(5)力なき少女
乃々村さんは、残り1分まで考えた。
そして、銀に指を伸ばす。銀?
「5九銀」
うッ……4七成桂じゃない……。
なにか違うの? 4四角、6八銀成、同金……結局5一銀よね。5五香、5七歩成、同歩に5二歩。さっきと似たような順に……あ、4三歩と打てないのか。二歩だ。4三銀、2八飛、4二銀成、5八金……あれ? もしかして5八金が詰めろだったりする? 5一成銀、6八金、7七玉、7八金、6六玉、6五銀、同角成……なってないわね。
角が利いてるから、詰めろになら……あッ。
4三銀、3二金、同成桂、2八飛、4二成桂、5八金は、詰めろだ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
3二の角が消えてるから、5一成桂、6八金、7七玉、7八金、8六玉、8五銀、同玉、7四銀、9六玉、8五金。詰んでいる。
に、2八飛に5二香成だと? 5八金、7一金、8二玉……詰まない。5二香成は詰めろではないようだ。じゃあ、5八金と取って、同飛成、6八金、6九角、7七玉、6八龍、同玉、7八金、5九玉、5八金……こ、これも詰んでる……。
手を変えて、5九同金? 同金、4四角、5一銀、5五香、5七歩成、同歩、5二歩、4三銀、3二金、同成桂、5八金……これは詰めろ? 4二成桂、6八金、同玉、5八飛、7七玉、8八角、8六玉で詰ま……いや、6八角か。6六玉、5七飛成、7五玉、7四銀。簡単な詰みだ。
そんなバカな……5九銀で速度が逆転してる……。
私はあれこれ読んだ。でも、再逆転の筋が浮かばない。途中、5七歩成に同金なら、2八飛〜5八金は詰めろにならないけど、指す順番を変えて、4四角、5一銀、5五香、5七歩成、同歩としてから6八銀成がある。以下、さっきの先手負けの順に合流。
このままだと一直線で一手差負け。どうしよう。
……ピッ。1分将棋になった。
「よ、4四角」
私は、乃々村さんにいったん手を渡した。
5一銀、5五香。その間も考える。
6八銀成、同金、5七歩としてちょうだい。間違えろ。
「5七歩成」
ぐはッ!
ま、間違えてくれない……どうしよう……。
私は59秒ギリギリまで考えて、同歩と取った。
6八銀成、同金、5二歩。
乃々村さんの方は、だんだん手が速くなってくる。
考える時間を与えてくれない。
4三銀……4三銀以外にはない……でもそれは一手遅い……。
私は懸命に考える。
30秒……40秒……50秒……ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
私は4三銀と置いた。
乃々村さんは、すぐに2八飛と打ち下ろす。
もうダメだぁ。完全に読み切られている。
うぅ、わざわざ駅までおじいちゃんに見送ってもらったのに。
おじいちゃん、ごめん。
そのときだった。
私はふと、昔おじいちゃんと指した将棋のことを思い出した。
敗戦前の走馬灯? ……いや、違う。
この局面、どこかで見たことがある。
完全に一致はしていないけど……感想戦で……なんだった……?
となりのテーブルで、少しばかりざわめきが起こった。
私はその音も気にならないほど、盤面に集中する。
……………………
……………………
…………………
………………
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「解けたッ!」
パシーン!
会場に駒音が響き渡る。
「1……七……角?」
乃々村さんは目を見開いて、しばらく動きを止めた。
「なにそれ?」
乃々村さんは盤をぐるりと見回して、3八飛成とする。
私は、さっき閃いた順を、もう一度読んだ。
……いける。勘違いしていない限り、いける。
まるで魔法みたいな手が、私のヴィジョンにある。
「3九歩」
再び、乃々村さんの手が止まる。
「……4九龍」
龍が迫ってくる。
私は、4二銀成と攻勢に転じた。
乃々村さんは、4八の金に指を添えて、5筋にずらそうとする。
指を離す直前に、おやっと目を細めた。
「……えッ」
手を引っ込める。
私は固唾を呑んで見守る。
乃々村さんは、だんだん顔色が悪くなっていった。
「ご、5八金が詰めろになってないッ!?」
そう、飛車が八段目なら詰むけど、九段目だと龍でも詰まないのよ。
乃々村さんは、自分の眼が信じられないのか、瞬きを繰り返した。
今度は、こちらのギャラリーがざわついたのを感じる。
私は手が震えてきた。汗がすごい。
「な、なんで、さっきまで私が勝って……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ご、5八金ッ!」
乃々村さんは、高速で金をずらした。
私は、自分を落ち着かせるため、1分きちんと使う。
そして、5一成銀と入った。
7一金、同金、同角成、同玉、5一龍でも勝ちだったかも。
ただ、角を渡すとこちらが相当怖いことになる。安全策。
乃々村さんは、真剣に考えている。
ここから逆転の芽はないはず。あっちゃダメ。
「……6八金」
これは冷静に同玉とする。この同玉とできるのが最大のポイント。
続く4八龍には7七玉。
「8八銀」
これは8六玉で大丈夫……ん、じゃない? 8四歩が詰めろだ。後手は詰まないから、7五金、5一金、7一角成、同玉、5一龍、6一合駒、6二金、8二玉、7一銀、8三玉、8二金、9四玉……げッ! 詰まないッ! こっちは5九角一発で詰む。合駒がない。
あ、危ない。罠があったか。油断したら死んでた。
「6六玉」
私が王様を上がってチェスクロを押し終えると、乃々村さんは溜め息を吐いた。
どこか清々したような溜め息だった。
「粘れないこともないけど……この棋譜はキレイね。ここで投了するわ」
……………………
……………………
…………………
………………
勝った。
「ありがとうございました」
私は深く一礼した。
6五金、同角成、同歩、同玉、7四銀、5四玉、6五角、4四玉、4七龍、4五歩と、1七の角を使えなくさせてから8四歩もあったと思う。続けようと思えば、続けられる局面。乃々村さんがその順を放棄したことに、私はなぜか感謝の気持ちを抱いた。
もちろん、私が勝勢なことに変わりはない。だけど……。
「1七角は参ったわね。最初から読んでたの?」
「直前に気づいて……5九銀がみえてなかったから……」
私は掠れ声になっていた。
咳払いして、お茶で喉を潤す。
「もしかして、3八から打った方が良かった?」
「それは3九歩、同飛成で一緒だから、変わらないかな、と」
「そっか……じゃあ、3二金、同成桂だったわね」
それが一番難しいかな。対局中は、あんまり読めなかった順だ。
私たちは、局面を戻す。
【参考図】
「2八角は、4三金……後手は寄りそうにないわね」
「だから、同成桂に4四角とか」
乃々村さんは、角を4四に置いた。
4四角……同角なら5八金が詰めろか。
「2八角、1一角も勝てそうにないから……切るしかないか」
5一龍、同金、2八角、3八飛。
あれ? もしかして先手負けてる?
「次の5八金が詰めろよね?」
「裏見さんの方が、先に詰めろ掛けれるんじゃない? 5四金とか」
5四金……ああ、確かに詰めろだ。6三金、同玉、5四銀不成以下、詰み。
「かと言って、6二金は受けになってないしなあ」
それは飛車打ちが強烈過ぎて……ん、そうでもないか。
「2一飛は詰めろになってる?」
私は確認のため、飛車を下ろした。
乃々村さんは黙って5八金として、そこから考える。
……詰まないっぽい。金がないから。
「ごめん、ダメね」
私は自主的に飛車を回収した。
「そうね、これは詰まないわ……」
乃々村さんは、腕時計を確認した。
「決勝まで休憩した方がいいでしょう。感想戦はここでおしまい」
あら、気を遣ってくれるんだ。
お言葉に甘えましょう。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
私たちは一礼して、席を立った。
すると、ギャラリーがワッと集まってくる。
「すげぇぞッ! 決勝進出だッ!」
冴島先輩は、大声で叫んだ。
「あ、ありがとうございます……」
「次勝ったら優勝だよ」
と数江先輩。優勝……優勝?
そう言えば、次は決勝戦……決勝? 私が?
乃々村戦の熱から醒めた私は、ようやく現実を認識した。
「……」
「裏見、オレの話、聞いてるか?」
「……」
「裏見ぃ?」
「……」
「うら……」
「ちょ、ちょっとすみません」
私は会場を飛び出す。
廊下を全力疾走して、トイレに駆け込んだ。
「うえぇ……」
き、気持ち悪い。吐きそう。変な汗が出てきた。
緊張? 胃がおかしい。
私が吐き気と格闘していると、いきなり背中に触れられた。
びっくりした私は、洗面台を背に振り返った。
「ごめんなさい、驚かすつもりはなかったの」
そこに立っていたのは……三和さんだった。
黒いジャンパー姿の三和さんは、少し距離を取って、こちらを見つめてきた。
私はなにをしゃべっていいのか分からず、口をぱくぱくさせた。
「あ、あの……すみません……ちょっと気分が……」
「緊張してるのね。こういう場は初めて?」
三和さんの落ち着いた声に、私は少しだけ平静さを取戻した。
クールにみえるけど、どこか優しさがこもっている。
私は洗面台に寄りかかるのをやめて、背筋を伸ばした。
「ほんとにすみません、これで失礼します」
トイレを出ようとした私の背中に、三和さんの声が届く。
「あの1七角は、素晴らしかったわ。私も1分将棋じゃ気づかなかったくらい」
いきなり指し手を褒められた。
三和さん、私の将棋を観てたの?
「あ、ありがとうございます。あれはその場で気づいたわけじゃなくて……」
「まさか、研究済みってことはないでしょう? 最終盤なのに」
私は、おじいちゃんとの将棋で部分的に似た形が出現したことを説明した。
要約すると、九段目じゃなくて八段目に打てば私の勝ちだったのだ。
それを局後の検討で指摘してくれたのは、おじいちゃんだった。
「そう……飛車の打ち場所を間違えた経験が活かされたのね」
三和さんは、納得したように頷いた。
「あなたもあなたのおじいさんも、強いのね。世の中は広いって実感する」
全国3位の人とは思えない台詞だ。私はなんとなく、そう思った。
「ところで、決勝の相手は、だれだか知ってる?」
……知らない。終わってから、すぐに会場を飛び出してしまった。
「知らないのね……南海さんよ」
「南海さん……」
「驚かないところをみると、南海さんの実力は分かってるのかしら。勝てそう?」
「いえ……あんまり……」
「正直ね。私も難しいと思う」
単刀直入な返事に、私はたじろいだ。
「私、神崎さんとか桐野さんとか……吉備さんにも全然勝てないんです。その吉備さんと南海さんの将棋をみて……レベルが違うな、と……」
最後の一文で、私はトーンダウンした。
その実力差を、心のどこかで認めたくなかったのかもしれない。
それを初対面の年上に話してしまった理由が、私には分からなかった。
私が気まずい気持ちでいると、三和さんは突然口を開く。
「力がないなら、負ければいいのよ。なにも悔いることはないわ」
唐突な三和さんの一言に、私は唖然とした。
「それじゃ、失礼するわ」
三和さんは私の横を通り過ぎて、トイレを出て行った。
入れ替わりに他校の人が入ってきて、私もその場を離れる。
駒桜のブースに戻って来ると、ずいぶんとたくさんの人たちが集まっていた。
……………………
……………………
…………………
………………
空気が重い。
みんな気を遣って、話しかけないようにしてるみたい。
松平さえ、なんとも言えない表情で椅子に仰け反っていた。
なんかなぁ……ギャラリーが気張っちゃダメでしょ。
反対側には、ソールズベリーのブースが見える。
南海さんも、北嶺さんや西野辺さんに囲まれていた。
明るい笑顔で、なにやらだべっている。プレッシャーを感じさせない雰囲気。
「八千代先輩?」
私は、八千代先輩に話しかけた。
「なんでしょうか?」
「南海さんの棋風とか、分かります?」
「夏に観戦した通りです。居飛車党の攻め将棋ですね」
「細かい癖は?」
「局面が飽和したとき、自分からムリヤリ打開してくる傾向があります」
千日手は断固拒否のタイプか……受けを主体に……でも、私には吉備さんのように受ける技術がない。斬り合いに持ち込む方が、勝機はありそう。
「居飛車なら、なんでも指すんですか?」
「角換わりよりは、矢倉を好んでいるようですね」
「2手目8四歩なら、6八銀?」
「おそらく……私の推測に過ぎませんが」
私は、八千代先輩を信じる。
いつの間にか、八千代先輩は私のセコンドのような立場になっていた。
姫野さんに勝てたのも、八千代先輩のアドバイスがあったからだ。
……ううん、正確に言うと、部員全員のおかげ。私を鍛えてくれた歩美先輩、冴島先輩、それから、このふたりが忙しくなったときに相手をしてくれた飛瀬さんと松平。事務的なことを手伝ってくれた来島さんと箕辺くん、あと最近は葉山さん。数江先輩だって、持ち前の明るさと将棋好きで、部を盛り上げてくれた。チーム戦だって勝ち星がある。
私は仲間に恵まれていると思う、本当に。
「それでは、決勝戦を行います。選手は中央のテーブルにお集りください」
運営の指示に従い、駒桜からは私が、ソールズベリーからは南海さんが出る。
続いて、それぞれの応援団と野次馬も集合。
「この組み合わせは、だれも予想してなかったのだ」
「ふ、ふん、やるじゃない」
「えへへぇ、どっちも頑張るのですぅ」
「賭けるなら裏見おねぇの方かな。オッズ高そうだし」
ギャラリーが好き勝手言う中、私たちは淡々と駒を並べた。
トイレを出てから、ずいぶんと気持ちが落ち着いた。
三和さんとの会話が、なにかこう……もやもやした清涼剤になっている。
変な表現だけど、それが私の正直な心境だった。
「振り駒をお願いします」
「裏見さんが振っていいよ」
南海さんは、私に振り駒を譲った。
私もそれに従う。
カシャカシャカシャ……ポイ。
「歩が1枚、私の後手」
「了解」
私は、黙ってチェスクロを右側に置いた。
「対局準備は整いましたね? それでは、始めてください」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
南海さんはすぐに7六歩と、角道を開けようとした。
ところが、駒はぽろりと指先からこぼれた。
「おっと、失礼」
南海さんは、なにごともなかったかのように、歩を枠に収めた。
……いま、指が震えてなかった?
……南海さんも、本当は緊張してるんだ。
私は、自分だけが緊張していたのではないことを悟った。
そして、本局の戦法について決断を迫られた。
……………………
……………………
…………………
………………
矢倉だ。
この大会の切符を手に入れた姫野さんとの対局も矢倉。
それで負けたら悔いはない。
「8四歩」
「矢倉ね、受けて立つよ」
6八銀、3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀。
決勝だけど、矢倉の序盤はさすがに手が速い。
5八金右、3二金。
「2六歩」
いきなり変化してきた。これは普通の矢倉にならない合図。
4一玉、6七金、7四歩、2五歩、3三銀、7七銀、3一角、7九角。
藤井流早い囲いだ。
夏の吉備vs南海戦を観たあと、部室で研究してある形。
「7三銀」
3六歩、6四銀、4六角。
私は脇システムを拒絶した。これが、温めてあった構想。
でも、うまくいくかどうかは分からない。
5二金、7八金、4四歩。
「あんまり早囲いっぽくならなかったね。6五歩」
7三銀、6九玉、4三金右、7九玉、4二角、5七銀、3一玉、6六銀右。
私の方が若干出遅れてるかも……南海さんの初見対応力が凄まじい。
とりあえず、2二玉と入っておく。
ここで、南海さんは小考。方針を練り始めた。
私は、7三銀の処遇を考える。
……………………
……………………
…………………
………………
南海さんは、ふぅと息を吐いて、背筋を伸ばした。
「やっぱさ、決勝は華々しくいかないとね……5八飛」