39手目 ふくれる少女
辻さんはノータイムで6四同歩。味付けを終えた私は、5四銀と食いちぎる。
同歩に3二銀と放り込んで、私は一息吐いた。ここからが正念場だ。辻さんは4四金と逃げる。2三銀成に3六歩、1三成銀、3七歩成、同金寄、1三香、5一角と、読み筋が噛み合う。
7二金と指されて、私は計画通り、6三歩と打った。
「やるわね」
意味深な呟き。惑わされないわよ。そういうのは、歩美先輩で慣れてるから。
辻さんは、再度長考に入る。別の手を予想してたのかしら?
もう一度、読み直しましょうか。
後手がどう受けるかだけど……7一銀とか? 7一銀、4四角、同飛、6二金の打ち込みは、3六歩、7二金、同銀、6二歩成、3七歩成、同桂、3六歩、7二と、同玉、6二金、8二玉……これはイモ筋ね。6二金とか酷い手だわ。かと言って、8四角成は、同歩が詰めろになってない。
もう終盤に突入してるわね。6二金、3六歩には、一回同金かしら? そこで……5五角と打ってみる? 8九飛、4六歩、7二金、同銀、6二歩成の攻め合いは、4七歩成、3七歩、3八と、同玉、4七銀、2八玉、3八金、1八玉、3六銀成、7二と、同玉……これは後手勝ちだわ。先手はもう受けがない。後手は詰まない。却下。
だったら、5五角がかなり効いてるわね。5五角、8九飛、4六歩に、すぐ3七歩と受けましょうか。それでも4七歩成が厳しい。
「ま、こうかしら」
辻さんが指した手は──
あたたた、やっぱり7一銀か……一番嫌な手がきたわね。この局面、先手はおそらく4四角。同飛に6二金と重たく打って、後手は3六歩の勝負手。7二金、同銀、6二歩成、3七歩成、同桂、3六歩、7二と、同玉。ここで6二金は、さすがにダ……メ……。
「ん?」
私は、小さく声を上げてしまった。
辻さんが鼻歌を止める。
「どうしたの?」
「い、いえ……なんでもありません……」
私はその場を誤摩化して、6二の地点に見入る。
6二金、8二玉、7一銀、9二玉……7二金ッ!
これが詰めろになってるッ! 3七歩成は?
……先手は詰まない。8五銀と桂馬を外しても、同飛がまた詰めろ。
ってことは、これで勝ち? ……いや、違うわ。3六歩と攻め合わなければいいのよ。6二金に、5三銀ともう1枚打つ。7二金なら同玉として、6二歩成を阻止だわ。6二金、同銀上、同歩成、同銀、3三角成、5五角。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これなら後手もやれるはず。4四馬、同角、4二飛には、5三銀打の連結。先手は飛車を逃げるしかないけど、それは攻守逆転するわ。避けないと。
「案外に難しいわね」
辻さんは、それを楽しむような口調で、また鼻歌を歌い始めた。
私はリズムに流されず、読みを深めていく。
6二金に5三銀打が面倒だってことは、辻さんも気付いてるはず。だったら、先にその地点を埋めちゃうのはどうかしら?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
敵の打ちたいところに打てよね。ここで3六歩とか? 同金、5五角、6二歩成、8八角成、7二と、同銀、6二金は……詰めろ? 8五銀、7二金、同玉、6二金、8二玉、7一銀、9三玉、7二金……これは勝てる気がしないわね。何か受けがありそう。
6二歩成に、同金、同金、同銀、同角成は、7二金、4四馬、同角。これは五分……じゃないかも。4二飛が厳しい。8八角成、6一銀の引っ掛けで、終わってるっぽい。6三銀なら7二銀成、同銀、7一金。同玉は6二金から詰み。6二銀は7二金、同玉に、8二金、同玉、6二飛成の送りの手筋がある。最善は……8五銀? 7二飛成、9三玉と逃げて、微妙に捕まらない。
……あ、でも8六歩の犠打があるか。同銀なら8五金。むむむ……。
私は一息吐くと、姿勢を元に戻した。かなり前のめりになってたみたい。
5三金〜6二歩成が厳しいなら、さらに6一銀と受けてくるかも。ただ、それは3三角成が見えてるのよね。そこで3六歩は、さすがに無視して4四馬と取りそう。3七歩成、同桂(同金?)、5五角、同馬、同歩、2二飛、3六歩とか?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは、いい勝負な気がするわね。っていうか、私のほうの感触が悪い。
ということは、6一銀と5三銀を同時に防がないといけない。その手段はひとつ──
私は時計を確認する。持ち時間は、私が5分、辻さんが3分。
私は意を決して、4四角と取った。
「おっと、切ってきたわね」
辻さんは私をちらりと見て、それから盤面に視線を戻す。同飛。
私は金を摘み、それを5二の地点に置く。これなら、6一銀も5三銀も打てない。ただそうなると、後手は間違いなく攻めてくるのよね。
……上等よ。こっちも、すぐに潰れたりはしないわよ。
辻さんの手は、おそらく3六歩、同金、5五角。そこで6二歩成、8八角成、7二と、同金、6二金が問題だ。これで後手が受かっているのかどうか。
受かっているなら、4九銀と引っ掛けられちゃう。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
7二金、同玉、6二金、8二玉、7一銀、9二玉、7二金、3八銀成、同玉、6八飛、4八銀、2八金、同玉、4八飛成、3八歩、3九銀、1七玉、2八銀打、1八玉、1九銀成、同玉、2八金まで。……うーん、こっちの負けですか。
4九銀に4八金打の受けなら、3八銀成、同金に、もう一回4九銀。今度は持ち駒に金がないから、4八金とは打てない。4七銀なら6八飛、3七金引なら、3六歩と叩く。これも後手が勝ちそう。
私が苦悶する中、3六歩が飛んできた。
厳しい……これは本当に厳しい……。
私は同金以下を読み直す。5五角に8九飛車だと? ……4六歩、6二歩成、4七歩成、3七歩、3八と、同玉、4七銀、2八玉、3八金、1八玉、3六銀成、7二と、同銀、6二金、2八金打、1七玉、2七成銀……。詰むじゃない。
私は、頭がくらくらしてきた。まずいかも。3六歩〜5五角の組み合わせが、予想以上に痛過ぎる。6三歩の時点では、こっちがいいと思ってたのに、反動がきつい。
かと言って、受ける手も……私は、唯一の攻め合いの順を選ぶ。
3七歩成、同桂、5五角。そこで私は、8九飛車と引いた。
辻さんは、最後の長考に入る。鼻歌を止め、真剣な眼差しで盤を睨み始めた。
多分、これが最善の粘りになってるはず。再度3六歩と打たれたら、7二と、同銀、6二金と寄る。3七歩成、同金に、辻さんがどう攻めるか。4六角とでもしてくれれば、同金、同歩に7一角で詰むんだけど……さすがにそれはないか……。
辻さんは、最後の1分ぎりぎりまで読んで、3六歩と打ってきた。私は即座に7二と。こうなったら、時間攻めにするしかない。同銀、6二金。
辻さんはさらに30秒ほど考えて、3七歩成。同金に……3六歩ときた。
3回目の叩き。4八銀かと思ってたけど、そっちは何か不味かったのかしら? 7二金、同玉、6二金、8二玉、7一銀、9二玉、7二金なら、3七銀成、同玉、4六角で、こっちが詰んでたような……。
まあ、いいわ。この歩も厳しいし、指されなかった手を読んでも仕方がないから。
3六歩には、同金とするしかないわよね。金を動いたら、4六歩が激痛。
ただ同金でも、やっぱり4六歩っぽい。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
7二金、同玉、6二金、8二玉、7一銀、9二玉、7二金は、4七歩成、3七歩、3八金以下の詰み。先に3七歩と打っても、やっぱり4七歩成が詰めろ。これを防げない。
私は、チェスクロをちらりと見やる。残り時間は1分。私は同金と指す。辻さんは念入りに確認を入れて、4六歩。次の開き王手は見え見えだけど……5六金、4七歩成、5五金には、3八金、1八玉、5五歩が詰めろ。後手は、7一角、9二玉で詰まない。5六金に代えて単に5六歩なら、6六角と逃げられる。7二金、同玉、6二金、8二玉、7一銀、9二玉、7二金に、3八金、同玉(1八玉は1七銀、同玉、2八銀、1八玉、1七金まで)、4八角成、同玉、4七歩成、5九玉、5八金まで。
詰みか……ふむ……。
ピッ
チェスクロが鳴った。残り4秒。
私は、形作りをする。
5六歩、6六角、7二金、同玉、6二金、8二玉、7一銀、9二玉、7二金、3八金。
私はぷくっと頬を膨らませ、タメ息をつく。もう粘れない。
「……負けました」
私は投了した。
「ありがとうございました」
辻さんは澄まし顔で、首を45度傾けた。チェスクロを止める。
終盤、ここまでいいところがなかったのはショック……どこがいけなかったんだろ。
「6四歩からの構想が悪かったですか?」
私の問いに、辻さんは「うーん」と唸る。
「別に悪くなかったと思うわよ」
「でも、こっちにいいところが……」
「5二金とか捻らないで、いきなり3三角成でも良かったんじゃない?」
5二金……あ、6一銀と5三銀を防いだところか。
私たちは、そこまで盤面を戻した。そして、3三角成と手を変える。
「一目、5五角よね」
「4四馬、同角……8九飛車ですか?」
「逃げたら、6三金と取るかな」
6三金……玉の脇腹が空いて怖いけど……4二飛には、6二角と受けるつもり?
あるいはもっと手堅く、6二角打とか……次に7七角成でいいわけだし……。
「飛車を打っても、先手が良くないような……」
「飛車打ちに代えて6二金でも、同銀、同歩成、同金で堅いか……じゃあダメね」
ととと、私はずっこけそうになる。
ちょっと、マジメに読んでくださいな。
「どこかで7五歩が入ってれば、かなり違ったと思うんですけど……」
「うーん、入れるチャンスあったかなあ?」
「5四銀の直前とか?」
私の提案に、辻さんは気の進まない顔をする。
「それだと、6五銀がきつくない?」
うッ……確かに……。
「かと言って、それ以前に7五歩だと、展開が全然違うわよね」
「そうですね……5四銀の後だと、手抜かれて4六歩だと思いますし……」
先手の駒組みに無理があったのかしら? そんな気はしないんだけど……。
「こっちはとにかく薄いから、生きた心地がしないのよねえ」
私は、曖昧に相槌を打つ。
負けてるから、どうにも突っ込みを入れられない。後手玉が薄かったのは事実。近くて遠い玉だったわね……。それとも、私の攻めの構想が悪かったのか……。
「じゃ、ありがとうございました」
辻さんはそう言って、頭を下げた。
「ありがとうございました」
15分60秒だけあって、あちこちで試合が終わり始めていた。感想戦の声。私はしばらくの間、盤を見つめる。もう少し、教えて欲しかったな……。
「香子ちゃん」
「うわッ!?」
私は椅子から飛び上がる。これはもう定番だ。
「なんで驚いてるの?」
歩美先輩登場。
もうちょっと前触れを持ってくれませんかね、前触れを。
私は椅子に座ったまま、後ろをふりあおぐ。
「先輩、どうでした」
「勝ったわ。香子ちゃんは?」
私は、正直に負けを伝えた。対戦相手の名前も。
「ああ、辻姉に当たったんだ……ついてないわね」
辻くんのお姉さんだから、辻姉?
それって辻くん視点なんだけど、いいんですかね?
普通に乙女さんとか呼べばいいような。
「辻姉くらいは吹っ飛ばして欲しかったかな」
歩美先輩はそう言うと、対局の大雑把な流れを訊き始めた。
細かいところを端折って、大筋だけを伝える。
「……難しいわね。相振りは私のレパートリーじゃないから……」
「まあ、なにか手はあったかもしれないんですけど……」
「……そうかもね」
ずいぶんと淡白ね。
私があきれていると、市立の制服を着た男子が現れた。
「げッ! あんたはッ!」
なんと、松平くんだった。
松平くんは髪をさわりながら、
「おいおい、なんだよ、その反応は?」
とタメ息をついた。
「……べつに」
私はくちびるをすぼめて、そっぽを向く。こいつも来てたのか。
そうか、これは市の大会だから、将棋部に所属してなくても出られるのね。
結果は……訊くまでもないか。この様子だと勝ちね。しかも快勝してそう。
「なんだ? 俺の勝敗は訊かないのか?」
うっさいわね。じゃあ訊いてあげますよ。
「どうせ勝ってるんでしょ?」
松平くんは歯を見せてガハハと笑う。
「おう、小学生とおたがいにノータイム指しして、ぶっ飛ばしてきたぞ」
お、大人げない。どっちが小学生か分からない。
私があきれていると、歩美先輩がまた口をひらいた。
「香子ちゃんは、これからどうする? 帰るの?」
うーん……帰るのは……もったいないかなぁ。
他の人の将棋を観て、勉強したいところもある。
「昼くらいまでは、いるつもりです」
私はそう答えた。
「そう。それなら好都合だわ。みんなでお昼にしましょう。他のメンバーもいるし」
他のメンバー? ……ああ、姫野さんとかか。
「じゃ、適当に観戦しといて。まだ60人くらい残ってるし、飽きないわよ」
ええ、そうさせていただきます。
私が返事をするまでもなく、歩美先輩はどこかへ行ってしまった。
あとには、なぜか松平くんがひとり。
「俺の対局、観に来いよなッ!」
はあ? ……って言いたいところだけど、こいつ強いからなぁ。
勉強にはなりそう。できればリベンジ戦といきたいところなんだけどね。
まだ今の私じゃ勝てないかな。
「ま、気が向いたら……」
「おっし、気合い入れて行くぜ」
はいはい、気合いでもエンジンでも入れてくださいな。
私は松平くんを放置して、市民会館の入り口へ向かう。目指すは自販機。
喉が乾いちゃった。
場所:2013年度駒桜市名人戦1回戦
先手:裏見 香子
後手:辻 乙女
戦型:相振り飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △3五歩 ▲6八銀 △3二飛
▲6七銀 △6二玉 ▲7七角 △7二玉 ▲8六歩 △3六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲8八飛 △3四飛 ▲2八銀 △4二銀
▲8五歩 △5二金左 ▲4八玉 △2四歩 ▲5八金左 △2五歩
▲3八金 △1四歩 ▲4六歩 △8二銀 ▲3七銀 △3六歩
▲2八銀 △1三角 ▲4七金左 △3三桂 ▲3七歩 △同歩成
▲同 銀 △3五歩 ▲3九玉 △4四歩 ▲5六銀 △4三銀
▲6五歩 △5四銀 ▲6六角 △6二金上 ▲7七桂 △7四歩
▲8四歩 △同 歩 ▲同 飛 △7三銀 ▲8八飛 △8三歩
▲2八玉 △1二香 ▲9六歩 △9四歩 ▲1六歩 △4三金
▲5五銀 △4五歩 ▲8五桂 △8四銀 ▲8二歩 △同 玉
▲6四歩 △同 歩 ▲5四銀 △同 歩 ▲3二銀 △4四金
▲2三銀成 △3六歩 ▲1三成銀 △3七歩成 ▲同金寄 △1三香
▲5一角 △7二金 ▲6三歩 △7一銀 ▲4四角 △同 飛
▲5二金 △3六歩 ▲6二歩成 △3七歩成 ▲同 桂 △5五角
▲8九飛 △3六歩 ▲7二と △同 銀 ▲6二金 △3七歩成
▲同 金 △3六歩 ▲同 金 △4六歩 ▲5六歩 △6六角
▲7二金 △同 玉 ▲6二金 △8二玉 ▲7一銀 △9二玉
▲7二金 △3八金
まで110手で辻の勝ち