234手目 演算する少女
「コンピューターなんだよね? 勝てないよ」
幸田先輩は、いきなりギブアップ発言。
「そりゃそうだ。今どきのコンピューター将棋にアマで入るわけないからな」
松平は、片手で髪の毛をくしゃくしゃにする。
人間サイド、いきなり降参模様。誰も立候補しない。
「誰もいらっしゃらないようですね。では、わたくしが……」
姫野さんが動きかけた。
「待った」
声を上げたのは、なんと千駄前会長。
「立候補なさるのですか?」
「昔みたいに、コンピューターが弱かったときよりは指し易いよ。負けて当然ってことだ。とりあえず僕が人柱になろう」
男らしいのか、男らしくないのか。
「ありがとうございます。では、対局の用意を、ヴォナ子さん」
「承知しました」
ヴォナ子さんは隅の方から、重そうなテーブルを持ち出し、軽々と運んだ。
さすがはロボット。病人を抱きかかえたりする腕力はあるようだ。
千駄さんは、去年と同じでスーツ姿だった。用意された席に座る。
「さて、少しくらいハンデはもらえるんだろうね」
ヴォナ子さんは、姫野さんたちに向き直る。
「ご主人様、いかが致しましょうか?」
「そうですわね……持ち時間を変更しましょう」
「10 Minuten-30 Secundenの10 Secundenではいかが?」
ポーンさんのよく分からない提案に、姫野さんは首を縦に振った。
「それがよろしいかと」
「通訳して」
「千駄さんが10分30秒、ヴォナ子さんが一手10秒です」
「秒読みは30秒か、キツいね」
「申し訳ございません。あくまでもパーティーの余興ですので」
一手60秒にすると、結構時間かかるのよね。
「それではヴォナ子さん、お相手を」
「かしこまりました、ご主人様」
ヴォナ子さんは、姫野さんとポーンさんに一礼して、千駄さんに向き直る。
「よろしくお願い致します」
「よろしく」
和気あいあいとしたムード。
ヴォナ子さんは、さっきまでの無愛想な表情から、口元に笑みを浮かべている。
どんだけ将棋好きなの。プログラミングが偏ってるんじゃないですか。
「裏見さん、前の方へ観に行きませんか?」
私が唐揚げをもしゃもしゃしていると、うしろから声をかけられた。
振り返ると……誰もいない。
「ここですよ」
少し視線を下げると、吉備さんがいた。
「あ、ごめん」
「いつものことですから、気にしてません。それより、前で観戦しませんか?」
どうしましょ。確かにここだと、あんまり見えないのよね。
「ちょっと待っててね」
私は食料を掻き集める。
海老、サーモン、ポテトサラダ、酢豚……これでよし。
「あら、裏見先輩も、酢豚好きなんですね」
横合いから、どっしりと大きな影が現れた。
この太ましさは……。
「土居さん」
「こんばんは」
本榧の1年生、土居さんだった。
県大会で知り合いになったメンバーのひとり。
前空さんがポスト神崎さんなら、この子はポスト吉備さん。
大柄というかなんというか……まあ、はい、そういうことです。
「私も、もっともらおうかしら」
土居さんは、なかなかに豊かな腕で、器用に食べ物を取り分けていく。
「吉備先輩、なにか取りましょうか?」
「いえ、私はもうお腹一杯です」
「タッパーがあるから、先輩の分も持って帰れますよ」
完全におばさん化してますね、この女子高生は。
顔立ちも気だても優しいし、将来はいい奥さんになりそう。
「裏見さん、土居さん、そろそろ始まってしまいます」
じゃ、行きましょ。私たちは、前の方へ移動する。
舞台のセッティングは終わって、チェスクロと盤も用意されていた。
「ボナ子さんも押すの?」
と千駄さん。
「ボナ子さんではありませんわ、ヴォナ子さんです」
ポーンさんは、意味不明なことを言った。
「ボナ子さんじゃないのかい?」
「Nein……日本人は、VとBの区別がつきませんのね」
だまらっしゃい。
「私には時計も内蔵されておりますが、あなたにお見せすることはできません」
ヴォナ子さんの自己申告。
「そうか、だったら押してもらわないとね。振り駒させてもらうよ」
千駄さんは、振り駒をした。
「歩が4枚、僕の先手だ」
千駄さんがチェスクロを左に置こうとすると、ヴォナ子さんはそれを制した。
「私に利き手はありません」
「そうか……じゃあ、遠慮なく」
千駄さんは、チェスクロを自分の右側に戻した。
「どうなってるんですか?」
吉備さんはそう言って、背伸びをする。
最前列なんだけど……テーブルの高さがよくないみたいね。
「土居さん、肩車してください」
「いいですけど、女の子に頼むのって、どうなのかしら」
土居さんはそう言いつつも、吉備さんを肩車した。
「おお、これが180センチの世界ですか」
吉備さんはご満悦。
「それでは、対局を始めてください」
姫野さんは、ふたりに合図を送った。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願い致します」
ヴォナ子さんがチェスクロを押して、ゲーム・スタート。
「ロボットと指せるのは滅多にないからね。いい機会だよ」
千駄さんはそう言いながら、7六歩と突いた。
ヴォナ子さんは3四歩と角道を開ける。
2六歩、4四歩(振り飛車?)、4八銀、3二飛。
三間飛車ッ!?
「さすがコンピューター! 三間飛車こそ至高の戦法ッ!」
「好感度が一気にアップしたっスねぇ」
甘田さんと大場さんは、大喜び。
一方、吉備さんは、冷静に局面を分析する。
「ソフトは振り飛車に対する評価が低いはずです。ちょっと舐めプなのでは?」
ありうる。
ソフトって、なぜか知らないけど居飛車>振り飛車と判断することが多い。
その不利な振り飛車を採用した以上、千駄さんをみくびってる可能性も。
……まあ、振り飛車を指すソフトもあるし、断定はできないかしら。
2五歩、3三角、6八玉、4二銀、7八玉、6二玉。
お互いに早指し。
ヴォナ子さんは10秒将棋だから当たり前だけど、千駄さんも指し手は速い。
ほんと余興って感じ。
5六歩、5四歩、5八金右、7二玉。
「3六歩」
「え、急戦?」
私は思わず声を上げた。
「このルールなら、急戦はありですよ」
と吉備さん。
「なんでですか?」
「持久戦の終盤30秒なんて、ソフトには勝てませんから」
むむむ、それも、そうか。
穴熊の速度計算は、むしろコンピューターの方が得意そう。
ヴォナ子さんは8二玉と深く入って、千駄さんは4六歩。
以下、5二金左、3七桂、2二飛と進む。
「いきなり定跡から外れてますね」
ですね。これはかなり変わっている。
「面白い形になりました」
ヴォナ子さんは、楽しそう。妙なところでリアルな機能がついている。
「そう言ってもらえると、嬉しいかな。6八銀」
「7二銀です」
ようやく美濃が完成した。
5七銀左、9四歩、9六歩、6四歩。
「形としては4五歩早仕掛けですか。ただ、後手の銀が4二ですからね」
吉備さんは、4五歩早仕掛けが成立しないと見ているようだ。
「でも、4五歩以外に、なにかある?」
「4五歩自体は突くと思うのですが、先に5五歩とか、どうですか?」
【参考図】
「同歩、4五歩、4三銀、4六銀みたいな展開で」
なるほど、以下、5四銀、5五銀、同銀、同角で、開戦になる。
「そのあとが難しくない?」
「飛車をさばかせないようにするのが、先手の方針になりそうです」
私たちがそんな会話をしている間にも、局面は進む。
5五歩(吉備さん正解)、同歩、4五歩、5三銀、4六銀。
途中の4三銀が5三銀に変わっただけで、まったく同じ進行だ。
5四銀、5五銀、同銀、同角。
「4三金」
ヴォナ子さんは、金で4筋を受けた。6四角が見える。
「8八角」
千駄さんは、角を定位置に引き上げた。
ヴォナ子さんは、4筋の歩に指を添える。
「4五歩」
さあ、難しい局面、来ました。
私もさっきから読んでて、この反発がすごく気になっていた。
4五同桂は、8八角成、同玉、5五角の王手飛車で即死する。
ここで千駄さんも長考。
「角ちゃんは、圧倒的に後手持ちっスねぇ」
「それは棋風の問題じゃないのかなぁ?」
「だったら、ふたばちゃんは、ここからどう指すんっスか?」
ギャラリーも真剣に悩み始めた。
「5五銀とか、どうかしら?」
と土居さん。
「……ありそうですね」
吉備さんも頷いた。
直接的には角交換拒否の意味だけど、次こそ4五桂がある。
さすがは土居さん。
「持ち時間的に、そろそろ指すと思いますが……あ、動きましたね」
吉備さんの指摘通り、千駄さんは動いた。
持ち駒の銀に指を伸ばして、2、3度空打ちする。
そして、5五銀。
「面白い手ですね、お客様」
「そうだろ?」
「4四銀と合わさせていただきます」
ほぉ、直接的な手には直接的な手で返しましたか。
千駄さんも読みに入っていたのか、すぐに同銀と取った。
同金、2四歩、同歩、5三銀。
「これは絡み付きましたね。先手の攻めが途切れる虞はなさそうです」
「先手優勢?」
私の質問に、吉備さんは難しい顔をする。
「……そこまでは言えません。後手も桂馬を跳ねれそうですし」
桂跳ねの順……5四金、3三角成、同桂か。
そこでうまい手があるかどうか。なければ銀が死にそう。
「5四金と逃げさせていただきます」
3三角成、同桂。
千駄先輩の残り時間は、5分を切った。
「2三歩で」
これは……。
「同飛、3二角ですね」
吉備さんは、即座に狙いを看破した。
「飛車は逃げれないわよね?」
「ええ、さすがに5三金、2三角成だと思います」
となると、飛車と銀2枚の交換か……どうなんだろ。
今のところ、先手は2八の飛車が使えない形だ。
「同飛です」
「3二角」
ヴォナ子さんは5三金と引いて、千駄さんは2三角成と取った。
「5五角」
ん? 香車取りの返し?
でもこれは、7七桂で簡単に受かる。狙いは別にあるはずだ。
千駄さんの手が止まった。
「そうか……これは……」
なにかあった?
「次に2五桂が厳しいかもしれません」
吉備さんの指摘に、私はハッとなる。
2五桂に同桂と取れない。取ったら2八角成と抜かれて終了。
かと言って、放置は3七桂成、同銀、同角成。これも勝てない。
「形勢は、若干後手に触れたように思います」
うむむ、頑張れ人間。
千駄さんは残り2分まで考えて、7七桂。
「2五桂」
ヴォナ子さんはノータイム。
「5六飛ッ!」
おおっと、これは捻った受けが出ました。
「3七桂成には5五飛ですか……」
ヴォナ子さんは、しばらく考える。と言っても、10秒しかない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
5四金と立った。
5五飛、同金、4四角、3七桂成、同銀、5四金、1一角成。
これは分からなくなった?
「先手が押し返したか?」
「さっきよりは、安全になってると思うよぉ」
「そうっスか? 角ちゃんは断然、後手持ちっス」
ギャラリーも意見が分かれる。
「3九飛」
ヴォナ子さんは、悠々と飛車を下ろした。
……そっか、これが厳しいわ。次に8九銀で寄っちゃう。
千駄さんは、5九香と受けた。3七飛成と銀を抜かれてしまう。
「馬2枚が守りに利けばいいのですが……」
と吉備さん。
難しいんじゃないかなあ。こうなると、7七桂がかえって邪魔。
ここで千駄さんは、30秒将棋になった。
「分かってたとはいえ、キツいね。2四飛」
「5七歩と叩かせていただきます」
ん? 香車がいるのに叩いた? 同金で?
千駄さんも、29秒まで考えて同金。
すかさず4八銀がとんでくる。これがあったか。
「5八金引、5七歩、6八金寄、5六桂は、もうダメだな……3四馬」
千駄さんは、攻めに活路を求めた。
5九銀成(5七銀成じゃダメ?)、同金、5七龍、6八銀、2三歩。
「この2三歩は、よく分かりませんね」
私もよく分からない。5七銀、2四歩、2一飛は、後手若干損な気がする。
それとも、2八飛と王手で打ち返すのが強烈とか?
6八銀のような簡単な受けだと、5六桂で速攻潰れてしまう。
千駄さんも不気味に思ったのか、2三飛成と取った。
4六龍、6六桂。
「5二香」
攻防一体。
「5四桂は同香が攻めに参加してダメか……」
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4七歩ッ!」
変な手きた。
「同龍とさせてから5四桂、同香、5五歩っぽいですね」
なるほど、4六に龍がいると、5五歩に同香と取られて意味なし。
本譜も、その通りに進む。
「形勢はどうなってるんだ?」
「後手がいいと思うよぉ」
「っていうか後手勝勢っス」
大場さんの振り飛車党贔屓を差し引いても、後手優勢ね。逆転は難しそう。
「5六桂」
ヴォナ子さんは、冷酷な桂打ち。
7九銀の逃げには、6六桂、同歩、6七金だ。
「これ以上指しても、駒損が酷くなるだけだな……投了」
あらら、投げちゃいましたか。
「ありがとうございました」
ヴォナ子さんは、丁寧にお辞儀する。
「どのへんが悪かった?」
「5五銀、同角、4三金の時点で、170ほど後手優勢です」
「それって、どれくらい?」
「500で敗勢とお考えになってください」
千駄先輩は、ふむと唸った。
「激指だと1000近い差か。ちょっと無理攻めだったかな」
まあ、あれは居飛車側もふざけ過ぎてると思う。人間同士で指し継いでも、後手が勝てるんじゃないかしら。
10秒将棋だし、もうちょっと真面目にやった方が良かったかも。
「8八角のところで、6四角と出た方が良かったかな?」
【参考図】
「それは4五歩、5五歩、5三銀、8六角、5五角の予定です」
「4四歩、同金、5三角成、9九角成か……形勢は?」
「こちらが199の優勢です」
「じゃあ、8八角で良かったのか。あのあたりの攻防、何かあったよね?」
「私のCPUも、10秒では読み切れません。4五歩には3三角成もありました。以下、同桂、3一角と打ち、6二飛なら先手が盛り返します。5二飛でも数値が若干戻り、後手が116ほど優勢です」
ふむふむ、具体的に言ってもらえると助かるわね。
「なんだか指導対局みたいだったけど、楽しかった。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
お互いに一礼して、千駄さんは席を立った。拍手が起こる。
「どなたか、もう一局指しませんか?」
ヴォナ子さんは、誘うような眼差しで、会場をぐるりと見回した。
「千駄が負けたんじゃ、ちょっとな」
と菅原先輩。
「イベントとしては面白そうだ」
「アハハ、じゃあ、箕辺くん出る?」
「え、遠慮しとくぞ」
情けない……と言いたいところだけど、箕辺くんじゃ大差になりそう。
「捨神は、どうなんだ?」
「そうだね、別に僕でも……」
バタン
会場の入り口で、いきなり扉が開いた。
冷たい風が、室内に吹き込む。な、なんで?
私たちが驚いて振り向くと、そこには……。
「みなさん、こんばんは」
ツバの広い三角帽子を被った黒づくめの少女が、雪の粉を払いながら入って来た。
敷居を跨ぐと、扉がひとりでに閉まる。
突然の闖入者に、会場内は静まり返った。
「黒木美沙、ただいま参りました」
場所:姫野家クリスマスパーティー
先手:千駄 光成
後手:ヴォナ子
戦型:後手三間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二飛
▲2五歩 △3三角 ▲6八玉 △4二銀 ▲7八玉 △6二玉
▲5六歩 △5四歩 ▲5八金右 △7二玉 ▲3六歩 △8二玉
▲4六歩 △5二金左 ▲3七桂 △2二飛 ▲6八銀 △7二銀
▲5七銀左 △9四歩 ▲9六歩 △6四歩 ▲5五歩 △同 歩
▲4五歩 △5三銀 ▲4六銀 △5四銀 ▲5五銀 △同 銀
▲同 角 △4三金 ▲8八角 △4五歩 ▲5五銀 △4四銀
▲同 銀 △同 金 ▲2四歩 △同 歩 ▲5三銀 △5四金
▲3三角成 △同 桂 ▲2三歩 △同 飛 ▲3二角 △5三金
▲2三角成 △5五角 ▲7七桂 △2五桂 ▲5六飛 △5四金
▲5五飛 △同 金 ▲4四角 △3七桂成 ▲同 銀 △5四金
▲1一角成 △3九飛 ▲5九香 △3七飛成 ▲2四飛 △5七歩
▲同 金 △4八銀 ▲3四馬 △5九銀成 ▲同 金 △5七龍
▲6八銀 △2三歩 ▲同飛成 △4六龍 ▲6六桂 △5二香
▲4七歩 △同 龍 ▲5四桂 △同 香 ▲5五歩 △5六桂
まで90手でヴォナ子の勝ち