21手目 優勢になる少女
「あッ……」
横溝さんは口元に手を当てて、軽く喫驚した。
その理由は私にも分かる。この手、3七銀〜2六銀〜3七銀で2手損してる。しかも3五の歩が浮いた形。だから普通は指さない手だけど……ここでは成立してるはず。だって、3五飛には2六飛があるから。次の2三飛成を防ぐには、3三飛しかない。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ここで4四角と出れば……あ、ダメ。それは3七飛成、同桂、4四角で終わり。だから3四歩と打って、4三飛、5六銀(後手の4五銀〜3四銀を防ぐ)。これもう後手は手がないんじゃない? 粘るとしたら……4二金? そこから3二金と寄せて角に紐をつけるしかないか。その間になにか動ければいいけど。
第一感、4二金には4六銀なのよね。4二金、4六銀、3二金、5五銀右。これを取るか取らないかだけど……取る場合は5五銀、同銀に7八銀か2八銀? ただ、これはちょっと強引過ぎる気も。
例えば7八銀に7四歩と突いたらどう?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同歩、6六飛で次が受からないと思うんだけど。6二金、6四銀、6三歩、同銀成、同金に5三銀。一見切れ筋に見えても、6四歩、4三銀成、同金、5二飛が王手角。6二銀、2二飛成はこっちの勝ちでしょう。大駒全部持ってるし、小駒は1一龍〜2一龍で順番に調達できるから。
オッケーオッケー。この線で行きましょう。さすがに横溝さんクラスなら、うっかり2三飛成が見えてないなんてことはないでしょうしね。
私は横溝さんの持ち時間を使って、そこまで読んだ。ちらりとチェスクロを確認する。私の持ち時間が残り21分、横溝さんは……残り18分。微妙に私の方が多い。これって初めてなんじゃないかしら? いっつも私が先に時間使い切っちゃうし。
「ダメだ……取るしかない……」
そう、取るしかない。横溝さんは震える指で3五飛と取った。チェスクロを押す指が力ない。どうやら劣勢を自覚してるみたいね。
まあ、ここからいくらでも逆転なんてあるんだけどね。油断大敵。私は時間を使ってさっきの筋を読み直す。2六飛、3三飛、3四歩、4三飛、5六銀、4二金、4六銀、3二金、5五銀右とぶつけて、同銀……ん、同銀?
取らないとどうなるの? 例えば6二金として……。5四銀、同歩は打ち込む場所がないから後手は歓迎。こっちは7八銀と2八銀を同時に受けられない。ということは、6二金に5四銀はなくて……6四歩?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同歩の一手に、同銀、6三歩、5五銀……んー、微妙。今度こそ5五銀、同銀、7八銀の打ち込みがありそうね。
そっか、5五銀右に取らない手があるのか……この順は覚悟しないといけない。
こっちから回避する手段はないっぽい。
私は消費時間を見る。ここまで3分。直線道路にこれ以上は貴重な時間を使えない。
そう判断した私は、2六飛と指した。持ち時間を減らさないためか、横溝さんは即座に3三飛。そこから3四歩、4三飛、5六銀、4二金、4六銀、3二金、5五銀右と進んで……うぅ、やっぱりさっきの筋に入っちゃった……手を変えられない……。
私が苦悶する中、横溝さんの指した手は……。
え、同銀……? それは私が良かったような?
横溝さん、悲観的になり過ぎて見落としたとか? 分からない。
えーい、ここは同銀と取る以外になしッ! 同銀ッ!
私が力を込めて銀を取ると、横溝さんは7八銀と打ち込んできた。
これじゃさっきの読み通り。
6四歩、同歩、6六飛。
私が颯爽と飛車を回った瞬間、横溝さんは4五歩と突いた。
……あ、しまった。全然読んでない手だ。
私は自分を落ち着かせるため、背筋を伸ばす。体を動かすのは、血行が良くなっていいアイデアが思い浮かび易い。おじいちゃんの受け売りだけど、何かのテレビ番組で検証していたこともあるから大丈夫。
さて、次は5五角が見えてるから、先に6四銀、6六角、6三銀打、7一玉、6六角が一例。ただそこで6二歩の受けがあるわ。1一角成、6三歩、同銀成、6二歩。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これはなんとも言えないわね。私がいいような気もするけど。例えば成銀を放置して4四香、6三歩、4三香成、同金、4一飛、5二銀、2一飛成……いや、ダメだわ。金駒全部渡しちゃってるし、こっちは必ず大駒切らないといけないからキツい。
却下……と言いたいとこだけど、他に手がある? 6六角を先に同角は、それこそ6三歩で止められちゃうし……あるいはこの局面でいきなり4四銀打?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
同角、同銀、同飛……いやあ、ヒキコモリ状態の角と銀の2枚換えか。
うまい対応が思いつかな……い……んん?
ちょっと待って。角筋が開いたから困ってるのよね。ムリヤリ閉じちゃえば?
例えば3三歩成。
取る選択肢は4つ。(1)同飛、(2)同金、(3)同桂、(4)同角。
このうち、(1)から(3)は6四銀で多分勝ち。6三歩は受けになってないし、6二銀も6三銀打からばらばらにして寄り。だから同角の一手だけど、それは3四銀で角と飛車が並んだ悪形を利用すれば……あッ……ダメだ……1五角と王手しながら逃げる手がある……うぅ、端歩を突いてないのと、王様の位置が悪いのが祟ってる。この1五角の筋は注意しないと、終盤で駒を素抜かれちゃう可能性がある。
ということは、一番マシなのは4四銀打か……いや、でも……。
もう一度読みましょう。4四銀打、同角、同銀、同飛……そこでどうするか……2六角と5筋を狙うのは、5四飛で意味なしっぽい。かと言って5五角は、3四飛と寄られるのよね。1一角成、8九銀不成……それとも銀成かしら? 2一馬に手順で4二金と寄せて行って……って、この金動き過ぎでしょ。MVP獲れるわよ。
まあ、それはどうでもよくて……いやあ、これは参ったかも……2六に飛車回った時点ではかなり優勢だったはずなのに……どこで間違えたのか……それとも、2六飛で良しという私の大局観がおかしかった? そうは思いたくないんだけど。
私は残り時間を確認する。きっかり10分。まだ時間はあるけど、終盤に時間を残すためには、そろそろ読みを打ち切らないといけない。後30秒考えてダメなら、4四銀打の筋に飛び込みましょう。うん。
………………ッ! 閃いたッ! さすがおじいちゃんのアドバイスだわッ!
ちょ、ちょっと待って、落ち着いて読み直しましょう。ああ来て、こう来て、こう指す、ああ指す、そこからこう対応して……大丈夫。大丈夫なはずよ。ちょっと冒険になっちゃうけど、ここまで差が詰まったらリードを保とうなんて思わない方がいい。
私は駒台に手を伸ばした。
「うーん……」
横溝さんは長い前髪をかきあげ、悩ましい声を上げた。意外というよりは、やっぱりという感じ。事前に読んでいて、かつ指してもらいたくなかったってことね。
私の推測を裏付けるように、横溝さんはすぐ同玉と取った。それもそのはずで、7一玉は6四飛で将棋が終わっちゃう。5五の銀に紐を付けながら、次に6二歩の詰めろを見せている。だから当然に同玉なんだけど……この先は……一丁、腹くくりますか。
6四銀ッ!
横溝さんはすかさず5二玉と下がった。右側に逃げるのも必然で、7二玉は6三銀成、7一玉、6二歩で寄り。私は継続手で6三銀成と指す。残り時間は5分。6三銀のタダ捨てを見つけた後の読みに時間が掛かっちゃったけど、ある程度の自信があった。
横溝さんはまたもやノータイムで5一玉。4一玉は5三成銀、同飛、6一飛成で終了だから当然よね。そこから6二歩、7一金、5六飛。
さあ、問題の局面よ。私の狙いは単純で、次に5三成銀からの詰みを狙ってる。
5四銀なら、同飛と切って同歩、5二銀、4二玉、2二角成、同金と壁金の形に誘導してから、4三銀成、同玉、4一飛。4二銀合は5二角、4四玉(3二玉は4二飛成、同玉に4三銀、3一玉、4一角成、同玉、5二成銀、3一玉、4二成銀まで)、4二飛成、5五玉、5六銀、6六玉に4五龍。これで寄ってるはず。
飛車合いはもっと早く詰むし、角合も5二角、3二玉、4二飛成、同玉、5三角、3二玉に今度は4四角成と一回王手を控えて、次に4三馬、3一玉、4一角成、同玉、5二成銀、3一玉、4二成銀の詰めろを見せる。こっちは詰まないはず。最初の3二玉で4四玉と逃げれば、4二飛成、5五玉、4四角、6五玉、2二角成と金を補充して勝ち……のはず。読み抜けがあったら終わるけど……。
ただ、突っ込んじゃったからには、この順を信頼するしかない。横溝さんが長考に入ったので、私もその時間を使って真剣に先を読んだ。5四銀がオッケーなら、次は7七角成、同桂、5四銀が候補ね。これも同飛、同歩、5二銀、4二玉で。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
問題は、ここで5一角を入れるか、それとも4三銀成と単に取るか。5一角、3一玉、4三銀成、同金……飛車を打つ場所がないか。却下。単に4三銀成としましょう。同玉なら5三飛……あれ? 捕まらない。上に逃げられちゃう。5二角も一緒。
あ、不味い……負け筋に飛び込んじゃったかも……私は卒倒しそうになったけど、すぐに4三銀成が悪手だと気付いた。5二銀、4二玉に、4三銀成じゃなくて6四角だわ。合駒が角と飛車しかない。5三角合は4三銀成、同玉(同金は5二飛、3一玉、5三成銀が詰めろ)、5三角成、3四玉、3五飛、2四玉、3二飛成。さすがにこれは勝ちでしょ。
ということは、残る候補は──
私が最後の選択肢を読み始めた瞬間、横溝さんは7七角成と成った。
私は即座に同桂と応じて、横溝さんは取った角をそのまま盤面に戻す。
うわー、一番面倒なの来たわ……というか十分読み切れてないのよね。横溝さんは残り1分まで考えたから、ここからは私に読ませないようノータイム指しのはず。
私は残り3分をフル活用する。まあ、どうやっても同飛しかないのよね。同歩の後に5二角が効くかどうかが分かれ目。今度は銀がないから、5二銀とは王手できない。ただ、5二角も結構痛いはず。それに後手は角を手放したから、1五角からの王手もない。2八飛と打ち込まれても、3八金、2九飛成で一手余裕ができる。そこで6一歩成。同金とするか単に4二玉と逃げるか。でも4二玉の逃げは、7一とが詰めろ。3一玉……ん、3一玉が結構広いかも。
3一に逃がさない手は? ……あ、やっぱり6四角があるわ。6一歩成、4二玉としたときに、7一とじゃなくて6四角ッ! これで合駒を打つしかないけど、5三銀ならそこで7一ととすればいい。3一玉、5三成銀、同飛、同角成、2二玉、6一飛。次に3三銀からバラバラにして勝ちね。もし合駒が桂馬なら、7一と、3一玉に3九金打として龍を捕獲。自陣を安全にしてから駒を拾いに行けばいいんだもの。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ピッ
オッケー、間に合ったッ! 私は同飛と走る。
2八飛、3八金、2九飛成、6一歩成、同金。
あッ、同金のほうか。
同角成に横溝さんは4二玉とした。私は56秒使って6四角。5三銀。
っと、ここでノータイム指しは危険。最後の読みを入れる。4三馬、同玉なら5三角成、3四玉……2五銀? 取れば3五金、1五玉、2五飛で詰みだから、3三玉だけど、3七飛と打って……。
ピッ
あーッ、とりあえず4三馬ッ!
私がチェスクロを押すと、横溝さんはノータイムで同玉。こういう指し方は、もう私が間違えない限り勝ちってこと。続き続き。3七飛、2二玉に辛く3九金よ。1九龍、5四馬と歩を補充して……あれ? 3五歩の受けがある? 同飛、1五角、3七歩、3三歩……いや、それでも私の方が勝ってるはず。後手は攻め手がないし──
ピッ
ご、5三角成ッ!
横溝さんまたまたノータイムで3四玉。不味い不味い不味い。思考がまとまらない。もしかしてここから2五銀が狙い過ぎの悪手? 素直に3七飛と打ちましょうか。2四玉なら3二飛成で終わりだし(1五角には馬のおかげで2六歩と突ける)……っていうか、合駒が利かないから全部3二飛成で終わりじゃない。そもそも、3四玉に3五飛の筋が見えてないなんて、ちょっとパニクってたかも。別の局面で一度読んでたのに。
ピッ
私は3七飛と置いた。
「負けました」
横溝さんが丁寧に頭を下げた。
……え、勝った? 相手が投了してるんだから勝ったのよね……。
そうよ、勝ったのよ。勝った、勝った、勝った。嬉しーッ! 公式戦初勝利じゃない。私もまだまだ捨てたもんじゃないわね。
私が浮かれていると、後頭部に誰かさんのチョップが入った。振り返ると、そこには手刀を構えた歩美先輩の姿が……。
「ちゃんと礼を言う」
あ、そっか……。失礼しました。
「ありがとうございました」
場所:2013年度新人戦
先手:裏見 香子
後手:横溝 良枝
戦型:向かい飛車vs三間飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △3五歩 ▲6八銀 △3二飛
▲6七銀 △6二玉 ▲7七角 △7二玉 ▲8六歩 △3六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲8八飛 △3四飛 ▲2八銀 △1四歩
▲8五歩 △3二銀 ▲5八金左 △4四歩 ▲6五歩 △4三銀
▲4八玉 △1三角 ▲7五歩 △8二銀 ▲8四歩 △同 歩
▲同 飛 △8三歩 ▲8六飛 △5二金左 ▲3七銀 △5四銀
▲2六銀 △2二角 ▲3五歩 △3二飛 ▲3七銀 △3五飛
▲2六飛 △3三飛 ▲3四歩 △4三飛 ▲5六銀 △4二金
▲4六銀 △3二金 ▲5五銀右 △同 銀 ▲同 銀 △7八銀
▲6四歩 △同 歩 ▲6六飛 △4五歩 ▲6三銀 △同 玉
▲6四銀 △5二玉 ▲6三銀成 △5一玉 ▲6二歩 △7一金
▲5六飛 △7七角成 ▲同 桂 △5四角 ▲同 飛 △同 歩
▲5二角 △2八飛 ▲3八金 △2九飛成 ▲6一歩成 △同 金
▲同角成 △4二玉 ▲6四角 △5三銀 ▲4三馬 △同 玉
▲5三角成 △3四玉 ▲3七飛
まで87手で裏見の勝ち