41手目 あきれかえる少女
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
攻めた。
おじさんは10秒ほど考えて、同玉。
同金は飛車を横から打たれちゃうから、無難だと思う。
松平くんは、それでも2一飛。
3七歩成、4一飛成、4七と、3二龍、5二歩、5四桂、7一玉。
私は、
「王手は追う手になってない?」
と、辻くんにたずねた。
「そうですね。先手は手を戻すしかないような……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
松平くんはギリギリで4七金と取った。
同飛成、5八銀打(4八金もあった?)、5七龍、同銀、2四角、4六歩。
辻くんは、
「2四角ののぞきは、ちょっとインパクトが弱かったですね。これは止まってます」
とコメントした。
シーソーゲーム。両者、決め手を欠く展開に。
7五桂、7六銀、8七桂成、同銀、3九角、5八金、5七角成。
あ、切った。
「足りなくない?」
「金銀3枚……どうつなげるのか、ちょっとよくわかりません」
先手良くなってきた?
松平くんもそう感じているらしく、さっきより覇気がもどっていた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
同金。
おじさんは6八金。
んー、そこから寄せるの、かなり難しいと思う。
松平くんの7九桂で、おじさんは背筋を伸ばして、うなった。
本人も、攻めをつなぐ自信がないようだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
おじさんは、6九金と入った。
音を立てる指し方じゃなくて、中指でスーッと進める感じの指し方。
これはなに? ……6八銀の準備?
松平くんも、受けに迷ったらしい。だいぶ悩んでいた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7八角、6八金打、6九角、同金、7八金。
あえて角金交換に持ち込んで、受け駒に使った。
ふーん、そういう発想もあるのか。
3九角、4七金。
やっぱり後手が切れてるんじゃないかなあ。
この4七金は、2四角を防ぎつつ、7五桂の両取りも回避している。
案の定、おじさんは59秒まで考えて、5三銀と撤退した。
2三龍で、先手の攻撃ターン。
5一角、6二歩、同銀、同桂成、同角、4一飛。
この瞬間、おじさんは「ん?」という表情。
辻くんも、
「あ……攻め急いだような……」
とつぶやいた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
6六桂。
後手は反撃に出た。
6七銀、7八桂成、同銀右、6八銀、6九銀。
金銀の攻防。駒が入れ替わっていく。
同銀成、7八金、6八銀、2一龍。
あ、この入りも、ちょっと攻め急いでる感じがする。
5一金打とされて、鉄壁になってしまった。
松平くん、頭をかいて髪が乱れる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
あからさまな変調。
おじさんは腕まくりをして、右手をふとももに置き、体重をかけた。
やや前傾で考える。本気モードっぽい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
7九銀成。寄せにきた。
同金、同成銀、同玉、7五桂、7六銀。
私は、
「なんだかんだで、まだ後手は細いわ」
と指摘した。
「ですね。問題は、後手玉が遠すぎることですが」
ぐぅ、たしかに。後手はまったく寄る気配がない。
おじさんは8八歩と打った。
なんかそれっぽい手だ。
同玉、6六角成、7九桂、5三角。
おじさん、駒を総動員し始める。
龍当たりだけど、ちょっとヌルいような──
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
あああッ、先手もなんかヌルい。
その位置は、ただ逃げただけ、でしょ。
おじさんは6八金で、最後の攻め駒を投入。
7八銀、9六歩、同歩、9八歩。
端攻めに突入。
同香、8七歩、同銀上、同桂成、同銀、8五歩。
辻くんは、
「急所に入りましたね。先手劣勢だと思います」
と評価した。
私もそう思う。
先手は8三歩と垂らして、ワンチャン頓死狙いの状況。
松平くんは、苦しそうな表情だった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
9七銀と受ける。
8六歩、同銀左、8五歩、9七銀。
おじさんは角を切った。
この手に、松平くんはアッとなった。
「そっか……しまった……」
こら、口に出しちゃダメでしょ。
なんでもないような顔しとかないと。
59秒で同香。
以下、8六歩、同銀、8七歩、同玉、7八銀、9八玉、7九金。
松平くんは持ち駒をそろえた。
「負けました」
「ありがとうございました」
チェスクロを止める。
松平くんが感想を言う前に、おじさんは、
「最後、どうしたんですか? しまった、って言ってましたけど?」
とたずねた。
高校生相手に、ですます調。
ずいぶんと、礼儀正しいひとなのね。
それとも、将棋大会ならふつうなのかしら。
年齢とか、あんまり関係ない競技だし。
松平くんの返答は、
「一発逆転なら8三歩~5四桂だったんですが、角を切られたときを考えてなくて……投げ場がなくなったというか……」
だった。
なるほど、8三歩と打てば、潜在的には詰めろ。
斜め駒が入れば、8二に打って、5三玉に5四桂まで。
ただし、5三の角がいれば、の話。いなくなれば、この詰めろすらかからない。
そのショックで声が出ちゃった、というわけか。
辻くんは、
「ノーチャンスになると、精神的にきついですよね」
と同情した。
松平くんは、
「どこがおかしかったですか? 形勢は、行ったり来たりだったと思います」
と、あいての判断をたずねた。
おじさんは、うーんとうなった。
「むずかしいなあ、という局面は、何回かありましたね」
おじさんが挙げたのは、3ヶ所だった。
ひとつは、8八玉と上がられたあと、8六歩と打った場面。
もうひとつは、2一飛に3七歩成とした場面。
最後のひとつは、7九桂に6九金と入った場面。
ふたりは初手から、8八玉のところまで進めた。
【検討図】
おじさんは、
「6四角とか3五歩も、あったと思うんですよね」
と言いながら、メガネをなおした。
あ、思い出した。
8六歩、同歩、8七歩で金を吊り上げたけど、あとが続かなかったところだ。
私も、後手に手詰まりの印象を受けた。
松平くんは、
「8六歩、同歩に、一回6四角と出られると思いました」
と返した。
「ええ、それも考えたんですが、あとで8七歩が入らない可能性を考えて、先に打っちゃいました。手が進んでみると、8七金のポジションが、特段悪いわけではなくて……単に6四角と上がって打診すると、どうなりますか? 3八歩?」
「3八歩以外にありますか? ……5五歩?」
【検討図】
おじさんはうなずいて、
「悩ましいです。同角、4六歩で、こっちが攻めにくくて」
と、なんだかひとりで悩んでいる感じだった。
一方、松平くんは、この手をまったく読んでいなかったようだ。
反応がだいぶ遅かった。
「……3八歩のほうが、よくないですか?」
「ああ、3八歩でもいいと思いますよ。ただ、3八歩と打ってくれるなら、こちらに選択権が発生します。本譜みたいに7五角と出て、5七歩と打たせるか、8二玉と上がって、先手に催促するか……あるいは、3五歩、2六飛と追っ払ってもいい。それに対して5五歩は、選択を迫られている感じがするんです」
……なんとなく、わかる。
すごく感覚的だけど、おじさんの言っていることが、わかる。
おじいちゃんと指すとき、私のほうが、手を選ばせられているときがある。
指せる手はいくつもあるけど、どれも指したくない、みたいな。
辻くんは、
「やっぱりレベルが高いですね……社会人の将棋は」
と、複雑な感情を込めてつぶやいた。
私は、
「社会経験と将棋って、関係なくない?」
と疑問を呈した。
「そこは関係ないかもしれませんが、アマチュアの場合は10代だと勝ちにくいですね。経験値が違うというか……才能のあるひとはプロを目指していて、アマの大会には出ないから、という事情もありますが」
そのあと、感想戦は簡潔に終わった。
長手数だったから、おじさんは食事の時間を確保したかったようだ。
席を立った松平くんは、しばらく盤面を見つめていた。
なんだか声をかけにくい。
けっきょく、松平くんのほうがふりむいて、こちらに気づいた。
するとイヤそうな顔をして、前髪をなおした。
「くッ、見てたか」
あんたが見ろって言ったんでしょ。
なんなの、このひと。
もう、損した。
私は肩を怒らせて、将棋部の先輩をさがした。