27手目 休憩する少女
「裏見香子って誰だ? 中学のとき、いたか?」
「高校から引っ越して来たんじゃねえの?」
小声で話し合うギャラリーをよそに、私たちは感想戦を始める。
先に口を開いたのは、蔵持くんだった。
「途中まで良かった気がするんだけど、間違えたかな?」
私は一局を振り返る。先手が指し易くなった局面と言えば──
「5六桂じゃない? あそこからは、私が押してたと思う」
「そっか、やっぱりあの両取りが罠なんだ……」
「いや、罠って言うより、その前の4七金がヌルかったから……それで……」
「4七金? ……金打ちが良くなかったのかな? ちょっと戻せる?」
私たちは協力して、問題の局面を再現する。
本譜は4七金。それが良くないことは、対局中も感じていた。
「他に手があるかな? 例えば5六歩と押さえる?」
「それは4六銀、5七金、6九飛で耐えてない?」
そうだ。これは既に読んである。だから、5六歩はそんなに怖くない。
蔵持くんは両腕を組んで、「うーん」とうなった。
「じゃあ、他に手は……」
「4五金はどうだい?」
爽やかな指摘。この声に、私は聞き覚えがあった。
蔵持くんは後ろを見上げ、アッとなる。
「千駄先輩ッ!」
誰もが会長の登場に驚く中、私だけ盤面に集中していた。
4五金?
蔵持くんは金を打った。
……なるほど、いい手だわ。4四桂に紐を付けながら、4六銀を阻止。さらには3六金の寄せも狙ってるわけね。一石三鳥の金打ち。4七金より、ずっといい。
私が感心していると、蔵持くんは、
「これは次に……3六金の狙いですか?」
と千駄先輩にたずねた。
「そうだね。3七銀は4七歩成になっちゃうから、受けるなら2八桂しかない」
2八桂か……こうなると、いよいよ先手の駒不足が顕著。
「打たれた後は? 5筋を押さえますか?」
蔵持くんは歩を摘まみ上げて、5六にそっと置いた。
確かにそれっぽい手だ。私は黙って6六銀と逃げる。
「そこで5五銀の大技が効くかな」
5五銀? ……あ、同銀は6八飛成か。
ただ、角筋を通す手順があるような……そうなれば、先手にもチャンスがある。
蔵持くんもその順をたずねた。
「5五銀、同銀、6八飛成、4四銀、同金引、4五歩、同金、1三香成だと?」
「それは危ないよ。途中、同金引じゃなくて、同金直、2五桂、6七飛かな」
私も思い切ってたずねてみる。
「3七銀打とさせてから、2四銀ですか?」
こういうときは、教えてもらうに限る。
会長は盤面を一瞥し、それからこう答えた。
「いや、4七歩成でいいんじゃないかな?」
4七歩成? ……1三香成が詰めろなんだけど?
疑問が顔にもろ出てしまったらしく、千駄先輩は読み筋を披露する。
「そこで1三香成なら、3七と、同銀、同飛成、同玉、5七龍、1六玉、2七銀、1五玉、2四銀、1四玉、1三歩、同桂成、同銀上、2三玉、2二金までの詰み。1六玉に代えて1八玉なら、2七銀、1七玉、3六銀成、1六玉、2七龍、1五玉、2四銀以下、一緒だね」
そっか……単純な詰み筋ね。見落としてた。
「だから、5五銀に同銀の順は、後手勝ちなんじゃないかな」
これにはちょっと反論がある。
「ただ、取らないからって良くなるわけでも……」
千駄会長はハハッと笑った。
「ようするに、後手が中盤良かったってことだよ」
そう言って、会長は蔵持くんの背中を叩く。
「升風同士の決勝ってわけには行かなかったが、お疲れさん」
「あ、辻くん勝ったんですか?」
蔵持くんが尋ねた。会長は、軽くうなずき返した。この人、動作にいちいち嫌みがなくて助かるわ。そのへんが、管理職を任される理由なのかもしれない。
誰にでも好かれるタイプか。うちの誰かさんとは正反対ですね。
と、そんなことを考えていると、歩美先輩に声をかけられた。
ギャラリーのまえでびっくりしてしまう。
ま、まさか他人の脳内が読めるんじゃないでしょうね、この人は。
「負けかと思ったけど、よく粘ったわね」
それは褒めてるのでしょうか。まあ、好意的に受け取るとしまして。
中盤悪かったのは事実だし。
「決勝は3時からだから、ちょっと休憩しましょう」
「え、まだ感想戦が……」
「4七金以下は、見るとこないでしょ。それ以前は香子ちゃんの完敗だし」
ご覧下さい。この千駄会長との差を。
ま、アマチュアっぽい将棋と言えば、そうなんだけどね。序盤、中盤、終盤で、形勢がころころ変わるなんて、よくあること。今回は、最後の最後で私がツイてただけね。
「それに、辻くんは先に終わらせて休んでるわよ」
え、そうなの? 私は、もうひとつの凖決勝テーブルに視線を伸ばす。
……ほんとだ。とっくに駒が片付けられてる。
「いつ終わったんですか?」
「20分くらい前よ」
「そ、そんなに早く?」
「辻くんの完勝。やっぱり右の山は、2回戦の辻vs鞘谷が決勝卓だったわ」
歩美先輩がそう言うと、ギャラリーの中で舌打ちをした人物がいた。全く見覚えがないけれど、どうやら駒北の男子生徒らしい。制服で何となく察しがつく。
そう言えば、隣の凖決勝は升風vs駒北だったわね。本人か、あるいは上級生かも。
歩美先輩、もうちょっと周囲の反応を考えてくれないと……同じ高校だから、いろいろ私の評価にも関わるわけで……私が叶わぬお願いをする中、盤面に陰が射した。
セーラー服の裾が見える。さては──
「冬馬、残念だったね」
本当に残念そうな調子で、鞘谷さんが蔵持くんに声をかけた。
一方、対局の終わった蔵持くんは、例ののほほんとした雰囲気に戻っている。
「いやー、やっぱりダメだったよ。凖決勝に出れただけでもいいかな、って」
「そんなことないよ。絶対これ、冬馬が勝ってたわ」
うわー、最悪。本人の前で言いますか、それを。
まあ、この勝利でどうやら鞘谷さんに精神的ダメージを与えられたみたいだし、一泡吹かせたということで、ここはお開きに致しましょう。そんな情報漏洩したくらいで、あっさり土俵を割る香子ちゃんじゃないのよ。よーく覚えといてちょうだい。
「どうもありがとうございました」
私は席を立ち、意気揚々と駒桜の控えテーブルに戻る。
すると、意外な人物が荷物番をしていた。
冴島先輩だ。
「よッ、裏見」
先輩は右手を上げて白い歯を見せた。
今日は応援部の練習で忙しいって聞いたけど、ちゃんと学ラン着てる。
「決勝進出の可能性があるって聞いて、飛んできたぜ」
「ど、どうも……」
「それにしても、さっきの将棋は酷かったなッ! 交通費が無駄になるとこだったッ!」
そう言って、冴島先輩はガハハと豪快に笑う。
これは反論のしようがない。負けたら気まずくなるところだったわね。
とりあえず着席。
歩美先輩は私のよこに座った。
数江先輩と八千代部長は、冴島先輩サイドへ。
あれ、ひとりいない?
「部長は?」
「志保ちゃんなら、幹事の仕事」
と歩美先輩。
私がきょとんとしていると、八千代先輩が解説を入れる。
「各校の代表ですよ。うちは部長が代表することになってるんです」
「ああ、要するに部長会ってことですね?」
そう理解した私に、八千代先輩は難しい顔をした。
「うーん、そういうわけじゃないんですよね……部長って言うのは、あくまでも校内の役職で、幹事は高校将棋連盟の役職です。ですから、部長以外の人が幹事をやっても、なんの問題もありません。大川部長が幹事なのは、たまたまです」
……なんかややこしいわね。まあ、私には関係ない。
私はすこし声を落として、
「次は、アレで行くんですよね?」
とたずねた。アレというのは、もちろん居飛車への変更だ。
歩美先輩は、こくりとうなずく。
「さっきの様子だと、四間飛車で美濃に組んだんじゃ、勝てないでしょうしね」
「そ、そうですね……」
「もう今からどうこう言ってもしょうがないし、気楽にやりなさい」
脱力系のアドバイス。
ここで話し合ってると、誰に聞かれるか分からないから、その方がいいか。
「まだ時間ありますよね?」
「ええ、15分ほどあるわ」
「ちょっと飲み物買ってきます」
市民会館の入り口には、自販機が設置してある。
自働ドアを抜けると、6月の日差しが私を襲った。市民会館という性質からか、自販機のレパートリーは、あっさりしたものかコーヒーばかり。ジュースと言えば、端っこにコーラが置いてあるだけだった。私が買いたいのはお茶だから、全然かまわない。
私が硬貨を投入した瞬間、ふいに人の気配がした。
「なんだ、ここにいたのか」
ガシャンというペットボトルの音と同時に、私は振り返る。
そこに立っていたのは……なんと、松平くんだった。
「ど、どうしたの、こんなところで……」
「喉が渇いた」
私はペットボトルを取り出し、場所をゆずる。
こいつと話すこともないし、さっさと控え室へ移動しましょ。
「この調子だと、決勝はきつそうだな」
ピタリと足が止まる。私はペットボトルの底で、松平くんの背中を小突いた。
ひんやりとした感触に驚いたのか、彼は変な格好でのけぞった。
「なんだよ?」
「別にぃ……」
松平くんはチッと舌打ちして、コーラを買った。
コーラ500mlとか、よく飲めるわよね。炭酸系は苦手。
松平くんはタブを開け、砂糖水を喉に流し込む。
プハッと息をつき、なんだか子供みたいな笑顔を浮かべた。
「用事は済んだんでしょ? 帰らないの?」
「冷たいヤツだな。せっかく決勝まで付き合ってやってるのに」
「そんなの誰も頼んでませんけどー」
私が冷たくあしらったにもかかわらず、松平くんは全然めげてない。
このタフさ……将棋向きね。
「そりゃどうでもいいんだ。問題は、おまえが決勝でつじーんに負けるってこと」
「あら、それはどうかしら? 勝ったら焼き肉でもおごってくれるわけ?」
「おごらねーよ……どうやって勝つ気だ? つじーんは、あんな間違いしねえぞ」
あんな間違い……4七金のことか。ってことは、ほんとに観てたんだ。
確かに、あそこは千駄会長の指摘した4五金で終わってたのよね。決勝進出は、私が勝ったって言うよりも、蔵持くんが転けたって印象が強い。周囲も、そう思ってるはず。
でもでも、だからこそチャンスなのだ。ここまでの対局で、私は振り飛車党決め打ち。誰も決勝が相居飛車になるとは思わないでしょう。それに、さっきの勝ち方なら、私の実力がバレてる可能性も低いわ。ダブル金星なんて思われてるかも。そこで一発逆転の秘策がありまして──
私は松平くんに、うっかり作戦を伝えかけた。あわてて口をつぐむ。
松平くんと辻くんは、顔見知りで間違いない。そこへ作戦を漏らすと、誰かさんみたいに告げ口されるおそれがあった。正直、私は疑心暗鬼になっている。
「ま、俺が出てたら俺が優勝だからな」
……相手して損した。こいつは、以後放置で。
私は黙って市民会館にもどる。
ところが松平くんは、わざわざ追いかけて来た。
もうちょっとクールなタイプかと思ってたら、全然違うのね。
「冗談だって。本気にすんなよ」
「本気とかじゃなくて、もうすぐ対局始まるでしょ」
私は松平くんを放置して、自働ドアをくぐった。
そのまま控えテーブルに腰を下ろす。他のメンバーも観戦で疲れたのか、それとも私を気遣っているのか、誰も言葉をかけてくれない。
これはこれで嫌なのよね。私は、冴島先輩とおしゃべりすることにした。久しぶりに会ったことだし、言葉を交わすのも悪くないと思ったのだ。
「辻くんって、どれくらい強いんですか?」
冴島先輩は、椅子にもたれかかったまま顔を上げる。
「オレの見立てだと、甘田と同じくらいだな」
それは回答になってないわね。私は甘田さんと指したことないし。
「甘田さんは、どれくらい強いんですか?」
「単純に比較はできねえが……オレは甘田に分が悪い。ただ、ダブルスコアじゃねえ。おまえとオレは、だいたい五分。ってことは、おまえと辻の場合も、ダブルスコアにならない程度の差があると見ていいぜ」
なるほど、これは分かり易い説明だ。
私とおじいちゃんがダブルスコア以上だから、その下のラインを見ればいいわけね。それでも絞り切れないけど、姫野さんレベルじゃないってことか。あるいは、歩美先輩レベルですらないのかもしれない。本人がいるから、ここでは聞かないことにするけど……ただ、松平くんには凹られちゃったし、上の層は厚い気がしていた。「俺が出てたら俺が優勝だ」というのも、あの30秒将棋からしてみれば、自然な感想かもしれない。口に出すのは、人としてどうかと思うけど。
比較対象が少な過ぎる。こういうところも、私の弱点かもしれない。学生将棋の世界がここまで広いだなんて、高校まではちっとも知らなかった。歩美先輩のストーカー行為も、今となってはプラスに働いている気がしていた。
私が回想に耽る中、冴島先輩が言葉を継ぐ。
「だけどよ、それは他の事情を全部無視した場合の話だ。辻は大会慣れしてるし、おまえの方がやっぱり不利だと思うぜ。どこかで、一発がつんとやらないとな」
そう言って、冴島先輩は右手を振り上げた。
……殴れってことですか? そんなわけないか。まあ、いきなり見ず知らずの女子に殴られたら、辻くんみたいなタイプはショックで寝込んじゃいそう。
「ま、ここからじゃどうしようもねえよ。お祈りでもしてな」
冴島先輩の言い分には、一理ある。確かに、ここからじゃどうしようもない。
だって、もう3時だもの。
八千代先輩も、
「そろそろ行かないとまずいのでは? 運営に呼ばれますよ」
と言った。私は腰をあげる。
おっと、ペットボトルは忘れないようにして、と。
決勝テーブルは、トーナメント表の前。最前列の中央だ。
辻くんは既に、席についていた。蔵持くんと千駄会長の姿も見える。
それに……姫野さんも。姫野さんは、鞘谷さんと横溝さんを引き連れて、千駄会長と何か話をしていた。世間話という風には見えない。なんだか、真面目な話をしているようだった。その証拠に、志保先輩も輪に加わっている。あれが幹事会ってヤツかしら?
3年生だからか、猿渡さんはさすがに来てないのね。
志保部長に来てもらってるのは、なんだか悪い気もするのよね。受験生だし。
「失礼します」
私はスカートを直して、席につく。辻くんは、ずいぶんリラックするしているように見えた。もう決まり、って顔してるわね。見てなさいよ。
私が睨みつけていると、辻くんが視線を合わせてきた。
すぐに目を逸らし、トーナメント表を眺めていたようなふりをする。
いよいよ、決勝戦が始まる。私は気合いを入れた。