22手目 言い負かされる少女
私が遅れて頭をさげた。横溝さんは自嘲気味に盤面をゆびさした。
「ひどかったね……いいところナシだったかも……」
横溝さんから見れば、ずっと受け一方だったのよね。
ただ、私の圧勝かと言えばそういうわけでもないし。
ここで歩美先輩が、
「そう? 終盤はけっこう怪しくなったと思ったけど」
とコメントした。
うんうん、私もそう思います……って、なにいきなり割り込んでるんですか。
横溝さんも驚いてるんですけど……。
私たちをよそに、歩美先輩はひとり先を続けた。
「例えば74手目に飛車打ちじゃなくて6三飛の勝負手は?」
「6三飛……」
私と横溝さんは、うながされるように盤面を戻した。
そして6三飛車と成銀を取る。
私はすこし迷いながら、
「とりあえず同角成の一手で……」
と、飛車を取った。これで飛車銀交換。後手が損してる。
「で、5二銀と打つのよ」
「5二銀……?」
私は言われるがままに銀を打った──どうなの?
確かに即寄りはなくなったっぽいけど、これでも先手がまだいいような。
「5四馬、4三銀打、4五馬くらいで、こっちが良くないですか?」
将棋の優劣には年齢も地位も関係ない。それは私の持論。
歩美先輩がひとつ上でも、ここはゆずれない。
「それは4四歩、4六馬と追ってから、6二金と拠点の歩を払う。大切なのは、即寄りがないってことと、持ち時間がなければいくら有利でも読み切れないってこと。1分将棋で指すなら7四歩くらいでしょうけど、それでもずっと粘れるでしょ。っていうか、私の大局観だと、これもう後手逆ってるわよ。王様が堅過ぎるから」
うッ……そう言われるとそうかも……駒割りは……角と銀2枚の交換か。
こっちは馬を作ってるけど、小駒がないから攻め手に欠けちゃう。
ショックを受けてるのは私だけじゃなかった。むしろ横溝さんの方が深刻そう。
「そっか……攻めないで受ければ良かったんだ……」
横溝さんがくやしそうにつぶやく。私はなにも言えない。
感想戦って、敗者側の肩をもたないといけないから、勝った方は自然と無口になっちゃうのよね。まあ、人に寄るんでしょうけど。歩美先輩はそのへんに無頓着だ。
私がそんなことを考えていると、横溝さんが先を続けた。
「5二角に4二飛車打ちも、ちらりと浮かんだんだけど……香子ちゃん読んでた?」
「4二飛車打ち? ……ううん、全然読んでないと思う」
「そっか……冴えなさそうだから、私もすぐ読みを打ち切ったんだよね……」
そう言いながら、横溝さんは4二飛とした。
おたがいに沈黙が続く中、今度は姫野先輩がそっと口をはさんだ。
「それは危ないですわね。寄りがあるかもしれません」
横溝さんは顔をあげた。
「寄りますか?」
「このままでは5二飛、同成銀、同玉と清算されてしまうので、6一歩成、同金、同角成、同玉。そこで5三角と打ちます。5一玉には4二角成、同飛、5三金、あるいは4二角成、同玉、6二飛、3一玉、5三金。前者の5三金で後手が受けずに、例えば2八角なら、4二金、同金、6二飛」
駒がすらすらと進められる。
これまさかリアルタイムで読んでるんじゃないでしょうね。
私は薄ら寒いものを感じた。
「次に6一飛車で詰みですから、受けなければなりません。5二銀のような手は、6一飛、同銀、同飛成、同玉、6二銀で受けになっていませんので、例えば4三角でしょうか。そこで3二飛と、今度は反対側から打ちます。3二銀なら同飛成、同金、5二銀、4二玉、4三銀成、同玉、6一角、4四玉、3二飛成……」
「先手も少し危ないですが、入玉にさえ気を付ければなんとかなるかと」
沈黙──みんな手順を追うので精一杯って感じ。
私はようやく読みがまとまったところで、
「でも、これを1分で正しく指せるかどうか……」
と返した。
「確かに1分将棋では厳しいかもしれません。それに、5一玉はおそらく悪手で、本線は7一銀打というのが、わたくしの第一感ですわね。いずれにせよ横溝さんは、時間攻めに入るのが少々早かったような気が致します」
うーん、姫野先輩、口調はお嬢様だけど、なんかドスが効いてるのよね。
横溝さんも縮こまっちゃってる。それにこの駒を強引に切っての寄せは、姫野先輩の棋風であって、横溝さんの棋風じゃないと思う。
盤上の女ヤクザ……か……言い得て妙かもしれない。
ん、待ってよ、これだけ受けの有力手があるってことは──
「私、どこかで間違えました? 2六飛と回ったときは、かなり良く感じたんですけど?」
私の質問に、みんな考え込むような仕草をした。一番後ろにいる数江先輩も、目を閉じて楽しそうな顔をしていた。ほんとにこの人、将棋好き。
一番最初に口をひらいたのは、志保部長だった。
「6三銀が無理攻めなんじゃないでしょうか?」
歩美先輩も続けて、
「6四銀は自信がなかったの?」
とたずねてきた。
私は自分の読み筋を披露した。
すべてを聞き終えた歩美先輩は、ひとこと。
「それ読み抜けしてない? 6六角には先に6三銀打よね」
ん、6三銀打……? 私は息をのんだ。
「あ、そっか……」
「7一玉、6二歩と詰めろをかけて、同金、同銀成、同玉、6三金、5一玉、6六角。これなら6二歩の受けに5三金と寄れるし、次に1一角成があるでしょ」
歩美先輩の解説に納得しかけた瞬間、姫野さんが疑問をさしはさんだ。
「しかしこの局面、先手も相当危ないように見えます。例えば……4六歩はいかが?」
4六歩? それは同歩で……あッ! 4六同飛が王手角取りになってるッ!?
「それは放置して1一角成でなんとかなるわよ」
と歩美先輩。
「4七歩成、同金の形は、先手が怖過ぎます。2八飛車くらいで潰れのような……」
と姫野さん。
「3八金と受ければノープロブレム。4七飛成も5九銀も詰まないでしょ。5九銀、同玉、3八飛成は、5二銀、4二玉、4三銀成、同金、6二飛、3一玉、2二馬、4一玉、5二飛成で詰み。5九銀、同玉、4七飛成も、5二銀、4二玉、4三香、同金、同銀成として、同玉なら6五角の王手龍取り。同龍が一番手堅いけど、5三銀成、同龍、同金、同玉と清算してから2八金と飛車を払えば受かってるはずよ」
「それは勝手読みです。本筋は5九銀ではなく再度4六歩。2八金なら4七歩成から詰みですわ」
「それこそ勝手読みでしょ。4四香車と飛車先を止めなさいよ」
「4七歩成から三たび4六歩と打たせていただきます」
姫野さんの強気な攻めに、歩美先輩はふと舌が止まった。
「4六歩……3度目の4六歩……」
いきなり考え込む歩美先輩。
これは場外乱闘ですか? 対局者置いてきぼりなんですけど。
私が困惑する中、横溝さんがぼそりと囁く。
「と、とりあえず今の局面、作ってみようか……」
「そ、そうね……」
歩美先輩と姫野さんのバトルを放置して、私たちは駒を並べ直した。
ふたりが言い争ってる局面は──
……これは難しい。詰みそうにも見えるし、詰まなそうにも見える。
「王様を引くのは全部詰みだから、同玉か5六玉?」
私は自信なさげにそう尋ねた。
「5六玉は6七銀と打つよね。でないと左辺が広過ぎて捕まらなくなるし……」
「そこで6六玉と寄って7六金と打たせれば……」
私はそう言いかけて、はたと口をつぐんだ。
「それは打たなくてもいいよね……7七玉の逃げは7六金、8八玉、8七金まで。7四歩と逃げ道を広げようとしたところで打つんじゃない?」
「そうね……その通りだわ……」
ってことは……初めから6五玉と上に逃げる? ……あ、5四金と打てるのか。
6六玉に3八飛成が詰めろ。4三香成が間に合わない。
「4六玉と歩を払いながら戻るのはどう?」
私の指摘に、横溝さんもうなずいた。
「それで詰まないかな。4五歩、同玉は5四金で怪しくなるけど、取らないで4七玉と引けばギリギリ耐えて……」
「横溝さん、それは手順前後ですわ」
うわッ!? びっくりした。いきなり声を掛けないでくださいな。
私たちがかしこまる中、姫野さんは寄せの筋を披露した。
「4六玉には3八飛成とまず金を取り、4三香成に4五歩です」
ああ、これは詰んでる。お見事。
と思いきや、ふたたび歩美先輩が乱入する。
「4三香成じゃなくて3七角。竜の筋を止めれば右に逃げられるわ」
「それは詰めろを回避しているだけです。4五歩、同玉、4七龍、4六歩、5四金、3五玉に2四金、2六玉と入玉を阻止し、4四飛車で香車を回収するのが詰めろでしてよ」
香車を回収して……あッ、ほんとだ。4四飛、同馬は2五香、1六玉、1五歩までね。
「取らないで3五玉は?」
「3五玉? それは2四金、4五玉、4七龍、4六歩、5四金。4六歩に代えて5五玉は5七龍までです」
「待って。4四香車のところを4四歩に変えるわ。それなら2五香車はないでしょ」
「残念ながら、銀が6四に落ちているので、そちらを回収して終わりです」
「……」
うーん、これは……歩美先輩の負けね。御愁傷様です。
歩美先輩は腕組みをして、首を仕切りにひねった。
「まあ、今回はそういうことにしときましょ。変化は他にもあるし」
いやいやいや、どんだけ負けず嫌いなのよ。
ってうか、本題が何だったか忘れちゃったし……あ、6三銀が疑問手って話ね。
「えーと、結論は6四銀もダメってことですか?」
私の発言に、姫野先輩がふりかえった。
「ちょっと戻していただけません?」
「は、はい……」
姫野さんに言われるがまま、私は局面を戻した。
6三銀のタダ捨てに代えて、6四銀が歩美先輩の提案だった。それがダメとなると、他に手が見えない。私は姫野先輩の回答を待つ。ってか、姫野先輩の顔、メチャクチャ怖いんですけど。盤を睨んでる目がヤバ過ぎでしょ。人殺しの目ですよ、これは。
90秒ほど読んで、姫野さんは表情をやわらげた。
「いえ、やはり6四銀で正解ですわ。6四銀、6六角、6三銀打、7一玉、6二歩、同金に、6六角と手をもどします」
え? 最後6六角? ……金を吊り上げたのに放置するってこと?
私はとりあえずそこまで局面を進めてみた。
「次は6三金ですよね?」
「それは同銀成で終わりです。成った局面を、よくご覧になってください」
同銀成……え……あ……あああッ! そっかッ! これが詰めろなんだッ!
しかも6一銀の受けは6二角、同銀、7二金で詰むしッ!
「受けるとすれば、もはや4二飛車しかありません。しかし5一角と足せます。5二飛車の並べ打ちなら、4二角成、同飛、4一飛。同飛は7二金の頭金なので、6一銀としますが、4二飛成、同金、7二飛、同銀、6二金まで。5二飛の並べ打ちに代えて6一銀も、同じ筋で詰みます」
私はしばらく盤面を見つめた。そしてあることに気付く。
「あれ、でもこれってやっぱり4六歩でダメなんじゃ……」
「あのときとは後手玉の位置が違います。4六歩なら例えば5二角と打つのが詰めろ。とりあえず4七歩成としますが、そこで6八飛、5八金、6六飛成は間に合いません。6二銀成から詰みなので。2八飛、3八金、5二金、同銀成、1五角には、3九玉と引けばよろしいのではありませんこと?」
すっごい危なく見えるけど……後手には詰めろがかかってるから、4七飛成みたいなのは意味ないし、かと言って、3八飛成、同玉、4七飛成の王手ラッシュは、明らかに駒が足りてない。先手が銀をタダ捨てしてないから、持ち駒の比率が違うんだわ。
……いや、これは参ったわ。要するに、姫野先輩なら10手以上早く終わらせてるってことでしょ。まあ、2六飛の時点の手応えから言えば、70手台で終わってても不思議じゃないとはいえ。
横溝さんも同じ感想なのか、しょんぼりとうなだれていた。
「だったら、ほんとに私の序盤が酷かったね。3七銀〜2六銀がいい構想だったと思う」
褒められて光栄です。
っと、疑問手も明らかになったし、感想戦はおひらきにしますか。
「ありがとうございました」
私は率先して頭を下げた。
横溝さんも一礼して、対局終了。
私は椅子に座ったまま、部のメンバーに向きなおる。
「ほかの対局はどうなってるんですか? 2回戦は?」
私の質問に、志保部長は、
「もうすぐ始まりますよ。さっき一番遅かった組が終了しましたから」
と答えてくれた。
休憩なしなのか。私はシードだから関係ないけど、みんな大変そう。
「凖決勝は何時からですか?」
「それは昼食休憩後です。一回休憩を挟まないと、不公平ですからね」
疲労アドバンテージはほぼないってことか。
私は席を立ち、颯爽とトーナメント表へ向かった。