38手目 姉である少女
今日は8月4日、日曜日。
市民会館は人で一杯。私は夏休みだからいいけど、社会人は休日返上なのよね。
集合時間ぎりぎりに来た私は、受付で冷や汗を掻くハメになっちゃった。
参加証を貰った私は、トーナメント表を見に、ホワイドボードへと向かう。
その途中、後ろから声を掛けられた。
「遅かったわね」
振り向くと、制服姿の歩美先輩が立っていた。
あれ……制服……?
「せ、制服必須でしたか?」
「え? ……そんなことないわよ?」
セーフ……制服着用が義務付けられてるわけないか。
学生証さえあれば、身分は証明できるわけだし。
「早く席についた方がいいわよ。この大会、時間厳守だから」
私は壁の時計を見る。7時55分。
日曜日の朝に、皆様ご苦労なことで……とりあえず場所を移動。
私は壇前のホワイトボードで、組み合わせを確認する。
シードになってないかしら……っと、あった。
107番。私の番号だわ。シードじゃないのね。残念。
対戦相手は……85番。名前は……書いてない。
変なおじさんとか、小学生じゃなきゃいいけど。小学生ってメチャクチャ早指しだから、こっちのペース崩されちゃうのよね。漫画読んでるのとかいるし。
テーブル番号は31番。私は早速向かった。壁際の席だ。
盤駒とチェスクロは用意されていたけど、対戦相手は来ていなかった。
不戦勝? ……なわけないか。どうせトイレとかでしょ。
私はスカートをそろえ、席につく。だんだん緊張してきた。学生大会とは、また違った雰囲気ね。のほほんと会話してるおじいさんとか、えらく真剣な顔してるおじさんとか……学生も多い。駒桜第一中学の制服もちらほらと。
「遅くなりました」
突然の女性の声に、私は顔を上げた。
前髪が右目にかかった、ちょっと暗そうな女性が立っている。女版鬼太郎みたい。
ん? 鬼太郎? この顔、どっかで見たことあるような──
「対戦表を交換しましょう」
そう言って女の人は、A5サイズの参加証を差し出してきた。
上半分に氏名と年齢、参加番号。下半分は、組み合わせと結果を書く欄。
選手同士で記録するわけか。あれ? ってことは──
「あ、筆記用具……」
しまった……書くものがない。
「貸しましょうか?」
前髪の奥から、女性が視線を走らせてきた。
「す、すみません……」
恐縮しながらボールペンを受け取り、私は組み合わせ表を埋める。
席番号と対戦番号と、それに署名。私は相手の氏名欄をチラ見した。
辻乙女。
「辻……?」
私は思わず、相手の名前を読み上げてしまった。
あわてて口をつぐんだけど、後の祭り。辻さんも、私の名前を口ずさんだ。
「裏見香子さん……ね」
へえ、と付け加えて、女性は参加証を返した。私も彼女の参加証を返す。
それを受け取った私は、ちらちらと女性の顔を見やる。
……やっぱりそうだ……間違いない。この輪郭、この目鼻立ち。
私の視線に気付いたのか、女性はにやりと笑い、両手の指を組み合わせた。
「話は聞いてるわ。弟がお世話になったみたいね」
そう言いながら、辻さんは指の骨をポキポキと鳴らす。
……こ、これは……なんか不穏なんですが……気のせいですかね?
いきなりタメ口だし……年齢差があるとしても、ダメでしょ。
「最近は、女子高生の将棋部員が増えてるそうね。私が指してた頃は、藤女の哲子ちゃんくらいしかいなかったけど」
哲子ちゃん? ……ああ、猿渡さんのことか。
ということは、年齢的に……大学生? 私は参加証の年齢欄を見た。
……19歳。やっぱりそうだ。大学1年生か2年生。
それにしても、弟の名前が竜馬で、姉の名前が乙女って、両親頑張り過ぎでしょ。もうちょっと普通の名前をですね、はい。
「それでは、振り駒をお願いします」
運営のおじさんが、振り駒の号令をかけた。
私がゆずるまでもなく、辻さんは歩を拾い上げて、軽くシャッフルした。
5枚の歩がぱらりと盤上に落ち、表が1枚出た。私が先手。
「右利き?」
「は、はい……」
チェスクロが、私の向かって左側に置かれる。
辻さんは歩の位置を揃えながら、俯き気味にくちびるを動かす。
「陽動振り飛車と見せかけて、角換わり腰掛け銀とか、私には効かないからよろしく」
げッ……バレてる……辻くんが喋ったのね。
もしかして、「弟の仇は私が取るわよ、うふふふ」とか考えてんじゃないでしょうね?
ほんとにありそうだから怖い。私怨は勘弁。
私は目を合わせないように、ぼんやりと運営の方を向いていた。
……あ、マスターがいる。そっか、マスターって運営委員なんだ。
通りで、参加の受付してるわけね。納得。
「それでは始めてくださーい」
運営の合図と同時に、挨拶の大合唱。
「よろしくお願いします」
私と辻さんも、お互いに頭を下げた。辻さんが、チェスクロのボタンを押す。
私はノータイムで7六歩。辻さんは10秒ほど瞑想して、3四歩と突いた。
6六歩、3五歩……ん、3五歩? これはもしかして──
6八銀、3二飛、6七銀、6二玉、7七角、7二玉、8六歩。
やっぱり相振りじゃないッ! 穴熊じゃなきゃいけるはずよ。ばっちこい!
3六歩の突きに、同歩、同飛、8八飛、3四飛、2八銀。
とにかく指し手が速い。辻さんは分からないけど、私は意図的にやっている。あれから歩美先輩と練習した結果、序盤は早指し、中盤の要所で時間を使って、終盤に2、3分残すのが得策と判断したのだ。もちろん、序盤でも難しくなったら時間が必要。でも、この向かい飛車vs三間飛車は、もう腐るほど指してるから、大丈夫。
辻さんは4二銀と上がった。8五歩、5二金左、4八玉、2四歩。今度は2筋の歩を交換する気ね。軽いステップ。私はじっくり構えることにする。
5八金左、2五歩、3八金。ここで2四飛かと思いきや、先に1四歩。1三角を見せないと、攻めが足りないと読みましたか。じゃあ、こっちは受けて4六歩!
「ふうん、結構知ってるじゃない」
むッ……それは暗にバカにしてるのでは……。
辻さんは、さっきから余裕の笑みを浮かべている。確か、升風のレギュラーだったのよね。だったら、相当な実力者だと思うんだけど……。
先手は、あくまでも3筋を受けない方針。
辻さんは、8二銀と補強してきた。私も3七銀と上がる。矢倉。相振りだと、矢倉の方が金無双よりも堅い。だから安易に組ませないよう、辻さんは3六歩と押さえ込みにくる。
2八銀、1三角。私の銀は、上下運動。ただ、3六歩は、後手としても打ちたくない歩。まだまだ五分ね。
4七金左に、辻さんは3三桂と跳ねた。後手の攻撃態勢が整っちゃいそう。
「アグレッシブなのは嫌い?」
いえ、むしろアグレッシブな将棋は好きですよ。
私は相槌を打ちながら、3七歩と合わせた。
これで矢倉が確定。序盤としては、悪くない分かれね。
3七歩成、同銀、3五歩、3九玉。
やっぱり、矢倉になった。
でもでも、3六に傷があるから、ここに何かぶち込まれるとまずいのよね。辻さんも私の傷を自覚しているのか、攻勢を崩さずに4四歩。私は5六銀と上がり、4筋を受けた。
辻さんは、さらに駒を足して4三銀。8四歩をどこで入れるか。
もうちょっと待ちますか。6五歩、と。
私が角筋を開けると、辻さんは5四銀。私は6六角として、桂跳ねの余地を作る。
辻さんの6二金直に、待望の7七桂跳ね。
「こっちも矢倉にするわね」
辻さんはそう呟いて、7四歩と突いた。さすがに、7三銀と上がられると困る。その前に飛車先を交換しないとね。8四歩、同歩、同飛、7三銀、8八飛、8三歩、2八玉。
はい、お互いに矢倉っぽくなりましたよ。形は、辻さんの方が不完全。
1二香、9六歩、9四歩、1六歩、4三金。
攻めの糸口を模索する。先手の得を活かして、ここはひとつ──
「ぶつけてきたわね……」
ええ、ぶつけましたよ。同銀、同角、4五歩は、2三銀が痛いはず。
……ん、そうでもない? 5四飛車が角当たり。5六歩、4六歩、同角、4五桂、4八銀、3六歩、1三角成、3七銀、同桂、同歩成、同銀、同桂成、同金寄、1三香……意外と厳しいかも……後手、不満なしな気がする。
ただ、5四飛に5六歩かどうか分からないし、3六歩に1三角成じゃないかもしれない。例えば、5五銀、同角、4五歩に、8五桂跳ねがありそう?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
放置して4六歩は、7三桂成、同桂、8一銀。同玉は8三飛成、8二銀、7三角成、同金に8四桂が、意表を突く詰めろ。8三金なら7二銀の一手詰め。8四金も同じ。7二銀の受けは、同桂成としないで、9二銀、同香、同桂成、7一玉、8二成桂、6一玉、7二成桂、同金、5二銀、同玉、7二龍、6二桂に、3二金か6一銀。
攻めがかなり続く。こっちがやれそう。
だったら、この局面で5五同銀じゃなくて、4五歩を想定しましょう。
ただ、これでも8五桂でしょうね。4五同歩は同桂で加速しちゃうから。8五桂、8四銀の逃げに、5四銀、同歩、2三銀と、私の飛車を苛める順。
……ん? 2三銀? 2四飛と寄って、1二銀成、3一角だと?
あれ? 成銀が遊んでるような……じつはなんでもないのかも。
私はチェスクロを確認する、残り時間は12分。
「ま、ここで深く読む必要もないし」
辻さんは、4五歩と突いた。
これは想定の範囲内。私は8五桂と跳ねる。辻さんは30秒ほど考えて、8四銀。8二銀と比較したのかしら? 8四銀には、いつでも8四角の切り込みがある。質駒ってやつよ。まあ、それでも8四銀でしょ。8二銀は消極的過ぎるもの。
さてさて、ここで5四銀としたいけど……ただ、同歩に、そこからどうするの?
2三銀は良くなかった。
私が首を捻っていると、ある筋が浮かんだ。これいいかも。ずばり、3二銀だ。4四金に2三銀成とする。3一角は……3三成銀、同飛、4四角で大優勢ね。
よしよし。でも、角を逃げない手があるか……放置して3六歩、4八銀、4六角、同金、同歩は、後手良し。4五桂〜3七歩成も見える。
だから、2三銀成、3六歩には、1三成銀と角を取りそう。同香なら4八銀だから、先に3七歩成と成るでしょうね。同金寄、1三香……ん? ここで手がない? 5一角と打つのは意味ない。
せっかくいい手を見つけたと思ったのに、そこで読みが止まってしまった。6二の金が浮いていれば、5一角が強烈なんだけど……ん? 金が浮いていれば? ……なんだ、浮かせればいいじゃない。
私は持ち駒の歩を、8二に打ち付けた。
第一感は、同玉。玉の位置が動くと、さっきの順で最後に5一角がある。
問題は、そこで7二金と寄るか、それとも6一銀と足すか。
単に7二金、4四角、同飛、3三角成は、先手指せそうね。辻さんがどうするか。むしろ4四角に同飛としないで、3六歩と打ってみるとか? 3三角上成、3七歩成、同桂、3三飛、同角成、4六歩で──
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
2一飛、3六銀、4八歩……後手は金銀4枚か。後手の方がいいかも。
ただ、途中で3七同桂じゃなくて、3七同金の順もあるし……難しいわね。後手玉に即詰みはないから、全体的には辻さんが有利かもしれない。
私は持ち時間を確認する。残り9分。その瞬間、8二同玉が指された。
辻さんの残り時間は11分。メチャクチャ早指しに見えたけど、ちょくちょく数十秒単位で考えてたみたいね。持ち時間に差がないのは、いいことだと思う。最近、ちょっとは慣れてきたかしら。
……と、集中、集中。私は、5四銀以下を読み直す。同歩、3二銀、4四金が本線だけど、4二金もありそう。2三銀成、3六歩、1三成銀、3七歩成、同金寄、1三香、5一角が一例ね。4四金のときと違って、これが金の割り打ちになっている。5二金左なら、3三角成で先手好調だ。5二金右なら、8四角上、同歩、同角成が痛い。ということは、4二金はないんだ。ちょっと勘違いしたわね。うん。
私が考えている間、辻さんは鼻歌を歌っていた。ずいぶん余裕ね……。結局、5四銀には攻め合いで五分という結論に至る。辻さんが、姫野さんレベルの豪腕だと困るけど、さすがにそれはないでしょう。ヤクザがふたりいるのは堪らないから。
さてさて、冗談はこれくらいにしておきまして、5一角に7二金が問題よ。そこでこっちに手があるかしら? 攻めが細い気がするんだけど。いきなり8四角と切っても、続かない気がする。どこかに歩の手裏剣を飛ばすくらいしかない。
私は、9筋から5筋までを見渡した。
歩を打つ場所がない。一番いいのは、7二金に6三歩か6二歩と打てれば──
ん? 打てるじゃない。先に6四歩って切ればいいんだわ。
そうすれば、こんな感じになる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
でもこれって、同金くらいで受かってるような……あ、8四角上ッ!? 同歩、同角成に8三銀は、9三桂成、同香、8三馬、7一玉、7二銀……これは私の勝ちだわ。8三銀に代えて8三歩も同じ。
6三歩は取れない。放置して3六歩? 6二歩成、3七歩成、同桂、3六歩、7二と、同玉、8四角上、同歩、同角成は、3七歩成、同金、3九銀、同玉、3七飛成、3八歩、4七桂、4九玉、5九金で詰みか……いや、これは勝手読み。8四角上、同歩には、7三金と放り込むのよ。同桂、同桂成、8一玉、8四飛で詰み。
なーんだ、盲点になってたわね。私は自分の読みに呆れながら、6四歩と突いた。