37手目 銀を打つ少女
さて、気合いを入れていきましょう。
ここから2三飛、4五桂、同桂、同歩、同銀、1一角成、4六歩、1二馬、5三飛、5八銀、5六銀、3四馬、6七銀成、同銀右、4七歩成の展開を読んでるのよね。前回の読みでは、そこから2四飛、5七と、2一飛成、6七と、同銀、5一桂。
ふむむ……アクエリアスを飲んだら、なんだか間違ってる気がしてきたわよ。6七とに同銀って取るかしら? 手抜いて、6一馬と突っ込めると思う。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
7八と、同金、6一銀、同龍……あッ!
やっぱり間違ってるじゃないッ! これじゃ私の負けよッ!
7二銀は9三銀、同玉(同香は7一銀、8三玉、8二金まで)、9一龍、9二銀、8二銀、8三玉、9三金、同銀、同龍で詰み。7二金は9三銀、同香(同玉は7二龍で寄り)、8三香、同金(同玉は8一龍、8二桂、9二銀まで)、7一金、9二玉、9一金、8二玉、8一龍で詰み。
あ、危ない……ポカするところだった……。
私は胸を撫で下ろす。だけど、問題は解決していない。どこかで手を変えないと──
私はチェスクロを見る。残り4分。これは手を渡さないとダメね。
とりあえず、確定の2三飛を指しておきましょう。
私が2三飛を指すと、先輩はほとんどノータイムで4五桂と跳ねてきた。あらら、こっちの時間を使って読んでましたか。ますますヤバい。
同桂、同歩、同銀、1一角成、4六歩、5八銀、5六銀、1二馬。
あばばば……読み通りに進んじゃってる……なにか手は……。
いっそのこと、飛車を見捨てて4七歩成としてみる?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
例えば、ここから2三馬、5八と、同飛、4七角と打つ。
3四馬なら、6七銀成、同銀、5八角成、同銀、7五歩の桂頭攻め。2一飛、5一桂、5四歩とか? 7六歩、5三歩成、7七歩成、同玉、7六歩、6八玉、5六桂、5七玉……これは入玉されそう? 追い方が不味いのかしら。5六桂じゃなくて、4八銀としてみる? 次に7七金で詰みだから、先手は受けないといけないけど……。
ん? もしかして、先手きつい? 7八金なら、今度は5六桂がある。7九玉、6八金、同金、同桂成、同玉、6七金、7九玉、5九銀不成、6九金……いや、これはダメか。6八金のところで、7七金とか? 同金は論外だけど、6九銀は受けになってない。7八金、同銀、6八金で終わりだから……。
うん、これは戦えそうね。
私がそう思った瞬間、チェスクロがピッと鳴った。残り1分を切ったのだ。
うぅ、15分ってきついわ。
私は飛車を放置して、4七歩成を敢行した。
「あら、逃げないんだ」
「もう勝負手しかないみたいなんで……」
私は、正直に答えた。
「んー、そうかしら……」
歩美先輩は、曖昧に首を捻った。
そして、1分ほど長考に耽る。私も読み筋を追った。
「まあ、飛車を取るわよね」
先輩は2三馬。私はすかさず5八とと入る。同飛、4七角。
そこで先輩はまた長考した。このあたりの時間の使い方、ちょっと教えて欲しいわね。どのあたりを読んでるのかしら? 2八飛車? それは、6七銀成、同銀、6九角成で終わりよね。だから、飛車は逃げられない。3四馬が本線だと思う。
そう考えていた私の前で、先輩は馬に手を伸ばした。
うん、やっぱり3四馬だ。
6七銀成、同銀、5八角成、同銀、7五歩。
ここまでは、読み筋通りに進んでいる。だったら、次は2一……飛……。
え……馬切りッ!? こんなの成立して……るッ!
そっか! 8三香、同玉、8一飛があるんだわッ!
バカバカバカ! なんでこの筋が見えてないのよッ! 飛車打ちにこだわり過ぎッ!
「どうしたの? 見落とし?」
先輩の質問を無視して、私は挽回の手順を読む。
……とりあえず、8一飛車に8二銀と受ければ、なんとかなるかも。
7六歩が入れば、希望が見えてくるわ。
6一同銀。
私が馬を取ると、先輩は再び長考に沈んだ。何を考えてるの? 8三香では?
「けっこう難しいわね」
嫌みなのかなんなのか、先輩はそう言って8三香と指した。同玉、8一飛。
私は8二銀と受ける。
「え? それ打つ駒間違えてない?」
え? ……8二銀が悪手? 8二金ってこと? でもそれは9一飛成で──
先輩は、6一飛成と銀を取る。それは読み通り。私は7二角と打った。
「あー、角打っちゃうんだ……」
なになに? なにがいけないの? 7二香ってこと? それは6三龍で終わりよね?
私が目を白黒させている中、意表を突く一手が飛び出した。
「……あッ!」
私は喫驚を上げた。体から力が抜けて行くのが分かった。
これは……終わってる……同歩に9四銀だ。
同玉なら7二龍。同香なら8二銀、同玉に7二龍。どちらも適当な受けがない。
そっか……8二銀だと、7二の駒に連結がないんだ……完全なうっかり……。
「ま、負けました」
私はうなだれるように頭を下げた。
「ありがとうございました」
先輩は礼を言って、チェスクロを止める。
なんだかつまらなさそうな顔をしていた。気のせいかもしれないけど。
単に、局面を振り返ってるのかしら。
それを裏付けるように、先輩はすぐさま感想戦に入る。
「最後、8二金で難しくなかった? 9一飛成の予定だったけど」
先輩はそう言って、盤上を少しだけ戻す。
「……7六歩ですよね」
「そこで、9五桂、7四玉が面倒なのよね」
7四玉……そっか、このパターンだと、そっちに逃げられるんだ……でも……。
「8二龍くらいで終わってません?」
「それ、7七歩成から先手が詰んでない?」
先輩の指摘に、私は脳みそを再稼働させる。
7七歩成、同玉、7六歩、6八玉、5六桂、5七玉……4五桂?
4六玉、3七角、4六飛、3四玉……ん? 捕まってなくない?
「入玉できません?」
「7七歩成、同玉、7六歩、6八玉、4六角で詰んでない?」
4六角? ……あ、5六桂が良くないんだ。え、それでも足りない気がする。
マジメに読みましょう。4六角には、5七歩と受ける。5六桂、7九玉、6八銀、同金、同桂成、同玉、7七金……詰んでるッ!
「合い駒に5六桂から詰んでますね」
「そうよね。5七銀打、5六桂、7九玉、5七角成、同銀、6七桂、7八玉、7七飛、8九玉も、8七香から詰んでるし、それは後手勝ちだと思うわよ」
「ということは、8二龍と金を補充できないんですね」
「だから、7五歩、同玉、8七金と受けるつもりだったの」
……なるほど、7五歩で玉を釣り上げるのがミソってわけか。単に7七金だと、7五桂馬が痛過ぎる。歩美先輩、ここまで読んでるんだ……凄い。
「ただ、これで先手勝ってるかどうか、分からないのよね。正確に受ければ、私の勝ちだと思うんだけど」
「そうですね……こっちは……5四角くらいですか?」
「それも面倒ね……7九香と受ける?」
これは、いい受けっぽい。7七歩成なら、同香が王手。7六歩、同香、同角、同玉、同金に7七銀、7五玉、7六歩、7四玉、8二龍とすれば、これは先手の勝ちね。
「7七歩成は負けですから、私もなにか受けますか? 8一香とか?」
私の指摘に、先輩は6五歩と突いた。
ふむ……私は、大きく息をついた。
ごちゃごちゃしてて分かり辛い。パッと見、同歩だけど──
「同歩だと?」
「7六金、同玉に8五桂と跳ねるわ」
金捨て? ……あ、そういうことか。
「詰んでるんですね」
「そう。だから6五歩には、同角の一手だと思う」
「それって、同桂馬で終わってますよね……」
「同桂、同玉は4三角。同歩は7六金、6四玉、7五角くらいかしら」
痛過ぎる「くらい」ね。これはもう、後手負けの図だわ。
「まあ、これでも結構手数は長引きそうよね。ところで……」
先輩はそうつぶやいて、そそくさと盤面をもどし始めた。
ここかあ……だいぶ悩んだのよね。
「本譜は飛車を見捨てたけど、5三飛はなかった?」
「3四馬、6七銀成、同銀右、4七歩成は読んでました」
「私も、そっちを本線で読んでわ。あるいは、6七銀成とせずに、4七歩成とか」
「ただ、どっちも後手冴えないと思うんですよね……2四飛くらいで……」
私と先輩は、問題の局面を見つめる。先輩は黙って、3三に金を置いた。
「両取りですか……」
「あんまりいい手じゃないかもしれないけど」
3三同馬、同飛、2一飛成、5七と……あれ? 意外と厳しくない?
「結構、先手困ってません?」
「3三同馬、同飛、2一飛成、5七と、7五歩かしら?」
7五歩か……先手も、そこ突くのは怖いはずだ。
「無視して6七とですよね?」
「同銀、4五角、7八銀打、4九角、5八歩、3六飛、7四歩は、お互い捻り合いね」
「駒割りは金香と角の交換……先手も、そんなに悪くないような……」
「5四の飛車を、さっくり成らせる手があれば、後手勝ちかしら」
そりゃそうよね。飛車がお荷物だから、本譜は見捨てたわけだし。
私がひとり納得していると、歩美先輩はパシリと歩を叩いた。
「話は変わるんだけど、合宿の件はどうなったの?」
「はい?」
「合宿よ、合宿。藤女から誘いがあったでしょ?」
……あ、姫野さんが言ってたやつ?
そんな、私があずかり知らないことを訊かれてもですね。
「えーと、私はなにも聞いてないんですけど……」
「え? なにも?」
私はうなずき返す。本当に聞いてないのだから、仕方がない。
だけど歩美先輩は納得がいかないのか、しきりに首をひねっていた。
「おかしいわね……部長から、そろそろ決まるって聞いてたんだけど……」
え……私だけハブられてるとか……? そういう怖いのはやめてくださいな。
「開催前提なんですか?」
「そのはずよ。こんな機会、滅多にないんだから」
あッ……じゃあ喫茶店で姫野さんに伝えたの、大チョンボだったかも……。
「あの……実は、喫茶店で姫野さんに会って……それで、合宿の件は知らないって、そう答えちゃったんですけど……」
私の弁明に、歩美先輩は大きく目を見開いた。
「中止って伝えたわけ?」
「い、いえ……知らないって言っただけです……」
「ならいいわよ……志保ちゃんが忙し過ぎて、連絡を忘れてるのかしら?」
その可能性はある。
そもそも3年生に部長と幹事をやらせてるのは、どうなの。
歩美先輩か八千代先輩あたりがやればいいと思う。
「まあいいわ。あとで志保ちゃんに直接聞きましょう」
はいはい、そうしてくださいませ。
「ところで名人戦に出るのは、先輩と私だけですか?」
突然の切り替えに、歩美先輩は一瞬きょとんとした。
「……ええ、うちはそのはずよ」
「他の学校は?」
「そこそこいると思うわ。各校から2、3人出るんじゃない?」
そんなもんなんだ……ってことは、実力者しか参加しないわけね。
最低でも歩美先輩クラス? それだときついなぁ。
「なにか、アドバイスはありませんか?」
「アドバイス?」
先輩は、微妙に眉をひそめた。
それが可愛い後輩に対する態度ですか???
私が後輩スマイルを浮かべる中、先輩は前髪を指先で摘んだ。
「そうねえ……15分30秒は初めてだから、慣れるしかないけど……香子ちゃんって、読みが深く狭くだから、そこを調整する必要がありそうね」
ん? そうなの? あんまり自分の読み方について、考えたことがなかった。
視線を落とす私に、先輩は先を続けた。
「香子ちゃんと感想戦してると、読んでるときはびっくりするくらい読んでるのに、ちょくちょく読み抜けがあるのよね。今日のだって、6一馬が見えてなかったんじゃない?」
うッ……図星……あれは見落としだった。
「プロでもそうだけど、制限時間内に読める手数には限りがあるわ。何手を何通り読むかが重要になるの。例えば10分で300手読める人なら、10手を30通り読むのか、それとも30手を10通り読むのか、よね。香子ちゃんは無意識のうちに、後者になってるみたいだけど」
うーん……それは気付きませんでした。
確かに私は、細かいところが気になるタイプだし、終盤は詰みや必至を意識してる。
これって良くないのかしら? 途中で読みを打ち切ると、心配になっちゃうんだけど。
「こ、これからは気をつけます」
先輩は前髪から指を離し、ぼんやりと公園の子供たちを目で追った。
「べつに気をつける必要はないわよ。それだって棋風なんだし、今からフォームを崩すと、かえっておかしくなるわ。注意するとすれば、持ち時間に合わせて、ちょっとずつ読む量を変えることでしょうね。中盤で詰みまで読んでも、普通は無駄になるだけだから」
先輩は盤に向き直り、王将の位置を直した。
「じゃ、もう一局」
場所:駒桜市民公園
先手:駒込 歩美
後手:裏見 香子
戦型:左美濃vs向かい飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛
▲2二角成 △同 銀 ▲4八銀 △3三銀 ▲6八玉 △6二玉
▲7八玉 △7二玉 ▲9六歩 △9四歩 ▲6八銀 △8二玉
▲4六歩 △2二飛 ▲4七銀 △7二銀 ▲3六歩 △6四歩
▲5八金右 △4二銀 ▲6六歩 △5二金左 ▲6七銀 △7四歩
▲3七桂 △6三金 ▲7七桂 △7三桂 ▲8六歩 △5三銀
▲8八玉 △5五歩 ▲7八銀 △5四銀 ▲6七金 △4四歩
▲1六歩 △8四歩 ▲1五歩 △3三桂 ▲5六歩 △同 歩
▲同 銀 △5五歩 ▲4七銀 △4五歩 ▲2四歩 △同 歩
▲4四角 △2三飛 ▲4五桂 △同 桂 ▲同 歩 △同 銀
▲1一角成 △4六歩 ▲5八銀 △5六銀 ▲1二馬 △4七歩成
▲2三馬 △5八と ▲同 飛 △4七角 ▲3四馬 △6七銀成
▲同 銀 △5八角成 ▲同 銀 △7五歩 ▲6一馬 △同 銀
▲8三香 △同 玉 ▲8一飛 △8二銀 ▲6一飛成 △7二角
▲9五桂
まで85手で駒込の勝ち