34手目 喫茶店にいる少女
夏休み初日から、変なごたごたに巻き込まれちゃった。
こういうときは息抜きをしないとね。宿題とかは全部後回しで。
升風高校からの家路についた私は、喫茶店『八一』に立ち寄った。入り口の鈴の音が、疲れた私の気持ちを和らげてくれる。あと、クーラーも。
夏休みとあってか、私服のカップルがちらほら見えた。私はそれを無視して、カウンタ席に腰を下ろす。そこしか空いていなかったのだ。
「あれ、香子ちゃん、今日も学校?」
お冷やを出しながら、マスターがそう言った。
私は事情を説明する。
「へえ、高校生なのに大変だね。どうして1年生の香子ちゃんが代表に?」
「よく分からないですけど……新人王だから、かな?」
別に自慢で言ってるわけじゃない。部長もそう説明してたし。
「ああ、そう言えば、この前の新人戦で優勝したんだったね。おめでとう」
マスターはそう言って、にっこりと笑ってくれた。
むむむ……スマイルだけですか。ケーキを奢ってくれるとか、そういうのは……ないみたいね。私は諦めて、コーヒーを注文した。
マスターは、お手伝いの女性に指示を出し、自分は調理場に消えた。
ん? 職務放棄ですか? マスターの淹れたコーヒーが飲みたいんだけど。
私がいぶかっていると、マスターはすぐに戻って来た。将棋盤を持って。
「え? マスター、それって……」
マスターはニコニコしながら、ビニ盤をカウンタの上に広げる。
「いやあ、実は新人王とぜひお手合わせしてもらいたくてね」
「い、今、ここでですか……?」
「他にする機会ないからねえ」
い、いや、そういう問題じゃないと思うんだけど……周りの視線が痛い。ただ、マスターが将棋好きっていうのは有名だし、別に笑ったりする人はいなかった。常連さんと仕事の合間に指しているのを、見たこともある。
……仕方ない。新人王の身分として、お相手仕りましょう。
これも有名税ってやつよ、うん。
「えーと、時間はどうします?」
「ああ、適当でいいよ。何時間も指すわけにはいかないからね」
それもそうね……。って言うか、私自身、昔は時間を気にしてなかった。消費時間を考慮するようになったのは、将棋部に入ってから。将棋に対する姿勢も考え方も、この数ヶ月でずいぶんと変わった気がするわ。
「香子ちゃんが先手でいいよ」
いきなり先手譲り? これはなにか策があるのかしら?
……ってわけじゃなさそうね。単に手番をゆずっただけな気がする。マスターと指すのは、これが初めてじゃない。子供の頃から、ちょくちょく相手してもらってるし。
「一応、振り駒しませんか?」
「どちらでも」
私は歩を5枚集めて、盤上に放る──全部裏。
「アハハ、裏見ちゃんだけに裏が出たね」
親父ギャグはNG。
私はは歩を定位置にもどす。おたがいに軽く頭を下げた。
「じゃ、お手柔らかにね、新人王さん」
「よろしくお願いしまーす」
先手のマスターは、7六歩。私の3四歩に、すぐ2六歩が指された。正直、マスターとの対局では、あまり序盤を気にしなくて済む。居飛車党の急戦派。これで対抗型を回避する理由はない。4四歩、5六歩、4二飛、4八銀、3二銀、2五歩、3三角、6八玉、6二玉、7八玉、7二玉、9六歩、9四歩、5八金右、8二玉、3六歩、7二銀、6八銀、4三銀、5七銀左、5二金左、3七銀、5四歩、2六銀。
はい、来ました。どこからどう見ても棒銀です。
年配の人と指すことが多いから、対振り飛車の定番だと思ってた。だけど、どうも最近は誰も指さないっぽい。部室でも大会でも、全然見かけないから。結構優秀だと思うんだけどね、やられてみると。
とりあえず、3二飛と寄りまして……4六歩か。ここで手待ちしたいのよね。1四歩と突くか、それとも1二香と上がるか……1一角成に備えて、後者かしら?
1二香、6八金直、5一角、1六歩、1四歩、3八飛。うん、これで飛車が見合いね。次に3五歩は見えてるから、角を展開しましょう。6二角、と。
私が角を上がると、マスターはすぐに3五歩と突いてきた。この辺はもう呼吸だ。同歩は2四歩、同歩、3五銀が五月蝿過ぎるわね。だから無視して……4二金。
ちょっとイレギュラーな形だけど、これはこれでありでしょ。
「ホットコーヒーです」
バイトのお姉さんが、コーヒーカップをカウンタに置いてくれた。私はお礼を言って、早速それを口にする。ずずっと啜った私の前で、いきなりびっくりな手が指された。
「ごほッ!」
私は思わず咽せてしまう。
「だ、大丈夫かい? 熱かったかな?」
「ちょ、ちょっと気管支に入って……」
私は適当に誤摩化して、盤が汚れていないか確認した。
……セーフ。別に噴き出したわけじゃないみたいね……って、なによこの手はッ!?
9七角とか、どんだけトリッキーなの。
まあ、狙いはなんとなく分かるわね。こちらからは、3五歩と取り返せない。かと言って、これ以上の手待ちも難しい。6四歩と突けないし、1三香なら8六角と再度手待ちできる。あるいは4二角成とぶった切って、同飛、3四歩の攻勢かしら。2七角は3九飛、4九角は3七飛で怖くないもの。
どうしましょ? 4一金と引く? それも悪くなさそう。
私は30秒ほど考えた。目には目を、トリッキーな手には、トリッキーな手を。私は金を摘まみ上げ、それを5三に移動させた。
「むッ、金上がりか……」
どうやらマスターは、この手を予想していなかったみたい。
まあ、私は9七角を予想してなかったわけだけど……さてさて……。
「さすがに、角は切れないから……」
でしょうね。ここからいきなり5三角成は、同角で何ともないわ。重要なのは、角を切られても、飛車の位置が変わらないこと。3四歩には同銀と取り返せる。そのための金上がりだもの。
ただ、こっちがいい形とも言えないのよね。一時的に、角筋が止まってるから……。
大会なら、1、2分使いたいところだけど、マスターはあっさり6六歩と突いた。
ん? 6六歩? この手もイマイチ意味が……第二次駒組み開始ってわけ? まあ、それならそれでいいけどね。居飛車側は、もう堅くならないだろうし。6四歩、と。
私が歩を突き返すと、マスターは8六角と上がった。9五歩を警戒したわけだ。だけど、8六角もそんなに安全じゃないですよ。8四歩。
「角上がりを無駄にしないためには……」
マスターはカウンタに両腕を突き、盤面を睨んでいる。
この時点で、若干振り飛車がいい気もする。
私とマスターの成績は、私がかなり勝ち越している。後はポカさえしなければいい。
「もう攻めようか」
え? 攻める? どっから?
私が混乱する中、マスターが指した手は──
6五歩……同歩に5三角成と叩き切るつもり?
でも、同角で何ともないわよ?
金を打つ場所がないし……んー、分かんないわ。とりあえず同歩。
私が歩を取り込んだ瞬間、マスターは左桂を跳ねた。7七桂。なるほど、6五桂から、金を狙う作戦ですか。だけど、それはかなり無理筋なんじゃないですかね?
私は8五歩と突き、角を苛めにかかった。9七角に9五歩。マスターは同歩と取る。そこへすかさず、9六歩。7五角なら7四歩で角が死ぬ。
「ありゃりゃ、参ったね」
マスターは残念そうに、8八角と引っ込んだ。これで後手が凄い手得。先手は、9七角〜8六角〜9七角〜8八角と、無駄な動きをしたことになる。
私は9五香と走り、端を詰めた。次は、9八歩と謝るかな、と予想した。
当たらず。9八歩と謝ったら、もう勝てないと踏んだわけね。
私は銀を摘み、3四同銀を考える。3五歩、4三銀と収まれば一局。ただ、3五歩としないで、4五歩が案外に面倒かもしれない。同歩に3三歩、同飛、6五桂。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これはおかしくしてる印象。好んで飛び込む変化じゃない。
もっと分かり易く勝つには……3四同飛? 同飛、同銀、3一飛、3九飛、2一飛成、2九飛成、1二龍、6六桂、同銀、同歩、5九桂が一例かしら。それとも、6六桂を保留して1九龍あるいは2六銀と、単純に駒を拾うのもありね。っていうか、そっちが本線な気もするし。問題があるとすれば、2六龍のとき、一時的に龍の脅威が解消されちゃうこと。
……いや、もうひとつ問題があるわ。8四の傷よ。そこに桂馬か香車を置かれると、後手陣は結構危なくなるかもしれない。8四桂に8三銀は、6一龍で将棋が終わっちゃう。だから少し自重して、2九飛成とはせずに、7四歩と傷を消しに行く方がいいかも。
私はそこまで考えて、場の空気を感じ取った。ちょっと真剣に読み過ぎてたみたい。大会じゃないんだから、長考するのはよくないわよね。
反省。3四飛。
「おや、飛車ぶつけてくるの?」
うん、ちょっと意外かもしれない。交換後の3一飛車は見えてるわけだし。
マスターは目を閉じて、腕組みをした。結構ダンディなのよね、この人。
「……そっか、3一飛車には3九飛車があって、銀を取れないのか」
そうなんですよ。私はコーヒーを飲む。
「まあ、それでも取る一手だと思うけど……」
3四同飛。マスターは、飛車交換に応じてきた。
取らない手もあったと思うのよね。3五銀とか。
取ってくれた方が、話は早い。同銀、と。
マスターは数秒の間を置いて3一飛車。私はノータイムで3九飛車と下ろす。
2一飛成に、予定通りの7四歩。その瞬間、マスターは首を捻った。
「そこの歩を突くんだ……」
むむ、もしかして、8四桂馬or8四香車が見えてなかったとか?
だったら、放置して2九飛成とすれば良かったかも。
ただ、しばらく考えれば気付いちゃいそうだし、保険をかけとかないとね。
私がひとり納得する中、マスターは1二龍と香車を拾った。さてさて、これで私の方が駒損になってるわけですが……とりま2九飛成。
私はようやく、念願の桂馬を拾うことができた。次に8四桂〜7六桂がある。こうなったら後手優勢だ。もちろん、8四桂に6七金右と受けるでしょうけど、そこで1九龍あるいは2六龍と駒をさらに補充。6六にぶちこんで清算する方針を取りましょう。乱暴だけど、大会じゃなきゃ通用するはずだもの。
「うーん、なるほど……7四歩は、8四香を防ぐためだったか……」
おっと、気付きましたか。その通りですよ、マスター!
私が感心していると、マスターは香車を手に取った。
6七香車? ……これはなに? 打つなら、6九香では?
私は盤面を睨みつける。意味のない手だとは思わない。それが肝要。
「……あ、なるほど」
私はそうつぶやいて、コーヒーカップに指を絡めた。狙いは単純、6五桂だ。例えば、ここで私が1九龍なら、6五桂、6三金、6四歩、同金、7五歩。同歩なら、7三歩、同桂、同桂成、同角(同銀は6四香、同銀、7四桂)、6四香、同角、8四桂。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは、先手も指せるわね。先手優勢とは言わないけど。7六桂があるし。
ただ、7五歩には、どう考えても7六桂なのよね。7四歩、8八桂成、同玉、9七歩成、同香、同香成、同玉、9九龍、9八歩、9一香、9六香、8八角まで。
ということは、1九龍には5九桂馬として、一回受けるつもりかしら。
あるいは、「金底の歩、岩よりも堅し」に倣って、6九歩と打つ。
あんまり考えても、泥沼になりそう。ここは素直に行きましょう。
8四桂ッ!
「……あ、そっか」
マスターは、しまったと言いた気な顔をした。
ってことは、この手は読んでなかったのね。6七に香車を打っちゃったから、6七金右とは受けられない。次に何が何でも7六桂跳ねがある。
「受けるか攻めるか……」
この局面、受けがあるの? 例えば5九桂なら、7六桂、6五桂、8八桂成、同玉、9七歩成、同香、同香成、同玉、9六歩、同玉、9五香、8五玉、9三桂、7六玉……詰まない? ここで6四金と逃げても、7三桂成、同角、6四香、同角、7三金の打ち込みがあるわね。6四金に代えて6三金でも、7三桂成、同金、7二香成、同金、同龍で先手優勢っぽい。途中の9三桂馬が悪手かも。7筋が薄くなると勝てないわ。
むむむ、意外と面倒なことになったかも。攻めてダメなら、9七歩成を保留ね。代わりに6三金あるいは6三歩。6三金、7三桂成、同桂(同金は6二香成、同金、同龍)、6三香成、同銀、5三金。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここで後手に速い手があるかどうか。5三金は痛いけど、詰めろじゃない。先手玉に詰めろをかけ続ければ勝ちね。
……ん? 詰めろが掛からない? こっちの持ち駒が微妙過ぎる。
「こりゃ受けるしかないか」
そう言ってマスターは、5九桂と置いた。
これは予想通り。そして、ここで7六桂馬は成立しないっぽい。いや、成立してるのかもしれないけど、私の棋力じゃ寄せ切れない。ということは、攻めずに受けるしかないわけで──
私は、長考に沈んだ。