉、2八銀、1八玉……ははーん、打ち歩詰めね。先手勝ち。2九銀不成と追撃されても、1七玉で逃れてるわ。
ピッ。私は7三龍と引いた。トビセさんは2七金、同玉、3七桂成。
さて、予定通りの1七玉、と。
2八銀、1八玉、2九銀不成、1七玉。
「負けました……」
トビセさんは姿勢を正して、頭を下げた。
「ありがとうございました」
私も一礼する。勝ったけど……なんか納得いかない。
あなたはいったい誰ですか?
「どこが悪かったですか……?」
いや、まずは正体をですね。
そうたずねようとしたら、サーヤが横合いから、
「4五桂には、同金と取っちゃえば良かったんじゃない?」
と指摘した。トビセさんは、勝手に局面を戻す。
「こうですか……?」
サーヤはこれを見て、
「同馬、同飛、同飛に5八金は?」
とたずねた。
「駒を渡し過ぎな気もしますが……」
私もそう思う。7二飛~4三金くらいで勝てそう。
姫野さんも、
「7二飛、5七歩成、4三金、4七歩成は、3二金、同銀、3二飛成から詰みます」
と、読み筋を披露した。あいかわらずの終盤力だ。
トビセさんはうなずいて、
「足りないですか……4四歩がいい……」
とつぶやいた。すると歩美先輩が、
「4四歩に、同銀と取っちゃうのは?」
と横やりを入れる。なるほど、その手は考えなかった。
姫野さんもこの手を認めた。
「そちらの方がありえます。4五桂には無視して5八金でしょうか」
歩美先輩は、
「同銀なら、桂馬は跳ねないんじゃない? 単に6五飛とか?」
と別の進行を示した。
6五飛、5八金、6一飛成、5七歩成……んー、これは後手が堅い。
トビセさんはそれで納得したらしく、
「4四同金が悪手でしたか……」
と言った。
姫野さんは、
「同銀としにくい心境も分かります。飛車の利きが二重に止まりますので」
と譲歩した。これには甘田さんが、
「いやあ、飛車はもうニートでいいっしょ。攻めに使うのは欲張り過ぎだよ」
と指摘した。
姫野さんに口答えできるのは、彼女と歩美先輩くらいか。
「それでは、ありがとうございました……」
トビセさんはそう言って、席を立った。
そして、そのままファミレスを出て行く。
カランと鈴が鳴ったところで、甘田さんはぐるりとあたりを見回した。
「……で、今の誰だったの?」
誰も答えられない。
なんだか、狐につままれたような、そんな昼休みだった。
場所:某所レストラン
先手:裏見 香子
後手:飛瀬 カンナ
戦型:四間飛車vs米長玉
▲7六歩 △8四歩 ▲6六歩 △3四歩 ▲6八飛 △6二銀
▲4八玉 △4二玉 ▲3八玉 △3二玉 ▲2八玉 △5四歩
▲3八銀 △5二金右 ▲7八銀 △5三銀 ▲5八金左 △8五歩
▲7七角 △1四歩 ▲1六歩 △2四歩 ▲6七銀 △2三玉
▲4六歩 △3二銀 ▲3六歩 △1二玉 ▲2六歩 △2三銀
▲2七銀 △3二金 ▲3八金 △4二銀 ▲3七桂 △4四歩
▲5六歩 △3三銀 ▲4七金左 △3一角 ▲8八飛 △4三金右
▲6五歩 △9四歩 ▲9六歩 △6二飛 ▲1五歩 △同 歩
▲8六歩 △6四歩 ▲8五歩 △6五歩 ▲8四歩 △2二玉
▲8三歩成 △8六歩 ▲7二と △同 飛 ▲8六角 △同 角
▲同 飛 △8二歩 ▲6三角 △4二飛 ▲8一角成 △4五歩
▲同 歩 △1六歩 ▲8五飛 △4六歩 ▲4八金引 △6六歩
▲5八銀 △7八角 ▲5七金 △5五歩 ▲6六金 △5六角成
▲同 金 △同 歩 ▲1五歩 △5九金 ▲4四歩 △同 金
▲4五桂 △5八金 ▲3三桂成 △同 桂 ▲1四桂 △同 香
▲同 歩 △同 銀 ▲1五歩 △2三銀 ▲5三銀 △4五桂打
▲4二銀成 △3七銀 ▲同 金 △同桂成 ▲同 玉 △4七金
▲2八玉 △4二金 ▲8二飛成 △5二桂 ▲6一飛 △4一銀
▲1六香 △4五桂 ▲1四歩 △3七金 ▲1八玉 △4七歩成
▲7三龍 △2七金 ▲同 玉 △3七桂成 ▲1七玉 △2八銀
▲1八玉 △2九銀不成 ▲1七玉
まで123手で裏見の勝ち