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こちら、駒桜高校将棋部  作者: 稲葉孝太郎
第6局 わくわく新人戦編(2013年6月2日日曜)
29/295

25手目 裏切られる少女

 案の定というかなんと言うか、松野家はすごく混んでいた。団体で座るわけにもいかないから、全員持ち帰りを注文する。学生服を着た将棋部の男子もたくさんいて、そこに割り込む気も起こらないのだった。

 松野家へ来たからには、当然牛丼を、という決まりもないんだけど、やっぱり牛丼。他のメニューはよく知らないし、歩美(あゆみ)先輩を筆頭に、みんな同じようなものを頼んでいた。ただ、数江(かずえ)先輩は大盛りで、歩美先輩は「ネギだく玉」などと細かい注文をつけている。

 牛丼も一種のファーストフード。店員は慣れた手付きで牛丼パックを5人前作ると、料金を受け取ってさっさと次の作業に取りかかってしまった。店内に留まる理由もないわけで、私たちは早々と市民会館にもどった。

 6月とは言え、真昼の通りはなかなかに暑かった。急いで自働ドアをくぐると、ひんやりとした空気が私の肌を撫でる。そして、鞘谷(さやたに)とばったり出会った。

「あ、香子(きょうこ)ちゃん、おつかれさま」

 負けた割には、ずいぶんサバサバしてるのね。ここは慰めの言葉でも。

「さっきは残念だったわね」

 (つじ)くんとの対局に触れると、鞘谷さんはきょとんとした顔を浮かべる。

「観てたの?」

「け、結果だけ……」

「あれねえ……終盤で錯乱して負けにしちゃったわ……」

 と言いつつ、鞘谷さんはそこまで悔しそうな顔をしていない。私と違って、公式大会の経験が長いから、一喜一憂したりしないのかも。でも私の場合は、将棋に負けること自体がとても悔しいし、それは公式戦だとか、そういうこととはあんまり関係がなかった。

 その点では、鞘谷さんの方が私よりも勝負に淡白なのかもしれない。

「ところで、次は冬馬(とうま)となんでしょ? どんな感じ?」

 とうま? 誰それ?

「……あ、蔵持(くらもち)くんのこと?」

「そうそう、で、どんな感じ?」

「どんな感じって……?」

 私がまごついていると、鞘谷さんはそっと私の耳元で囁く。

「どうねじ伏せる気なのよ? 正直、勝てそう?」

 うん、勝てそう。というのは、あまりにも自惚れてるかもしれない。ただ、さっきの対局を観る限りでは、勝機は十分にあると思う。問題があるとすれば──

「穴熊にされなければ、結構いけるかな、って」

「え? どういう意味?」

 私は鞘谷さんに、歩美先輩との戦績を説明した。これで鞘谷さんが勝ってたら、決勝で当たるかもしれないから絶対に言わないけど。

 話を聞き終えた鞘谷さんは、意味深に頷いてきた。

「へえ、穴熊苦手なんだ。確かに振り飛車党の天敵だけど、ちょっと意外かな」

「おじいちゃんが穴熊指さないから」

「あ、それで……じゃあ、穴熊にされたらどうする気なの?」

「まあ……美濃に組んで……ぼちぼちって感じかな……」

「ふーん……」

 鞘谷さんも、どうやら私の境遇を分かってくれたらしい。ぽんと私の肩を叩く。

「じゃ、私は食事してくるから、凖決勝頑張ってね」

「ありがと、またね」

 私が鞘谷さんと別れて辺りを見回すと、駒桜(こまざくら)の部員は誰もいなくなっていた。

 は、薄情ですね……いや、それとも後輩に気を利かせてくれたのかしら。私はホールに入り、隅っこの休憩室スペースへと向かう。先輩たちは先に席についてたけど、まだ箸はつけていなかった。

 割り箸を両手に握り締めた数江先輩が、こんこんとテーブルを叩く。

「はやく食べようよー」

 テーブルマナー大事。

 私はビニールから容器を取り出して……ん? なんか袋が濡れてない?

「げッ!」

 私ははしたない声を上げてしまう。牛丼のパックから、汁が滴り落ちていた。

 歩美先輩はそれをみて、

「あなた、ちゃんと袋のバランス取らなかったでしょ」

 と指摘した。た、確かにそうかも。適当にぶら下げてたわ。

 うぅ、ファーストフードの持ち帰りは普段しないから……無念。

 八千代(やちよ)先輩はポケットに手を入れて、

「大丈夫ですか? ティッシュ持ってますけど?」

 と言って、ポケットティッシュをくれた。

「ありがとうございます」

 私が手を伸ばすと、八千代先輩は眼鏡の奥で目を丸くする。

「手にべったりついてますよ。これは洗った方がいいんじゃないですか?」

 そ、そうかも。ティッシュじゃ牛丼の匂いがどのみち残る。

「す、すみません、ちょっと手洗ってきます」

 私は席を立ち、トイレへと向かった。普通なら女子トイレは混んでるんだけど、今日は学生の貸し切り、しかも女子の方が圧倒的に少ないから安心ね。

 ……うん、誰もいない。私は全自動の蛇口に手を伸ばし、ハンドソープをつけて念入りに手の平を擦った。何度か指を嗅いでみて、匂いが残っていないことを確認する。

 準決勝前なのに最悪。

 私はしょんぼりしてトイレを出……あれ? 鞘谷さんがいる?

 食事に行ったはずだけど……気のせい?

 出口の方をみると、やっぱり鞘谷さんの姿があった。その隣には、蔵持くん。

 そっか、ふたりとも幼馴染みなのよね。ということは、世間話かしら。

「だから、次は絶対穴熊に組みなさいよ」

 ??? 今、なんて言った?

 盗み聞きは趣味じゃないけど──

 私は女子トイレから出ずに、ふたりの会話に耳を傾けた。

「え、裏見(うらみ)さんって、穴熊が苦手なの? 振り飛車党なら、普通対策してない?」

「彼女、戦法の幅が狭いのよ。だから、次は熊にしてパパッと捌けば勝てるわ」

「うーん、そんな簡単かなあ……藤井システムとか、僕もよく分からないんだけど……」

「大丈夫よ。『適当に美濃に組む』って言ってたから。システムとか気にしなくてOK」

 はあああああッ!? なにべらべら情報横流ししてるのよッ!?

 鞘谷株、私の中で本日ストップ安なんだけど……マジでありえない……。

 私が失望する中、鞘谷さんはぽんと蔵持くんの肩を叩いた。

「それじゃ、次は応援しに行くから、頑張ってね」

「う、うん、頑張るよ」

 最悪だ……最悪……この女は、もう信用しないことにしましょう。

 あまりの不愉快さに、頭が沸騰しそうだ。控えテーブルに戻る。

 数江先輩は私の顔をみて、

「ど、どうしたの?」

 と言い、紅ショウガをぽろりと落とした。

「なんでもありません」

 歩美先輩は、

「紙がなかったとか?」

 と訊いた。このデリカシーのなさは天然だわ。食事中ですよ。

「違います」

「……そう」

 私は怒りに任せて割り箸を割ると、冷めた牛丼をさっさとかき込んだ。

 あの女、後でどうしてくれようかしら。公式戦でぶつかったら、全駒にしてやるわよ。

 怒りで味覚の麻痺した私は、自分がなにを食べているのか、よく分からなくなっていた。

 

  ○

   。

    .


 ……と、ここまでは過去の出来事。お昼休みも終わり、目の前には蔵持くん。あいかわらずのほほんとした雰囲気を漂わせている。これじゃ対局者って言うよりも、観戦者って感じね。

 そして、その後ろに──いた。鞘谷さーん、どういう了見なんですかね。

 他人の秘密を勝手に……ん? 鞘谷さんの様子、なんかおかしいわね。やけにそわそわしてて、目がキラキラしてる。これはいったいどういう……あー、そういうことか。はいはい、分かりましたよ。そうなんですか。うーん、女同士だから、簡単に気付いちゃったわ。ふーん、そっかあ……なるほどねえ、だったらあの情報漏洩も、10%くらいは許してあげないこともないわね。あるいは5%くらい。

 でもでも、乙女の友情を踏みにじったのは事実。それにこれは準決勝だから、もともと手を抜く理由なんかありません。というわけで、蔵持くんを彼女の前で公開処刑しまーす。

 ……って、簡単に葬れたらいいんだけどなあ。こっち弱点がバレちゃってるわけで……ここで居飛車に切り替えてみる? そうすれば、穴熊にはならないはず。でもそうなると、私が純粋振り飛車党っていう嘘も崩れちゃうのよね。決勝で、辻くんも両方に対応してくるだろう。

 さて、どうしましょうか。


 1、このまま振り飛車にして、終盤力で何とかする。

 2、居飛車で急襲する。決勝はその時々で。

 

 ……1かしらねえ。2回戦を観た限りでは、終盤勝ち目があるはず。

 ただ、凖決勝で決勝のことを心配するのも、なんだかおかしいような──

 私が迷っている間にも、運営委員が声をあげた。

「はい、それでは振り駒をお願いします」

 蔵持くんが歩をかき混ぜ、ビニール盤の上に放った。

 ……歩が2枚。また私の先手だわ。こうなったら、決め打つしかない。

 運営が腕時計を確認する。会長の静けさがマックスになる。

「それでは対局を始めてくださいッ!」

「「よろしくお願いします」」

 蔵持くんがチェスクロを押す。私はとりあえず7六歩。これは居飛車だろうが振り飛車だろうが突くところ。蔵持くんもすぐに3四歩と突いた。

 さて、ここから居飛車にするとしたら、ムリヤリ矢倉か横歩ね……そっか、普通の矢倉の出だしはないんだ。だったら振り飛車かしら。3、4、5のどれに振るか。

 ……一番オーソドックスなのにしますか。私は6六歩と突いた。蔵持くんはなんの疑問も持たずに、8四歩。まあ、私がなにに迷ったかなんて、伝わらないでしょうしね。6八飛、と。


挿絵(By みてみん)


 6二銀、7八銀、5四歩、4八玉、4二玉、3八玉、3二玉、2八玉、8五歩、7七角、5二金右、3八銀、3三角、5八金左、2二玉、1六歩、4四歩、4六歩、4三金、1五歩と端を詰めまして──

 

挿絵(By みてみん)


 はい、来ました。1一香。穴熊です。予想通り過ぎて笑えてくるわ。むふふ。

 って、笑ってる場合じゃないわよ。一番嫌な展開になったじゃない。これも後ろでヒロインモードになってる鞘なんとかさんのせいね。

 まあいいわ。その決着はあとでつけるとして……こっちとしては、蔵持くんの受けが甘いことを利用したいのよね。さっきの田中戦も、本当なら負けていたはず。田中くんが寄せを間違えただけ。ということは、私もアグレッシブな方針を取るのが最善だと思う。

 この形でアグレッシブに行くなら、角道を開けてガンガン4筋を攻めるパターンか。

 とりあえず6五歩。

 私が角道を開けると、蔵持くんは4筋補強で5三銀と上がった。

 3六歩、1一玉、3七桂に2二銀。

 穴熊のハッチが閉まる。

 ここで4五歩は、同歩、3三角成、同桂でおもしろくないか……左の銀が出遅れてるわね。これを使わないと攻めが足りないわ。6七銀。

 そこから7四歩、6六銀と続く。次は3二金かしら? あるいは角の転換。

 私が読んでいると、蔵持くんは後者を選択した。

 

挿絵(By みてみん)


 オッケー。これは見えてたわ。次に7三角か8四角の狙いでしょ。やっぱりこっちから仕掛けるのは難しいようね。7三角でも8四角でも、反動がきついから。歩美先輩はそのへんの呼吸がうまい。

 私はちらりと顔を上げた。蔵持くんは微妙に体を揺すりながら読んでいる。その後ろに見えるセーラー服は、鞘谷さんのものだろう。さすがに準決勝とあってか、そこそこの観戦者がいた。私の背後にも、歩美先輩たちの気配を感じる。

 さて、雑念はこれくらいにしときましょ。集中、集中、5六歩。

 私は5筋を突いて、5七銀からの4枚美濃を目指す。場合によっては5五歩から開戦する手順もあるんでしょうけど、ちょっと慎重にいきましょう。終盤五分に持ち込めば、腕力差で私が勝てるはずだから。

 蔵持くんは1分ほど考えて、8四角とした。そっちか……6二飛車と回る気ね。まずは4七金。私は高美濃に組み替える。蔵持くんは3一金と組んだ。

 高美濃に組んだら、次は銀冠に移行ね。2六歩。蔵持くんは9四歩と税金を払い、私も9五角の急襲を避けて9六歩と突き返す。

 そこで6二飛車が飛んできた。


挿絵(By みてみん)


 さあ、いよいよ煮詰まってきたわよ。ここで2七銀なんてしたら、6四歩、同歩、同銀、6五歩、6六角、同飛、6五銀で一気に悪くなるわ。

 予定通り5七銀と引きましょう。そこで6四歩なら4五歩、同歩、同桂、4四銀、同角、同金、5三銀、6一飛(4五金なら飛車を取らずに4六歩)、4四銀成。2枚換えだから、こっちがいいでしょう。

 ただ、4五歩に同歩と取らない展開もありうるかしら。

 例えば、4五歩に6五歩、4四歩、4二金、4五桂、6四銀。

 

挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)


 んん、微妙に難しいかも。そっか、4五歩、同歩が勝手読みだったわね。

 4四歩の取り込みに4二金で耐えてるなら、4筋の攻めは無理かもしれない。むしろここは穴熊退治のセオリーで、端攻めね。5七銀、6四歩、同歩、同銀、4五歩、6五歩、4四歩、4二金、1四歩、同歩、1三歩、2五桂。さっきと違って、桂馬を反対側に跳ねられるわ。うんうん、これは悪くない。ギリギリの攻めになりそうだけど……。

 私は覚悟を決めて5七銀と下がる。案の定6四歩と来たので、同歩、同銀、4五歩。そこで6五歩かと思いきや、4五歩と取ってきた。むむ、角筋が通るのは怖くないと……その判断、いかがなものかしら?

 私は方針を変更せず、1四歩と突いた。同歩、1三歩、同香に2五桂。これで一方的に凹られる心配はなくなったわよ。後手はいきなり6五銀とは出られないし、攻めの速度ではむしろこっちが勝ってるかもしれないくらい。

 私が局面に満足する中、7三桂が指された。

 

挿絵(By みてみん)


 なるほど、駒を足してきましたか。次に6五桂が両取りだから、当然8八角よ。

 私が角を引くと、蔵持くんはそれでも6五桂。私は6六銀と、積極的に受けた。4八銀が成立したかどうかは分からないけど、それは棋風じゃない。ちょっと守備的過ぎる。

 チェスクロを見ると、私はここまでで5分くらいしか考えていなかった。私の残り時間が25分、蔵持くんが17分。おっと、初めて持ち時間で逆転したかも。なかなか幸先いいんじゃないかしら。

 私が内心悦ぶ中、蔵持くんは長考に入る。私も迷わず時間を使うことにした。

 ……後手からの候補手は、

 

 A:5五歩

 B:4六歩

 C:7五歩

 

 ってとこかしら。大穴で5二飛車? ……まあ順番に読みましょう。

 5五歩、同歩なら5六歩の垂らし。同金、5四歩、同歩、5五歩。

 

挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 4五金なら5七桂成、同銀、同角成で終了……。つまり5五歩は最初から取れない、と。角筋が厄介なわけだから、5五歩に7五歩と止めましょう。同歩ならそこで5五歩。再度5六歩は同金、5四歩、同歩、5五歩、6五金、同銀、同銀、7六歩、6三歩。これで5七角成なら6二歩成、6八馬、5五角と飛び出して勝負。あるいは5七角成に一回6九飛車もありかも。いずれにせよ、5五歩には7五歩が有効ってわけね。

 じゃあ、戻って4六歩を読みましょう。4六歩、同金は6六角、同角、5七銀でいきなり終了。だから4八金引の一手ね。そこで後手は……ん、やっぱり5五歩? ただこの局面、5六の地点に金が利いてないから、ちょっと進行が違うわよ。7五歩、5六歩だと?

 

挿絵(By みてみん)


 (※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)

 

 ああッ! 歩がないッ! 5八歩と受けられないじゃないッ!

 と、というかなにも打つものがない。次はなにがなんでも5七歩成だ。

 私は焦った。意外と攻めが続きそうだ。受からないなら、攻めるしかない。そう判断した私は、1三桂成を読む。同桂、1四香、1二歩。これで歩をゲットしたから、5八歩と受けられるわ。ただ、その局面自体がいいかと言われると……微妙……。

 ま、まずいかも。Cの7五歩とか読んでる場合じゃないわ。この局面を打開しないと。

 私が盤面を睨む中、蔵持くんが指した手は──

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