23手目 軽んじられる少女
うーん、1回戦突破。いい響き。
やっぱり公式戦初勝利が大きい。勝ちぐせをつけないとね、勝ちぐせを。
右の山は、サーヤが勝ってるのね。決勝までは当たらない。
私がご満悦でいると、うしろから男子に声をかけられた。
「なんだ、勝ってんじゃん」
ええ、勝ってます……よ……って、だれ?
ふりむくと、どこかで見た金髪の男子が立っていた。
「あ、あんたなんでここにッ!?」
「しーッ」
松平は人差し指をくちびるに当てて、静かに、と注意した。
私はムッとしたけど、その通りなので言い返さなかった。
もう次の試合が始まっている。
私は極力声を落として、松平に詰め寄った。
「あんた、なんでここにいるのよ? 出場資格ないんでしょ?」
「千駄さんの話を振ってきたのは、おまえだろ。挨拶しに来た」
「だからって、べつに休日返上しなくても……」
コホン、と咳払いが聞こえた。運営のひとりがじっとこちらを見ている。私と松平は顔を見合わせた後、口論の場所を変えることにした。市民会館の隅っこへと移動する。そこは休憩スペースになっていて、各校の上級生たちが、好き勝手に将棋を指しているのだ。
後輩の応援をしなさいよ。
まあ、それは置いといて──
「で、もう千駄さんとは会ったの?」
「会った。おまえがやたらギャラリー集めてる間にな」
ああ、あのときもう来てたんだ……ん、ってことはこいつも観戦してた?
盤面に集中してて気付かなかっただけかも。
「ふーん……感想は?」
「感想? なんの?」
「なにって……私の将棋……」
松平は大きくタメ息をついた。
「なんで女子に囲まれておまえの将棋を観ないといけないんだよ」
……なんか腹立ってきたんだけど。私が男だったら喧嘩になってるわよ、これ。
私はわざと眉間に皺を寄せて、松平の胸を小突き返した。
「私と横溝さんの将棋を観ないなら、どこを観てたのよ?」
「つじーんとサーヤのとこに決まってるだろ。優勝候補なんだからな」
つじーん? ……ああ、辻くんのことか。
確かに、そう言われるとそうかも。
鞘谷さんたちもライバル視してたし、辻くんの試合を観戦するのが本筋か……でも……。
「横溝さんだって3強なんだから、チラ見くらいしてもいいじゃない」
「ああ、だけど横溝必勝と読んでたし、観に行かなかった」
ぐッ! こいつ、私を舐めてるわねッ! ようするに無名の雑魚あつかいってわけだ。
これはもう赦さん。
「あんた、私が弱いと思ってる?」
私の剣幕にびびったのか、松平は両手を挙げて一歩引いた。
「い、いや、そういうわけじゃねえけど……やっぱ金星だろ?」
き、金星あつかいッ! ……こいつはここで処分しときましょ。
私は駒桜のテーブルをさがす。数江先輩が椅子に座ってお茶を飲んでいるのが見えた。私は歩み寄り、その場で仁王立ちした。
数江先輩はおびえたようにペットボトルを隠した。
「どどどどうしたの? お、お、お茶ならコンビニで売ってるよ?」
「盤と駒貸してください」
「え?」
「盤と駒」
数江先輩は鞄の中から、プラ駒とビニール盤を取り出し、私に差し出した。
私はそれを受け取ると、適当な場所に腰を下ろして、松平を手招きした。
松平は一瞬怪訝そうな顔をしたけど、すぐにニヤリと笑い返した。
「まあ、それで決着をつけるしかないよな。論より証拠だ」
松平は向かいの椅子に座り、王様を自分のまえに置いた。私は並べ順を無視してどんどん並べていく。全部並べ終えたところで、チェスクロを数江先輩に要求した。数江先輩はそそくさとチェスクロを取り出し、ダイヤルに手をつけた。
「な、なん分?」
松平が返事をする。
「30」
私は眉をひそめた。
「30? ……30秒将棋ってこと?」
「午後があるんだろ。早指しだ」
……どうする? 30秒将棋だと、実力が出せないかもしれない。
でも松平の言い分はもっともだ。せっかくシードなんだから、ここは肩を休めておきたい。
私は逡巡した。
「……いいわ、30秒で」
「よしッ、取消し不可だぜ」
合意が取れた。数江先輩は時計を1手30秒にセッティングしてくれた。
私は振り駒をする。歩が4枚出て……私の先手。よしッ!
松平は、
「チェスクロは左で」
と言った。
「え? あんたが後手でしょ?」
「俺、左利きだから」
ああ、そういう……チェスクロの位置決めは、たしか後手の決定権よね。
私はチェスクロを自分の右に置き、背筋を伸ばした。
「よっしゃ、お手並み拝見といくか。よろしく」
「よろしくお願いします」
私たちは頭を下げて、松平はチェスクロを押した。
ついに試合が始まる──あれ? なんの試合だっけ?
……そうよ、制裁試合よ。このいけ好かない男に一発喰らわせてやらないとね。
私は7六歩と突いた。松平はノータイムで8四歩。居飛車党っぽい。
私は攻撃的布陣をしく。
「中飛車か……」
5六歩を見て、松平は姿勢を正した。その基準はなんなのよ? その基準は?
松平は29秒考えて、5四歩。
んんッ? 5四歩? 3四歩突いてないのに? ……完全に舐めプってこと?
こいつ、絶対後悔させてやるわよ……5八飛ッ!
「ま、そうくるわな」
松平はそれでも3四歩と突かずに6二銀。
5五歩、同歩、同角、4二玉、7七角、3二玉。
ああッ! わけ分かんない指し方ねッ! 駒組をどうする気なの?
私は4八玉と上がり、とりあえず居玉を避けた。松平は4二銀。
急戦調ってことだけど……角が引きこもってるのに、どうやって急戦にするの?
……いやいや、考えても時間の無駄。
6八銀、5三銀右、3八玉。
パシリ
ご、5二飛ッ!? あ、相中飛車ぁあああッ!? こんなのメチャクチャでしょッ!
「おいおい、そんな顔すんなよ。ルール違反じゃないだろ?」
ルール違反じゃないけど……こんな形、見たことがない……。
とりあえず銀を繰り出す。5七銀。
6四銀、5六銀、5三銀上、6八金、4四銀。
松平は延々とノータイム指し。私は駒組みに細心の注意を払う。4四銀は、どう見ても3四歩の角筋通しの準備。先手としては2八玉、3四歩、3八銀、5五銀右がひとつの進行例だけど。そこから同銀、同銀、同角、同角、同飛、同飛、6六角、5一飛、1一角成、4四角で──
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これは勝てる気がしない。却下。
ピッ
はいはい6六歩、と。
30秒将棋にもだいぶ慣れたけど、無駄筋の読みが多過ぎる。今の6六歩だって、感覚で指してるだけだ。まあ30秒で受けちゃったからしょうがないんだけどね。
グチらずいきましょう。松平は……あ、もう3四歩指してるんだ。速い。
このままじゃ5筋のパワーゲームで負けてるから、6五歩ね。
「そこまでマヌケじゃないか……」
あんたねえ……どこまで舐めてんのよ。腹立つ。
松平はノータイム指しを止めて、29秒まで考える。そして5五銀右と出た。
さあ、同銀、同銀は確定として、そこでなにを指すか。5七歩以外で5六銀あるいは5六歩の押さえ込みを防ぐ手。4五銀? 5六銀打、同銀、同銀、2二角成、同玉で──
ピッ
だ、ダメだ、読み切れない。とりあえず同銀。
松平は即座に同銀。私はさっきの筋を読み直す。
同玉の後に5七歩、4五銀、7七角はこっちが押し返してるはず。
ピッ
4五銀ッ!
「4五銀……」
松平は急に真剣な顔をした。
私が変な手を指さないから、混乱してるのかしら。想定してる実力と実際の実力にギャップがあると、結構戸惑うのよね。私が姫野さんと指したときみたいに。
松平はギリギリまで考えて、5四歩と打った。 む、銀底の歩……? 5六銀打じゃなかった。これはチャンス。飛車先が止まったから3四銀とする。
私がチェスクロを押すと、松平は7四歩。この進行は予想外。ただ7四歩の意味は明確で、7三桂〜6五桂の狙い。だけどすぐに6五桂は、8六角で受かってるわね。5筋には歩が打てないし、7七桂成の強襲も成立しないから。
ピッ
て、手がない……。
ピッ、ピッ、ピーッ!
9八香車ッ! 手待ちッ!
7三桂に8六角、9四歩、9六歩。
8六角は8五歩先突きの防止、9六歩は角の逃げ場所作り。
予想通り、松平は8五歩と角を追った。
9七角、9五歩、7五歩ッ!
角の頭も丸いけど、桂馬の頭も丸いのよッ!
「お、やるな」
松平はもう舐めプを止めたのか、だんだん前傾姿勢になっていた。
ほらほら、序盤ちょっと手抜き過ぎたんじゃないの?
「まあ、こうするしかねえな」
松平は9六歩。私はすかさず7九角と引いた。
「6五桂だ」
そう、これが面倒なのよね。7四歩の取り込みは7六歩の打ち返しで、7八歩と打てない。二歩になっちゃうから。4八銀の引き締めも、6六銀、6七歩、7五銀で面倒なことになる。
ということは、こっちも積極策しかない。
パシリ
「おっと強気だな」
「これ以外は左辺が潰れるでしょ」
「ま、そうだな……当然取る」
同桂成、同金。必然の応手のあと、松平は4二金と自陣を引き締めた。
3五桂馬〜2三銀成が見えるけど、今は4四角でかわされちゃう。
まずは6七金と、角筋を避ける。
私が慎重策を取ると、松平はさらに手待ちの1四歩。いや、王様の懐を広げた意味合いもあるか。とにかく、後手はこっちの形が崩れるのを待つわけね。
オッケー、お互いに方針確認。じゃあこっちは攻めに回りましょう。7四歩。
7二飛にこちらも7八飛と回る。次は7三歩成があるわよ。どうする気?
20秒後、その回答が指された──7七歩。同飛車は5六銀で終了って罠か。
なかなかやるじゃない。同金。
「さすがに引っかからねえか」
当たり前でしょッ! ……と、落ち着け香子。
勝てばこの減らず口も少しは静かになるでしょう。それまでの辛抱。
松平は厳しい顔をして7四飛。歩の払いか……今度こそ3五桂。
私が桂馬を持った瞬間、松平がぴくりと動いた。
今の動きなに? 私は残り20秒あるのを確認して、盤面を見渡す。
……ああッ! 3五桂には6六銀があるじゃないッ!
同金は7八飛成、4八銀、7九龍で終了……。
ピッ
あ、危なかった。7六歩。
松平は3三歩。3五桂を打つチャンスがなかった
これはこっちが苦しいかも……4五銀……。
私が力なくチェスクロを押すと、松平はまた小考に入った。指すなら6四飛車の寄りか、よりアグレッシブに5三桂。松平が選んだのは──
6四飛……いやぁ、厳しい……厳しい……。
右の銀を別の駒と交換しないと……でもその前に受けないと……6七歩。
すかさず5三桂馬が飛んできた。ダブルパンチと言いたいけど、これは読み筋。私は5六歩と対抗する。松平は当然4五桂。私も5五歩と取り返す。今は5七に角が利いてるから、5七桂成はな……い……そう思った私の前で、5六銀が指された。ご、ゴリ押し作戦か。ならこっちもガチガチに受けましょう。6六銀。
私の受けに、松平は再び29秒考えた。
パシリ
8六歩? これは? まさか8七歩の垂らし?
いや、意味ないか。この手はほんとに狙いが分からない。とりあえず同歩。
「方針転換するぜ」
そう言いながら、松平は9七歩成とした。
……ああ、そういうことか。9四飛が狙いね。8六歩が入ってないと、そこで9五歩、同飛、8六金があって飛車を成れないんだ。
くぅ、仕方ない。こうなったら9筋は放置して5筋の銀を狙いましょう。4八桂ッ!
「おっと、9筋放置か」
「受からないんだから、仕方ないでしょ」
「ま、そりゃそうだ」
9八と、5六桂、9四飛、5四歩、5七歩。
ああ、これも読んでない順になった。てっきり8九と、4六角、9九飛成だと思っていた。そっか、先に角の逃げ道を塞ぐんだ……だったら5四歩が緩手だったかもしれない。
こ、こいつ強い。横溝さんより強いかも。こうなったら4五桂を捕獲する。
4六歩、8九と、6八角。
その瞬間、松平の顔色が変わった。なんだか、あっけにとられたような表情をしている。
「ん、そりゃまずくねえか?」
松平は10秒ほど読んで、8八とと指した。
え、これは別に同飛、9九飛成、7八飛とすれば受かって……。
「あ……」
4七銀がある。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
よ、4九の金に紐がついてない……。
同玉、4九龍、4八銀打、5八歩成、4五歩、4八と、同銀、5八銀……ダメだ……終わってる……。で、でも9九飛成に8九銀と打てば……私はその可能性に賭けて、8八同飛と取った。9九飛成に8九銀。ところがその瞬間、9八香成が指された。
同飛は8九龍、同銀は8八龍、8七飛は8九成香……敗勢。
「ま、負けました……」
私が頭を下げると、松平はふぅと息をついた。
悔しい……これは悔しい……序盤舐めプで負かされるのは酷過ぎる……。
「も、もう一局ッ! もう一局よッ!」
私のもう一局コールに、松平は両肩をすくめてみせた。
「いや、謝るのは俺のほうだ……さっきは悪かったな」
「へ?」
なに言ってんの? 謝罪の対象はなんですか?
ぽかんとする私を他所に、松平は面倒くさそうに頭をかく。
「横溝より強いな。これなら順当勝ちだろ。金星とか言って悪かったな」
あ、その件……。
「それいいから、もう一局指してくれない?」
「お、おまえ、金星って言われたから俺に挑戦したんじゃないのかよ?」
「そ、そうだけど……純粋に将棋の勝ち負けをね? ね?」
「おまえ、いつこの町に引っ越して来た? 今年か?」
会話が成立してないうえに、質問が意味不明。
「生まれも育ちも駒桜よ」
「マジか? 大会で見かけたことないぞ?」
ああ、そういう……よっぽど高校デビューが珍しいのかしら。
私は毎度おなじみの棋歴を披露した。
それを聞き終えた松平は、へえと微妙な声を漏らす。
「さては、駒込に目を付けられたな」
「え? なんで分かったの?」
「あいつの考えそうなことなんざ、手に取るように分かるさ」
んん? それってどういう仲なの? 恋人同士ってわけじゃなさそうだけど。
まあいいわ、そういうプライベートは放置。
「さあ、もう一局指すわよ」
私の懇願にもかかわらず、松平は駒を並べようとはしなかった。
勝ち逃げする気かしら。それは許さないわよ。教室の前に張り込んでやるからね。
私がそんな決意を固める中、松平はひとりで言葉を継いだ。
「今は大会中だろ。30秒将棋で疲れてどうすんだ。それと……」
松平は、対局会場を遠目に見る。
「優勝候補のつじーんとサーヤの対局、観といたほうがいいだろ」
そう言い残して、松平は席を立った。トイレに向かう。
私はぼんやりと彼の背中を見送り、それから無惨な終局図を見つめた。
松平剣之介……か……なかなかやるじゃない。
場所:駒桜市民会館
先手:裏見 香子
後手:松平 剣之介
戦型:相中飛車
▲7六歩 △8四歩 ▲5六歩 △5四歩 ▲5八飛 △6二銀
▲5五歩 △同 歩 ▲同 角 △4二玉 ▲7七角 △3二玉
▲4八玉 △4二銀 ▲6八銀 △5三銀右 ▲3八玉 △5二飛
▲5七銀 △6四銀 ▲5六銀 △5三銀上 ▲6八金 △4四銀
▲6六歩 △3四歩 ▲6五歩 △5五銀右 ▲同 銀 △同 銀
▲4五銀 △5四歩 ▲3四銀 △7四歩 ▲9八香 △7三桂
▲8六角 △9四歩 ▲9六歩 △8五歩 ▲9七角 △9五歩
▲7五歩 △9六歩 ▲7九角 △6五桂 ▲7七桂 △同桂成
▲同 金 △4二金 ▲6七金 △1四歩 ▲7四歩 △7二飛
▲7八飛 △7七歩 ▲同 金 △7四飛 ▲7六歩 △3三歩
▲4五銀 △6四飛 ▲6七歩 △5三桂 ▲5六歩 △4五桂
▲5五歩 △5六銀 ▲6六銀 △8六歩 ▲同 歩 △9七歩成
▲4八桂 △9八と ▲5六桂 △9四飛 ▲5四歩 △5七歩
▲4六歩 △8九と ▲6八角 △8八と ▲同 飛 △9九飛成
▲8九銀 △9八香成
まで86手で松平の勝ち