26手目 トイレに立つ少女
ぐッ……予想通りの4六歩……これは金を引くしかない……4八金。
私がチェスクロに触れた途端、蔵持くんは5五歩と突いた。間違えてくれない。どうやら読み筋が噛み合ってしまったらしい。私は7五歩を入れて、とりあえず角道を止める。
5六歩。持ち時間が10分を切った蔵持くんの指し手は速い。こうなったら、1三桂成を敢行するしかないわね。勝算はともかく。
1三桂成、同桂、1四香と走り、1二歩と打たせる。そして5八歩を──取ったばかりの歩を摘んだ瞬間、私の脳内に電流が走った。
……5八歩って、受けになってるの? 例えば7五歩と取って、1九香、7六歩、1三香成、同歩、同香成、4四香(1三同銀は6五銀の開き王手)、2二成香、同金、6三歩、3二飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは4七に駒を打ち込まれて負けかも。こっちの攻めが遅過ぎる。
ということは、5八歩はただ受けるだけの手なのね。積極策は……1九香? 5筋は諦めて、反動を利用して攻めようかしら。1九香、5七歩成、同銀、同桂成、1三香成、同歩、5七金、7五角……6六金は5七銀、6六角は同角、同飛(同金はやっぱり5七銀)に5五角が激痛。飛車が逃げたら4七歩成が開き王手になる。
むむむ……1九香は成立してないかも。
私は頭を抱えた。5八歩は打ちたくない。だけど、他に手が……。
ん、待って。なんか読み抜けしてない? 5七歩成、同銀、同桂成、同金、7五角。そこで1三香成じゃない? 同歩、同香成、5七角成は、あっと驚く6四飛ッ!
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同飛車なら1二銀で詰み。1二歩は6二飛成で飛車がタダよ。
焦って損したわね。1九香、と。私は香車の二段ロケットを作り、反撃に備える。蔵持くんはそれを予想していなかったのか、またまた長考に沈んだ。私も先を読む。さっきの局面から、例えば1二歩、6二飛成、1三歩、2二角成、同金、5一飛で、今度は王手馬取り。2一香、5七飛成、1六桂、1七玉、2八角、1六玉、1五銀……あれ? 同玉だと1四香から2四金で詰むわよね。2七玉は1七金の一手詰み。
うそーん。これ詰むの? いやいや、逃げ間違えでしょう。1六桂に1七玉がおかしいと思う。素直に広い方へ……3九玉……うん、これで捕まらないはず。先手優勢ってわけでもないけど、4四歩の叩きを楽しみにできる形だわ。
私がそう結論付けようとしたとき、蔵持くんは持ち駒に手を伸ばした。
あれ? 5七歩成じゃない? いったいなにを──
ん? 4四桂? 次に3六桂は分かるけど、それは3七銀で受かって……ない。3五歩、同歩、3六歩、4六銀、5七歩成、同銀左、同桂成、同金、3七銀。同銀と取るしかないけど、同歩成、同玉、3六歩、2七玉、3二飛。あるいは、3七銀の前に5六歩を入れて、5八金引、3七銀、同銀、同歩成、同玉、3六歩、2七玉、5七銀。同金、同歩成はと金ができちゃう。飛車を逃げる場所もないわ。
最初の3五歩に同歩が、お手伝い? そこですぐに4六銀として、3六歩、4五歩。5七歩成、同銀左、同桂成、同金、3七銀、同銀、同歩成、同玉、3六歩、2七玉、5六歩、4七金。これは受かったんじゃない? というか、さっきのだって、5六歩に5八金引がおかしいんだわ。4七金と横にスライドさせれば、銀を打ち込めなくなるもの。
だから、4四桂には3七銀で受かって……ん、なんか嫌な予感がするわよ。一応、読み直してみましょう。3五歩、4六銀、3六歩、4五歩、5七歩成、同銀左……やっぱり大丈夫な気がするけど……。
「あッ」
べ、べつの手順があるッ! 3七銀に3五歩じゃなくて、いきなり5七歩成だわ。同銀、同歩成、同金に5六歩。今度は4六に歩があるから、金をスライドさせられない。かと言って4六金は、5七銀で一気に悪くなるし、5八金引も同じ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
そっか、3五歩が筋っぽいけど、イモ攻めした方がいいんだわ。しまった。
まずい、まずい、まずい。3七銀と立つ手が成立しない。私は真剣に読み直す。3七金は5七歩成、同銀、同桂成で論外だし……2七玉? 顔面受けするの? そこで5七歩成なら、同銀、同桂成、同金、5六歩、5八金引、5七銀……やっぱり駄目じゃない。
私は脳内局面図を凝視する。なにか手は……ん、この局面、3七銀のときと違って、4七に銀が利いてるわよね。だったら、5七歩成に、同銀じゃなくて同金とか? 同桂成、同銀に5六歩なら、4六銀。5七金と打たれても、6九飛と一回逃げられる。6八歩、5九飛、7五角、6六歩。これは後手冴えないんじゃない? 7五角が悪手かも。7五銀、6三歩、同飛、5五桂、6七飛成、4三桂成、4八金、3七銀引、5九金、1三香成、同歩、4四角と飛び出して、勝負?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
例えば4九金には、同銀、2九飛、2八金、4九飛成、1三香成。ここで先手が詰むかどうかだけど……4八銀、同金、同龍、同玉、4七金は、2九玉で詰まない。1二歩と受けても、2四桂、同歩、2三桂、2一玉、1一金、同銀、同角成で、私の勝ちよ。4七金に代えて5八龍は、4八歩、4七金、2七玉、3七金、同玉、2八銀、同玉、4八龍、3八金として、3七金、1七玉、1五香、1六歩で寄らないわね。
ってことは、2七玉で案外に耐えてる……? 少なくとも、3七銀よりは勝負になってる印象。じゃあ、2七玉ということで。
私は玉を垂直に動かした。蔵持くんの顔色が変わる。
「んー、それは読んでなかったな……」
なるほど、ということは、蔵持くんはまたここから長考か。
と思いきや、すぐに5七歩成とした。残り時間を気にしたのか、それとも王様が不安定だから5七歩成で潰せると思ったのか、それは分からない。ともかく、私は読み筋とばかり、同金と取る。蔵持くんは同銀だと思っていたらしく、そこで小考に入った。
2分ほど考えて、同桂成が指される。同銀とした瞬間、蔵持くんは4七金と打った。
へ? 4七金? 読んでなかったかも。てっきり5六歩とばかり。
一瞬焦った私だけど、すぐに気を取り直す。この4七金、あんまりいい手に見えない。5七金は6六銀で防げるし、その後の3八金は同金で何ともないからだ。そこで4七銀とするようなら、4九金、3八銀成、同金、4七金、4九銀以下、千日手を目指す。3八銀成のところで5六銀成なら、1回4八歩と受けて大丈夫……。
よね? 6六成銀、同飛、6五銀……意外と大丈夫じゃない。
6六銀が受からない? じゃあ4八銀? ……あ、全然駄目だわ。5六桂が、飛車金両取りになって……そこまで読んで、私はピンと背筋を伸ばした。なにか閃いた気がする。この両取り、本当に痛いの? そもそも、4四桂馬は、3六を狙ってるだけじゃない。1三香成、同歩、同香成に同銀と取れるようにしてるのよね。要するに角道封鎖ってヤツ。その桂馬を動かすんだから、後手陣は結構危なくなるんじゃないかしら。
私はチェスクロを確認する。残り時間は、蔵持くん2分、私が8分。
なんだか頭がくらくらしてきた。ちょっとリフレッシュしましょう。
「失礼します」
私は席を立ち、トイレに向かう。途中で歩美先輩と目が合った。なんとも言えない表情をしている。有利か不利か、それすらも読み取れない。
まあ、観戦者が形勢を顔に出すのは、マナー違反だと思う。
私がトイレに入ると、案の定誰もいなかった。洗面台で顔を洗う。
その間も、瞼の裏には問題の局面を浮かべていた。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
一見、先手がやらかしてる。7八飛なんてしたら、4八桂成、同金、同金、同飛、4七銀と、攻めが止まらなくなる。
両取り逃げるべからず……1三香成……これが詰めろ。同歩に同香成。そこで6八桂成は、2四桂、同歩、4七銀、1二歩、2三桂、2一玉、2二成香、同金、3一金で詰み。だから1三香成には1二歩だけど、2四桂がまた詰めろ。同歩、2三桂、2一玉、2二成香、同金に4七銀直が三度目の詰めろ。2三金、5六銀、4四桂、4五銀。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
あるいは、2二成香のところで、3一桂成、同玉、2二成香。これはさっきよりも駒得。ただ、左側に逃げられないよう注意しなきゃ。4二玉、4四歩、5三金、4三金の打ち込みは、ちょっと遅いか……いや、こっちもすぐに寄るわけじゃないし……例えば5一玉なら、5三金、同銀、6二飛成、同銀、4三歩成。1五桂馬がちょっと怖いけど、1六玉、1九飛、1七歩で耐えてるわよね。
6二飛成に同玉なら……やっぱり4三歩成が詰めろ。1五桂、1六玉、1九飛、1七歩、1四香に、5二飛、7三玉、5三飛成、6三歩、8三金、同玉、6三龍、7三金、7二銀、9二玉、9一銀、8二玉(9三玉は7三龍、同角、8三金まで)、7三龍、同玉、5五角、6四歩、8三金、6二玉、6三歩、5一玉、3三角成、4一玉、4二馬まで。駒が足りないように見えるけど、8八の角が大活躍で詰み。
ただ、7三金の合駒は微妙かも……7三桂だと……あ、そのときは7四龍だわ。8二玉に8三銀、7一玉、7二銀打、6二玉、6三龍、5一玉、5二と。じぐざぐに追って勝ち。
私はあごからしたたる水をぬぐい、トイレを後にした。気合い十分。観戦者に囲まれた席で、私は4八銀と引く。それを見た瞬間、蔵持くんはきょとんとなった。
「え……それは……」
蔵持くんは10秒ほど考えて、5六桂馬と跳ねた。私は1三に香車を成り込んだ。
「詰めろか……」
蔵持くんは同歩、私は同香成。
すると蔵持くんは歩を摘んで、1二歩と受けた。実は4四香車も気になってたんだけど、それには気付かなかったみたい。あるいは、気付いてても悪いと見たのか……でも、これで読み筋に入ったわよ。
私は2四桂と打った。蔵持くんが目を細める。そして、眉間に皺を寄せた。
「あ、そっか……」
蔵持くんが考えてたことは、だいたい分かる。両取りだから、飛車か銀のどちらかは取れると踏んでいたんだろう。だけど、今はどちらを取る余裕もない。
チェスクロが鳴る。蔵持くんの持ち時間がなくなった。ここからは1分将棋。私もトイレの長考で、残り2分になっている。全力で読まないといけない。
30秒……40秒……50秒……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「分かんないッ!」
蔵持くんは1三歩と、成香の方を取った。私はエッとなる。だってそれは──
パシリ
「ああッ!」
蔵持くんが悲鳴を上げた。後ろで、鞘谷さんの悲鳴も聞こえたような。
まあ、いいでしょう。私は金を持ち駒に加え、1二の地点を睨む。そう、この金取りが詰めろ。だから同歩成とできない。4七銀の前に1二歩を入れる手があったかもしれないけれど、玉を角筋から退かす分、損だと判断した。とにかく、角筋が重要な場面だから。
さあ、2四の桂馬を取るしかないわよ。私の脅迫が聞こえたかのように、蔵持くんは2四歩と桂馬を払う。私は悠々と、5六の桂馬を払った。両取りのはずが、両方取られるハメになったのだ。
とはいえ、実を言うとただの桂得。駒割りのバランスはそこまで大差ない。ただし、精神的ショックは大きいはずよ。1分将棋なら、なおさら。
さすがの蔵持くんも険しい顔をしながら、4四香車と角筋を止める。私はそれをムリヤリこじ開ける4五歩。5五歩なら無視して4四歩、5六歩、4三歩成、5七歩成、2三桂、1二玉、1一金、同銀、同角成、2三玉、3三と、1四玉、1五歩、同玉、1六香。途中の5六歩に代えて4二金引なら、6三歩、同飛、5四金、5六歩、6三金、5七歩成、6四飛と手順に逃げて優勢。
お互い1分将棋に集中する中、蔵持くんは5三銀と飛車交換を挑んできた。
なるほど、銀を引いて守りを固めながら、大駒の交換か。
でも、それには応じませーんッ! 6三歩ッ!
私が飛車交換を拒否すると、蔵持くんは3二飛と回った。4四歩、同銀、4五歩。5三銀と逃げれば、2三桂が炸裂する。3三銀引なら、3五歩の狙いが消えるわよ。7五角には、無視して4四歩。5七角成、4三歩成は、こちらが圧倒的にいい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
蔵持くんは秒に追われて、3三銀と下がった。不本意そうな顔をしている。
私は6二歩成として、同飛、同飛成、同角。今度は飛車交換に応じて、6一飛車と敵陣深くに打ち込んだ。
蔵持くんは苦肉の策で、5一飛車。もう銀を逃げることはできないから、6二飛成と角を取る。5六飛に6五角と打ち、5七飛成、3七香と金を節約。1五桂、1六玉、1四香と進んだ。こっちもかなり怖いけど、ギリギリ耐えてるはず。
自陣を確認した私は、4三角成と詰めろをかけた。2七桂成には同玉、1八銀、2八玉、4七歩成、2一金、1二玉(同金は同馬、同玉、3二金、1二玉、2二金、同銀、同角成まで)、1一金打、2三玉、3三角成、同銀、1二銀まで。
だけど、まだまだ気が抜けないわ。蔵持くんが1枚でも金駒を入手したら、2七桂成から一気に終わっちゃう。5五歩と角筋を止められるのもうざい。
ああ、わけ分かんない。この状態でもまだ玉が遠いから面倒なのよね。いやらしいったらありゃしないわ。
私が悪態を吐いていると、蔵持くんは歩を拾い上げた。ほんとに角筋止め? 私が首を伸ばす前で、歩は盤面の中央ではなく、5二の地点に置かれる。
5二歩……龍の利きを止めましたか。でもそれは──
私は、3三角成と成った。
同銀は同馬、2二銀、2三桂、1二玉、1一金、同銀、同桂成まで。蔵持くんはぼそぼそと何かを呟く。もしかして、3三角成が見えてなかった? あるいは、3三角成には同銀で大丈夫だと思ってたとか? これはもう形に入ったかも。
蔵持くんは、3二銀と詰めろを回避する。私も既に1分将棋。56秒まで読んで、同馬と銀を取った。蔵持くんは当然の同金。そこで5一龍と入る。
2〜4筋のどこにも歩が打てないから、3一角か2一角の受けしかない。3一角なら3二馬と入って、蔵持くんは持ち駒が歩だけ。私の王様は詰まない。2一角なら、2三桂、同金に2一龍、同玉、3二金、1一玉、1二銀、同玉、2一銀、1一玉、1二金まで。2三桂に1二玉なら、1一金、同銀、同桂成でもっと早く詰む。
私が勝ちを確信していると、蔵持くんは頭を下げた。
「負けました」
「ありがとうございました」
ギャラリーがざわつく。私が勝ったことにか、それとも蔵持くんが負けたことにか。
多分、前者でしょうね。
無名の新人が決勝進出──話題作りには、もってこいよね。
場所:2013年度新人戦 準決勝
先手:裏見 香子
後手:蔵持 冬馬
戦型:四間飛車vs居飛車穴熊
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △8四歩 ▲6八飛 △6二銀
▲7八銀 △5四歩 ▲4八玉 △4二玉 ▲3八玉 △3二玉
▲2八玉 △8五歩 ▲7七角 △5二金右 ▲3八銀 △3三角
▲5八金左 △2二玉 ▲1六歩 △4四歩 ▲4六歩 △4三金
▲1五歩 △1二香 ▲6五歩 △5三銀 ▲3六歩 △1一玉
▲3七桂 △2二銀 ▲6七銀 △7四歩 ▲6六銀 △5一角
▲5六歩 △8四角 ▲4七金 △3一金 ▲2六歩 △9四歩
▲9六歩 △6二飛 ▲5七銀 △6四歩 ▲同 歩 △同 銀
▲4五歩 △同 歩 ▲1四歩 △同 歩 ▲1三歩 △同 香
▲2五桂 △7三桂 ▲8八角 △6五桂 ▲6六銀 △4六歩
▲4八金引 △5五歩 ▲7五歩 △5六歩 ▲1三桂成 △同 桂
▲1四香 △1二歩 ▲1九香 △4四桂 ▲2七玉 △5七歩成
▲同 金 △同桂成 ▲同 銀 △4七金 ▲4八銀 △5六桂
▲1三香成 △同 歩 ▲同香成 △1二歩 ▲2四桂 △1三歩
▲4七銀直 △2四歩 ▲5六銀 △4四香 ▲4五歩 △5三銀
▲6三歩 △3二飛 ▲4四歩 △同 銀 ▲4五歩 △3三銀引
▲6二歩成 △同 飛 ▲同飛成 △同 角 ▲6一飛 △5一飛
▲6二飛成 △5六飛 ▲6五角 △5七飛成 ▲3七香 △1五桂
▲1六玉 △1四香 ▲4三角成 △5二歩 ▲3三角成 △3二銀
▲同馬左 △同 金 ▲5一龍
まで117手で裏見の勝ち