(5)自分と言う少女
小休憩。決勝戦は3時半からと決まった。
会場内には、少しばかり疲労感が漂っている。
選手はもちろんだけど、観るだけでも疲れるのよね、これ。
「すみません、駒桜市立の方ですか?」
聞き慣れない声に振り返ると、ソールズベリーの制服が目に留まった。
よく見ると、3番席で前空さんと指していた、おっとり系の女の人。
「はい、駒桜市立ですけど」
「私、ソールズベリーの北嶺と申します」
そう言って北嶺さんは、丁寧におじぎした。
こちらこそ、ぺこぺこ。
「いつも姫野咲耶さんには、お世話になっています」
ああ、なんだ、姫野さんの友だちか。
いかにもって感じだ。
「伝言かなにかですか?」
「いえ、せっかくの機会ですので、ぜひご挨拶をと思いまして」
ふむ……なにか下心でもあるのかと思ったけど。
「私は裏見です。一応、主将やってます」
「裏見さんのことは、姫野さんからお伺いしています」
あら、私って結構有名人。
「私は3年生なので、今回が最後かと思いますが、後輩をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
北嶺さんは、八千代先輩に向き直る。
「傍目さんも一緒に卒業ですが、今後ともよろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ、大会の運営ではいつもお世話になっています」
北嶺さんはもう一度頭を下げて、それからブースを離れた。
うーん……ほんとに挨拶だけだったみたい。
「ずいぶんと、腰の低い人でしたね」
「あだ名が『律儀さん』ですからね」
森下卓かい。
「強いんですか?」
「実力者なのですが、世代が悪いという印象です」
「それは、どういう意味で?」
「上と下に飛び抜けた子がいて、市代表に1度しかなれなかったんですよ」
ふむ……ますます森下先生っぽい。
年賀状とか、筆で書いてそう。
「下の飛び抜けた子、というのは、もしかして西野辺さんですか?」
「その通りです」
西野辺さんは、北嶺さんの爪の垢を煎じて飲んだらいいんじゃないですかね。
まあ、将棋の強さに人柄のよさは関係しないから、そこはシビア。
強い人は強く、弱い人は弱い。それが将棋。
「裏見さん、残っていたのですね」
今度は、聞き慣れた声。
吉備さんだ。
「調子は、どう?」
「凖決勝は3−0でした。内容的にも満足ですね」
そっか、だったら決勝もいい勝負に……ん?
私は、吉備さんのうしろに大きな影があることに気づいた。
巨大というか、太ましいというか……。
「あ、こちらは土居郭子さんです」
「こんにちは、裏見先輩」
なかなか体重のありそうな少女は、口元に手をあててオホホと笑った。
顔立ちはおだやかで、なんというか……すごく良妻賢母です。
「土居さんは、1年生のエースなのですよ」
「こんにちは、私が裏見よ」
「凖決勝は鐘ヶ峰の主将と当たっちゃって、大変だったんですよ」
と土居さん。
口ぶりからして、そこまで大変だったという感じがしない。
「あれ? 土居さんって、昼休みのとき会わなかったわよね?」
「お好み焼きのおいしい店があるって聞いて、そっちに行ってました」
なるほど……ずいぶん食べたわけですね、おそらく。
「では、決勝戦を始めます。選手は着席してください」
来ました。定刻5分前だ。
「それでは、行ってきます」
と吉備さん。
「頑張ってね」
私たちの声援を背に、本榧のメンバーは出撃した。
「私たちも観に行きましょうか」
普段は個人主義な歩美先輩も、決勝の将棋には興味があるようだ。
レベルが高いからだと思う。根っからの将棋好きですね。
「じゃ、荷物番をだれかお願い」
……………………
……………………
…………………
………………
返事なし。
「もう十分お昼寝しました」
「さすがに2連続は……」
来島さんと箕辺くんは、遠巻きに拒絶。
「私がやろうか?」
なんと、数江先輩が立候補してくれた。
「ありがとうございます」
「さっきポケモン好きな子と友だちになったんだ。一緒にゲームしとくね」
目を離さない範囲でなら、なんでも。
私たちは数江先輩に荷物番を任せて、本榧の背後に回った。
本榧は、1番席が土居さん、2番席が吉備さん、3番席は知らない女の子。
吉備さんは、特別に高めの椅子を用意してもらっていた。
ソールズベリーは、もちろんさっきと同じ並び。
西野辺さん、南海さん、北嶺さん。
うーん、どこを観たものか……。
「どこが面白いと思いますか?」
「どこも白熱しそうですね」
八千代先輩は、とくに明言しなかった。
んー……西野辺さんの将棋はさっき観たから、南海さんのにしましょう。
北嶺さんは卒業しちゃうから、今後当たる可能性は低い。
「振り駒をお願いします」
「茉白ちゃん、どうぞ」
「こんなのだれが振っても同じだよ。郭子ちゃん、どうぞ」
1番席がお互いに譲り合って、土居さんが振ることになった。
がしゃがしゃと豪快に混ぜまして……ポイ。
「本榧、偶数先」
「ソールズベリー、奇数先」
吉備さんが先手、南海さんが後手。
「対局準備の整っていないところはありませんね? ……では、始めてください」
「よろしくお願いします」
南海さんがチェスクロを押して、ゲームスタート。
「よろしくお願いします」
吉備さんも一礼して、7六歩。
「丸子ちゃんと指すのは、久しぶりかな」
「まあ、お互いに棋風は熟知しているということで」
「そりゃそうだね」
南海さんはそう言いながら、8四歩と突いた。
矢倉か角換わりだ。選択権は吉備さんにある。
「決勝ということで、本格的な将棋を指しましょう」
矢倉で確定。
3四歩、6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀。
「5二金右」
これは……早囲いの予感。
「もう少し本格的にやりませんか?」
「早囲いも本格的だよ?」
「私はそうは思いません……5八金右」
3二銀、6七金、4四歩、7七銀。
あのさぁ……。
「どっちも早囲いですね」
と八千代先輩。
まったく、なにが本格派ですか。推理小説じゃあるまいし。
4三金、7九角、3一角、3六歩、6四角、3七銀。
変則的な出だしになった。
4二玉、6八玉、3一玉、7八玉、8五歩、2六歩、7四歩。
「2五歩」
「3三銀」
「藤井流早囲いと言えば、これですね」
出た。藤井流早囲い+脇システム。
駒組みに神経を使う戦いになった。
さすがに、南海さんの手が止まる。
「吉備さんの矢倉は、かなり特殊ですからね。楽しくなりますよ」
八千代先輩の独り言に、私は首を傾げた。
「でも、これってよくある形ですよね?」
「ここからの方針が特殊になると思います」
どういうことかしら。
まさか、矢倉で受け将棋ってわけじゃないでしょうし。
いや……でも……吉備さんならありうる……。
「2二玉」
「2六銀」
むむ、吉備さんが攻勢に出た?
まるで姫野さんがやりそうな順。
3二金、6八金直(これも有名な組み合わせ)、7三角、1五銀。
「モロに棒銀……中の人でも変えた?」
「私に中の人はいませんよ」
「まあ、入れそうにないしね」
吉備さんは、眉間にしわを寄せて睨む。
「ごめん、今のは口が滑った」
南海さんは後頭部に手を添えて、椅子をうしろに傾ける。危ない。
「棒銀……棒銀ねぇ……」
「受けと言っても、いろいろあるのですよ」
「丸子ちゃんが好きなのは、相手がうんざりするような受けっしょ」
「失礼な。私の受けは綿密な計算にもとづいたギリギリのしのぎです」
いいえ、うんざりするような受けだと思います。経験者談。
「受け受けって、要するに攻めが苦手なんでしょ?」
「勝手に苦手認定されては困りますね。証拠を出してください」
「じゃあ、こっから攻めてみなよ。とりま1四歩」
「2六銀」
「あのさ……うわわッ!?」
南海さんは空中で手をバタバタさせて、そのままうしろに転んだ。
ギャラリーの男子が頑張って受け止める。
「なにをしているのですか?」
「攻めろって言ってるのに引いてんじゃんッ!」
「なぜ挑発に乗る必要があるのですか?」
「だったら紛らわしい言い方しないでよねッ!」
「ちょい、朱美おねぇ、静かにして」
西野辺さんに怒られて、南海さんは「くッ」と歯を食いしばった。
そして、そっぽを向く。
「失望した」
「だからなにに失望しているのですか? 納得のいく説明を求めます」
友だちなくしますよ、吉備さん。
「これが自分の説明だーッ!」
南海さんは6四歩と突いて、1六歩に6五歩と仕掛けた。
攻めて来ないなら、攻めちゃえってことね。
「南海さんらしい手ですね……同歩」
4六角、同歩、7五歩、同歩。
「3九角」
なるほど、馬作りか。
細かくポイントを稼ぎつつ、自陣を強化するつもりだ。ただ……。
「これは消せますよ。3八飛」
7五角成、6四角、同馬、同歩。うん、消えた。
さすがに、これはギャラリーの私にも見えていた順。
問題は、南海さんも絶対気づいてるってこと。
市代表クラスで見落とすはずがない。おそらく、馬の製造は本命じゃないのだ。
「5五歩」
「棒銀が若干遊んでしまいましたか……まあ、それも一興です。5二角」
南海さんは5六歩と取り込む。
ここですぐに6一角成かと思いきや、吉備さんは先に3五歩と突いた。
「7六歩」
南海さんは、相手の陣地にちょっかいをかけた。
ここまでをみる限り、南海さんは攻め将棋だ。
同銀、8六歩。
「3四歩」
うわ、すごい手だ。8七歩成を許容している。
「え、これはさすがに……」
南海さんは8七歩成としかけて、手を引っ込めた。
考え直し始める。
8七歩成で悪い道理がある? 8七歩成、同銀……ここで手を戻さないといけないのか。4二銀引、8六歩……ん、止まった? 攻撃が止まった気がする。
いや、でも、手を戻さずに8六歩と打って、3三歩成、同桂、7六銀、8七角みたいな展開もあるのか。これは先手も怖い。あるいはもっと過激に、7六銀すら入れないで、5一馬もある。8七歩成に6九玉と下がって、どうか。
ザッと読んだだけでも、比較考量は難しいことが分かった。
ここは南海さんも時間を使いそうだ。
……あれ、そう言えば、松平はどこに?
私は会場内を見回す。
……ああ、男子の方を観てるのか。男子も決勝だ。
パシリ
駒音がして、私は振り返る。
下がった。8七歩成は成立しないと読んだらしい。
「一転して消極的になりましたね」
「慎重と言って欲しいかな」
あまり変わらないような気も。
「8六歩です」
5一銀右、6一角成、5二銀。
南海さんは、よくわからない凸型の陣形を作った。
「受けとしての美しさを感じません」
「はいはい、感じなくていいから」
7一馬、8六飛、7五銀、8五飛、7六歩。
吉備らしい展開になってきましたよ。ギリギリでしのいでる印象。
ここで南海さんが小考。
「どう指しますか?」
「次に8六歩とされたら、完切れですからね……もう少し攻めると思います」
んー、それは吉備さんの術中にハマってるんじゃないかなあ。
先手矢倉なのに受ける吉備さんも吉備さんだけど。
「……こうか」
南海さんは、5七歩成と成り捨てた。
同金寄なら4九角。これは攻めが繋がる。
「不穏な空気を感じます」
「取るしかないけどね」
吉備さんは1分ほど考えて、同金上。
「6九角」
角を捨てたッ!?
「7九玉」
取らないでしのぐつもりか。これも度胸がいる。
南海さんは、額にかかった髪の毛を摘んで、いじり始めた。
テーブルにひじを突き、やや斜めになって盤面を睨む。
「さすがに取ってはくれないか……」
南海さんは持ち駒の歩を手にして、パシリと何度か空打ちした。
そして、5六に打ち付ける。
以下、同金左、5五歩、6六金、8七飛成。
あ……これは……攻めが繋がったっぽい?
ただ、後手は歩切れなのが気になる。
「6九玉です」
「やりぃ! 金ゲット!」
南海さんは、勢いよく5七の金を取った。
「こんなのは切れているとしたものです。7四角」
攻防くさい角。とはいえ、必ずしも働いてくれる保証はない。
「歩……歩があればなあ……4六龍」
2八飛、5六歩、7八玉、6五歩、3七銀、4七龍、6五角。
「これは押さえ込めたんじゃないの? 8七金」
南海さんは、脱出を阻止した。
6五歩が巧かったわね。5二の銀も取られずに済んだ。
「入玉できなくても受けられます。6九玉」
4九龍、5九歩、5七歩成。
ん、これは吉備さん、どう受けるの?
下手したら一発で死ぬわよ。
「8八歩」
なるほど、攻め駒を攻めますか。大山流だ。
4七と、2六銀、3九龍、1八飛、2九龍、8七歩、2六龍。
均衡。どちらも決め手を与えない指し方だ。
さっきよりは安全になったかな、先手は。
「4七角」
吉備さんは、と金を払う。
「さあ、どう攻めます」
「これだから丸子ちゃんと指すのは嫌なんだよね……2七龍」
吉備さんは深く入らずに、7四角と途中で停車させた。
あくまでも銀に当てる方針のようだ。
5四桂、6五金、8七龍。
龍が大忙し。
「いい加減に諦めましょう。8八金」
「なに言ってんの、こっからでしょ。6七龍」
「ぶつけます」
飛車で顔面受け。
これを同龍は、さすがに攻めが切れる。
南海さんもそれが分かっているから、3七龍と逃げた。
「素人判断ですが、吉備さん有利に見えます」
と八千代先輩。同意。
これは吉備さんの受けが華麗過ぎて、後手切れ模様。
懸念があるとすれば、ここからの相入玉だ。
「持将棋は、どうなるんですか?」
「24点法で、引き分けなら必ず指し直しです」
県代表チームを決める戦いだから、1勝1敗1分は認められないわけね。
吉備さんも今後の方針を決めかねているのか、ここで長考に入った。
南海さんは、両腕をテーブルに乗せて、真剣に読んでいる。
「……先手も、すぐには入玉できないようですね」
八千代先輩の言う通り。
龍の横利きが強烈で、これを6七歩や7七歩とは止められない。二歩になってしまう。やるなら6三歩成としてから6七歩、あるいは7八玉〜7七金など、なにか組み合わせないといけない。その間に銀を張り付けられたら、形勢は逆転しそう。
かと言って、先手から攻めるのも難しい。いきなり5二角成が見えるけど、それは罠なのだ。5二角成、6七銀、同飛、同龍、6八銀の受けに、6五龍と引かれてしまう。6七銀に1八飛と逃げても、6八歩、同飛、同銀成、同玉、6七飛、7八玉、6五飛成がある。角は金に紐をつける役割をしている。すぐには外せない。
浮いてる5二の銀を取らせない南海さんの技量は、相当なものだと思う。
「6三歩成も同銀、同角成以下、金を素抜かれてダメですね」
と八千代先輩。この指摘も正しい。
残るのは……8一馬くらいかな。
それでも6七銀とやってきそう。
「受け切ったと思いましたが、まだ難しいですね」
吉備さんも、形勢が思ったより良くないと告白した。
「アッハッハ、どんなもんよ」
南海さんは胸を張って大笑い。
「もう少し盤石にしますか。8一馬」
「6七銀」
待ってましたと言わんばかりに、南海さんは銀を打った。
1八飛、6八歩(歩切れにさせるの重要)、同飛、同銀成、同玉。
さあ、問題の局面。
南海さん、どう指す? 吉備さんの受けは?