3手目 勧誘する少女
放課後のろうか。同級生たちが楽しそうに下校している。
五月病にかかったようなひともいるけど、私には関係ない。
憂鬱と言えば憂鬱。だけどそれは季節の問題じゃないから。
私はある人物を避けるため、下校にまで神経を尖らせていた。
食堂でうどんをおごってくれた2年生、駒込歩美先輩だ。
勝負は勝負ということで、私はうどんをおごってもらった。生卵のトッピング付きで。駒込先輩からは「なかなか図々しいわね」とのコメント。これだけなら笑い話で済む。問題はそのあと。駒込先輩は、私の勧誘をあきらめていなかったのだ。食事中も「将棋歴はどのくらい?」「普段どこで指してるの?」云々、いろいろとさぐりを入れてきた。私は全部テキトウにあしらって食堂を出た。
ところが去り際に「じゃあ放課後、正門で待ってるから」という一言……ここまでくると怖くなってくる。私は聞こえなかったふりをして教室にもどった。私が「はい」と言わなかったのだから、約束としては無効だろう。とはいえ、わざわざ正門に向かうリスクを冒す必要もなかった。私は1年生の校舎を出て、裏門を目指した。
散りきった葉桜の木漏れ日を抜けて、私は一目散。裏門には鍵がかけてあって、生徒の出入りは禁止されていた。けれど今日くらいは許してくれるだろう。柵が設けてあるだけだから、簡単に飛び越えられる。
……裏門が見えてきた。よかった、だれもいない。
私が最後のダッシュをかけた瞬間、ふいに木陰から声がした。
「やっぱりこっちなんだ」
聞き覚えのある声──足を止めて振り向くと、駒込先輩が立っていた。
なんで? 正門で待つって言ったじゃない……嘘つき。
「先輩、どうしてここにいるんですか?」
「香子ちゃんのことだから、裏をかくと思ったの」
い、いきなり下の名前にちゃん付けか。
先輩は控えめそうに見えて、図々しい性格のようだ。
そのへんは私とちょっとだけ似てるかも。
でも、類友になる気はない。私は部活に入る気なんてないから。
「じゃ、私は急いでるので……」
「彼氏?」
あきれた質問。そんなこと訊いてどうする気なの。
正直に答えるのも癪だけど、嘘をついてもあとが面倒だ。
「……違いますけど」
「じゃあ、1局くらい指してちょうだい」
1局? 将棋を指すために待ち伏せてたの?
なんて執念。
「それは、どういう立場で言ってるんですか? 上級生の絶対性?」
「べつに立場なんてないけど……ただ、指して欲しいだけ」
「私は指したくありません。お先に失礼します」
私は先輩のまえを通り過ぎようとした。
「今日じゃなくてもいいわ。指してくれるまで、声をかけるから」
あのさぁ……ストーカーとののしられても、文句は言えないと思う。
先生に相談しようかしら……でも部活の勧誘だし……犯罪じゃないから……それに、賭け将棋の話を持ち出されたら、私まで怒られちゃいそう。
「……じゃあ、1局だけ」
さっさと指して帰ろう。単なる将棋マニアなのかもしれない。指せば満足してくれるだろう。私はそう思い込むことにした。
私の返事にもかかわらず、駒込先輩は表情を変えなかった。
少しくらい、うれしそうな顔してくれてもよさそうなのに。
先輩は、
「あっちに座る場所があるから」
と言って、桜並木の下にある石造りのベンチへ案内した。
花見のときにしか使わないのか、だれもいない。ベンチなのに苔が生えている。
私はスカートをそろえて座り、駒込先輩をみつめた。
なんかおかしい。先輩、鞄もなにも持っていない。
「先輩、盤と駒はどこですか? 私は持ってませんよ?」
「それはもうすぐ来るわ……っと、うわさをすればなんとやらね」
駒込先輩はそう言って、視線を私のうしろへ伸ばした。
私も釣られてふりむく。
学ラン姿の少年が、こちらに手をふっていた。
「おー、わりぃわりぃ、ちょっとダチに呼び止められてなッ!」
ほほに絆創膏。学ランの前をはだけて、胸にさらしを巻いている。大昔の番長のような出で立ちをしていた。彼の右手には木刀。
えぇ……そんなもの、持ち歩いていいの?
少年は私たちの前で立ち止まった。
「よお、駒込、こいつが例の女か?」
少年は珍しいものでも見るかのように、私の顔を覗き込んだ。
珍しいのはあなたでしょ、と私は警戒した。
「おっと、そんな怖い顔するなって。せっかくコレを持って来てやったんだからさ」
少年は鞄をあけて、将棋の盤と駒をとりだした。盤はビニール製だった。
なるほど、これなら持ち運びも便利なわけね。駒も樹脂製だった。
外見は怖そうだけど、案外いい人なのかしら。
私はしどろもどろになりつつも、
「そ、それじゃあ、私は時間がないんで、早く指してもらえませんか?」
と駒込先輩に頼んだ。ところが先輩は席を立った。
そしてその場所に、学ラン少年が座った。
え……これってもしかして……。
駒込先輩は平然としたようすで、
「香子ちゃんと指して欲しい相手は、この子よ」
と告げた。少年は笑顔で、
「冴島だ、よろしくな」
とあいさつした。
いやいやいや、意味がわからない。
「駒込先輩と指すんじゃないんですか?」
先輩は首を左右にふった。あいかわらずの無表情だ。
サエジマと名乗った少年は、にやにやしながら盤を広げ始めていた。
「ま、物事には順序ってもんがあるだろ。まずはオレと指してみ」
話がちがうッ! これじゃ2局指すことになっちゃうッ!
やっぱり譲歩したのが間違いだった。
うぅ。もう、めちゃくちゃ。入学2ヶ月目でこんな不幸に見舞われるなんて。
サエジマくんは、
「ほらほら、時間がないんだろ。早く並べろよ」
と催促してきた。
サエジマくんはすでに駒をならべ始めていた。私も仕方なくならべる。
「中学のときに将棋部だったとか?」
唐突な質問をしてくるサエジマくん。
「いいえ」
私はそっけなく答えた。
「そっか、だったらうちに入れよ。かけ持ちだってできるしな。オレみたいに」
この男子、馴れ馴れしいなあ。部活のかけ持ちなんて、物好きしかやらないでしょ。
私は無視して駒をならべた。
「さてと……」
サエジマくんはポキポキと指を鳴らす。私は横目でこの少年を観察した。
……この学ラン、どこで調達したのかしら。
うちはブレザーで、選択はできなかったはず。現に学ランの生徒は初めてみた。
これじゃ何年生かも分からない。
「オレもこのあと、応援団の練習があるんだよ。だから30でどうだ?」
30? なんのことだろう。30円賭けようって意味かしら。金額が微妙すぎる。
私が首をかしげていると、サエジマくんは両眉を持ちあげた。
「なんだ、30は嫌か? じゃあ60……ん、もしかして10秒将棋?」
10秒将棋と聞いて、私はようやく合点がいった。
一手を何秒以内に指すのか、それを相談しているわけだ。
「何秒でもいいですけど……どうやって測るんですか? 駒込先輩が時計で?」
私の発言に、サエジマくんは爆笑した。
なに、なにがおかしいの?
「ハハッ、どういうギャグだよ、おまえ、面白いな。気に入ったぜ」
ギャグを言ったつもりはないんだけど。
私が困惑していると、サエジマくんは鞄のなかから、濃紺の時計を取り出した。
2つの液晶画面に、2つのボタン。
なんだろ、これ?
「んじゃ、30秒な。60は長引くし、10じゃ力試しにならないんでね」
サエジマくんは、液晶画面の下にあるボタンとダイヤルを回した。
そしてそれを盤の横においた。
「それじゃ、先後を……」
「ちょ、ちょっと待ってください……これ、なんですか?」
私は時計のような代物をゆびさす。
サエジマくんはびっくりして、
「なにって……チェスクロだろ?」
と答えた。
「チェスクロ?」
「そうだよ、チェスクロだよ……おまえ、知らないのか?」
知ってるわけないでしょ。こんなの、日常生活で一度も見たことがない。
私は首をふった。駒込先輩が会話に割り込んできた。
「あなた、どこで将棋を覚えたの? ネットオンリー?」
「私はネットじゃ指しません」
「じゃあどこ? 道場に通ったことがあるなら、チェスクロは知ってるはずよ」
それはプライバシーでしょ。
とはいえ、秘密にするようなことでもなかった。
「おじいちゃんに教えてもらったんです」
駒込先輩は納得顔で「そう……」とだけ呟いた。
もっと踏み込んだ質問をされるかと思ったけど、なんか調子狂うなあ。
憮然とする私に、駒込先輩はこう教えてくれた。
「チェスクロの使い方は簡単よ。自分が指したら上についたボタンを押すだけ。液晶画面に消費時間が表示されるの。残りが5秒を切ったら、音でも教えてくれるわ」
そう言って先輩は、サエジマくんに目配せする。
サエジマくんはポンとボタンを押した。
1、2、3と数字がどんどん増えて行き、26からピッという音がなる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ──そこで数字が止まった。
「最後のピーッっていうのが、残り2秒の合図。鳴りやむ前に指さなかったら負けよ」
将棋にこんなハイテク機器があったなんて。
おじいちゃんの家には、こんなのなかった。
私が妙に感心していると、ふたたび駒込先輩が口をひらいた。
「うちの女子将棋部は部員が少なくて、今は5人しかいないの。この子が2番目に強いから、ちょっと腕前を見せて欲しいんだけど……」
まあそうでしょうね。そもそも将棋部のある学校自体少ないし、ましてやそれが女子将棋部ともなれば……ん? なんかおかしくない?
私は駒込先輩を見あげた。
「女子将棋部に男子が入れるんですか?」
女子将棋部しかないから男子もそこで、っていうオチかしら。
私が首をひねっていると、サエジマくんは目のまえで顔を赤くした。
女の子に混じって指すのが恥ずかしいのは分かるけど、ちょっとかわいい。
「あのな……オレは女だ……」
「へ?」
今のギャグ? 私がぽかんとしていると、駒込先輩が、
「円ちゃんはこう見えても、正真正銘の女子高生よ。心配しないで」
と言った。
うっそッ! ほんとに女子なんだッ!
「こう見えても、は余計だろッ!」
私はもう一度サエジマさんを観察する。
どう見ても同性とは思えない。そのへんの男子よりイケてる。
私の視線に気づいたサエジマさんは、ぽんと膝を叩いた。
「いいから、さっさと指すぞッ! オレは時間がないんだッ!」
それはこっちの台詞。
こんな茶番、さっさと終わらせちゃいましょ。
「じゃ、振り駒いくぜ」
サエジマさんは歩を5枚集めて、両手で軽く振ってから盤上に放り投げた。
「……歩が5枚か、幸先いいぜッ!」
そんなの32分の1の確率で出るでしょ。表か裏なんだから。
……ん、それとも先手を引いたことを言ってるのかしら?
「じゃ、オレが先手な」
そう言ってサエジマさんは腕まくりをした。
えーい、ままよ。私も思わず気合いを入れる。
「「よろしくお願いしますッ!」」